本章は以下の4章構成で展開する。
嘘
恋愛主義においては、セックスや結婚は恋愛ありきのものとされている。しかし、結婚相手を探すときに、衝動的で向こう見ずな「好き」という気持ちだけで突き進むことのできる人は、現在どれだけいるだろうか。そう多くはあるまい。多数派は相手の性格・容姿・社会的地位などを十分吟味して、自分が「恋愛」する相手を決定している。もしくは、突発的に始まった関係性を続けるか否か、冷静に考え「恋愛」を続けるべきかどうか考えている。このように、現在の結婚は「恋愛」という名目で行われる半ば合理的なマッチングである。つまり、社会は恋愛結婚主義の建前を持ちつつ、実際には別の論理によって動いているのである。ここに、恋愛主義の嘘がある。
夢
恋愛主義を建前としつつ、実際には別の論理によるマッチングで家族を作り出す構造を「偽恋愛主義システム」と名付けよう。なぜ、人間はこのようなシステムを作ってしまったのかといえば、それは近代社会が個人主義と産業資本主義を両輪として駆動する社会だからである。個人主義とはすなわち自由主義であり民主主義である。我々は結婚やセックスを個人本位で自由に決めることになっている。原始社会ではムラによるセックスのイニシエーションがあったり、イエによる結婚の取り決めなどがあったりしたが、個人主義において家族は私的領域であり、そこへの政治の介入は許されない。市場原理が働くのもダメである。そこで白羽の矢が立ったのが、偶然性や個人性に支えられた恋愛という感情であった。恋愛によって結婚が決定される場合、その結婚は完璧に個人によってあらゆるものから自由に決定されたと信じることができる。近代的自我とは恋愛する自我なのである。
しかし、一方で近代社会は利益追求を目指す産業資本主義も存在している。私たちは経済合理的に動くインセンティブを持っている。また市場も、次世代の労働力が家族から提供され、使用済みの労働力は家族に戻すのである以上、ある程度合理的に家族がつくられ続ける必要がある。すると、恋愛のような不確定で非合理的なマッチングはできるだけ排除したいという力学が働く。
一方では恋愛結婚を理想化し、一方では経済合理的なマッチングを促す力が働いている。この狭間で、社会は恋愛主義という夢と、合理的なマッチングという現実を作り出し、人々は偽恋愛を恋愛であると信じ続ける「偽恋愛主義システム」が生まれたのである。
近代社会が誕生した18世紀後半以来、恋愛思想はこの狭間を揺れ動いてきた。
原近代
しかし、我々は徐々に、偽恋愛主義システムの限界に気づき始めている。少子化の最も大きな要因は未婚率の上昇であるということは、今日では珍しい考察ではない。若者の「恋愛離れ」とは、その前の世代がやっていた偽恋愛を偽恋愛だと見抜いているだけのことであって、前の世代が恋愛を盛んにしていたというのはそれが「恋愛」だと信じ込んでいただけにすぎない。現在までどの世代においても、恋愛が主流になったことなどないのだ。マーケッターの牛窪恵が『恋愛結婚の終焉』を書いたのも記憶に新しい。私たちは恋愛の嘘に気づき、恋愛主義の夢から醒めつつあるのだ。
当然、我々は近代のシステムそのものを乗り越えることはできない。しかし、近代の構造の中で恋愛システムが変わることは十分ありうる。この記事では2つの未来のシナリオを描く。
一つ目が原(プロト)近代への回帰である。というのも、近代国家の原型はそもそも、17世紀アメリカのピューリタン植民地が、宗教ボランティア集団を改造して作ったものであり、近代は同質性の高い自発的な結社が複数存在し、その間を個人が移動できることによって生まれた。現在の恋愛の難しさはコミュニティが無限に広いばかりにかえって出会いが難しくなるという点にあるが、個人主義を前提としつつも自発的に共同体が林立している状態に社会が回帰する場合、私たちのマッチングはその比較的小さな社会内部の問題に収斂し、一緒に仕事する中で適当な人と結婚するというような、気楽なマッチングに回帰するかもしれない。フランスにおいては現在このような気軽で適当なマッチングが主流である。これがプロト近代への恋愛の回帰である。
眠り
もしくは、私たちは眠り続けるかもしれない。自分が見ているのが夢だということになかば気づきながらも、体を起こしたくない、現実に戻りたくないばかりに、夢を現実だと信じ続ける。そんな風な未来はありうる。
現在の問題は未婚である。少子化が進行すれば、労働力が減り、消費が減る。困るのは市場である。そのために移民を増やすことを切望する企業もある。その是非はおいておいて、市場にとってやはり望ましいのは家族が生まれ続けることなのである。問題解決のために、マッチングの研究や街コンの研究などが進められている。すると、理論や技術の進化によって、偽恋愛システムは加速し、大多数の人がもっと効率的に結婚マッチングを遂行しつつ、その構造を「恋愛」だと信じて疑わない社会が来るかもしれない。ここに、偽恋愛システムが発展し完璧となった「修正恋愛主義システム」が誕生するのである。
奢る奢られ論争
AV女優の深田えいみのポストによって、世間で一時、デートにおいて男性は女性に必ず奢るべきなのかという議論が起こった。そのポストの内容が以下である。
「デート代、なんで男が払わなくちゃいけないのって言葉。女性はそのデートの為に準備して、洋服、メイク、美容代も入ってると思う。全部安くない。リップだってブランドなら4000円はする。」(*一部、句読点を挿入しました。)
これに対して、絶対に奢りたくない男や、奢らなくてもいいという女や、奢ると言い張る男や、奢れと言い張る女などが出てきて、世間は賑わった。
しかし、ロマン主義の小説なんて愛のために死ぬ訳だから、奢るとか化粧品が高いだとか言って論争しているのをゲーテやスタンダールなんかが見たら、開いた口が塞がらないんじゃないだろうか。
