手の中にあるもの

M A R I K U D O


私はひとりの母親の視点で「生と死」に向き合い、二つの作品に取り組んだ。
本作は100年以上前の奇習とされる産屋(さんや)と綱を題材に立体作品を構築した。

日本神話にも記された産屋は日本中で消失した。
お産の場を構成する小屋と綱という<メディア>の物理的な消失から、
近現代の価値観を相対化し、私達が失った死生観を探る。





「手の中にあるもの」に寄せて

忘れ去られた奇習から近現代を相対視する

〜消滅した奇習、産屋と力綱の習俗の<メディア>化を通じて〜


1.小屋と綱



 一世紀ほど前に途絶えた奇習(1)がある。子どもの誕生に際し、男が仮りそめの小屋を作る。そして女がその小屋に巣籠もり子を産み、一定期間その場所で育てた。その小屋には、一本の綱が天井から吊り下げられていた。ちょうど親指と人差し指で丸を作ったくらいの太さで(2)、産婦が綱を掴んで身体に力を漲らせ、座った状態で出産する。小屋は時代を遡れば日本書紀には「無戸室(ウツムロ)」、古事記には「戸無き八尋殿(ヤヒロドノ)」と称さた。古事記には以下のように記される。(3)



戸無き八尋殿(ヤヒロドノ)を作りて其の殿の内に入り、土を以て塗り塞ぎ、御子達を産みます時に其の殿に火をつけ、其の火の盛に燃ゆる時に生れました御子の名は火照命(ホデリノミコト)、次に生れましたのが火須勢理命(ホスセリノミコト)、其の次に生れましたのが、火遠理命(ホヲリノミコト)、亦の名は彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)であつた。(4)



小屋はまた、男子禁制でもあった。神話に登場する海神の娘である豊玉姫(トヨタマヒメ)が籠もる小屋を、夫である火折尊(ホオリノミコト)が覗き見たことにより、豊玉姫が子を置いて去った話が古事記に記されている。実際、小屋でのお産に男衆は立ち会わず、産婆や姑が付き添った。産婆は現代のように資格は必要なく、集落の中で器用な者が重用された。子が生まれてからも一定期間、母子はその小屋で暮らす。集落の人々が代わる代わる食べ物を持ち込み、産婆や姑を中心に周囲の女達が必要な世話をした。定められた期間が終われば、母は子を抱き、自らが歩いたところに清めの塩を撒きながら母屋に戻ってくる。小屋は用が済めば焼き払った。地域により様々なやり方があるが、概ねこのようにして、小屋と綱が「人が生まれる場」を形成したのであった。





2.古代の死生観



 古代の日本を研究した民俗学者・国文学者の折口信夫(1887 - 1953年)は「若水の話」(わかみずのはなし)」で、「祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しであると言ふ信仰のあつた事は、疑ふことの出来ぬ事実だ」と述べた後、古代の死生観を以下のようにに記す。



一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさずすでるのであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。

かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。出雲国造家の伝承がさうである。ほかでの祓へを科する穢れの、神に面する資格を得る為の物忌みであるのとは大分違ふ。家により地方により、此すでる期間に次代の人が物忌みの生活をする。休止が二つ重るわけである。皇室のは此だ。だから神から見れば、一系の人は皆同格である。(5)



折口によれば、古代思想では一つの家系は「先祖以来一つの人格であり、常に休息の後にまた出てくる。」死ぬことは「同一人の休止・禁遏(きんあつ)生活の状態」であり「死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。」という。民俗学者の谷川健一(1921 - 2013年)も死から生の隣接点について以下のようにまとめた。



『日本書紀』に天若日子(アメノワカヒコ)(6)が死んだときに、喪屋を作ってもがりした話が載っている。(中略)生と死の儀礼が奇妙に一致するところが多いのは、これまで民俗学者の指摘するところであるが、特に産屋と喪屋は、生と死のつぎ目に存在するものであるから、さまざまな同一性が注目されるのである。(7) 



