恋愛遍歴シリーズ① アレクサンドラ・コロンタイ
2024.01.23 文責【猫跨ぎ】
コロンタイはボリシェヴィキの女性革命家で、ヨーロッパで2番目の女性官僚、初めての外交官である。彼女が生涯最も重視したのは家族の解放で、マルクス主義的階級闘争が達成されれば、一夫一妻の家父長的家族が解体され、自由恋愛と男女同権の時代が来るという論を立てて活動していた。活動時期は与謝野晶子や平塚らいてうなんかと同じだが、この二人は結局ブルジョワなので、日本で似ている人となると山川菊栄とかになるんだろうか。
私はこの女性は結局あまり好きになれなかったのだが、せっかく伝記を読んだし、当時の恋愛論の資料として面白いし、日本語で読める資料も少なそうなので、今回取り上げてみることにした。私の彼女に関する評価はあとがきに書いておいた。
一応私はフランス文学が本業なので、フランスにおけるコロンタイの受容に関しても最初に少し触れておく。彼女は一次大戦前から左翼界隈では有名人であったが、初めてフランスの大衆に注目されたのは1924年9月20日の新聞L’Illustrationに「初めての女性外務官」として報道された頃くらいだろう。その時の文章で「この日は国際的なフェミニズムの中で忘れられない日になるだろう」と紹介されている。しかし、普通に忘れられ、次にフランスが彼女を発見したのは1970年代前半で、これは第三波フェミニズムの文脈においてである。マルクスを利用しつつマルクスを批判するマルクス主義フェミニズムの姿勢はコロンタイの理論と完全同型だったのである。そして最近、またちらほら流行り出している。2020年には彼女の著作L’Amour libre(自由恋愛)が翻訳され、2021年にはアカデミーフランセーズの歴史学者Hélène Carrère d'Encausse(2023年8月5日死去)による伝記Alexandra Kollontaï : La Walkyrie de la Révolutionが書かれ、他にもパリ・シテ大学の左翼史研究者Sophie Coeuréなどが研究を行っている。というか、私はこのSophie Coeuré先生のゼミでこの人の存在を初めて知ったのであるが。1976年に翻訳出版されたMarxisme et révolution sexuelleの訳者前書きには「40年もたった今、その名前を知るものは少ないだろう」とあるのに対し、Carrère d'Encausseによる伝記の前書きには「2021年の今、誰が彼女の名前を知らないだろうか」とある。どうやら、ここ40年間で、彼女のフランスでの影響力はかなり増加したようなのである。
この親あってこの子ありか……と思わせるような恋愛を彼女と同名の母アレクサンドラは行っている。コロンタイの両親は恋愛結婚なのである。
コロンタイは1872年3月19日にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれた。父ミハイル・アレクサンドロビッチ・ドモントビッチは12世紀まで遡るウクライナの貴族で、母アレクサンドラ・アレクサンドヴナ・マサリナはフィンランドの成り上がり地主の娘だった。
2人はオペラで偶然出会って恋に落ち結婚しようとするのだが、貴族とはいえ財産の少なかったミハイルとの結婚にアレクサンドラの父は反対した。彼はミハイルが1848年にハンガリー戦争に出征した隙をついて、アレクサンドラを他の将校コンスタン・ムロヴィンスキーと結婚させてしまう。2人は1人の息子と2人の娘を生んだ。長男は後に20世紀有数の指揮者とまで言われるようになるエフゲニー・ムロヴィンスキーである。円満な家族が生まれたように思えたが、アレクサンドラの恋心は消えていなかった。ミハイルが戦争から帰ってくると、彼女は2人の娘を抱えて彼と駆け落ちをする。結婚の解消は難しい時代であったが、コロンタイが生まれると姦通は明らかであり、2人は誹りを受けつつも夫婦になった。2人はコロンタイの前に2人子供を産んだが、どちらも幼くして死亡し、コロンタイは唯一の2人の間に出来た子供となり、母の連れ子2人を姉として持つ形で成長して行った。
初恋は15歳の時で、父の知り合いの将校の息子ヴァニア・ドラゴミコフであった。しかし、二人は一度キスしただけで、その後彼はピストル自殺してしまっている。原因は不明だが、コロンタイはひどく落ち込み、両親の勧めでフィンランドに傷心旅行に行っている。大学への進学を目指すようになり、彼女はペテルブルクで父親の人脈から大学教員などを家庭教師として文学や歴史学を教わった。その際出入りしていたペテルブルクの社交界で、人気だった25歳年上のツトロミン将軍を誘惑した上で結婚の申し出を断ったことで悪名を馳せた逸話がある。男にはよくもてたし、誘惑の方法も心得ていたということである。
彼女が運命の出会いを果たしたのは父の出張に付いてジョージアに行った際で、父の従姉妹プラスコヴィア・コロンタイの息子ウラジミール・コロンタイと恋に落ちた。この結婚は相手に財産がないとして母から反対され、学問をするには都合が悪いとして父から反対された。両親はこの恋愛を忘れさせるために彼女をフランスやドイツに遊学させたが、彼女は意思を曲げず、1893年、22歳にしてウラジミールと結婚し、ここでコロンタイの苗字がつく。一年もたたないうちに、息子ミハイルが生まれた。最初は子供を溺愛していたアレクサンドラであったが、だんだんと結婚生活も子供も面倒になり、召使を雇って家事をさせ、自分はまた勉強を始めた。この時点ですでに社会主義にのめり込んでいたらしい。夫ウラジミールは政治に全く関心を持たなかったが、その友アレクサンドル・サトケヴィッチは彼女と関心を共有し、彼の支えがあって彼女は初めて書いた小説を雑誌『ロシアの遺産(Rueekoe Bogatsvo)』に投稿した。結局これは掲載されなかったが、彼女は以降文筆を目指すようになった。