男が相手に心の底から惚れているなら、その男に奢る以外の選択肢はないだろう。女にしても、相手のことを寝ても覚めても思い出すほど恋しているなら、その日のためにかかった化粧代などどうして気にすることがあろうか。つまり、こんな論争をしている時点で、このデートに行っている男女二人は端から恋愛などしていないのである。
この種の「恋愛」が今日の偽恋愛である。奢る奢られ論争が多くの人間を巻き込んで議論になったことから、この種の「恋愛」が世に溢れていることが読み取れる。
深田の、デートの準備代が返還されるべきだという発想は、交換という発想である。対して、男が女に夢中になってデート代を払ったとすれば、それは贈与である。贈与と交換の違いは恋愛と偽恋愛を差別化する大きな基準の一つかもしれない。余談だが、宮台真司がデートにおいて贈与することで相手に「お返し」をする義務が生まれると語っており、これはモースの『贈与論』の議論のことを言っているのだと思うが、それは本来的に相いれない部族間において贈与が返礼を言外に義務付けるという話であって、好きな相手に送ったものに関して返礼を求めるのは勝手な思い込みである。それで実際に返礼がなくて怒り出すと逆恨みになるわけで、モテ男を自認する宮台にはプレゼントを贈って返礼をもらえなかった男の気持ちなど理解できないのだろう。
最近流行りの岩尾俊平の『世界は経営でできている』にある価値創造による恋愛の好循環というのも、交換によって価値を相殺する論理ではなく、開かれた贈与による価値の循環によって生が豊かになるという話である。恋愛における奢りとは、その行為そのものに贈与としての価値があるのである。
一方で、深田の論理は交換であり、言ってみれば価値の相殺である。「綺麗な自分を見せている分、私は奢られるべきである」や「奢ったのだから、ホテルに誘っても良い」という論理では、一つ一つの価値は相殺され、資本主義の論理に吸収されてしまっている。これは、岩尾的に言えば価値創造にはならないということじゃないだろうか。
芸能人が、しばしば深田の論理をデートでもなんでもない男女の食事に当てはめてトンチンカンなことを言っていたが、深田は「デート代」としっかり明記しているので、想定されているのは「恋愛」中もしくは将来的に「恋愛」する可能性がある二人である。つまり、この二人はこの「恋愛」を理由にセックスし、もしかしたら結婚にまで進むかもしれないのである。しかし、デートのたびに等価交換しなければ保たれないような関係は、贈与を前提とした恋愛とは違うナニカであり、言ってしまえば偽恋愛の一種である。
偽恋愛だから悪いと言いたいのではない。むしろ、この関係性が偽恋愛であると心の底ではわかっているからこそ、深田えいみはこのように発言するのだし、一定数の人間が同調するのである。また、そんな偽恋愛を受け入れられないロマンチック男が「奢らせるような女とは食事に行かない!」というのであり、交換という発想を敏感に察知した売春婦を見下す女は「私は自立した女性だから、自分のものは自分で払う」などというのである。
21世紀の恋愛主義
現代社会は恋愛主義である。恋愛主義とは、恋愛をしなければセックスにも結婚にも進めない社会のことである。恋愛による結婚というのは18世紀末に政治的ロマン主義が生んだイデオロギーである。しかし、ロマン主義恋愛というのは、偶然事故的に発生する激しい破壊衝動のような恋愛感情であり、全ての人にそれが来るわけではない。しかし、近代が深化して個人主義が強力になると、どうしても恋愛結婚が必要となった。日本が恋愛結婚至上主義に突入したのは1970年代である。そこで、我々は「恋愛」らしい何かを行うことによって、セックスや結婚を可能にさせた。そして生まれたのが現在の「偽恋愛システム」である。
恋愛と偽恋愛の違いを簡単に書けば、「恋愛しようとも思ってなかったのに止めようもなく恋に落ちてしまった!」という恋愛が恋愛で、「恋愛してみたい、童貞喪失したい、あ、この人可愛い、この人と恋愛しよう!」という探しに行くような恋愛が偽恋愛である。偽恋愛というのは本記事の用語なので、「偽恋愛も恋愛だ」という人がいても、別にいい。そこで争うとややこしいことになる。
ところで、その偽恋愛すらままならない人間も存在する。まあ、私もその一人なのだが、全ての人間が偽恋愛できることを前提としている現代社会はシステムエラーを抱えているということを書いたのが去年の論考「22世紀の恋愛主義」なのである。
恋愛結婚以前の日本は、お見合い結婚がほとんどであった。お見合いのシステムは『細雪』などを読めばよくわかるが(これは上流階層のお見合いではあるのだが)、両家をつなぐ仲裁役がおり写真や年収などの基本情報が交わされ、良さそうならば、本家が相手の家を興信所などを使って調べ、評判や病気などを見て問題がなければ、家族同士でまず対面し、やがて2人きりで話したりなどしつつ、両家と本人の同意が揃って結婚に至る。
お見合いのシステムに任せておけば、一生懸命今日を生きているだけで、釣り合う相手と結婚するチャンスがやってきたのが過去の日本である。しかし、時代は個人主義であるし、お見合いが女性をイエからイエに移す家父長制的な制度だったことも考えると、戦後民主主義日本において、これが徐々に解体されたのは必然であった。60年代後半のマルクス主義フェミニズムも家族が市場論理から解放されることを訴えた。ここにおいて、結婚は家柄や社会的地位を超えた個人同士の自主的な決定によって創造されなければならなくなったのである。そこで、社会は恋愛結婚至上主義に舵を切った。
