【蘭医学 よもやま話 第004夜】 令和7(2025年)年9月1日
ガイドブックのない旅
岡山医学史研究会長 石田純郎
① 岡山へ来たロイトルを緒に幕末維新の来日オランダ医たちを考える
表題には二つの意味がある。一つは文字通り、ガイドブックがない地域に旅すること。もう一つはガイドブックは存在するが、興味の対象となる情報には欠けること、その二つの意味がある。
1970年、医学部2年生の時に生理学の中山沃助教授(当時)から、岡山大学医学部は1870年(明治3年)に蘭医ロイトルを雇用し、岡山藩医学館として発足したと聞いた。ロイトルはオランダ軍医出身であったこと以外に、履歴、フルネームすら知られていなかった。1971年夏、岡山県ユースホステル協会のツアーで、ヨーロッパに行った。まだオランダで1冊をなす日本語のガイドブックは出ていなかった。オランダで当時あった紙の電話帳からオランダ陸軍と海軍の住所を入手した。帰国後、両者に手紙を書き、前者から有力な情報を得た。その人物はFranciscus Johannes Antonius de Ruijt(1841-1886)ではないか、Alphen an den Rijnに生まれ、ウトレヒト陸軍軍医学校の卒業であると。
1973年に岡山大学医学部を卒業し、小児神経科の大田原俊輔教授の研究室に入局、「岡山県における小児てんかんの神経疫学的研究」(医学博士論文、日本てんかん学会J.A.Wada賞受賞)を開始した。研究がまとまったので、1979年にイタリアのフィレンチェの学会で発表した。その際にオランダのアルフェンを訪れた。アルフェンはライデン近くの旅行者の興味を惹かない田舎町で、ガイドブックには一切記載がない。駅で降りて、駅前の1軒しかない小さなホテル、Toor Hotelに宿を取った。2階の部屋の窓から暗い町の路地を見て、とうとう地球の反対側まで一人で来てしまったと、心細くなった。翌日は自転車を借り、ロイトル所縁の場所を探索した。幕末維新(1857-80年代)の日本には14名のオランダ医が来日し、日本各地の医学校で教鞭を執ったが、その内10名がウトレヒト陸軍軍医学校の出身であったことをオランダ語の文献から明らかにした。同校はオランダ唯一の4年制の軍医学校(現在、ウトレヒトきっての五つ星ホテル、ホテル・カルル5世の本館として利用されている)で、1815年から1880年代まで存在した。それ以前は技術にすぎなかった外科術、職人に過ぎなかった外科医と学問であった内科学、学者であった内科医を大学に先立って公平に扱い、medicineの概念を内科学から現在と同様の医学に広げた革新の医学校であった。しかし当時の大学の医学の中心的学問であった、医学倫理、医学史、医学哲学からなる医学概論をそのカリキュラムに含まなかった。近代的で効率的な医学校であったが、日本の西洋式医学教育の始まりに、こうした方法を受容したことが、現在の日本の医学教育カリキュラムにも影響を与えている。
明治維新・文明開化時代、各県は医学校ブームに沸き、全国に70もの医学校が乱立した。明治政府は医師過剰を恐れ、東京大学卒の医学士3名以上を雇用している医学校を優先的に残し、その他の学校を明治20年に廃校に追い込んだ。その際、オランダ医を教員に雇用したことのある医学校が残された。そして大正年間に旧6と呼ばれる単科医科大学に昇格した。長崎、熊本、岡山、金沢、新潟、千葉医科大学である。千葉以外、オランダ雇用の実績があった。岡山に来たロイトルは酒乱のアル中で使いものにならず、3年の雇用契約期間中、1年で首になったというのに。
この辺りは1988年刊の拙著『江戸のオランダ医』、『蘭学の背景』に詳しい。またオランダ国内をあちこち観光した結果、1988年刊の『地球の歩き方オランダ・ベルギー編』(日本語のオランダについての最初のガイドブック)の大学都市、僻地都市など、全体の四分の一を執筆した。40年弱経った最新版にも、筆者の記述がまだかなり残る。
幕末維新の来日オランダ医を探索する過程で、公文書館の存在を知った。廃棄した公文書、史料、資料を蔵している。ヨーロッパには各都市、各大学に必ず公文書館があって、その所在地は現地観光案内所で容易に判明する。たいがい町の中心部にある。外国人でも旅券一つで、入所、史料の探索は自由にできる。これは日本のガイドブックには紹介されていない。日本での除籍調査の方がはるかに厄介で、自治体によっては事実上不可能である。例えば高梁市。
『地球の歩き方』は日本語のガイドブックの中では多くの国をカバーし、最も細分化しているシリーズである。ところが旅人には、「地球の迷い方」だの、「地球の編し方」だのと呼ばれ、ひどく評判が悪い。日本語で読みやすく、市街図に地下鉄路線を重ね、経済的な切符の紹介などには優れているが、地図が小さく杜撰で、文化・歴史に弱い。現在、アマゾンで英語のガイドブックが容易に入手できる。The Rough Guide, Bradt, Lonely planet, Michelin green, red guideシリーズなどと比べ、正確さ、深さ、文化への理解などの点で、「歩き方」は遠く及ばない。