死者を葬る前に一定期間遺体を納めて祀る、つまり殯(モガリ)する「喪屋」と、人が生まれる「産屋」は「小屋」という共通の形を持って死と生の場を演出しする。谷川は産屋についてさらにまとめる。



死から生への再生のための一時的な仮住まいが作られる。それが産屋である。古代において誕生は、先祖の霊の再生と考えられた。いったんは常世に身を置いた先祖がふたたびこの世に生まれ変わると信じられた。(中略)そして子供が生まれ、産屋での生活が終わると、産屋は火をかけて焼かれねばならなかった。そうすることで、子どものこの世における新生が確立される。(中略)一時的な仮住まいという点では、産屋と喪屋は同じである。生と死とを連結した時間の継起においてみる古代人は、その継ぎ目を完全に移行できたかどうかに不安を持ったのである。



古代において誕生は先祖の霊の再生であり、産屋は死から生への再生を演出する装置として機能していた。





3.産屋習俗の消失


 産屋の習俗は明治期から昭和中期にかけて、その1300年超の歴史に幕を閉じる。1965年の山形新聞の記事には「全国でも珍しい奇習」と表記され、途絶えかかる習俗の一端が描かれる。



新潟県の県境にある小国町大宮部落には約1255年前から現在なお部落の主婦たちの間にかたく守り続けられている珍しいお産の風習がある。産婦が出産のとき必ず産殿”うぶや”にはいって子を出産する。今日では全国にこうした奇習を残しているのは同部落の聖地だけだという。昨年の12月、遠藤芳広、令子さん夫婦が”うぶや”でめでたく出産。その後、さる2月末には遠藤和寿、てつさんら二組の昭和っ子夫婦が、それぞれかわいい女の子を生んだ。

(1965年3月20日付けの山形新聞に「”うぶや”でお産」)(8)



新聞記事に掲載された山形県小国町大宮地区は比較的遅くまで産屋の文化が残った地域だ。複数の論文を参照するに、たとえば京都福知山市では「1947年(昭和22年)生まれの子で産屋に行くのは終わった」という説話が記される(9)。最も変化が遅かった山間部や漁村、島嶼部ではそれから約30年後の1975年(昭和50年)頃まで、産屋の習俗が残存した記録が残る。しかし確実に日本各地で産屋から自宅、さらに自宅から病院でのお産に切り替わっていった。全国的には、1960年(昭和35年)に自宅出産と病院出産の比率が入れかわる(10)。ただ病院でや家で出産するようになってからも、産婦が出産後に産屋に移り一定期間過ごす習俗はしばらく続いたという。実際、どのような経緯で習俗が日本各地で消滅していったか?という疑問に対し、同地(山形県小国町大宮地区)のエピソードを参照したい。(11)




①江戸時代から明治22年までは、古くは出産の都度、神社鳥居から百歩あまりの所に仮設の産屋を建て、終わるとすぐに解体した。(仮設の産屋)

②明治22年に小国本村警察分署長から、常設の産屋を建てるように指導・命令があった。それに対し、住民は神の祟りを恐れたが、(中略)常屋の産屋を建てた。

③常設の産屋の設置後も(中略)穢を嫌う女性は仮設の産屋を利用した。(中略)

⑤第一の外的要因は、明治22年の警察署長の指導命令であった。当時の警察は内務省管轄で、現在の厚生労働省の役目である衛生行政を管轄していた。明治の衛生行政の一端として指導が行われたのである。

⑥第ニの外的要因は、昭和26年に保健所の指導でコヤバの建物が不用意に解体されてしまったことである。これに関する情報は聞き書きでは十分な資料を得られない。不衛生という観点が問題であったらしい。

⑦第三の外的要因は、(中略)昭和36年の室戸第二台風で道隔てて飛ばされたときの町の対応である。建物を復興するのではなく、コヤバ風習そのものを廃止してはという意見が出た。(中略)静かで、気楽で一番いいと主婦たちは言う。