しかし、たとえば、マッチングアプリで恋人を探す場合、まず写真と年齢がやりとりされ、セックスするだけであればこの情報だけで一旦会うことにし「恋愛」する。結婚を目指す場合には、年収や社会的地位によってさらに絞り込み、「恋愛」可能か会って確かめてみる。しかし、これは、お見合いのプロセスを雑に自分でなぞっているだけではないのか。結婚相談所などは、お見合いのプロセスを外部化し、ビジネス化したものであるし、婚活アプリは簡易的なお見合いプロセスをアルゴリズムやAIに任せるものである。お見合い結婚がなくなったのは、都市化や核家族化によって、家族のつながりが希薄になったためでもあるのだが、しかし、高い精度で行われていたお見合いというマッチングが消え、代わりにそれを自分で行い、さらにそれを恋愛ということにしなければならなくなったというのでは、そりゃ未婚が増えるわけである。
このように、21世紀の恋愛主義とは、社会が持つ恋愛結婚という嘘の代償を、各人が請け負って偽恋愛をさせられているが、実際には各人がお見合いに相当する結婚判断を自己本位で行い自分で責任を持たなければならないという、恐ろしい構造を持っているのである。
恋愛主義の倫理と資本主義の精神
恋愛結婚の理想自体は、何も1960年代に生まれたものではない。その起源は、やはり18世紀末にある。ルソーの『新エロイーズ』や『エミール』(第五章)ゲーテ『若きウェルテルの悩み』などで、恋愛の優位が歌われた。
また、社会学では、ロマンチック・ラブ・イデオロギーと呼ばれている恋愛・セックス・結婚が三位一体となった恋愛結婚主義が社会に浸透したのは、19世紀中頃であるとされている。
実は、19世紀中頃に生まれたものがもう一つある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に以下のような部分があるのである。
前世紀の半ばまでの問屋商人の生活は、少なくとも大陸の繊維工業のいくつかの部門では、今日の私たちの観念からすると、かなりゆっくりしたものだった。(中略)こうした転換を引き起したのは通常は、新たな貨幣の流入などではなく──私の知る多くの事例では、親族から借り入れた数千そこそこの資本でこの革命過程の全てが完成された──、新たな精神、すなわち「近代資本主義の精神」が侵入したことだった。
(大塚訳 76-77ページ)
ウェーバーは20世紀の人なので、「前世紀の半ば」とは19世紀中頃のことである。というわけで、驚くべきことに恋愛結婚主義と資本主義の精神は同時期に発生しているのである。
しかし、これはまあ、ある意味当然なのである。本章ではその理由を説明しよう。
社会は恋愛を夢見る
近代社会は2つの大きな制度を持っている。1つは産業資本主義という経済制度であり、もう1つは民主主義による社会制御という政治制度である。
産業資本主義とは、簡単に言えば利益追求を目指して駆動するシステムのことであり、民主主義とは各個人が主体的に政治判断を行い全体として物事を決めるというシステムである。
産業資本主義が生まれたのは18世紀後半の産業革命以降である。また、民主主義の理想も18世紀後半のアメリカ独立やフランス革命によって準備されたものであり、その少し前の啓蒙主義や政治的ロマン主義を裏付けとするものである。フランスでは革命後のことを「近代」と呼ぶと明確に決まっているが、まさに近代社会のこの両輪は18世紀後半に同時発生し、19世紀に深化していくこととなった。
利益追求が行きすぎた結果、産業革命は労働問題や環境問題を引き起こした。子供達が悪質な条件の下で働かされて死んでいったが、これはいくらでも新たな労働力があったからできた荒技だったのである。少し前の天然資源に対する考え方に似ている。新たな労働力というのは、労働者の家族から生み出される。搾取を非難した『資本論』で、マルクスは労働力の再生産に関して「資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己保存本能と生殖本能にまかせておくことができる」と書いている。つまり、マルクスは労働者は放っておいても勝手にセックスして子供を作りまくってくれるので、資本家はそれを放置しておいて良かったと言っているのだ。しかし、実際には資本家は、労働者が過不足なく次世代の労働力を作り出してくれるのが一番嬉しいのであり、労働者の方も本能に任せて子供を作りまくっていたのではなく、自分の老後や現状の家計負担などを考慮して避妊することもあった。その過程で、産業社会に有利だったロマンチック・ラブ・イデオロギーが自明となったと山田昌弘なんかは書いているが、私にはその論理はイマイチ理解できない。
一方、近代社会には独立した個人が自由に判断し行動するという市民社会の前提というのがあり、このもとで民主主義が機能するという理想がある。すると、市場の論理に従った効率の良い結婚や、親が政略的に決定する結婚などは、自由な個人を無視した野蛮な結婚ということになるのである。その点、恋愛は身分を超えるし、その人自身にのみ訪れる特別な感情であるので、個人主義の理想に叶う。すると、恋愛結婚は近代社会の理想の片翼を担うことになるのである。
このように、近代社会の両輪:産業資本主義と個人主義が、それぞれ合理的な結婚の理想と恋愛結婚の理想の二つを作り上げる。その結果、ある程度合理的である程度恋愛っぽい現代の偽恋愛システムが誕生するのである。
実は、我々の恋愛思想は18世紀後半以降、常にこの2つの思想の間を歩んできた。それを以下で簡単に見ていこう。
政治的ロマン主義
18世紀後半の恋愛論の金字塔は、ルソーの『新エロイーズ』である。これは19世紀の大ベストセラーであり、恋愛結婚の理想を世に広めた。内容だが、身分の低いサン=ブルーは貴族の令嬢ジュリーと愛し合っているにも関わらず結婚できない。しかし、やがてジュリーがヴォルマールと結婚したのちにその家族と共生をはじめ、過ちを犯すことなく、ユートピア的共同体を築くという話である。