14名の幕末維新来日オランダ医調査後は来日したシーポルト、江戸時代に日本語に翻訳された蘭学医学書などを検討したが、省略する。興味がある方は、下記の拙著をご覧いただきたい。史料に基づく新知見を紹介した。『緒方洪庵の蘭学』(1992)、『オランダにおける蘭学医書の形成』(2007、岡山大学大学院文化科学研究科学位論文(文化科学博士))。また医学史のガイドプックは少ないので、『ヨーロッパ医科学史散歩』(1996)、『アジア医科学史散歩』(1999)、『世界の美しい病院ーその歴史』(2021)を出した。
② 『解体新書』の原著、原著者たち
1774年に刊行された『解体新書』は日本の蘭学興隆の原点となった解剖書である。原著は「ターヘルアナトミア」の名で知られているが、ドイツ語原著名は'Anatomische
Tabellen'、オランダ語原著名は'Ontleedkundige Tafelen'で、直訳すると共に『解剖学表』となる。「クーヘルアナトミア」は当時からの日本人翻訳者間の愛称で、杉田玄白著の『蘭学事始』にその名が出てくる。オランダ人翻訳者ディクテン(Gerrit Dicten, 1696頃~1770)、ドイツ人原著者クルムス(Johann Adam Kulmus, 1689~1745)、クルムスが教授を務めたダンチッヒ(当時ドイツ領、現在はポーランドのグダンスク)のギムナジウム、『解剖学表』異版などの基本的史実の検討は済んでいるものと思っていた。ところが著名な医史学者の著述を見ても、文献(主としてドイツ語で活字化された医史学書や論文)からの引用や孫引きがほとんどであった。クルムスはドイツ本国ではギムナジウム、すなわち高等学校の医学の教授であり、解剖学への貢献は少なく、ドイツ医学史上、ほとんど無名の解剖学者である。クルムスを紹介した文献量も極端に少ない。史料まで遡っての検討は、酒井恒(1928-2008、『ターヘルアナトミアと解体新書』1986刊)の業績くらいしかなく、驚いた。
そこで現地に出向き、史料(手書きの現地語が多い)を発掘し、『オランダにおける蘭学医書の形成』で明らかにした。煩雑になるので、史実はこの拙著をご覧いただきたい。
『解剖学表』オランダ語版翻訳者ディクテンはオランダ・ライデンの外科医ギルドの中枢に長くいた外科医で、ライデン市公文書館、ライデン市立博物館ラーケンホール蔵の史料(当然、オランダ語)から履歴・業績を明らかにした。
『解剖学表』の検討のため、2001年から3年がかりで世界5か国(日、蘭、独、米、ハンガリー)の23図書館を訪れた。外国の図書館は旅券一つで、こうした稀観本を見せてくれる。面倒なのは早稲田、天理といった日本の私学の図書館で、貴重蔵書はその大学の研究者のための本で、見せ惜しみする。23図書館で『解剖学表』の多数の異版が見つかり、えらいことになった。調査は110冊で打ち切ったが、1722年から1814年までの間に刊行された23種もの異版が見つかった。ドイツ語版14種、ラテン語版7種、オランダ語版1種、フランス語版1種である。これ以外にリストに掲載があるも、未確認版がいくつもある。当時のロングセラー、ベストセラーであった。ドイツ語版、オランダ語版、フランス語版はその国の外科医に読まれ、ラテン語版は内科医に読まれた。『解剖学表』がこれほど多く読まれたのは、解剖学上での評価が高かったためではない。当時、内科医向けの解剖書は版型がlm四方くらいの大判で、写実的解剖図を掲載し、高価であった。一方、『解剖学表』は現在のコンサイス辞典くらいの小型本で、解剖図は小さく、少なく、安価であった。臓器の特徴を過度に強調し、装飾過多で、真実を伝えていない「バロック解剖学」と、当時の解剖学者から批判されていた。この本が良く売れたのは、外科医がポケットに入れておいて、ちょっと参照するに便利が良かったためである。解剖に関する情報も、当時の解剖学書の中では際立って少なく、それだからこそ、西洋医学体系について知識のない日本人が受け入れることができたのであろう。しかし多数の部数が売れたことに対し、当時の解剖学者から、批判が出た。
日本に舶載された1734年オランダ語版の原著は、1731年アムステルダム・ラテン語版であった可能性が高い。従来は多数の異版の存在すら知らず、検討もせず、直感的に原版は1732年アムステルダム・ドイツ語版としていた。
③ クルムスが教授を務めたダンチッヒのギムナジウム
