東海村の民話 《白方城のお殿様》
河本 紀久雄
1.概要
東海村白方にある皇大神宮の周辺に、昔「白方城」があったといわれています。この事実は以下の図書で紹介されており、これらを整理し、紙芝居としたので、以下この概要とその背景を記述します。
1)東海村村史
①水戸の吉田氏の次男興(おき)幹(もと)が白方次郎と称して築城した
②現在の皇大神宮の境内地に土塁をめぐらした館跡が残っている
③興幹は白方溜を管理し、久慈川南岸の沖積低地を開発した
④石神小野崎が佐竹氏の所領「白方寺社、社家、船方」を奪っている
2)村の歴史と群像
①中世の記録に“船方”の単語が出て来る。白方に港の機能を持った役所の存在が推定される
3)石神城とその時代
①城之内・堀之内・万才口・馬場崎という小字名があり、白方城跡と見て良いであろう。東北部の水田に「城前」「城前堀」「入海」という地名があり、久慈川河口に通じた掘割が有り船の出入りができた
4)広報東海(第200号+212号)
①古墳発掘調査時に溝や濠が発見された
②常陸太田に唐人が来訪したと考えられ、白方には貿易にも用いられていた港があった
2.最初の城主=吉田興幹(白方次郎)と.最後の城主=小奈良越前(玉光集*より)
3.白方城の歴史
4.白方城はどんなものだったか?
5.白方城の痕跡
6.纏め
世の中が平家から源氏に移りゆく時期、平家に味方した佐竹氏は源頼朝に攻められて花園まで逃亡したが、その後頼朝に帰属し再び勢力を盛り返した。水戸の吉田氏はこの間の佐竹氏の弱体期を狙い、息子たちを常陸の海岸に進出させた。その最先端が次男に任せた白方城である。以後最後の城主小奈良氏が滅びるまでの300年弱、10代位の藩主が統治したと思われる。この間、鹿島大使を二度も務めており、裕福であったとことがわかる。その為には、経済力が必要で久慈川河川敷の開墾(水田)や運河の開削による港湾の造成などの施策がおこなわれたであろう。しかしながら再び勢いを盛り返した佐竹勢力に出身地水戸の吉田城を奪われ、後ろ盾を失った白方城は石神城に入った小野崎氏を含めた佐竹勢に滅ぼされ、その姿を消すことになった。 今回の調査で現存している字名“小奈良”がどうやら白方城の最後の城主の名前ではないのか、が判ったのは大きな収穫であった。
7.完成した物語概要
白方の初代城主は、館を建て久慈川周辺の湿地の開墾や塩田を開き、更には港を作り交易を盛んにする等、裕福な村を作りあげた。また、海岸で子供たちが亀を虐めているのを見て助けてやるような優しい面も有していた。この白方氏の支配は数代続いたが、やがて太田の佐竹氏や隣村に住む小野崎氏が勢力を伸ばし出すと、裕福な白方に眼を向け、終に城は取り囲むことになってしまった。勝ち目は無いと悟った、最後の城主小奈良氏は、自分の命を代償に村人を守るべく、一人城を出て敵軍との交渉に赴いたき二度とお城に戻らなかっが、城を囲んだ兵隊は自然に解散し村人たちには何も危害は及ばなかった。殿様を惜しむ村人たちが海岸に出ると沖に見慣れない船が一艘、浮かび回りを不思議な物体が取り囲んでいた。それは村人の眼には恰も亀が船を守っているが如く映つった。突然村人の中から『昔殿様が亀を救った話を思い出した。ひょっとするとあの船に殿様が乗っているのでは』と期待の呟きが洩れた。
8.逸話
折から上映中であったNHK朝のドラマ「ウエルかめ」の影響なのか、子供たちからの希望があり亀が入り「亀の恩返し的要素」となった。更に同じく『天地人』のドラマの主人公「直江謙次」ならどうしたか?の設問となり、「城主の責任」としてこんな答えとなった。