伏越樋(ふせこしひ)のしくみ
輪中の南部は川のほうが田畑より高いため、雨がふると水がたまり大水によくみまわれた。そのため揖斐(いび)川の下に木のトンネルをつくり、そこから輪中のたまった水を流すようにした。
工事のようす
水の少ない時に川の流れをかえて、木のトンネルをつくっていく。水かさがまし、せっかくつくったトンネルが流されることもなく度もあったといわれる。
鵜森伏越樋工事絵図屏風(うのもりふせこしひこうじえずびょうぶ)部分(林 慶司画)
江戸時代の川のようすと伏越樋 大垣輪中南部にたまる水を1ヶ所にあつめ、伏越樋を通塩喰(しおばみ)村から土地をかりて、排水路(はいすいろ)をつくり輪中の外に水を流すという大工事であった。
伏越樋(ふせこしひ)のあった場所
伏越樋は、30年ごとにつくりかえられ明治時代になってはい水機ができるまで、大きな役割をはたした。
そのあとには、伝右衛門をたたえる碑がたっている。
伊藤伝右衛門顕彰碑(けんしょうひ)(輪之内町塩喰)