クルムスは9年制のダンチッヒ・ギムナジウムの教授であった。筆者は1990年頃からポーランドのグダンスク(旧名ドイツのダンチッヒ)に関心を持ち、史料調査に赴いた。調査に先立ち、岡山大学経済学部田口雅弘助教授(当時)(ポーランド経済史専攻、ポーランドヘの留学経験あり)に、グダンスク公文書館への入館は可能だろうか尋ねた。東欧革命(1989)から間もない頃で、まだ社会は混乱していた。入館は難しいのではとの回答であったが、国立グダンスク公文書館(Archivum Panstowe)に行ったら、簡単に入館でき、史料探索ができた。閲覧したい史料の概念を英語で告げ、いくつかの史料の提示を受けた。その中に核心的な史料があった。「故Jo.Ad.クルムス博士の手稿からの抜粋」である。クルムスが自筆した書類を、後にギムナジウムの職員が抜粋、転記したものである。ダンチッヒのギムナジウムの記録簿に挿入されていた6頁の書類で、記録の正確なタイトルは、「故Jo.Ad.クルムス博士の手稿『医学博士で正教授のJ.A.クルムスにより、出来事の記録のために書かれた、1725年以降のダンチッヒ・ギムナジウムにおける特別な事柄の私的日誌』からの抜粋」であり、文中にしばしぱ「私、クルムス」と記されている。ラテン語混じりのドイツ語で記述されており、岡山大学大学院文化科学研究科の高橋輝和教授に判読して頂いた。その原文と和訳を示す。6枚の書類の内、前半の3枚であり、ここに当時のこの9年制の学術的ギムナジウムの時間割とクルムスの担当科目が示されている。
*1 「故Jo.Ad.クルムス博士の手稿からの抜粋」実物と翻訳
*2 ダンチッヒのギムナジウムの昔と今
当時のギムナジウムの所在地、当時の絵、現在の写真を示す。ダンチッヒは第二次世界大戦時、ドイツの都市で、連合軍により中心部は空爆を受け、多くの建物が損壊した。ギムナジウム棟も損壊を受けたが、戦後、以前と同様な外観で再建され、現在も中等教育学校棟として利用されている。ただ戦災を機会に、道路幅が拡張され、その敷地は数m移動している。
④ ガイドブックのない旅は続く
ガイドブックの情報は研究に何の貢献もしなかった(旅をするには、英語のガイドブックと現地観光案内所の資料は役に立った)が、半世紀以上にわたり、ロイトル、14名の幕末維新の来日オランダ医、ディクテン、クルムス、『解剖学表』、ダンチッヒのギムナジウムについて、旅をしながら史料を探求し、新知見を得続けてきた。
その一方で同時に、未知の国へも旅を続け、2025年11月現在で訪問した国は108となる。この内、治安に問題がない103か国へは自分で行った。治安に問題があるのでツアーで行ったのは、エジプト、インド、中国、チリ、南アフリカである。ツアーで行くと、必ずいる牢名主が不愉快である。旅の行き先は南アメリカを除く全世界に広がり、日本語はおろか、英語のガイドブックがほとんど存在しない国も含まれる。例えばアルバニア、Bradtの古いガイドブックしかない。スロバキア、ここもBradtの古いガイドブックしかない。ただドイツ語のガイドブック(アマゾンでは購入不可能)は出ているので、ドイツ訪問時に両国のガイドプックを購入してきた。筆者は今、77歳、二つの病気を抱えながら、今後も命ある限り、ガイドブックのない旅を、同い年のパートナーと共に、一歩、一歩、続けて行くだろう。
*1 「故Jo.Ad.クルムス博士の手稿からの抜粋」実物と翻訳
1-A><1-B> 翻訳
1725年と1726年への追加
故Jo.Ad.クルムス博士の手稿『医学博士にて正教授のJ.Aクルムスにより、出来事の記録のために書かれた、1725年以降のダンチッヒ・ギムナジウムにおける特別な事柄に関する私的日誌』からの抜粋
5月23日に私J.A.クルムスは、ダンチッヒ市の尊敬すべき高貴な参事会によって、同地の学術ギムナジウムの医学と自然学の教授に、36歳の時に、13年間空席であった、私のかつての師、Joグロゼマイエル(Gl6semeyer)博士のポストに任介命された。
6月28日に紹介式が、通常の厳かさをもってなされた。私のために、講座をアービヒト(Abicht)博士殿が学長として、「ギムナジウムにおける自然哲学の用益について」という講演でもって開講した。この後、私は「哲学と将来の自然科学との結合について」という講演を行なった。
紹介式の終了後、私は最後に私の前に紹介されたホーハイゼル(Hoheisel)教授殿に楽団長に関して、紹介式の際の音楽のために、尊敬すべき高貴な参事会によって彼に支払われた20帝国ターレル以上にさらに私から謝礼を要求していると聞いたので、前述の教授が彼にそのようなものを与えたかどうか、それはいかほどであったか、尋ねた。しかし彼は知らなかった(ここで途切れている)。
7月6日に私は気高い教授団によって同僚として受け入れられた。その儀式の際に私は次の事柄を誓った。
1)教授団の中で述べられる意見を外に漏らさないこと
2)複数の意見を承認すること
3)ギムナジウムを発展させ、かつ教授団メンバーの名誉を続けること
私の就任の際の授業:
当時はただ6人の教授しかいなかった。パウル・パーテル、マテゼオス(PaulPaeter,
Matheseos)、員外教授は少し前に死亡していた.
