紅い、儚い、怖い

とちぎ あきら(フィルム・アーキビスト)


 紅い、儚い、怖い。一切があっけなく崩れていくような瞬間が、緑川珠見の映画には必ず訪れる。ゆっくりと体を傾げたピンク色のドレスの女が、最後は畸形人間のようにバタッと倒れてしまう瞬間。赤の衣裳をまとった二人の女が手をつないで入水していく瞬間。テーブルのうえの水差しが倒れ、白いスカートの裾を水が滴り落ちる瞬間。パッチワークのようなカットのつながりに戸惑いながら、しまったと思う間もなく、体が反応してしまうような恐ろしさ。ふいに首根っこを掴まれるとは、こんな感じかもしれない。

 ところで、この怖さの棲家となっているのはホームドラマである。いや、ドラマをミニマルに換骨奪胎することによって、牢獄に姿を変えたホームと言うべきか。ここで憎悪と畏怖の対象とされるのは母親なのだが、その母親が体現する生きること、産むこと、作ることのすべてが汚わらしきものとなる。まるで創造すること自体が悪の仕業でもあるかのように。

だからこそ、この作家は存在悪によって引き裂かれた世界を大きく掬いとろうとする。『サルビア姉妹』は、そんな志の高さに支えられた傑作だ。

 生まれ出づることの恐怖。その怯えこそが、緑川珠見の映画を映像の彼岸へと駆り立てる。目を奪う紅の美しさのなかに、原罪を知ったがゆえの諦観が秘められているように思う。

覚醒のためのグロテスクな場

                          山崎幹夫(映画作家)


 夕方、急に外が暗くなって雨が降り始めた。遠くで雷が鳴っているような音もする。それで玄関の扉を開けて外に出た。出てすぐに、おや、何か変だぞと思う。玄関の自分のいる場所、半径20メートルくらいが、薄いピンク色の光につつまれていたのだ。目の錯覚かと思って、自分の掌を見るが、やはりピンク色をしている。道路の向こうの畑や、向かいの家越しに見えるけやきの木は暗く沈んでいるのに、自分のまわりだけは確かに薄ピンク色の光につつまれている。天使でも降臨してくるのだろうかと思う。いや、そうではなく、自分はじつは心臓発作か何かで死んで、残留思念が玄関先にさまよい出ているのかもしれない。そんなことを瞬時に妄想していた。

 上空を見上げてわけがわかった。ぶ厚い黒雲に空は覆われているのだけれど、自分の頭上だけは、どうしたわけかぽっかりと穴が開いていて、ちょうど夕方だから茜色に染まった雲が見えている。それがスポットライトのようになっていて、自分のまわりだけを薄ピンクに染めていたのだ。

 ワケはそれでわかったのだけれど、まだ日常感覚が戻らない。それを自分は楽しんでいる。理性はその状況を把握している。しかし感性の方がまだ納得していなくて、日常からほんのちょっとズレたこの状況を快く感じているのだ。ぬるい雨に濡れながら、ワタシは玄関先に突っ立っている。ずっとこのままでいれたらいい。でもずっとこのままだとこわい。そんな二律背反(アンビヴァレンス)な気分を楽しんでいる。長々と自分のことを書いてしまったが、緑川珠見の映画を観てワタシが放り込まれるのはそんな感覚の次元だ。今回『蟹牡丹』と『サルビア姉妹』を再見、『破壊する光は訪れる』を初見して、その感を深めた。

 この感覚を何と名づけたらいいのだろう。デジャヴ(初めて見るものを以前にも見たことがあるように感じる)でもなくジャメヴ(いつも見ているのに初めて見るように感じる)でもない。もっと根源的な感覚だ。物語以前の感覚・‥。意味以前の感覚・‥。奇妙に生々しいようでいて、現実からはズレてる感覚・‥。

 思い出してみよう。それぞれの作品には、それぞれ特権的な場が提示されている。『蟹牡丹』で赤い服の女がゆっくりと体をねじらせて倒れる森。『サルビア姉妹』のラスト近くで不思議な緊張に満ちる電車の中。『破壊する光は訪れる』で繁茂する植物と蝉に覆われながら、なぜか死の匂いを感じさせる庭。映画文法の関節は粉々に外され、イメージと言うよりはむしろ現前するものとして、意味ではなく、まして無意味でもなく提示されるこれらの場。こわい。でもずっと観ていたい。ふたつの気分が同居する。そんなエネルギーを放つ場の提示。このエネルギーって何?エロス(生)を志向しているわけでも、タナトス(死)を志向しているわけでもない。もっともっと、それ以前のもの、あるいはそれを超越したもの・‥。涅槃(ニルヴァーナ)か? そうかもしれない。それが、オプチカル処理やフィルターワークなどのエフェクトを使用するわけでなく、せいぜいスローモーションぐらいで表現されてしまうのだからこわい。そして気持ちいい。

 魂を吸い込まれそうな気分になる。しかし完璧ではない。作者の意図がどうかはわからないが、まだ逃げ場がある。『蟹牡丹』で言えば、女の口から赤い花が咲くところ、あるいは赤い部屋で無数に転がる生卵のなかを女がのたうちまわるところ。『サルビア姉妹』で言うと、えんえんと続くおしゃべり。これらのシーンで観客は安心してしまう。意味が発生するからだ。あるいは無意味として受け流すことが可能だからだ。

 たいていの映画は意味の病におかされている。これはしかたのないことだ。人間という動物じたいが、自閉症でもないかぎり意味を死ぬまでまとい続けていかなければならない存在なのだから。しかし8ミリカメラという無機質な道具を通して世界を覗き、その光景を掠め取って再構築することで、いくらかなりとも意味からの解放を、解放のための足がかりを、解放のための気分の醸成を世界に提示することができる。

 ふるえる。意味から解放されて口を開けた虚無に、魂を吸い込まれるのではないかというおそれでふるえる。と、同時にスクリーンの上にほのかに現出したこの場を、もっともっと観ていたいという願望に身悶えしてふるえる。

 そうだこれはグロテスクな場なのだ。形容に過ぎないがそう思った。緑川珠見が8ミリカメラを手に、このグロテスクな場を発見したのだ。いや、8ミリカメラがたまたま緑川珠見をいざなって、この場を発見させたのだ。どちらも正しいだろう。だからしゃべってはいけない。しゃべるとそこに意味が発生してしまう。意味より以前、物語より以前に、これまで映画が到達しえなかった秘密の場所がある。有機質の人間の目玉と、無機質のカメラのレンズが交差したとき、その秘密の場を掠め取ることができるのだろう。だからここは覚醒の場でもある。狂ったサルである人間が、いくらかなりとも覚醒する場。そのとき見えてくる新しい地平を、人間は「グロテスク」と形容するのだ。