早稲田の仲間が沢山いたのが心強かった
―平昌、北京の2大会のオリンピックに出場されていますが、それぞれの思い出や印象に残ったことなどあれば教えてください。
どちらの大会もとても寒くて、それがもう1番の感想というか思い出です。それとオリンピックって、イメージは明るく輝いているところというものでしたが、やはり近づくほど、なんというか闇があるということを感じて。もっと晴れ晴れした気持ちでその場(オリンピック)を迎えると思っていましたが、なんだか悲しい気持ちの方が大きかったな、と思います。
―その悲しかったというのは、たとえばうまくいかないとか?
そうですね。なんだか色々重なっていましたが、チームの状況があまり良くなったことやもちろん自分が、というのもあります。特に平昌の時は、自分がそこに行くことに必死で、ただ行っただけになってしまい、そこで戦える力が無かったことを知りながら競技していたのもあり、オリンピックでは戦い慣れているW杯とは違い、いつもと同じメンバー(出場選手)でも、マイナー競技も注目してくれるオリンピックは違ったので、その期待には応えられない自分と期待に応えようとしなければいけない自分が大きく出てしまい、嬉しさよりも苦しさの方が大きかったな、と思います。
―ほかの競技を観戦されたりはしましたか?ほかの競技の選手との触れ合いはありましたか?
バイアスロンは種目の数が多いので、大会期間中も競技が点々と散りばめられていて、準備とレースを繰り返している状況だったので、開閉会式も含め他の競技会場に行く時間がありませんでした。特に北京の時は、(コロナ対策で)自分の会場と選手村との間でしか行動ができなかったのもありますし、オリンピックは他の競技を生で観ることはできませんでした。でも、選手村内のテレビで中継を観たりして同じ日本人選手の活躍は目にしていましたし、早稲田のスキー部のOBや現役がたくさん出場していて、13〜14人位の選手とコーチ陣がもっとたくさんいて、早稲田の仲間が多くいたのが心強かったです。
―平昌オリンピックが終わった後北京を目指すにあたりモチベーションになったことはありましたか?
もともと大学卒業後バイアスロンを始めるとき、平昌が絶対!平昌で終わり!と思っていたのですが、その時にやりきれない気持ちの方が大きくて、それと同時にまだまだ試したいことを思いついてしまったので、まだやりたいと思ったのと、あと、その時のチームの状況もあまり良くなくて、このまま辞めるとこの競技のことが嫌いになってしまうな、と思い、選手でいた方が色々と環境を変えやすいと考えたのと、後、平昌が終わった後結婚したのですが、夫にも辞める必要ないんじゃない?と言ってもらえたので続けることができました。
―試したいこととは、具体的に何を思い付かれて、試しましたか?
それまでずっとクロスカントリースキーをしていたので、世界で走りで一桁(の順位)に入りたいと思ったのと、射撃に関しては全然戦えるレベルではなかったので、射撃の命中率を上げたり、早く確実に撃つというところを突き詰めたいなと思っていたところもあり、自分の引き出しを増やしいと思って2021年は海外を拠点に練習したりしました。
―選手村の状況はどんな感じでしたか?
食事についていうと平昌のときは、いろんな国の食事ブースがあってアジア系、イタリアン、アメリカ系など用意してくれていたので、他の国の方々も食べやすかったのかなと思いますが、今回北京はもう中華!という感じであまりおいしくなくて笑。油が疲れた体には重くて、いつも白菜を茹でたものばかり食べていました笑。ただ味の素さんが、選手村のサポートに来てくれていて、メインの期間のところで日本のお米を300キロ持ってきていて、真空パックのお惣菜を温めたものを用意してくれていました。私は2021年の6月から帰国せずそのまま2022年2月の北京を迎えたので、日本のお米が嬉しくて。なので、レース期間はほとんど毎日味の素さんのところで食べていました。
―北京オリンピックはコロナ禍のオリンピックでしたがその点はいかがでしたか?
毎日コロナの検査があって、その検査を受けないと練習会場にもいけずという感じで、自分が陽性になると周りの選手たちが濃厚接触者となり影響が出るという状況で、自分がなってしまうというのも恐怖でしたが、周りの仲間やチームへの影響を出してしまうというのも怖かったです。(結果は大丈夫でした。)
北京オリンピックでの写真、前田さんは前列右