第2章 東日本大震災&原発事故

榮子さん、芳子さんとの出会い

映画『飯館村の母ちゃんたち 土とともに』

榮子さん、芳子さんとの出会い

  映画『飯館村の母ちゃんたち 土とともに』

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私が初めて飯舘村に行ったのは、ちょうど牛飼いのお母さんたちが長年、子どももようにかわいがっていた牛たちを屠畜しなければならない日でした。一番つらい日にその場に居合わせたことで、私はこの人たちのことを追いかけ、映画を作りたいと思ったのが最初です

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私は彼女たちが仮設住宅に避難した後も追い続けました。そこで出会ったのが、菅野榮子さんと菅野芳子さんたちでした。

2011年8月、原発事故によって菅野榮子さんは一人で仮設住宅に入りました。最初は孤独感で外にも出られない日が続きました。一方、菅野芳子さんは両親といっしょに息子さんのところに避難していましたが、高齢の父親が去ると後をおうように母親も亡くなりました。一人になった芳子さんは榮子さんを探し、同じ仮設で暮らすようになりました。

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以来、二人は元気を取り戻し、畑作業に励み、苦しいことも悲しいことも一緒に乗り越えてきました。

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原発反対を声高に唱えるだけではなく、被害を受けている人の生の声を伝えたかった私は、榮子さんはお百姓さんの普通のお母さんでありながら、自分の言葉で喋れる貴重な存在でした。榮子さんの言葉は学者や専門家の言葉とは違い、生活感があり心に響くものだったのです

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もう一つは芳子さんの存在。榮子さんばかり目立っていましたが、芳子さんとの関係が素晴らしかった。榮子さんは芳子さんあっての榮子さんで、家族でもない、友人で人生の最後をすごす関係はいいなと思いました。

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また何より彼女たちは、故郷への思いを持っている人たちです。自分たちが培ってきた土をフレコンバック(除染廃棄物)に詰められる時はとても悲しかったと言います。

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また苦しいのに冗談を言って、笑い飛ばして生きていく、その強さにもひかれました。「芳ちゃん、故郷に帰りたいな」と二人は悩みながらも先祖の人たちがいるところから離れることはできないと帰村することに決めました。

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故郷への思い、それゆえに彼らは食文化、伝統的文化を大切にしています。それはパレスチナ人とも共通するところです。

【菅野榮子さんの言葉】

味噌を作る時期には味噌を作って、米を収穫する時期にはおのおの自分の食をちゃんと確保するっていうのが、当たり前の生活だったのよ。山村の暮らしというのはそういうものだからね。自給自足だからね。それで足りないものは山の恵みを受けるとか、山の恵みなり自然の恵みと共存しながら生きてきた。

ああこの自然の中できれいな空気を吸って、春になれば春の感じを受けて四季折々の恵の中で生きて行くのが、人間としての最高の幸せだと思って生きて来たもん。自分の好きなことやって、自分に与えられてた命を、ちゃんと全うしてこの世を終われるんであれば最高の幸せだと思ってた。

放射能に侵されて、光も夢も希望もない現状じゃないですか。そこの中で生きようとすること自体が、強がりだと思うよ。飯舘で、飯館の土地が自分で愛着を感じて生きてきた地域が、愛情を注いできたその土地が侵されてなんもやれない、そういう現状に立たされて、そこに住んでいたものが生きる希望とか、そういうものを自分に言い聞かせて生きなきゃなんねえということ自体、強がりだと思う。

懸命に生きてきた人が、あの放射能のせいで、なんも悪いことしてないのに、ホットスポットなんて、聞いたこともない言葉が入って来て、全村避難しなきゃなんね、今まで築いてきた村作りに関わってきた、あの努力はなんだったんだろうって。みんなして頑張って、もう私振り返ってな、いろいろいろいろ何回もここに来て「仕事したくねえ病気」も何回もとりつかれたよ。でもそのたんび、ああ、そんなこと語ってらんねえって。ほんなこと言ってらんねえって。立ちあがっては挫折し、立ちあがっては挫折ししてこの避難生活を2年を迎えようとしてっけど。

味噌を作るしても、凍み餅を作るにしても、こうやって皆さんがおみえになった時に、私本気になんて、声出して叫ぶのも、再生につながればありがたいなって。私の血のつながっている子どもや孫や子孫が住んでくれなくても、どこかのニッポン人が、ああここは私のすみかだわ、いいところだねって入って来て、そして村の形成がなされるんでないかなと私は思う。欲をいえば、その何百年か前に作ってきた味噌が、これが飯舘の血のつながった味噌だよって、帰ってきてくれる。文化があれば。凍み餅が、小海で作られた凍み餅が、これは飯舘から出ていったた凍み餅だよ、って何百年かあとで凍み餅作ったらまた美味しいのできるよって。そのためにやっぱり種を播いておかなきゃなんねえでないかなと思うよ。

昔、飯舘にいたときの仕事に帰ることによって、土に触ることによって、少しでも放射能の不安と恐怖と、放射能っていうものから抜け出して、一時的にも村に帰った時の気分を味わいながら、村にいた時の、村で生活していた時の、気分に浸りながら生きるっていうことが最高なんだよね。だからそういう、土に感謝してます。土と自分で築いていた農業の技術、種を播けば芽が出て、食べるものがなってくれて、採って、食べておいしいなあ、ってそういうあれに感謝しながら。土と太陽と自分の技術に感謝して、農業やってきてよかったなあって。

自分のうちはいいわよー。自分の住んでいたところは最高のすみかだったし。自然もいっぱいあったし、自然の恩恵を受けながら生きてきたんだし。朝になれば東の空からおっきな太陽が昇ってくるし、夕方になればこっちの山に大きな夕日が沈んでいくし、そこの眺め、私たちは生を受けて生きてきたんだもの。そこの住処はいちばーんよかったじゃん。

映画第1作 『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』(2016年)

映像作品