第1章パレスチナ
ガーダとの出会い
ガーダとの出会い
ガーダとの出会い
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1993年、パレスチナ難民キャンプに住む女性に会います。ガーダといいます。出会ったときは彼女が23歳でした。私の通訳をしていて、一緒にいるうちに面白い女性ということが分かり、彼女を撮ることにしました。
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ガーダは結婚式をしたくないという女性でした。ガザ地区はアラブの古い慣習があり、花嫁は処女のしるしを母親たちに見せねばなりませんでした。ガーダは拒否して花婿と新婚旅行に行ってしまいます。
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そういうガーダは1996年、長女ガイダを産みます。名前は小さなガーダという意味です。
ガーダは高校を卒業したころイスラエルがガザ地区の全大学を閉鎖したため、大学に入ることができませんでした。ガイダを産んでまもなく、語学学校で働き始め、そして大学に入学しました。働き、学び、子育てするスーパーレディでした。
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イスラエルによる軍事占領が続いているパレスチナで、2000年第二次抵抗運動(インティファーダ)が始まります。身近な子どもを亡くし、ガーダは自分にできることを模索します。パレスチナの原点である1948年の戦争体験の聞き取りをして、子どもたちや孫たちの次世代につなごうと考えます。
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ガーダは祖母の世代の女性から聞き取りをしました。そこで語られたものは、戦争の悲惨な体験と故郷への強い思いでした。多くのパレスチナの人々は戦争が終わればすぐ家に帰れると思い、家の鍵を持って着の身着のままでいました。しかし自分たちの故郷へは二度と戻れなかったのです。
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成績の優秀なガーダはイギリスの大学に留学しました。子どもを抱えながらの留学です。
【ガーダの言葉】
パレスチナ人は皆それぞれのやり方で闘っています。
私も私のやり方で闘っています。
私はパレスチナの難民問題に焦点を当て、政治学の学位を取ろうとしています。
私は学位を取り、本を執筆することで闘っています。
子どもたちを育てることが、もう一つの戦いです。
彼らは未来を切り開くメッセンジャーだから私たちだけでなく、全世界の希望のために
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【ガーダの言葉】
私の母は家を救おうと闘っています
近所の人たちは銃をとって闘っています
隣人はそのまた隣の人を助けることによって闘っています
祖母は歌を歌うことで闘うのです
生活の尊さを教えてくれます。
私たちにベイトダラスの村にいた頃の歌を歌うことで
人間の尊厳がどんなものか
土地、自由、樹木、きれいな空気
心の平和、安定、夢
歌うことで希望をつないでいるのです
私たちに考えさせてくれます
これが歴史よ
これが私たちの伝えるべきもの
これが私たちの文化
大切なものなのです
世代から世代へ手渡すべきものです