貴族が平民との結婚を拒むのは、もちろん格調を重んじるという心理的な面もあるが、財産や特権を守るという経済的な理由が大きいだろう。平民には比較的守るものがないので、サン=ブルーにとって恋愛は自明の理だったのかもしれないが、貴族には恋愛結婚を明確に拒絶する力学が働いていた。ルソーの理想は『社会契約論』にあるように、民主主義だったわけなので、貴族の論理とルソーの論理の対決は、資本主義的合理性と個人主義的理想の対決、つまり合理的結婚の現実と恋愛主義の夢の対比そのものなのである。
ルソーの死後、フランス革命が起こる。ここにおいて、封建的特権は廃止され、階級は消滅した。しかし、これによって新たな階級闘争が生まれた。ブルジョワと労働者である。そして、ブルジョワにはまた新たに、生産手段である資本を守りたいという望みが生まれ、お見合いへのインセンティブが生まれる。対する労働者はやはり労働力以外に持つものはないので、結婚は自由に開かれる。だから、バルザックやゾラの小説では、貴族は正妻を差し置いて売春婦と恋愛し、労働者は市民と恋愛結婚するのである。
19世紀中頃、革命の影響下に生み出されたロマン主義的歴史学の中で、歴史家ジュール・ミシュレは「 《社会》は 《家庭》に支えられ、 その《家庭》が 《愛》に支えられている以上、結局《愛》が全てに先行しているのだ。」などという分析を行なっている。ミシュレは歴史を作ったのは民衆であり、民衆は恋愛によって動いていると考えていたわけである。このミシュレの分析からも、19世紀の労働者が愛に支えられた家族形成を行なっていたことが垣間見える。同様に、農村においては同時期の作家ジョルジュ・サンドの牧歌小説(le roman champêtre)に、恋愛が結婚の原理として描かれている。サンドは社会主義者であるので、次章の内容とも接続する。
このように、19世紀には、金持ちとその他でまた新しい結婚形式の分化が起こったが、20世紀には再びそれを統合する論理が現れる。
社会主義者の恋愛主義
結婚は恋愛に基づいて行われるべきだという論理は労働者に近い社会主義者の側から上がったのであった。
まず、19世紀の時点で、前章で触れたサンドの『愛の妖精』が農村のブルジョワと村のハズレ者の恋愛を描いている。この小説は1948年に社会主義共和派の日刊機関誌『クレディ』に連載された。舞台の農村では、男女の出会いは定期的に開催される祭りなどにおいて行われており、そこでダンスや接吻をする中で、マッチングが行われ、それを観察した大人が家の財産や親同士の関係などを考慮して追認する形で結婚へと至っている。サンド自身は男爵と結婚した上、ミュッセやショパンのような超有名人と恋愛している上流階層の人間であるが、小説内では恋愛結婚の論理が経済合理的なブルジョワ結婚を超越することを理想として掲げたわけである。
この恋愛結婚が合理的結婚に先立つべきだという理論が政治的イシューとして結実したのは、20世紀に入ってからであろう。例えば、1906年には、フランス政府の要請に基づき「結婚改革委員会」というのが開かれている。ここでは、離婚の規制緩和などが話し合わせたが、この委員会が提出した法案には「愛によって結ばれた夫婦という、唯一価値のある結合(des unions fondées sur l’amour, les seuls vraiment dignes)」と書かれている。この委員会に所属したメンバーを調べると、社会党陣営が多いのである。のちに共産党と協力して政権を運営することになるレオン・ブルムも『結婚について « Du Mariage »』という本で、若いうちはヤンチャに恋愛し、ある程度の年になって心が落ち着いたら一人の人を愛せるようになるのでその人と結婚せよ、という主張を書いていた。彼らは労働者の論理を引っ張ることで、ブルジョワ層の不自由な結婚を批判したのであるが、この対立はまさに繰り返し述べている夢と現実の対立である。
同時代、ソ連で閣僚を務めることになったアレクサンドラ・コロンタイも結婚が恋愛に基づくものであるべきだという主張を繰り返している。1918年の彼女の演説の中で、結婚は「愛と尊敬によって結ばれ、嫉妬から解放され、女性が男性に従属していない、つまり、両者が平等であるような、労働者国家の成員2名」と定義された。コロンタイ自身も、何度も恋愛し結婚し離婚した女である。
フェミニズムとコンテナ
最後に戦後の日本に言及しよう。日本で、お見合い結婚の数が恋愛結婚の数を下回ったのは1970年台である。一億総中流とよくいうが、この時、日本には真に財産を持たないプロレタリアートなどはすでになく、あらゆる人間が有閑階級として存在し、ブルジョワ的な同一の論理でお見合い結婚していた。それが一気に恋愛結婚に変わったのである。73年には団塊世代による第二次ベビーブームが起こったが、よく考えると、第一次ベビーブームでは少数の人間がたくさんの子供を産んだのに対し、第二次ベビーブームは団塊の多数が第一次よりも少ない数の子供を産んだのであるから、この時すでに日本の少子化は始まっていたのである。結婚様式の変化が、そのまま少子化と重なる。
1960年代にベトナム戦争が起こり、それをきっかけとして結婚を揺るがす2つの大きなムーブメントが起こった。それが、第二波フェミニズムとコンテナ革命である。