I 8 • 9年生
月 午前7-8時欠
8-9時Dr. Willenbeg:食料品の歴史学
9-10時Dr. Abicht:列王紀(?)の神学
午後2-3時Prof. Hoheisel :ヘブライ学
3-4時Prof. Sartorius :雄弁について
火 朝7-8時私Dr.Kulmus:守られるべき健康に関する医学
残りの時間の授業は、月曜日の朝と午後と同様であった。
水 午前7-8時私Dr.Kulmus:自然学
8-9時Prof. Schelgvig :哲学
9-10時Dr. Abicht:神学論争
木 午前7-8時目下欠
8-9時Prof. Sartorius :雄弁について
9-10時Prof. Schelgvig :哲学的な事柄
午後2-3時目下欠
3-4時Prof. Hoheisel :ギリシア学
〈2-A〉翻訳
金午前7-8時目下欠
8-9時Dr. Willenbeg :法律学補講
9-l0時私Dr.Kulmus:自然学
午後2-3時欠
3-4時Prof. Hoheisel :ギリシア学
土 午前7-8時Dr.Wilenbeg :法律学補講
8-9時Prof. Schelgvig :哲学
II 6 • 7年生
月・火の午前7-8時Waschetta ポーランド学論究
註:月は少なくとも私の希望によるが、しかし必要性からではない。
8-9時私Dr.Kulmus:自然学
9-10時Prof. Sartorius :オヴイデイウス(ローマの詩人)
2-3時Prof. Schelgvig :論理学
3-4時Prof. Hoheisel :ギリシア学
水7-8時Prof. Hoheisel :ヘブライ学
8-10時Prof. Sartorius :宿題訂正
木7-8時Waschetta:ポーランド学
8-9時Dr. Willenberg :歴史学
9-10時Prof. Sartorius :修辞学
2-3時Prof. Schelgvig :論理学
3-4時Dr.Abicht :神学
金7-8時Waschetta:ポーランド学
8-9時Prof. Schelgvig :論理学
9-10時Prof. Sartorius :キケロの演説
2-3時Prof. Hoheisel :ヘブライ学
3-4時Dr.Abicht :神学
土7-9時Prof. Sartorius :宿題訂正
9-10時Dr. Wilenberg :歴史学
*2 ダンチッヒのギムナジウムの昔と今 「大塚薬報」2021(5) 765. 18-21(大塚ホールディングス株式会社発行・株式会社大塚製薬工場制作)
尚、『大塚薬報』は、医療関係者であればどなたにでも喜んで、無料で定期送付いたします。ご希望の方は、株式会社大塚製薬工場 総務部広報課薬報担当(電話:088-685-1151(代) E-mail:yakuho@otsuka.jp)までご連絡下さい。
【蘭医学 よもやま話 第003夜】 令和7(2025年)年7月2日
「歴史」と「歴史学」
福井県立大学客員教授 角鹿尚計
研究者というのはある程度自己の学問・専門分野に関して寛容な視座で臨まないと大事な方法論的視点や知見を見落とすことがあると常々思っている。
まず、「歴史とは何か」という命題にはE.H.カーの「歴史は現代と過去のあいだの対話」であるという有名なフレーズを思い出す。これは結構体温を感じる擬人的な表現なので好きだ。
反面、「人文科学」という語彙は基本好きではない。もっとも「科学」とは対象を論証できるものであるから、論証できる歴史は「科学」なのである。つまり「科学」以外の歴史的な考え方・方法論・視座は「人文科学」としての歴史ではないということになる。
しかし、歴史というものは、現代社会をどうとらえるか、また対象を客観視することによってそれをどう生かすか、どう教訓とするかの参考、そして未来を展望するためにも必要である。
先日、敬している某歴史学者がフェイスブックで、文章は「わかりやすくて、さっぱりしたものがいい。牛肉の赤身のようなもの」だといっていて若干ショックだった。もちろんこれは論文に対してのことのようで絶対だめだということではないようだから少し気が楽になった。彼曰く「情熱的な文章は頭が良い人は書いても良いが並みのレベルの人は家電の説明書のような書き方がペスト。面白味がなくても、分かりやすいのが一番だ」だそうだ。
