1864(元治元)年、大垣市魚屋町に生まれる。15才のとき金原明善(きんばらめいぜん)の記事に感動をうけ、一生を治山治水にささげる。1896(明治29)年の大洪水では、横曽根(よこぞね)の堤防の切り割りを決断し8000戸の家と4000人の人命を救った。
金森吉次郎
「水を治むるもとは山を治むるにあり」と考え、上流の工事や山の植林をすすめた。1898(明治31)年には、森林法をつくらせて1億8000万本の植林をおこなった。
大正新聞記事抜萃(ばっすい)
1887(明治20)年からの木曽三川(きそさんせん)分流工事には大垣輪中の代表として政府(せいふ)・国会(こっかい)に意見をだしたり、おねがいしたりするなど熱心に取り組んだ。
内閣総理大臣加藤友三郎宛金森吉次郎請願書(せいがんしょ)
治水のためにつくした平田靭負(ひらたゆきえ)や伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)の功績を広く紹介したり、大垣城の石垣に洪水点を示し大水のおそろしさを伝える努力もした。
大垣城洪水点(こうずいてん)