第二波フェミニズムの重要な要素にマルクス主義フェミニズムというのがあるが、これはよく知られる「個人的なことは政治的なこと」という標語にもあるように、私的領域とされる家族内の家父長制という論理を解体することを掲げていた。もちろん、童貞学は家父長制の解体を否定しない。お見合いシステムが家父長制と連関があったことも否定しない。しかし、家父長制を解体した結果が現在の恋愛結婚システムであるとするならば、それは再考する必要があるだろう。マルクスの批判の力はあらゆるものを内包していく資本主義の恐ろしさを指摘する点にあったが、マルクス主義フェミニズムは同文脈で家父長制的お見合いシステムが市場の要請や男性支配に依存していることを批判し、これを解体することで、恋愛する者同士が自由に家族を形成できる(単婚家族という形態に限らない)社会を目指した。しかし、現在はそれが反転し、結婚するためには必ず恋愛しなければならないという理想先行のシステムが作られてしまったというわけだ。
もう一つ、コンテナ革命というのは、物流のグローバル化のことを指す。ベトナム戦争でアメリカ軍が起用したコンテナ船が海運のコストを激減させ、結果として日本の電化製品がアメリカに売れて日本に高度経済成長が訪れた。一方で、ベトナムでたこ焼きを作って海運で輸送した方が、大阪で作ったたこ焼きをトラックで東京に輸送するよりも安い世界になってしまったという、物流の大転換である。これが起こったのも1960年代後半なのだが、これ以降、各町の職人が製品を作るよりも、一つの工場で作ったものを全国に分散させるという方法が優位であることが確定し、町のパン屋等は総合商社に駆逐され、商店街等の地域共同体が霧消したのである。
それ以前の近代は、労働者階級においてはまだ地域共同体や労働者のつながりが強く、上司部下や近所の付き合いによってお見合いや自然な出会いを可能とする共同体が存在していた。1970年代にそれは瓦解し、都市化も同時進行し、核家族化や地域の解体が起こった。コンテナ革命というのはその一助に過ぎないのか、主要要因なのか、はっきりとは言えないが、一つ面白い視点として書いておこう。
さあ、こうして歴史を追いかけると、18世紀後半の貴族層と平民層の結婚理論の相剋に始まり、近代社会は長いこと結婚決定をめぐる理論の二項対立が起こってきたことがわかる。すると、19世紀中頃に資本主義の精神と恋愛主義の精神(いわゆるロマンチック・ラブ・イデオロギー)が同時発生したのも、偶然の一致ではなく、近代社会の二重論理が原因であったのだと、綺麗に理論の筋道が立つのである。
近代の中の未来
改めて現在を見よう。第1章で書いた通り、我々は多くの場合「恋愛結婚」を建前に結婚をするが、実際にしているのは恋愛っぽい何かであり、むしろ働いている力学は市場原理や合理的思考である。そこに伴う精神の高揚が全て嘘だとは言わない。しかし、男女が、あるいは性的対象となる性の人間が、近くにいれば我々は多かれ少なかれ興奮を覚えるのである。私たちはそれを「恋愛」と呼ぶことにして、近代の夢を現実にしようとしている。しかし、その「恋愛」は探してもとめた必然的な感情であり、近代が夢見る偶然性や運命性の要件を満たさない偽恋愛なのである。
もちろん、システムに例外は存在しうる。恋愛は偶然誰かに訪れるので、その激情に任せて真の恋愛結婚をする人間も時には生まれるだろう。また、内親王愛子のように、社会的な各条件に従ってご結婚なさるであろう人もいる。システムは完全に人間を包含するものではない。それは、どんなシステムにも言えることだ。
しかし、現在、私たちは現実を取り繕いながら偽の恋愛結婚風を装うのに疲れ始めている。少子化の基本原因は未婚であり、未婚の原因は恋愛離れである。日本人男性は20代の半数以上が童貞である。私たちは社会の理想に疲れているのだ。一方で、増税メガネが異次元の何かをするらしいが、実際、社会の家族形成への圧力は日に日に増すばかりである。この疲労と圧力が、社会をどのような恋愛システムに導くのか。その占いを次章から2つ、述べていく。
1つは原近代への回帰である。原近代とは17世紀アメリカのことなのだが、そこには自発的な結社が林立し、個人が各閉じられたコミュニティの間を行き交っていた。「誰も取り残さない」「誰も排除しない」社会が進行し、心安らぐコミュニティが減っている中、今こそ個人主義を強化して原近代的なソサエティへ回帰することが、新たな時代の恋愛を可能にするかもしれない。実は現代フランスの恋愛なんかこれだと思う。
もう1つは、恋愛の夢の中に再度入る未来である。現在のようなマッチングは自己負担が大きいが、これが徐々に技術によって肩代わりされ、精度も上がれば、技術が合理的にマッチングした相手との出会いを運命であるかのように誰もが完全に錯覚するという状況が可能になるかもしれない。偽恋愛システムの完全版の未来である。
この二つは、この章までで作り上げたモデルをもとに論理的に導き出せる予想であり、「であるべきだ」というような構想ではない。
開かれた社会とその敵
前章で、1960年代の共同体の喪失に結婚の危機の一因を見出した。実際、コミュニティが閉じている場合、人はその中で誰か適当な相手を見つけなければならないわけなので、運命ではなくとも、ある程度自由恋愛らしい論理に基づいて結婚相手を決めることになる。中世の農村など考えてほしいが、一つの村に年頃の女は何人かしかおらず、全員の状況も何となくわかるという状況であれば、結婚相手として望ましい順位もつけやすいし、相手の決定もしやすい。これは結婚相手を決めるだけの乾いたシステムではあるが、個人が主体的に決めている点で近代の望みには叶っている。閉じた社会には、個人として生きうる可能性が秘められているのだ。ゾラの小説『ジェルミナール』には19世紀フランスの炭鉱夫の生活が描かれている。炭鉱の脇には労働者が集住している村があり、労働は女も男も関係なく行っている。その小さなコミュニティの中で彼らは適当に恋愛し適当に子供を作り、何世代にもわたって炭鉱労働をしていた。