頭の悪い私はすぐに謝り(実際は嫌味のつもり)のコメントを入れた。則、謝罪したように、私の論文、研究書、その他は「家電の説明書」のような箇所ばかりではない。否、むしろそのような箇所が少ないかもしれない。つまり論文に修辞など一定の文学性(もちろんノンフィクションである)を盛り込んでしまう癖がある。ただこれには理由がある。
大学生の時分、私はかなり真面目で純粋な学生だったので、恩師の講義には謹んで傾聴し。その内容は生涯忘れないほどの勢いだった。私の卒業論文を評価選考の教授会で褒められて、「彼の論文・文章には文学的で情熱的なものが光る。文学部の論文というものはこのようなものであってほしい。」という賛辞であったと、のちに指導教官(卒論の主査)から伝えられたことがあった。賛辞?を下さったのは卒論(古代史)の主査でも副査でもない近現代史専門の碩学・重鎮の教授であった。私はその後福井市の博物館の学芸員になった。古代史の論文も遅々たる歩みでも書き続けたが、職場の収蔵史料や展示レファレンス、仕事の大半は近現代史、特に幕末維新期が中心であった。特に私の居た職場の博物館は、旧藩侯の子孫である顧問がおわして「先哲の学」を奨められた。先賢から学び、その生き様・思想・学問を研究し紹介する仕事である。それからも私は自己の学問には大きくブレルことが無かったと思う。だから私は「科学」としての「歴史」だけではなく、「歴史」を題材とした文学や芸術にも理解と関心と価値と敬意すら抱いてきた。ここで何を言いたいかというと「歴史」とは「科学」としての「歴史学」だけではなく、歴史的、或いは歴史を題材としたあらゆる文学・芸術作品もまた「歴史」であると考える。人生に感動や教訓を与え、郷土愛を高める精神生活面の効果、或いは大河ドラマのように「歴史」への興味・関心を促し、「歴史」の大衆化・底辺拡大、観光や人的交流、経済効果などに貢献する娯楽・資源としての「歴史」である。私は、歴史研究者の相当数が、少年の日、歴史に興味を持ったきっかけを知っている。大河ドラマとコミックである。私の場合も幕末史に興味を持ったのは「大河ドラマ 花神」が主なきっかけであった。
でも、私自身は歴史小説を書かないし書けない。史料に基づき推論はしても創作ということができないのは「歴史学」の学徒だからである。
【蘭医学 よもやま話 第002夜】 2025年4月1日
「雪の花」に思う ー天然痘との闘いの歩みー
緒方洪庵記念財団 除痘館記念資料室 川上 潤
この2月、映画「雪の花―ともに在りてー」を鑑賞した。越前福井の笠原良策がイギリスのエドワード・ジェンナーの開発した牛痘種痘という予防法を用いて天然痘禍から人々をまもるストーリーは、史実として承知していたが、その中の栃ノ木峠越えのシーンは圧巻であった。加えて、映画の中では僅かなシーンではあったが、最初に開設した天然痘の予防接種施設の入口の「種痘所」の表札が、その後のシーンで「除痘館」と名称を変えていたことは、微妙なことではあるものの、筆者にとっては注目に値する表現となっていた。これはその施設が私的な存在から越前藩公認の存在への歩み、つまり西洋渡来の牛痘種痘法の公的な市民権の獲得を暗示するもので、この点に気づかれた方もおられたと思われる。恐らく、これに気づかれた方は原作を読み込まれた方なのであろう。この「種痘所」から「除痘館」への流れの中で得た牛痘種痘法の市民権の獲得こそが、笠原良策が命がけで勝ち得た成果の証しと言えよう。ここに記すのは、天然痘と闘う牛痘種痘法が人々の間に定着していく軌跡である。
天然痘はコレラ、ペスト、結核などとともに古くから人類を苦しめてきた感染症である。2019年(令和元)からパンデミックを起こした新型コロナウィルスを含めて、エイズ、エボラ出血熱、SARSなど、次々と新型の感染症が人類に襲いかかってくる。なかでも、天然痘は紀元前から存在し、エジプト第20王朝ラムセス5世のミイラの皮膚に天然痘の痘疱がみられることも知られている。少なくとも今から3000年以上前から世界各地で繰り返し甚大な惨禍をもたらしてきたのである。日本では『続日本紀』の735年(天平7)に九州の筑紫ではじまる流行が最初の記録である。
ただ、致死率が20~30%といわれる天然痘に関して、一度天然痘に感染した者は二度と感染しないことは経験則的に理解されており、インドでは古くから人の腕に浅い傷をつけ、そこに痘疱の膿を種えて発痘させて軽く感染させる方法が行われていた。いわゆる免疫を得るすべを知っていたのである。
