現場では時折、特定の場所からおびただしい量の遺物が出土することがあります。
家のそばの水路や斜面、使わなくなった竪穴住居、やきものの窯などから集中して出土するモノ。
一見捨てられたゴミにも見えますが、なかにはまだ使えそうな土器や石器もザクザク!
ここでは、昔の人びとがその場にモノを大量に残した理由を考えてみましょう。
江戸時代~現代 TN No.243・244遺跡(町田市小山ヶ丘)
江戸時代からおよそ400年にわたって営まれていた多摩のとある村落。
水田のわきを流れる水路から、色とりどりの陶磁器が大量に出土しました。
江戸から昭和までの多種多様な生活道具が詰まったこの水路。
どうやら長年にわたって村のゴミ捨て場になっていたようです。
縄文時代中期前半 TN No.245遺跡(稲城市若葉台)
竪穴住居は、その役目を終えると竪穴住居「跡」になります。
こうした竪穴住居跡からも、しばしば大量の遺物が出土します。
なかには、たくさんのカケラに混じって、投げ捨てられたかのように横たわる土器も…
ここに展示した土器や石器は、TN No.245遺跡の33号住居跡という一つの竪穴住居跡から出土したものです。
先住者の記憶を伝える竪穴住居跡。
その場所に、縄文人はどんな思いで土器や石器を持ち込んでいたのでしょうか?
発掘調査が終わった33号住居跡。
直径約4.9m、深さ約80cmの円形の住居跡のなかには、土器や石器のカケラが約7,000点も詰まっていました。
住居跡を少し掘り下げるとすぐに、たくさんの遺物が出土しました。
土器や石器の持ち込みは住居跡が埋まりきるまで連綿と続いていたようです。
出土した位置の違いから、33号住居跡が埋まっていくさまざまな段階で遺物が持ち込まれたことがわかります。
住居跡が半分くらい埋まったときに、大量の土器が一斉に投棄されています。
住居床面に置かれた有孔鍔付土器が、土圧の影響で潰れて出土しています。
この土器の中には、白色の粘土が入っていました。
床面で出土した磨製石斧
住居の床面では、破損した磨製石斧も数点出土しました。
引っ越しの際に置き去りにされたのでしょうか。
この窯には、焼き上がった須恵器が多く残されていました。
完成したやきものは人の手にわたり使用されるはずですが、一体なぜでしょうか?
出土した須恵器はほとんどが割れていますが、それらの破片の中には、窯の底に敷かれていたり、窯の壁に塗り込められたりと、窯の構築材として使われたものが多くあります。
製品として流通しなかった須恵器にも、大切な役割があったようです。
窯の底面から出土した大量の須恵器の破片
窯の壁面に塗り込められた須恵器と瓦
多摩ニュータウン遺跡群では、TN No.342遺跡、TN No.446遺跡、TN No.513遺跡という三つの遺跡で武蔵国分寺創建以前の大規模な須恵器窯が見つかっています。
このうちTN No. 446遺跡では、1・2号須恵器窯より7世紀末から8世紀初頭と考えられる須恵器が大量に出土しました。
出土した須恵器は、坏身、坏蓋、高盤、平瓶、横瓶、甕など器種が豊富で、その作りは当時須恵器生産の一大拠点であった東海地域とよく類似しています。
古墳時代後期~奈良時代 TN No.446遺跡(八王子市東中野)