1891年(明治24年)
白幡、根岸、文蔵、辻、沼影、別所の6村が合併し、六辻村 となる
1938年(昭和13年)
町制施行により、六辻町となる
1942年(昭和17年)
六辻町を浦和市に合併する
2003年(平成15年)
さいたま市が政令都市に、南区誕生
歴史をさかのぼると、江戸時代の地方汎例録(農政書)によれば、辻・根岸には江戸日本橋を基点とした木曾街道に繋がる中山道が走り、慶長年間、奉行大久保石見守は江戸より諸国道中へ一里塚を築かせ、ここに榎を植えたと記されています。現在、辻7丁目の旧中山道沿いには一里塚の記念碑が建立されています。
更に北へ進むと、間もなく宿場として栄えた浦和宿に至るのですが、中山道を通る旅人が、荒川を渡って蕨宿を過ぎると最初につきあたる難所の坂が焼米坂で、この中腹に焼米を売る店がありました。
旅人が一時の空腹のしのぎや、茶うけとして立ち寄ったことから、いつの間にか焼米坂という呼び名が定着したようで、現在の南浦和小学校東側の旧中山道沿いに焼米坂の記念碑が建立されています。
このように、中山道を旅人が往き来した当時を偲ばせるような記念碑や店構えの家を随所に見ることができます。
時は流れ、享保年間に入ると徳川吉宗は、財政再建の一つとして米の増産を図りました。これが即ち新田開発です。吉宗は、紀州から土木・治水の技術者、井沢弥惣兵衛為永を招き、見沼溜井の水を廃止して新田(現見沼田んぼ)を作り、同時に行田の利根川から代用水路の掘削を開始、菖蒲町を経て上尾市瓦葺で東縁・西縁のこ本に分岐し、更に、さいたま市東部の台地の裾野を流れる見沼代用水路を完成させて、利根川から取水を始めました。六辻地区の水田を潤す見沼代用水は西縁の支流で.総延長60kmに及びます。
因みに、かつての六辻地区は浦和の穀倉といわれた米どころで、見沼代用水を灌概用水として数百町歩(ヘクタール)に及ぶ米作が昭和40年代まで続けられていました。しかし、昭和36年には南浦和駅の開設、同48年の武蔵野線の開通、また、同60年には埼京線に続いて平成4年には外環道の開通等、幾多の変革を経て、周辺地城の都市基盤も急速に整備されました。そのため、小・中・高等学校・公民館等の新設は申すに及ばず、住宅・商店・企業等の中高層建物も急増し、人口も著しい増加へと推移しています。
このように発展を遂げるなかで、見わたす限りの水田も年々減少の一途を辿り、ついに昭和60年代になると殆ど水田の光景が見られなくなりました。そのため、約260年もの間、灌概用水として役割を果たしてきた歴史ある見沼代用水路も、いよいよ終焉となり平成3年2月には旧浦和市の施工により、文蔵を基点とした総延長2,400mの「うるおいゾーン」「にぎわいゾーン」「せせらぎゾーン」として区分されたみどり豊かな六辻水辺公園に生まれ変わり、老若男女の憩いの場として多目的に利用されています。