この方法はトルコへ伝えられ、また駐トルコ英国大使夫人メアリー・モンタギューが帰国して伝えたことで、イギリスへも拡がった。こうしたことから中国でも、天然痘の痘痂を粉末にして鼻腔から吹き込む旱苗法などが行われていた。これらの手法は全て人痘種痘法と呼ばれるが、この人痘種痘はわが国に1744年(延享元)中国の李仁山の来日によって伝えられ、1789年(寛政元)には筑前秋月藩の緒方春朔により多くの人々に実施された。このようなトルコ式も中国式も天然痘ウィルスそのものを接種材料として利用するため、効果はあったものの、接種後の死亡率が1~2%あり、またその行為そのものが新たな天然痘の感染源となる危険をはらんでいた。
これらの欠点を解消し、安全で確実な新たな方法を開発したのがイギリスのエドワード・ジェンナーである。彼はブリストルの北に位置するバークレイの外科医で、ダニエル・ラドロウや近代外科学の開祖と言われたジョン・ハンターに師事したが、かつて診療を受けた農婦の「自分は以前牛痘病に罹ったので天然痘にかかることはありません」と言った言葉が、いつも心に遺っていた。この言葉に導かれた彼は、その後実験を繰り返した。そして、やがて、1796年牛痘病に感染し右手に牛痘の痘疱が発痘した搾乳婦のセアラ・ネルムズからその膿を採って8歳のジェイムス・フィップス少年の腕に種えてみたところ、セアラと同じような牛痘の痘疱ができた。さらにフィップス少年に2回にわたって天然痘の膿を種えたが、2度とも天然痘の痘疱は発痘しなかった。この実験によって牛痘苗は人から人へと伝達できることを発見したわけである。1796年のことであった。このエドワード・ジェンナーの開発した安全・確実に天然痘を予防する牛痘種痘法が、「あらかじめ防ぐ」という今日の予防医学の原点であり、またラテン語のワッカ(vacca 雌牛)からジェンナーが名付けた「ワクチン」という言葉の誕生であった。この実験がジョン・ハンターからの「あまり考えずに実験することだ」とのアドバイスをもとになされたことは、有名な話である。ちなみに、わが国の修身の教科書に載せられていた「ジェンナーは自分の息子で牛痘種痘の実験をした」という美談は、事実と異なる。
この牛痘種痘法は急速にヨーロッパ全土に拡がった。北米ではアメリカ大統領トーマス・ジェファーソンが、それを拡めたことが知られている。19世紀の初頭には、すでに東南アジアにまで牛痘種痘の輪は拡がっていた。
しかし、残念なことに、わが国への伝播には多くの時間を費やさなければならなかった。この牛痘種痘には国内で入手できない牛痘苗(ワクチン)が必要不可欠であり、それを不活化させずに移入する手立てがなかったからである。牛痘苗の移入は、当時の長崎のオランダ商館を通じて幾たびか行われたが、成功するには至らなかったのである。オランダ商館医のシーボルトが赴任時に持参した膿漿も善感(ワクチンの定着)するには至らなかった。ただ、ロシアに連行された択捉島の下級役人・中川五郎治が、1812年(文化9)ロシアから帰国し、ロシアで学んだ牛痘種痘の手法を一時的に蝦夷地で実施したというが、それも広く伝わることはなかった。
待ちに待った牛痘苗がわが国に渡来し、長崎のオランダ商館で善感したのは1849年(嘉永2)6月のことであった。商館医のオットー・モーニッケが、佐賀藩医の楢林宗建の提案でバタヴィアから痘痂(カサブタ)の形で取り寄せた痘苗が、本格的に定着したことによる。わが国の牛痘種痘は、この痘苗伝播を契機として全国に拡まっていく。佐賀藩主鍋島直正は早速、楢林宗建に領内での牛痘種痘の普及を指示し、江戸在住の佐賀藩医の伊東玄朴の手許にも痘苗を送って関東、東北各地への分苗を促している。しかし、いち早く江戸に痘苗が送られたにも拘わらず、江戸での牛痘種痘の普及は芳しい成果をあげていない。将軍のお膝元の江戸では頑なな姿勢を貫く漢方医や医学館の勢力が強く、蘭方系や西洋渡来の牛痘種痘法が評価されなかったのが要因であろう。幕府の許可を受けて江戸にお玉ケ池種痘所が開かれたのは、それから10年後のことであった。
モーニッケにより渡来した牛痘苗波及の流れには、これより先、牛痘苗取り寄せ計画を進めていた今一つのルートがあった。冒頭に書いた「雪の花」の主人公、越前福井の笠原良策の活動によるものである。福井で飢饉や天然痘に苦しむ人々を見てきた良策は、蘭方医学への歩みの中で牛痘種痘に詳しい京都の日野鼎哉に師事して知識を得、牛痘苗を探し求めたが、その願いは空しかった。そこで、当時すでに牛痘種痘を用いていた中国からの輸入策を立案し、福井藩主松平慶永(春嶽)の理解を得、幕府の力を借りて取り寄せる計画を進めた。この相談に乗ったのが京都の師・日野鼎哉である。鼎哉は旧知の長崎の唐通事・頴川四郎八に痘苗入手を依頼し、四郎八は痘苗渡来時に孫の腕に痘苗の「うえつぎ」を受けさせて、孫の腕にできた「カサブタ」を越前福井藩のものとして京都の鼎哉のもとに急送した。この痘苗は鼎哉のもとで善感し、鼎哉は上京した良策と共に、京都に牛痘種痘の普及の拠点である「除痘館」を開設した。1849年(嘉永2)10月16日のことである。これは福井に送るための痘苗確保を念頭に、牛痘種痘を拡め、確保しようという方策にほかならない。