現在ではこのような「ここから選んでください」と言うような閉じたコミュニティがなく、アプリやサイトを開けば無限の可能性が目の前に提示されている。学校や職場は閉じたコミュニティとして現在も存在しているが、社内恋愛はともすればセクハラになってしまうのであるし、学内にしても事情は同じで、モテるやつはなんでもし放題なのだろうが、小谷野敦の『非望』のように研究室内で片思いするとストーカーになりかねない。いつだったか東大フェミニズム研究会が出した冊子に「私は勉強するために大学に来たのに、女性であるというだけで性的な目で見られる」という趣旨のことが書かれていて、私は「ああ、可愛いと思うだけで加害なのだ」と自分を断罪したものであった。挙げ句の果てが四元裕子のように可愛いと学生に言われて「ルッキズムですよね」とブチギレる始末である。学校や職場のような閉じたコミュニティでは、現在当たり前ように、自分の人格から性を切り離さなければならなくなっている。その結果が商業アイドルや売春婦などによる、性の外部化・商品化なのであり、ルッキズム理論による性の排除が売春を加速させているのである。電気自動車が自国のCO2を電池を作る後進国に押しつけているのと同じような訳だ。私たちは普通に生きているだけでは、恋愛に開かれた小さなコミュニティを持つことはできなくなってしまった。そこで、私たちは恋愛するために、所属する小さなコミュニティ以外の開かれた社会に泳ぎ出なければならないのであるが、そんな青天井の恋愛市場で、小さなコミュニティですらモテなかった人間が成功することがあろうか。
閉じられた世界とその可能性
ところで、近代の始まりとは小さな同質性の高いコミュニティの林立状態であった。近代の始まりを、佐藤俊樹は原(プロト)近代と表現したが、これは、具体的には17世紀に発生したアメリカの州のことを指している。トランプ大統領の裁判をきっかけに有名になった事実だが、アメリカは州ごとに裁判所が共和党に有利になっていたり、民主党に有利になっていたりする。これは州ごとに同質性の高い個人が結社して州が作られ、各個人はその州の間を移動できるという元祖アメリカ合衆国の論理が現在のアメリカにも生きているためである。
州の原型は、17世紀後半に宗教ボランティア団体が法人組織に変化したものだ。住民はその会社の株主になって公共サービスを始め、総裁が州知事、役員会が州議会に変化したのだという。佐藤はこの状態を、インターネット黎明期に、ネット上に自発的なコミュニティが複数生まれ、それぞれが独自のルールや理想を持ち、国家などとは別の次元に存在するコミュニティとなったことと比較して論じている。
インターネットのような新しい領域を近代社会が見つける場合、その場所の開拓は原近代への回帰からスタートする。つまり、その新分野に入る少数の人間によって独自の理想のもとにボランティア的な集団が生まれ、独自のルールが築かれ、各集団間を個人が行き来する。メタバースだって、本格的な商業化が始まるまではそうだった。このように、近代社会は本質的に原近代を抱えており、あらゆる局面でそこへの回帰の可能性を孕んでいるのである。
逆に、近代人である私たちはいつでもどこかに閉じられた社会を必要としている。昨今、分断を産んではいけないとか、多様性を包摂しなければいけないとかいうことがよく言われるが、一方で近代社会は異質な人間を排除してはならないことに窮屈を感じるようにできている。これはルソーのいう一般意志の問題でもある。つまり、多文化共生の圧力が時代の閉塞感の一つの要因であるとも言え、原近代への回帰はその突破口としての可能性も秘めていると言える。
フランス恋愛の原近代
今私はパリの大学にいるのだが、結婚までに何人くらい恋人がいるのが普通か、友人に聞いて回ったところ平均して8人くらいであった。フランスの社会学者Pierre Brenotが2000人近くの既婚男性を対象に行った調査では、それまで付き合った人数は平均14人だったという。フランスの大学は、割と恋愛に開かれている。フェミニストも恋愛しまくっている。「日本の社内恋愛は海外ではあり得ない」と言っている日本人を見たことがあるが、権力勾配がある場合まずいという話でそれはどこでも同じだし、海外ドラマなんか社内恋愛ばかりだが見たことないのだろうか。何にしろ、少なくともフランスは、あらゆる閉じられたコミュニティが恋愛に開かれている。そして、関係を断るのも気軽だし、関係を脱するのも気軽である。むしろ、日本では変に気を遣っているので、人に好かれることを苦痛に思い、閉じられたコミュニティにおける恋愛が加害になってしまうのである。
フランスには、大学や会社以外にも数々のアソシエーションが存在し、社会人も含め多くの人がクラブ活動のようなものを行っており、もちろん入会も退会も自由である。彼らは閉じられたコミュニティの複数性の中で、適当な恋愛を繰り返し、やがて合理的に結婚する。恋愛関係すらも、一時的に自発的に立ち上がる会社のようである。彼らはその会社の間を行き交い、時には結婚やパートナーシップを結び、気軽にその縁を切ったりする。その様は、まさに原近代である。
フランスには、恋愛の原近代がある。彼らは恋愛を神聖視していないし、自分らの偽恋愛をロマン主義恋愛だと取り繕うこともない。ただ、たくさん試し、たくさん別れ、適当なところで結婚を選択し、結婚も永遠じゃない。また、夢を持たないからこそ、ロマン主義恋愛を現実に体験できたりもする。というのも、時々のぼせているようなフランス人もいるということなのだが、それでも「オンリーユーフォーエバー」では決してなく、失恋すれば割り切って次に行くだけのエゴチズムを持っている。このフランスの恋愛の形態は、偽恋愛システムの一つの行き着く形である。
