1753(宝暦3)年、江戸幕府(えどばくふ)は美濃(みの)の大水をふせぐため美濃(みの)から遠くはなれた薩摩(さつま)藩に工事を命じた。平田靱負を総奉行(そうぶぎょう)として947人の薩摩藩の武士が工事にあたった。この工事は宝暦治水(ほうれきちすい)と呼ばれている。
平田靱負(ひらたゆきえ) 画像 (平田正風氏蔵)
薩摩(さつま)藩が治水(ちすい)工事をするにあたって作られた工事の計画図である。大榑川(おおぐれかわ)に洗堰(あらいぜき)を作る工事と油島(あぶらじま)で木曽(きそ)川と揖斐(いび)川を分ける堤防を造る工事が特にたいへんであった。
薩摩藩御手伝普請目論見絵図(さつまはんおてつだいふしんもくろみえず)(長谷川千代子氏蔵)
油島ふきんで木曽(きそ)川と揖斐(いび)川が合流する。揖斐川のほうが川のそこがひくいため、木曽川の水が流れこみ大水のひがいを大きくした。その二つの川の流れをわけるため、ここに上流から約990m下流から360mのていぼうをつくった。宝暦治水(ほうれきちすい)では、中間をあてておくだけで図のような喰違の堰(せき)はできていない。その後の工事で図のような堰がつくられた。
文政年間の油島喰違堰絵図(あぶらじまくいちがいぜきえず)(長谷川千代子氏蔵)
40万両というばく大なお金をかけ幕府とのもめごとや工事の責任をとって切腹した者51人と病気でなくなった者33人というぎせいを出して1755(宝暦5)年に工事は完成した。平田靱負もその責任をとって自害した。平田靱負と薩摩藩士(さつまはんし)84人を祭って1938(昭和13)年に治水神社が立てられた。
治水神社 薩摩義士(さつまぎし)像