釣りのうんちく話

なりたかった釣師

加藤 恵司

生まれつきかどうか分からないが、何故か泳ぐ魚に、とてつもなく興味が引かれる。母親に手をとられて神社の境内に出る縁日につれて行かれると、脇目もふらず金魚屋の前に行ってしゃがみ込んでしまう。金魚屋には家庭の洗面器よりずっと大きいホウロウ引きの洗面器に、いろいろな形の金魚がちょこちょこ、ゆらゆらと泳いでいる。しばらくすると、母は「もう良いだろう」という。「買ってくれと」は言わなかったそうだが、買うまでは動かない、買えば喜んで歩きだすとか。

帰って洗面器にいれてあげると、かなりの間それをおとなしく眺めて独りで遊んでいる。静かでほっとしていると、そのうちに「パクパクしなくなった」と両手に金魚を握っていたそうだ。これは3歳の浅草にいた頃のことだ。母は「生きた金魚を見ているうちに、口をパクパクさせてるのが不思議で、手にしてしまったのだろう」、「お前は本当に魚が好きなんだねー」と良く話していた。そんな性分のせいか、滅法釣りずきになった。

5歳に夏、江ノ島へ海水浴に行ったときに、小さな手に握れるほどのコトヒキを釣った。 この小さなコトヒキが手のなかで、ゴツゴツと音を立てたのには相当に驚いたようで、ずっと印象にあっただけでなく、それから70年以上経た今日でも、この感触が体から離れない。

2.26事件(1936年)の年、福島の伯母の家に厄介になった。ここには従兄が4人いた。長男の従兄は郵便局勤めていて生き物をとるには残酷だとしなかった。私は、次男について田の細流で魚掬いをした。釣りはまだしなかった。そして帰京後、父に兄と一緒で葛西の池や川口の池にフナ釣り、手長エビ釣りに連れて行ってもらった。

翌年、支那事変(日中戦争)が始まった。この年は、近所の兵隊検査前の好青年が兄や私を釣れて、和泉多摩川ヘヤマベ釣りに連れて行ってくれ、今では全く見られない団子釣りと、子供向きの按摩釣りを教えてくれた。この団子釣りは兄がすっかり覚えて、兄と二人でも数回出掛けた。2歳上の兄は何をやっても直ぐにこなすので、安心してついて歩いた。

一人で釣りに行くようになったのは、小学一年(1938年)である。母に小遣い10銭を貰って、一人で電車に乗って市谷の濠(元江戸城の外堀)に釣りに行った。これが単独釣行の始まりである。いわゆる釣りの自立である。兄がここの釣りに同行しなかったのは、当時この濠は天皇のお膝元ということで禁漁だったので、大人も子供も警察官の目を盗んで釣っていたのだが、潔癖な兄は悪いことだからと行かなかったのだろう。真意は聞いたことは無い。

1938年か翌年には釣りや小倉百人一首を教えてくれた好青年も、甲種合格とかで出征をして中国戦線へ派遣されて行った。1941年には太平洋戦争に突入した。私達の身の回りは、すっかり物不足、不穏な雰囲気になり駄菓子屋の我が家の棚も飴玉、煎餅などみすぼらしい物になっていった。そんな国内でも1943年まではまずまず釣りは出来た。しかし、1944年の晩秋には東京にB29の空爆が始まり釣りどころではなくなった。翌年の3月10日、東京下町の大空襲、十万人が命を落としたそうである。我が家も5月23日に焼かれた。そして、その月のうちに会津の母の実家に疎開して厄介になったのである。

15年戦争が終わり家も焼け出され、食べる物もない、好きな釣りも出来ない。暗黒の時を過ごし、戦争が負けたとしても、これからは家を立て家族で暮らせると思ったとき、貧しくても、飢えさへしなければ、平和な人間らしさで生きようと思った。そして自分の好きな釣りを生涯の趣味に選んだのである。