もちろん、それでも偽恋愛をできない人には苦しい制度である。だからこそ、ウェルベックのような作家が生まれるのである。
ウジウジした日本の私
恋愛の原近代とは、閉じられたコミュニティに恋愛を取り戻すことである。現在、恋愛は商業化され、コミュニティから外部化されている。やや繰り返しになるが、アイドルを「推す」のは、自分の近くの綺麗な女性を綺麗だと言えなくなってしまったからである。なんせ、綺麗と言ったらルッキズムなんだから。以前は、そこかしこの小集団にしずかちゃんのようなマドンナが存在していたが、コミュニティの消失により、「僕らのアイドル」は消え、商業アイドルが生まれた。売春の隆盛も、性的なものを商業化して日常から排除した結果だろう。女性の貧困だけが原因ではない。小谷野敦が「素人女が、無償のセックスに容易に応じなくなったからこそ、中世の遊女、近世以降の遊郭が栄えたのである」と書いているが、同じことが19世紀のフランスや現代日本にも言えるというわけだ。現在はその商業アイドルが局地化し、地下化しているが、これは閉じられたコミュニティにおいていかに性的なコミュニケーションがタブーとなっているかを示している。フランスにはこれがないので、フランス人がいかにアイドルを好きになろうと、日本の推し文化を理解することはないだろうと私は思う。逆もまた然りで、日本人がフランス人のように奔放に恋愛し始めるという状況は、正直想定しずらい。もちろん、現在も一部には気軽に付き合って別れてということを繰り返す人は存在しているし、将来も一定数存在し続けるとは思うが、少数派にとどまるだろう。
アメリカのMGTOW界隈でもてはやされた論調にペンス・ルールというのがある。これはトランプ政権のペンス副大統領が、自分のリスク管理のため、妻以外の女性と2人きりでご飯を食べるということは絶対にしないと表明したことである。ペンス・ルールは職場のホモソーシャルな空間を加速するだけだとか、女性への恐怖心を煽るミソジニーだと批判された。そりゃ、いい子ぶってペンス・ルールを非難すれば、私も学生の主流派の仲間に入れてもらえるのかもしれないが、私にはペンス・ルールはむしろ、日本においてさらに強く適用できるものなのではないかとすら思っている。
これらの根本原因として、やはり、日本における個人の弱さというものを指摘できるだろう。近代の大前提は個人主義である。個人が自発的に結社し、個人が自発的に会社間を移動する。それが原近代の構造であった。その個人を持っている欧米人は自然と原近代的な恋愛に向ったのである。しかし、明治維新の時のように、日本人にその個人主義を一斉にインストールすることはすなわち、日本人らしさを放棄することを意味する。個人的に、それは嫌であるし、まあほぼ不可能だろう。ウジウジした日本の私には、むしろ、次章のようなシナリオが現実的に思える。
楽園でほら、ねんねしな
前章でフランス人たちは、偽恋愛を恋愛と取り繕うことをしないと書いた。これは多少比喩のようなところがあって、もちろんフランス人も必死に恋愛するのであるが、日本人のように卑屈にそれを信仰してはいないのである。
その意味で、フランス人たちは恋愛主義の夢から覚めている。しかし、夢から覚めて原近代に移動するには、個人主義という恐ろしいイデオロギーを脳にぶち込まなければいけない。そんな恐ろしいことをするくらいなら、別に目覚めなくてもいいじゃないか。考えてみれば、日本人は取り繕うのが大好きである。コロナ禍の最中の五輪を「乗り越えた証」と呼んでみたり、憲法9条で軍隊を放棄していながら自衛隊を持ってみたり、多くの建前と現実そのまま放置され、しばしばその場のマンパワーによって帳尻を合わせている。そうすると、恋愛主義の夢をそのままにして、マンパワーで各自恋愛結婚の取り繕いを行っている方が、日本人には向いているのかもしれない。そうしてずっと眠っていれば、技術が発展し、本当に眠ったままでいていいような世界がやってくるかもしれない。それまでは、別に何も変えず、面倒な恋愛は放棄したままでいいじゃないか。私はそんな心性を現代日本に感じている。
修正恋愛システム論
日本において恋愛は後退する以外にないので、恋愛以外に結婚への道を開くべきだと書いたのが「22世紀の恋愛主義」であったが、こうして近代社会を考察してみると、そんな時代の逆流現象は起こり得ないように思える。ならば、加速するのみだ。偽恋愛システムが加速し、その究極系が誕生するとしたら、それは人が偽恋愛によって家族を形成しながらもそれを恋愛だと全く信じて疑わない社会だろう。現在の偽恋愛は運命的な出会いにしては我々の負担が大きすぎるので、「これ、わしが自分でお見合いの劣化版やってますやん」と我々はしばしば気づいてしまうわけだが、その負担があらゆる技術によって緩和されていけば、我々はやがて何にも疑問を持たず恋愛を受け入れるようになるだろう。その運命性の創出を目指しているのが、マッチング理論だったり、コンパの工夫だったりする。東大の人間で言えば、小島武二がマッチング理論を研究し梶谷真司が哲学対話で婚活コンパを企画している。小島はいいとして、哲学者が時代の構造を無批判に受け入れ、時代の望む何かを作り出そうとしている様は笑えるものがある。
マンガ『恋と嘘』は、少子化対策として政府が超法規的に個人情報を収集し「縁」というスーパーコンピュータに入れて相性のいい結婚相手を各人に割り当てて政府通知を送り、その他の人間との自由恋愛を禁止する未来を描いている。主人公は別の恋を抱えつつ、政府通知の相手とも次第に恋仲になっていくのである。しかし、これはやや生権力というものを甘く見ている。本当に相性のいい相手を技術によって一意に決定できるのならば、わざわざ通知などせず、自分で選び取ったかのように錯覚させればいいのである。政府通知のようなものがあると、自由な個人による決定が基礎となっている近代主義に反するので、反発が起こるに決まっているのである。
