埋める
遺跡の発掘現場では、多くの「埋められた」モノが見つかります。ひとはなぜものを「埋める」のでしょうか?
ここでは、
1) 建物など施設の部材として「埋める」
2) 儀礼や葬儀などに関連して「埋める」
という2つのシチュエーションをご紹介します。なぜ「埋められたのか」、みなさんも考えてみてください。
「部材」として埋める
現代においてもコンクリートなどを建物の基礎として埋めるように、昔の人びともいろいろなモノを部材として地面に埋めていました。
ここでは炉の構築材として縄文土器を埋めた例と、瓦窯を補強するために同じ窯で焼かれた瓦を壁に埋め込んだ例を紹介します。
縄文土器 深鉢
縄文時代中期前半 TN No.67遺跡(八王子市大塚)
炉の囲いとして用いるために、胴の中央部以下を打ち欠いた状態で埋められていました。
土器の内部には焼けた土が詰まっており、火の使用をよく物語っています。
このように、縄文時代に土器を埋めて作られた炉を埋甕炉(まいようろ)と呼びます。
平瓦(格子叩き)
奈良時代 TN No.944遺跡(町田市小山ヶ丘)
この瓦は、窯の壁に塗り込まれた状態で出土しました。
壁面の補修のために、同じ窯で焼損じた瓦を用いたようです。
瓦には様々な種類がありますが、垂直な壁面に合わせて、形の適した平瓦が選ばれたようです。
「祈り」として埋める
人がモノを埋めるのは実用のためだけではありません。
人の誕生(胞衣皿)、死(蔵骨器、六道銭、甕棺墓)、あるいは様々な信仰の機会(カワラケ、礫石経)に、祈りを込めていろいろなモノが埋められました。
現在より生きることが厳しかった時代。
埋められたモノからは、人々の幸福を求める強い思いも読み取ることができます。
礫石経
江戸時代 TN No.435遺跡(八王子市堀之内)
中世末から江戸時代にかけて、小さな川原石等に仏典の文字を書いて土中に埋めることで功徳を得ようとする風習がありました。埋められた石を礫石経・経石・一字一石経等と呼びます。
これらの遺物は尾根上に並ぶ9基の塚のひとつから出土しました。中には、陶器片に文字が書かれたものもあります。
土器皿(胞衣容器)
江戸時代 TN No.105遺跡(八王子市越野)
新生児の健康を祈るため、胞衣(えな。へその緒を含む胎盤)を二枚の素焼きの皿を合わせた中に納めて埋めたものです。
主に家の出入口付近に埋めることが多く、この土器皿も戸口そばの浅い土坑から見つかりました。上下の皿ともまじないのための文字や記号が墨書で書かれています。
土器皿
江戸時代 TN No.474遺跡(稲城市若葉台)
尾根上に2つ並んだ塚のひとつ(1号塚)から出土しました。
出土状況から、塚の築造に先立って土器皿(カワラケ)を置いたものと考えられ、塚の造営にまつわる祭祀の一つだったようです。
土師器(はじき) 坏(つき)・甕(かめ)(蔵骨器)
平安時代 TN No.5遺跡(稲城市長峰)
尾根筋の南斜面に浅い掘り込みを設けて埋められていました。いずれも土師器で、甕に火葬骨を納め坏で蓋をしています。
甕の内部には、焼く前にヘラでI字やX字のような記号が刻まれています。何らかの呪術的な意味があったものと思われ、この甕はもともと蔵骨器として製作されたものかもしれません。
甕の内部に刻まれた文様
銭貨(六道銭)
① 室町時代~江戸時代初頭 TN No.457遺跡(多摩市鶴牧)
② 江戸時代末以降 TN No.230遺跡(町田市小山)
室町時代以降、墓の中に銭貨を副葬する習わしが広まりました。三途の川の渡し賃と言われ、六道銭(りくどうせん)と呼ばれます。
ここに挙げた2組の六道銭のうち、左のものは中世に流通した中国の宋銭・明銭のみを含み、それに対して右のものは寛永通宝および幕末に発行された文久永宝という江戸時代の銭貨で構成されています。
左は15世紀半ば以降の室町時代、右は幕末~明治にかけて副葬されたものと考えられ、長い期間に渡って行われた風習であることがわかります。
八王子市の宇津木台遺跡群では、現行の10円玉が含まれている例も見つかっています。
深鉢(甕棺)
縄文時代中期後半 TN No.72遺跡(八王子市堀之内)
この土器は口縁を打ち欠いた上で上下二つに打ち割られ、底部にも穴が開けられていました。
内部には骨粉が残存していたことから、土坑に人骨を収めた上で大きな深鉢を逆さに被せたものと考えられます。
甕棺墓 調査の流れ
4.土器内部の土層堆積状況をさらに確認する。
「埋める」→「置く」→「置く」
このコーナーには、平安時代の竪穴住居跡から出土したモノを展示しています。
しかし、その来歴はさまざま。
甕はカマドに「埋められ」ていたのに対し、坏・横瓶・鉄斧は使われなくなった住居に「置かれ」ていました。
さらに、坏と横瓶・鉄斧とでは置かれた時期が違います。
竪穴住居が建てられ、住まれ、捨てられ、そして埋まりきるまでの時間のなかで、昔の人びとはさまざまな活動を行っていました。
ただ掘り出されたモノを見るだけではなかなか想像がつかないそうした活動の一つ一つを、現場の記録から読み取ってみましょう。
カマドに用いられた土器
土師器 甕
平安時代 TN No.938遺跡(町田市小山ヶ丘)
調理施設としてのカマドは、古墳時代に朝鮮半島から伝来しました。その多くは粘土によって構築されますが、骨組みとして石や土器、瓦などが用いられることもあります。
ここに展示した甕は、TN No.938遺跡4号住居跡のカマドから出土したものです。底部に穴を開けたり、下半部を打ち欠いたりした上で重ねられ、煙道部(煙出し)の構築材として用いられていました。
カマドに置かれた坏
土師器 坏
平安時代 TN No.512遺跡(八王子市松木)
この3点の坏は、竪穴住居跡のカマドの中から見つかりました。左の2点は甕を支える支脚の上に伏せた状態で重ねられ、右の1点はその奥に置かれたように出土しています。カマドの埋まり方をみると、これら3点の坏はいずれもカマドを壊したあとすぐに置かれていたようです。
古来よりカマドには火を司る荒神が宿ると考えられ、その廃絶に際して何らかの儀礼が行われた民俗例もあります。本例もこのようなカマド祭祀の一つと考えられます。
住居廃絶の儀礼?
須恵器 横瓶(上)・鉄斧(下)
平安時代 TN No.512遺跡(八王子市松木)
展示した横瓶と鉄斧も、坏と同じ竪穴住居跡から出土しました。しかし先ほどとは状況が少し違います。これら2点は住居跡が少し埋まった段階で置かれており、単に家の廃絶儀礼に伴うものとも言い切れません。それでは、ほかにどのような行為を読み取ることができるでしょうか?
この住居があったムラは、とても見晴らしの良い尾根上に立地しています。山岳信仰にまつわる儀礼や祭祀の場として、埋まりかけた住居跡が利用された可能性も考えられます。