加藤恵司さんは、東京労釣連の幹部として長期に関わってこられました。この文章は未完成だったようですが、戦前からの体験を綴っておられます。

シロギスつり今昔

東京労釣連は、和竿でシロギスを釣る研究会をやっています。中通し竿を使いますが、同じ中通しのハゼつり竿が江戸時代に制作されたのと違い、明治以降ではないかと言われています。

ハゼの中通し竿の起こりについて、(1943年)発行の「釣魚譜」(大橋青湖著)次の通り記されています。

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「鯊の挽通しの竿(中通し)は、当時の東作の客で平ノ内大隅の発案になったという、(二代目東作が作る)その頃の鯊の中通しは、御家人の内職に抜いたものがあったが、後に竿師においてもするようになったという、中を抜くだけでの手間が二朱だったそうである。」なお、文中の二代目東作は寛永三年(1850年)に初代東作の後を継ぎ、明治10年(1877年)に没している。

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とあります。おそらくキス竿もこの時期以降だと考えられます。また、渡辺書店発行の「釣魚秘傳集」著者大橋青湖 昭和47年10月1日複製版の273ページに

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「鯊には2間の竿を使い、キス類、(おそらくアオギスも含まれると思われますが)長竿は中だるみするゆえ、節を抜いて鉛を入れるとあるのと、差し絵などにある江戸時代のキス釣りは中通しは見あたらないことからおそらく明治以降だと考えられます。

(ただし、資料はいずれも大橋青湖という人の文献が元になっているので、他に資料があればさらに正確性が増すと思われます。


江戸時代の江戸前の海(舟)の釣りは、秋の鯊(ハゼ)釣りと春・秋の鱚(キス)釣が人気であったそうです。釣りの時期は立春から八十八夜過ぎた翌日、陽暦で五月二、三日ごろが春期の始まりだったと記されていますから、現在よりは早めの始まりだったようです。(「八十九日もう鱚を釣りに出る」)

釣り場は、隅田川、中川、利根川、各河川の河口、江戸湾内、三枚洲(江戸川区の葛西海浜公園の沖合いに広がる自然干潟・浅場で大鱚の場所だった)とされています。江戸前の海にどれだけの魚がいたことでしょう。当時は青鱚(アオギス)つりも盛んにおこなわれ、「たち込みづり」と呼ばれ、干潮の時に遠浅の沖に行けるところまで行き、腿の付け根まで海水に浸り、上げ潮の潮脚にあわせて、あとずさりに釣りあがる」やりかたでした。もっと深いところでは「高き履をはき杖をついて、水中に入りて釣ることあり、その杖の先は鉄の二俣のやす也」というやり方と、「脚立を海中に置いて腰かけて釣る」方法があり、脚立づりの方は明治になってから流行したとのことです。春は鱚が産卵のため浅場にきているので、「のぞきづり」というくらい静かに釣らないと逃げてしまうと、注意をして釣っていました。(「大海へ気を詰めにでる鱚釣師」「やはら取り鱚の当りをくやしがり」)江戸地方の鱚は、青鱚、白鱚と虎鱚(ハゼに少し似た黒白の虎斑がある)が「つりもの」となっていたようで、青鱚は俗に川鱚と呼ばれていたと記されています。

東京労釣連の研究会の釣りは、三浦半島の金田湾でやっていますが、和舟を艪で漕ぐ船頭さんが少なくなって、小人数の取り組みになっています。江戸の鱚釣の図では延べ竿のようです。


日本で最初の魚釣りガイドブック「何羨録(かせんろく)」から

武将として釣りの楽しさを最初に発見したのは伊達政宗。家臣を連れてハゼ釣りに明け暮れていた。五代将軍綱吉による「生類憐みの令」で十数年間ほど禁止されますが、やがて庶民の間にも浸透して入門書も出版されるようになりました。注目すべきは当初から女性も釣りの面白さを知り、大名の婦人や姫君、旗本の奥方も釣糸を垂れていたのだとか。https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_87460/

清掃は釣り人のしごとでもあり

江戸時代もゴミがあったのは、釣り人が汚したから?

水産庁の「遊漁の基本ルールとマナー」とは

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