67年(4期)

4期生 鈴木慶二

昭和39年、東京オリンピック時、高校一年生でありこの頃サッカー熱も高まりつつありました。当時、高校にはサッカー部がなく自分達でサッカー部を立ち上げました。

その後、大学へ入学、いろいろな高校から又いろいろ事情により大学に入学、そしてサッカー部へ入部、当時私達が入学して全学年1年から4年が揃い、その時、1年生の入部は、オリンピックの影響もあり30人ぐらいいたと思います。その後、夏の合宿までにはその半数が残り、学年が増すごとに4期生の数は減っていきました。

当時、私達の入部と共に、田代部長が入部して、非常に厳しく指導をしてくれました。

その厳しさは半端ではなく、又、高橋監督も若く、意気込んでいたのかと、今になると思えます。その反面非常にやさしく、夏など海に誘ってくれ又アルバイトの紹介もしてくれました。

4学年が揃った通常の練習は、まず凹凸のグランド整備で始まり、練習後の外灯のない真っ暗なグランドをもくもくとならし隣リのテニスコートで、練習の女子にも目も入らず整備をしていました。

夏は信州の合宿は地獄の様で、グランド一面土ほこりで5cmぐらいつもり、一蹴りすると周りが見えなくなるようなやわらかいパウダーのグランドでキーパーは口のなかは泥一パイでした。

遠征では、静岡の大学、名古屋の大学、大阪の大学と今では考えられない一流大学との強化練習試合の連続でありました。

思い出に残る試合は、当時、強かったかどうかわかりませんが、東京大学、明治大学、東海大学、田代部長の声カケがあつたのだと思いますが、防衛大学との試合は勝利した。

その日、防衛大学は負けたため、きつい練習をしていたのを横目で見ながら、帰途に、試合後、鎌倉、藤沢より通っていた沢野宅(のち主将)に同期生5~6人で泊まり夜中まで、祝杯をあげ、今ではいい思い出であります。

その後、自分達の代では、毎年、埼玉リーグ戦でどうしても越えられない壁、埼玉大学があり悔しい思いもしました、ただ当時、大宮サッカー場でのプレーも思い出のひとつになっています。関東リーグの入れ替え戦もありましたが、それもついにクリア出来ず卒業。

その後、同期生での旅行の帰りに前橋の敷島公園に行ってみようと、ここでは、自分達は、ボールを蹴らしてはもらえず空風の中ただ走る走るのみの春合宿をした所であり、当時を皆で思い出し懐かしみこの様に、練習、合宿、遠征、リーグ戦と非常に辛くも、思い出の大学での部活であり、又、卒業してからも、そんな所へ寄ってみようと誰かが言い出し、みんなが集まり、サッカーの話をしていると話中もなんとなく当時に気持ちがタイムスリップしてゆく。

その後、2~3回同級生での旅行をやっています、今後は一度皆で集まりたいと思っています。

3年夏合宿

暑い辛い 信州木島平高原

2年リーグ戦 埼玉大学 同期生

試合の始まる前 今日も勝つ

2年 リーグ戦

対東洋大学

4年 構内練習

■メンバー

河井 昭夫

木下 勉

沢野 文生

島田 重昭

鈴木 慶二

坪井 一夫

沼田 富治

満尾 信

渡辺 幹夫

和田 信男(物故)