痘苗は大坂の鼎哉の弟・日野葛民や緒方洪庵らにも分与され、葛民や洪庵らも大坂に「除痘館」を設けて種痘普及活動を進めるに至った。この大坂の「除痘館」の活動が適塾のネットワークなどとも関連しつつ、全国各地に痘苗を分与し、その普及活動を活発化させたことは有名であり、この「除痘館」が、漢方医の抵抗や妨げとなる風評、あるいはいくたの苦難を乗り越えて市民権を獲得し、1858年(安政5)江戸に先立ち幕府の官許第1号となったことも多く知られるところである。
こうして京都で蓄苗された牛痘苗は良策の手で江戸の福井藩邸に送られているが、それを福井に伝えるべく、彼が京都を旅立ったのは1849年(嘉永2)11月19日のことであった。
この時期、福井への道は深い雪に覆われている。峠越えの難所を越えなければならない道中である。小児を連れた一行の風雪との闘いは予想を上回るものであった。冒頭に記した栃ノ木峠越えのシーンに心を動かされたのは筆者だけではないと思う。
しかし、この命がけの旅は、苦難の果てに目的を達した。牛痘苗は11月25日、無事に福井に届けられ、定着した。旧来の漢方医による抵抗もあったが、良策は仮の「種痘所」を設けて接種を進め、この施設は翌年藩が公認する「除痘館」となり、発展していったのであった。藩による公認は人々に信頼と安心を提供する。このため、牛痘種痘を促進するためには、何よりそのこと自体が主要な意味を持つものとなっていた。牛痘種痘を進めるにあたって良策が考えていた藩が後ろ盾となる公認への道こそ、彼の念願とするものであったのであろう。「種痘所」から「除痘館」への道は人々に対する信頼と安心とを担保する。それは単なる言葉だけのものではなかったのである。大坂の「除痘館」の場合、開設当初先ず接種した子どもの大半が奉行所与力の子弟であったことが伝えられるし、大坂の「除痘館」が幕府公認の官許を受け、江戸のお玉ケ池種痘所が幕府の許可で一般に信用を得ていったのも、「官」による公認の立場が公共性を持ち、大きな信頼の基盤になっていたことを忘れてはなるまい。
良策の牛痘種痘普及に対する熱意は、これにとどまらなかった。その影響で加賀や敦賀、鯖江の各藩など北陸一帯に、それが波及していく礎となっていったのである。
かくて明治政府のもと、わが国では1876年(明治9)に天然痘予防規則が布達され、強制種痘および再三種痘制度が施行されたことで牛痘種痘、つまり種痘が社会に定着した。これによって繰り返し流行する天然痘も漸減していく。国内での天然痘感染者は1955年(昭和30)が最後となった(ただし、1973. 1974年に各1名、国外で天然痘にかかり帰国した患者がいる)。また、世界的には1967年にWHO(世界保健機関)の世界天然痘根絶計画が、アジア、アフリカ、南アフリカの33か国の天然痘常在流行国で始まった。そして天然痘の囲い込み作戦は世界的活動となり、1977年にソマリアで出た患者が人類史上最後の患者となった。その後2年間発生報告がないことを確認し、1980年にはWHOによって「天然痘根絶」宣言が出された。エドワード・ジェンナーが牛痘種痘法を開発した時に、「牛痘種痘の接種活動によってやがて世界から天然痘が消滅するだろう」と予言したのが実現したのである。しかし、多くの感染症の中で社会活動を通じて根絶に至ったのは、未だに「天然痘」ただ一つに限られる。
かつて天然痘は感染する前に予防することはできるが、一旦感染すると治療法はなく、致死率30パーセント前後とされて自然治癒力に頼るしかなかった。しかし、1980年にWHOで天然痘根絶宣言が出された後も、アメリカでは治療薬の開発が続けられていた。そして、2018年にはようやく治療薬が完成した。これはバイオテロ対策として開発された治療薬で、近年静かに人への感染が拡がるエムポックスに対しても有効な治療薬であることが判明している。長年にわたる治療薬の開発は無駄ではなかったわけである。
これからも感染症と人類の闘いは終わることはない。こうした感染症と向き合いながら、人は何を学び、何を得ていくのかが問われるところであろう。