はじめに厚生省を兼ねた警察署が、その後保健所が「不衛生である」という名目で仮設の小屋を解体しようとし、その後常設の小屋も廃止せよという指導を行う。それに対し、住民たちは、神の祟りを恐れ、また穢れを嫌って習俗を守ろうとした様子が見受けられる。さらに、反対する理由は、神の祟りや穢れの概念だけではなかった。「静かで、気楽で一番いい」と主婦たちが語る様子が記録されているように、精神的・身体的な静養の場としても必要とされた。三重県志摩郡の女性が「オビヤ(小屋)に入っている期間は、皆一様に『天国みたいだった』と語る」(12) など、小屋の時間が気楽で良かった、家に戻りたくない、という説話が複数に調査の中に見られた。「産屋の奇習」というタイトルで産婆学雑誌に論文を投稿した福井赤十字病院の洲崎隆一医学博士は、1933年に福井県敦賀半島の産小屋を調査し「妊産婦の別居は安静を保てる上からも、精神的に休養を与へ得る点からでも非常に結構だ」と女性らの安静と休養を促す観点で医学的にも再評価する(13)。小屋は神の祟りや穢れについてだけではなく、産婦たちが日常生活すなわち日々の労働から心身を隔てて休息し、子を育てることに集中する時間を持つ「非日常」を演出する機能も担っていた事がわかる。



 小屋の消失と並行して、1960年以降は病院での出産が多数派に成り代わった。病院での出産では「分娩台」という装置と「仰臥位での出産」という身体的制約が加わる。分娩台と仰臥位については安井眞奈美が調査しまとめている。その一節を以下に引用する。



1920年ころからアメリカでは分娩台の普及とともに、仰臥(ぎょうが)砕石位(lithotmy position)ーあおむけに寝て、足を広げて高く上げ、固定する姿勢ーが一般的となった。この姿勢は逆立ちの次に悪い姿勢で、出産の整理に反するとされながらも、未だ用いられている。(14)



安井は、看護婦・助産婦や産婦人科医の調査を引用し「仰臥位の姿勢は骨盤軸が重力方向に逆らううえ、仙腸関節の動きが制限されるため、胎児の摘出には不利な体位」であるとまとめる。再び習俗の聞き取り調査に戻ると、第一子と第二子を産小屋の後、第三子を病院で産んだ福井県敦賀市の山口やゑ子さん (昭和12年生まれ)は「産気づいても赤子が出てくるまで医師は来てくれないし『サンゴヤと違って、ベッドに寝かせられてまな板の鯉みたいであった』」と話る(15)分娩台に横たわり「まな板の鯉のように」医師を待つという表現はこの劇的な変化の本質を捉えているように感じる。小屋から病院に場が変わり、力綱から分娩台に変わった。それは、産婦の主体が出産の場から奪われ、主体は医師・医療が主体と成り代わったことを明示する。分娩台の上に横たわった産婦から主体は失われた。出産後に一瞬登場する医師のための装置に横たわる対象でしかないのだ。





4.まとめ:小屋と綱の現在的意味


 私がなぜ約50年前に消滅した「奇習」とされる産屋と力綱の習俗に注目するか。それはこの失われた習俗を<メディア>と考えることで、近現代を相対化して捉え直すことができると考えるからだ。力綱は、人が生まれる場での産婦の主体性・身体性を象徴するメディアであり、小屋は、死から生をつなぐ「場」を演出するメディアであり、それは女性主体の時間と空間を持っていた。1900年台以降、海外から押し寄せたフェミニズムの影響で、女性は「女性も男性と平等に扱うように」と声を上げる。一方、男子禁制で女性主体の場であった産屋が50年前にひっそりと消え、人々の記憶からも消えていくことに執着する者は多くない。女性たちでさえ「近代の」または「男性社会の」眼差しで世界を見ることに馴れ切っている。産屋と綱は歴史の中で読み飛ばされる行間のような存在だ。その消失をきっかけに、女性の視線で歴史を再検証し、過去の文明を再評価したいのだ。


