液体のような思い出、思い出のような液体(集団肖像画)


2022 , 手配写真の画像 / ボディソープにUVプリント / ボディソープにはんだごて / 水に浸した後の絵日記 / 家族写真

1.


重力に身を任せ、だらだらと歪んでいく。花の香りがする。工場で作られた香りが鼻腔に流れ込み、誰が見たのかわからない記憶がフラッシュバックした。



中心から周辺にむかって、平らな面をつくろうとする白色の液体には、無数の粉が噴射され、そこにUVライトが照らされることで、徐々に表面が定着していく。それから約4日ほどの時間をかけて、液体から固体へとなり、最終的な像が決定する。指名手配写真と家族写真の二つ写真を、粘性のある液体とUVプリンターで転写するという技法に基づいて2021年12月上旬に開始されたのが、《液体のような思い出、思い出のような液体(集団肖像画)》。ボディソープとUVプリンターが生み出す、沼地のような不安定な表面が一番活きるテーマについて考えていた時、手配写真の存在とその背後の犯罪を犯してしまった人間の人生が思い浮かんだ。


2.

 唐突だが、手配写真は触覚的なイメージだと思う。指名手配犯の写真を見る。今もまだどこかに潜伏していて、顔にメスをいれるような人間もいる。さっきすれ違った人間が犯人でない可能性は..?という素朴な疑問と不安が生まれる。犯行現場を想像する。


そこには、実体として常にこの場所にいないはずの存在が、存在感を持って此処にいるような、肌感覚がある。小中高の12年間、交番の前を通り続け、毎日の死者数と指名手配犯の顔を、ぼくは眺めていた。でも、指名手配写真に移る顔は、もはや存在しない。その顔はこの世界に実在しない。彼ら 彼女らは、まったく別の顔で人生をやり直そうとしている。あるいは、「もはや誰の顔ですらもない」ということが、「誰でもありうる可能性」を開いていくかもしれない。



 その可能性は、ぼくにとって、たくさんの問いを想起させてくれた。明日あの人が、人を殺さないと断言できる根拠を、どうしてぼくは持っているんだろうか。目の前にいる人間を他者として見ないこと、あるいは、自分の想像を押し付けることでしか生きていくことができないぼくたちに対して、半ば偶然的に現れる、惨劇のような他者性を、どうして自分と全く無関係なこととして扱えるんだろうか。どうして、そんな顔で、そんなことを、簡単に言えてしまうんだろうか。何がそうさせているんだろうか。


3,

このような「手配写真が持つ存在感」が、”ボディソープ”、”水に流すという日本語特有の慣用句”、”記憶”、”いたづら”などと関係することで、《液体のような思い出、思い出のような液体(集団肖像画)》は制作された。 制作の中で、自身の家庭裁判所での記憶が再解釈され、犯罪といたづらの関係に注目し、ボディソープの表面や、水に濡れた後の絵日記などを通して、形に落とし込もうとした。


4,

ぼくはあと一歩で犯罪を犯すところだった。というか、ほとんど犯罪だった。高校は当然退学になり、今ここにはいなかったはずだった。

それ以外にも、たくさんの悔みきれない後悔をして、いまここにいる。記憶はなんのためにあるのだろう。すべてを水に流してしまいたいと、毎日思うけれど、すべてが水に流れることは、生きている限り、永遠に訪れない。何も流れない。今日もこの先も、過ごしてきた時間の中で思い出を作り、自分が観測してきた思い出を何度も繰り返し眺め、懐かしみ、思い出と思い出のあいだで揺れ続けるだけかもしれない。






それでいい。


目を背けるために全てを水に流してしまうこと、ノスタルジーに溺れること。そういった欺瞞から距離をとって過去と対峙する中で、見える景色があると信じたい。


PROFILE

松本悠 Yu Matsumoto

Twitter ID:@u6_2u