【蘭医学 よもやま話 第001夜】 2025年2月3日
枇杷山探訪 ―笠原良策(白翁)の医学校創設計画―
福井大学医学部 地域医療推進講座 山村 修
蘭方医である笠原白翁先生が主人公の映画「雪の花-ともに在りて-」が封切となりました。県民として、大ヒットを祈念したいです。そんな白翁先生には、いくつかの気になるエピソードがあります。幕末の安政年間(1855~1860年)、種痘事業で多忙を極める白翁先生は、福井藩に医学校創設を上申されました(たぶん)。その趣意書草案に関する論文を読んでいて、出でくる地名に驚きました。
「吉江枇杷山」
なんとウチの近所です。地元の人もほとんど気付かないこの山を、白翁先生のちょっと破天荒な経営プランとともに紹介します。
趣意書の中で、先生は「世の中の100人中、90人は天寿を全うしない『横死』である」と断言し、良医の不足を嘆きます。そこで医師養成を目的とした「附属病院のある医学校」の創設を提言します。発想当初は「医黌」と書いて「ヤウジヤウショ」と読ませていましたが、趣意書では「養生所」と変更します。学校は「学舎」「病舎」「婦人寮」からなり、南斜面の風通しの良い土地を選び、周囲に堀を穿ち、世間と隔絶した環境を造るよう勧めています。水源の確保、防火林の植樹から入院患者のストレス対策なのか「飛泉」「高台」「馬場(運動場?)」などレジャー施設の設置まで、医術に留まらない発想から、先生の知識の深さを垣間見ることができます。
さらに独創的なのは、その経営プランです。当時、福井藩の財政は逼迫していました。それを知った上で、先生は官設でありながら医業外収入による経営を提案します。その目玉は、なぜか養鶏業。趣意書に説く先生のアイデアは…。
親鳥を10羽ほど買うと年間500個の卵が手に入る。卵1個を8文(当時なら格安!)で売れば年間収入は4,000文。つまり1両(小判1枚)になる。藩内4万世帯が養鶏を副業とすれば年間4万両の藩収入になる。だから公設の親鶏増産センターを設ける。その適地として、先生が別の提言書(海防私案)に挙げたのが「吉江枇杷山」です。
吉江枇杷山はどこか。正月はその探索に明け暮れました。吉江は鯖江市北西部で、越前松平家の分家、吉江藩のあったところです(江戸中期)。ただ吉江地区は北辺に経ケ岳山系はあるものの「枇杷山」と呼ばれる山はありません。そこで古地図を眺めると、文化年間の「越前国四ツ割之絵図」に「琵琶山」を見つけました。鯖江市米岡地区と牛屋地区の南側。こんなところに山なんてあったっけ。早速、正月の氷雨の中、探索に出かけました。
福井市からフェニックス通り(旧8号線)を南下すると、鯖江市の鳥羽中を越えた辺りで左手にコメダ珈琲店さんが見えます。店の北側に鎮座するのが「琵琶神社」です。よく通る道ですが「枇杷山」のお陰で初めて神社名に気付きました。参拝を済ませ、通りを渡って西側に50mほど歩くと大きな岩山が見え、麓の階段の脇に「琵琶山霊場」の石柱がありました。標高28.8mの低山「琵琶山」です。現在の地籍は丸山なので、地図上に琵琶山の地名は残っていません。琵琶神社がなければ、本当に消えてしまいそうです。
白翁先生は、なぜ枇杷山を適地としたのでしょう。現地を訪れて分かるのは、低山で丘陵地の琵琶山は水を得にくい土地であることです。おそらく稲作も畑作も適さなかったでしょう。当時は広大な耕作不適地が広がっていたと思われます。白翁先生の趣意書にも「不用の山地を撰ミ」とあり、先生自身が国内を歩き回り、当地を選んだものと考えられます。では養鶏業作戦は実行されたのか。安政段階の2枚の橋本左内宛文書に「笠原鶏之事」「桂山(白翁先生の号)より鶏一条」とあるので、藩庁は白翁先生の計画を知っていたことになります。先生は実現に向けて、何らかのアクションを起こされていたようです。でも福井藩としては、ちょっと困った提言だったのかも知れません。実利を得るまでには、人も費用もかかります。藩政改革が進んだ文久年間ならまだしも、安政年間なら投資は難しかったことでしょう。安政の大獄もありますし…。
今年の正月は、枇杷山探索で楽しめました。養鶏業はともかく、先生の養生所の理念を、福井大学医学部は引き継いで行くべきだと思いました。琵琶神社に参拝して、改めて、福井大学が良医を育む学舎になるよう願をかけてみました。
参考文献:医学校設立構想(笠原文書)
1.嘉永甲寅九月付 医黌創立願書 草案
2.安政二年(推定) 施薬館創立願書 草案
3.安政三、四年(推定) 「養生所造立趣意書」草案