 単純に過去を礼賛するつもりはない。当然、お産が安全でない時代は、出産と死が隣り合わせであった。板橋春夫は『誕生と死の民俗学』で「産死と子育て幽霊」という章を設け、死亡した妊婦や死産した子どもをどのように埋葬するかという問いに対し各地の生々しい事例を収集し記録する(16)。いかにして埋葬すれば、母と子が成仏するか?死後の苦痛を和らげることができるか?を生き残る人々が真摯に考え実践した痕跡を私は垣間見る。息絶える者に対し、堪え難き苦痛を受ける周囲の者が当事者となって、折口が記したような「死から生が連続する」死生観を生み出し語り伝えていったのではないか。それらは現代文明の「乳児死亡率が右肩下がりになるグラフ」を唯一の正義と振りかざして世界を語る視点とは異なる感情を私に呼び起こさせる。


 私達の三世代前には、別の習俗が存在した。かつて、異なる死生観を持った別の文明が横たわっていた。それらが本来の評価されずに忘れら去られていく現場に私達は立っているように感じる。歴史家の渡辺京二が、ヴィクトリア時代に生き庶民たちの視点で社会を描いたイギリスの小説家チャールズ・ディケンズの小説を引用し以下のように語る。(17)



ディケンズの『我らが共通の友』という小説に、洗濯物のしわのばしをして暮らしている老女が出てきます。娘にも孫にも先立たれ、慈善家が引き取ってやろうというのも断って、方々で編物などをして暮らしていけるからと旅に出ます。彼女の恐怖は、政府の「福祉」につかまって施設に放り込まれることでした。結局、彼女は農家の納屋で死を迎えますが、それは威厳にみちた死で、彼女は一箇の自由な人格として死んだのです。



ディケンズが描く老女の考えは現代の私達にも思い当たるところがある。「安心」で「安全」な医療や福祉が充実した社会が最も高度な文明であるのだろうか。私は「奇習」を通して異なる文明の痕跡を読み取る。為政者達が作る歴史からこぼれ落ち、民俗学者達が拾い集める庶民たちの口伝の説話の中に、我々が失った最も本質的なものを見出すのだ。近代の視点から「奇習」と見做された産屋や力綱の習俗を<メディア>として注目し作品とすることで、鑑賞者に対し、その想像力を持って、失われたものの形を探る旅に旅立たせることを試みたい。






注記・出典


  1. p148, 板橋春夫, 産屋習俗の終焉過程に関する民俗学的研究 (民俗儀礼の変容に関する資料論的研究), p81-155 .国立歴史民俗博物館研究報告 第205集, 2007

 上記出典元より、洲崎隆一. 福井赤十字病院の医学博士,「産屋の奇習」,産婆学雑誌 第24年第3号, 1940 より「奇習」の表現を引用。「奇習」という表現が近代の眼差しから見る古代の習俗を象徴するように感じ、印象深い。

  1. p116, 同上(板橋)の福井県敦賀市色浜の竹腰みよ子さん (昭和4年生まれ)の表現による

  2. p289, p280-441. 谷川健一・西山やよい. 産屋の民俗ー若さに置ける産屋の聞書ー, 谷川健一(編), 渚の民俗誌 日本民俗文化資料集成5, 三一書房, 1990, 506p

  3. 木暮理太郎, 二、三の山名について, 1928, 58p

  4. 折口信夫, 若水の話, 古代研究 第一部 民俗学篇第一, 大岡山書店, 1929

  5. 原文に対し読みがなを追記した

  6. p295, 同上(谷川)

  7. p294, 同上(谷川)

  8. p93, 同上(板橋)

  9. p149, 同上(板橋)

