あえて置かれたかのように出土するモノは、時代を問わずさまざまな遺跡から発見されます。

ポツンとあらわれたり、ときに数多くまとまっていたり・・・。

落とし物? 忘れ物? マツリに使った?

まだ使えるものがそこに残された理由はなんだったのでしょうか。

いくつかの事例から探ってみましょう。

入れ子の文土器

縄文土器 深鉢(2点)

縄文時代中期前半 TN No.520遺跡(稲城市若葉台

左が入れ子の外側、右が内側になっていたもの

この2つの土器は、ムラの片隅に入れ子の状態で横たわって発見されました。
出土した様子から、その場に置いたものが倒れたような状況が見て取れます。

2つの土器はいずれも同じ時期のものですが、形や模様がまるで違います。
デコボコした土器をわざわざ重ねるのは大変そうですが、どんな理由があったのでしょうか?

出土したときの様子
出土状況図(上が俯瞰、下は断面図)
TN No.520遺跡 
発掘された縄文時代中期の竪穴住居跡群
(写真の「★」は入れ子の縄文土器が発見された場所)

居のスミから...

縄文土器 深鉢

縄文時代中期前半 TN No.471遺跡(稲城市若葉台)

この縄文土器は、竪穴住居跡の南の壁際にやや扁平な台石と並んで横たえられていました。

壁際に大きな石だけが置かれた例はこの集落のほかの住居跡からも確認されており、なんらかの決まりごとがあった可能性もあります。
しかし石と一緒に土器が出土したのはこの住居跡だけ。
何か特別な理由があったのでしょうか?

TN No.471遺跡 25号住居跡
(住居右端中央が土器と台石)
床面に置かれた台石と土器

土器合!

土師器(はじき) 坏(つき)

古墳時代後期 TN No.939遺跡(町田市小山ヶ岡

重ねられて倒れた状態で出土した坏
K26号住居跡 貯蔵穴の周辺から出土した土器たち

展示の坏たちは、古墳時代後期の竪穴住居跡の貯蔵穴周辺からまとまって出土しました。

同じ場所から鉢や甕(かめ)、甑(こしき)も見つかっており、当時の生活で使われていた土器の組み合わせを表しています。

重ねられた坏は、住居内での収納の様子を物語っているのかもしれません。

古墳時代後期は、住居の貯蔵穴周辺から大量に土器が出土する例がしばしば見られ、この時期特有の習慣と考えられています。出土状況からみて、本例も意図的に置き去りにされたものと推測できます。

K26号住居跡(平安時代の竪穴住居跡と重複)
TN No.939遺跡 K26号住居跡 貯蔵穴の周辺に置かれた土器 全体出土状況

縄文人のれ物?

打製石斧

縄文時代中期後半 TN No.939遺跡(町田市小山ヶ岡)

竪穴住居に置き去られた打製石斧たち

この打製石斧たちは、縄文時代の竪穴住居跡の一角に10点以上がまとまって見つかりました。床面から少し高い位置で検出されていて、住居跡が埋まり始めてすぐに置かれたようです。刃が欠けているものもあり、実際に使われた石器と考えてよいでしょう。

古墳時代の人が土器一式を家に置き去りにしたように、縄文人は石斧を置いていきました。
3,000年以上の時間差のある古墳時代と縄文時代。
同じような行動をとったのはなぜなのでしょうか?

TN No.939遺跡 J11号住居跡
(〇で囲っているのが打製石斧の出土した場所)
打製石斧 出土状態

のでかた

土偶

縄文時代後期前半 平尾 No.9 遺跡(稲城市平尾

この土偶は、多摩ニュータウン地域にほど近い平尾No.9遺跡(稲城市平尾)の縄文時代後期の住居跡から見つかりました。

上段にある完形の土偶は、住居跡の床面からみつかり、1.5m離れた上半身と下半身が接合したものです。住居を廃絶した時のお祈りに使われたのでしょうか。あえて二つに割って置いたように見て取れます。

土偶は祭祀のための道具と考えられていますが、詳しいことはわかっていません。どのような場所、どのような状態で出土したのかを記録することで、「土偶ってなに?」という疑問を解き明かす大きなヒントが得られるかもしれません。

(左: 正面、右:裏面)

平尾No.9遺跡 6号住居跡(〇で囲っているのが土偶の出土場所)
壁際の床面に上半身と下半身が離れて置かれた土偶

多摩丘陵の一角にある平尾No.9遺跡は、多摩ニュータウン地域の南東側に近接します。


多摩ニュータウン遺跡群の調査開始と同じ時期の昭和42年に調査され、当センターに出土品と記録類の一部が保管されています。