技術による合理的な結婚相手の割り当ての精度が増す未来というのは、スーパーコンピューターによる演算というより、これまでのカップルを機械学習するなどの方法で将来可能だろう。現在のマッチングアプリは自分に選択権が残されており、その選択肢もほぼ無限に拡散しているが、未来のマッチングはただ一人の相手が技術によって決定され、その選択を我々が自ら行うように仕向けられているかもしれない。
今日、我々はすでに自分の選択を、アルゴリズムに支配されるようになってきている。TikTokやYouTube shortのような動画アプリ、Xのようなソーシャル・メディア、AmazonなどECのおすすめ表示は我々が無意識のうちに我々の好みを読み取り、我々が願望するまでもなく、我々の潜在的な願望に合ったコンテンツを提供するように作られている。その精度はこれからさらに上がっていくだろう。あらゆるメディアから情報を引き出し、私たちが実際に探す前から、私たちが欲している恋愛を私たちの前に提供するというようなシステムは将来不可能ではない。これが起これば、我々は仕組まれた運命のもとに自己決定の夢を叶えながら、合理的な行動をする。自分たちで、年収やら性格やらを判断して、他の選択肢を切ってというような判断をすることなく、運命的な唯一の道が自然と舞い降りてくる。私たちはすでに半分くらいそんな世界に足を突っ込んでいる。家族・恋愛といった極度の私的領域にアルゴリズムの運命性が入り込んでくるのは時間の問題であろう。そうなれば、我々は実は合理的なマッチングを運命の恋愛だと信じて疑わないという完璧な偽恋愛システム、つまり修正恋愛主義システムに入ることになるのである。
童貞学は、すでに偽恋愛システムの虚構に気づいている。本当は童貞学だけでなく、多くの人間が気づいていて気づかないふりをしているのかもしれない。そんな中、童貞学はそれを理論体系化し、歴史的文脈に基づいて研究を進めてきた。社会はこれから先、修正恋愛主義システムにますます近づいていくだろう。人々はアルゴリズム的に最適化されたマッチングを恋愛だと信じて疑わなくなっていく。もしくは、一方で個人を強固に持つ一部の若者は恋愛主義を却下し、閉じられたコミュニティの中で適当な出会いを繰り返し、快楽を得つつやがて合理的に結婚相手を決めるようになっているかもしれない。フェミニストなんかは、むしろ後者を目指すのだろう。大切なのは、どちらの陣営にも入らないでいられる存在は、童貞存在のみだということである。つまり、近い将来、まともな社会批判の能力を持つのは童貞学の論理のみになるかもしれないのである。
童貞研発足時のテーゼに、ロマン主義は童貞に開かれているというのがあった。ユゴー、スタンダール、フロベール、漱石と、劇的な恋愛の主体は皆童貞である。来るべき将来、全ての人が偽恋愛を恋愛だと信じているような文鮮明の宗教のような社会がやってきても、童貞学は最後まで現実を批判視できる思想的武器でありたいと願う。
童貞とは面白い言葉で、そもそも修道士を意味したが、それが異性間性交渉未経験者を表すようになったのは、近代に人間が宗教を脱し、個人の自由が孤独を生み出したためである。そんな近代の産物である童貞的自我が、反転して近代社会を批判する武器になるとは。童貞学は戦う。我々以外の人間全てが夢現を彷徨うようになっても、我々は鬱屈とした自意識を持ちながら、哲学を続けるだろう。
上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波現代文庫 2009
佐藤俊樹『社会学の新地平 ウェーバーからルーマンへ』岩波新書2023
『社会は情報化の夢を見る』河出文庫 2010
牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023
小谷野敦『日本売春史』新潮選書 2007
谷崎潤一郎『細雪』千歳古典名作文庫 2023
ムサヲ『恋と嘘』講談社コミックス 2014-2022
ミシュレ, ジュール(訳:森井真)『愛』中公文庫 2007
La sorcière, Gallimard 2016
ルソー, ジャン=ジャック(訳:今野一雄)『エミール(下)』岩波文庫 1962
(訳:安土正夫)『新エロイーズ』(全四巻)岩波文庫1960
ゾラ, エミール(訳:安土正夫)『ジェルミナール』岩波文庫 1954
Brenot, Pierre, Les hommes, le sexe et l’amour, Les Arènes, 2011
J-Cast ニュース「デート代は男性が「出してあげて欲しい」 人気セクシー女優「女性の準備」強調も賛否...投稿削除」(https://www.j-cast.com/2023/02/13455898.html?p=all)(2024年3月7日閲覧)
梶谷真司「梶谷真司 邂逅の記録105 愛のために出会いの場をデザインする」UTCP(https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2020/01/post-947/)(2024年3月9日閲覧)
小島武二「待機児童が60%減…就活も結婚相手も「最適なマッチング」に従う、”幸福度が高い”未来は意外と悪くない」MINKABU 2022 (https://mag.minkabu.jp/life-others/251785411580/)(2024年3月9日閲覧)