  10. p121, 同上(板橋)

  11. p102, 同上(板橋)

  12. 洲崎隆一. 福井赤十字病院の医学博士,「産屋の奇習」,産婆学雑誌 第24年第3号, 1940 (p148, 同上、板橋論文より)

  13. p140, 松岡悦子, 出産の文化人類学ー儀礼と産婆, 海鳴社, 1991, 166p

 また私自身が2014年に病院の分娩台でお産をした際に、出産する12時間の間、掴まりどころも無く力も入らない台の上でどうやってお産をしろと言うのだ、と悩んだ経験にも拠る。同様に「近代日本における出産と産屋」を著した伏見裕子も同書あとがきにて自分自身の病院や分娩台での出産の違和感を表明する。

  1. p117, 同上(板橋)

  2. p111-142. 「産死と子育て幽霊」, 板橋春夫, 誕生と死の民俗学, 吉川弘文館, 2007, 322p

  3. 渡辺京二, 無名の人生, 文藝春秋, 2014, 188p



全体に対して

  • 産屋についての呼び名は日本各地でばらつきがある。 産屋、産小屋、お産小屋、ウブヤ、オビヤ、コヤ、コヤバ(小屋場)、コイエ(小家)など。本論では、代表的な名称である産屋(ウブヤ)または単に小屋という名称で記載する。また綱も力綱(チカラヅナ)や産み綱(ウミヅナ)、産綱(ウブツナ)と呼ばれるが、最も記載が多い「力綱」を用いる。

  • 私が産屋と力綱を題材にしたのは、祖母(大正6年生まれ・故人)が産婆をしており、綱を掴んでお産したという話を幼少時に聞いた記憶による。記憶を遡り文献を辿り、これを記した。




参考文献


板橋春夫, 産屋習俗の終焉過程に関する民俗学的研究 (民俗儀礼の変容に関する資料論的研究), p81-155 .国立歴史民俗博物館研究報告 第205集, 2007 https://ci.nii.ac.jp/naid/120006461780

板橋春夫, 誕生と死の民俗学, 吉川弘文館, 2007, 322p

p280-441. 谷川健一・西山やよい. 産屋の民俗ー若狭における産屋の聞書ー, 谷川健一(編), 渚の民俗誌 日本民俗文化資料集成5, 三一書房, 1990, 506p

伏見裕子, 近代日本における出産と産屋, 勁草書房, 2016, 240p

安井眞奈美, 怪異と身体の民俗学, せりか書房, 2014, 290p

安井眞奈美, 出産の民俗学・文化人類学, 勉誠出版, 2014, 368p

小川直之, 折口信夫, 死と再生、そして常世・他界, アーツアンドクラフツ, 2018, 262p

木暮理太郎, 二、三の山名について, 1928, 58p

(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001373/files/56553_54437.html )

折口信夫, 若水の話, 古代研究 第一部 民俗学篇第一, 大岡山書店, 1929

(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18392_22336.html )

和辻哲郎, 風土, 岩波書店, 1979, 299p

柳田国男, 先祖の話, 角川学芸出版, 2013, 246p

松岡悦子, 出産の文化人類学ー儀礼と産婆, 海鳴社, 1991, 166p

渡辺京二,逝きし世の面影, 葦書房, 1998, 493p

渡辺京二, 無名の人生, 文藝春秋, 2014, 188p



P R O F I L E

工藤 麻里 MARI KUDO

1982年山形県鶴岡市生まれ。
高校まで油絵を描く。全国高等学校総合文化祭美術工芸部門に県代表として出展。
お茶の水女子大学文教育学部でフランス文学を学んだ後、
システムディレクター・ウェブアナリストとして活動。出産・育児を経て、IAMASに進学。
変容していく社会と技術を自分の視点から捉え直そうと試みる。

http://marikudo.com
kudo21@iamas.ac.jp
https://www.facebook.com/mari.kudo.jp