1896年に夫について行ってナルヴァの繊維工場の労働者を見たことで、彼女は社会主義に完全に舵を切った。当時夫婦は父ミハイルのアパートに住んでいたが、コロンタイはそこにサトケヴィッチを含む友達を住ませ、社会主義者の集い場にしてしまった。ゾラの『居酒屋』でクーポー家にランチエが来てジェルヴェーズと不倫しまくっていたような状況に限りなく近い状況になっていたわけである。
家庭はもちろん崩壊し、1898年、知識不足に悩んでいたこともあり、コロンタイは家族を捨てて自由主義的な雰囲気で有名だったチューリッヒ大学に入学する。ここでマルクス主義経済学者のハインリッヒ・ヘルクナーのもとで学問を再開した。ただ、ヘルクナーは修正主義だったので、彼女はローザ・ルクセンブルクなど他の交流を求めていくようになった。
留学の費用は父親から出され、息子ミハイルは実家に預けられた。そのため、両親が亡くなると、彼女はペテルブルクに帰らざるを得なくなった。このタイミングで、夫ウラジミールから正式な離婚の申し出があった。ただし、教会の手続きは長くかかるので、離婚が正式に認められるのは1911年にまで雪崩こんだ。彼女は父から多くの遺産を相続したが、母は最初の結婚で生まれた子供にのみ遺産を残していた。
チューリッヒでの研究成果として1903年に出版された彼女の最初の著作『フィンランドの労働者の生活』は社会主義者らに概ね好意的に受け入れられた。これによって、彼女は社会主義者のコミュニティに本格的に入っていくことになった。
1905年には第一次ロシア革命が起こる。コロンタイはペテルブルクの民衆行動に参加し、労働者の扇動を行なった。国会(ドゥーマ)開設に際し、彼女はロシア社会民主労働党に入り、自分では断言しなかったが、事実上メンシェヴィキについた。そこで、メンシェヴィキのマスロフ(既婚者)と恋仲になり、彼の出張にしつこくついて行き、その中でドイツのカール・ループクネヒトなどと知り合っている。マスロフは煮え切らない性格の男だったが、この半分恋愛のような関係はダラダラと続くことになった。当時12歳になっていた子供ミハイルは知らない男が家に来ることに強く反発していたという。
1908年、コロンタイはフェミニズム運動の会議に女性プロレタリアの代表団を送りこみ「ブルジョワ婦人と連隊の道はない!」と演説させる。当時のフェミニズム運動は教養市民層の女性の活動であったため、社会主義者にとっては敵であったのだ。しかし、このような過激な活動が危険思想であるとして帝政から目をつけられ、コロンタイは警察の待ち伏せを受けるところまで来てしまった。彼女はなんとか亡命を成功させ、以後革命までの8年間、ヨーロッパを転々とすることとなった。
1911年、パリに滞在していた彼女にラファルグ夫妻が自殺したとの一報が入った。妻ジェニー・ラファルグはマルクスの娘である。葬式には多くの社会主義者が駆けつけた。追悼式典でレーニンの後に演説したコロンタイは、それを聞いていたボリシェヴィキの活動家アレクサンドル・シュリャープニコフに熱心に声をかけられ、恋仲になる。メンシェヴィキ、ボリシェヴィキという違いに加え、彼女は39歳、彼は26歳という13歳差でもあった。しかし、この蜜月は1916年まで続く。ウラジミールとの離婚が正式に認められると、2人は共にベルリン、ロンドン、ベルリン、デンマーク、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーと政治情勢の変化に合わせてヨーロッパ各地を転々とし亡命を継続した。1914年、世界大戦勃発以降、メンシェヴィキが他国の社会主義者と同様自国の戦争に協力的だったことから、コロンタイは平和主義を掲げるレーニンとボリシェヴィキに近づいていったとされている。しかし、この転向にはシュリャープニコフとの恋愛が少なからず関係しているものと思われる。
1917年の3月8日の世界女性デーに祖国のペトログラード(サンクトペテルブルク)で民衆の暴動が起こっていることを、彼女はノルウェーで知ることになった。第二次ロシア革命は女性の反乱から始まり、戦争反対・帝政打倒に向かったのである。彼女はまずレーニン帰還作戦の根回しに力を貸しつつ、1ヶ月後には彼に先立って帝政崩壊後のロシアに入った。コロンタイはレーニンの平和主義「4月テーゼ」に同調し、戦争停止による夫の帰還を望む女性の会を作ることに成功した。そして、レーニンの指示でエスエルの支持母体の1つだった海軍を懐柔しに向かった際に、バルチック艦隊のソヴィエトに所属する農民出身で顔半分が髭で覆われたボリシェヴィキの大男ドゥイベンコに恋をする。彼女は当時45歳であったが、簡単にこの大男を魅惑し、落としてしまった。
10月には革命が進展し、ソヴィエトに全ての権力が移され、レーニンは「平和に関する布告」を出す。コロンタイは10月31日、社会問題人民委員に命名された。ロシア臨時政府のソフィー・パニーナに続く、ヨーロッパで二人目の女性閣僚の誕生である。
しかし、社会運動では理想論が語れたが、実際の国家運営をするとなると簡単にはいかない。まず、彼女はキリスト教貴族が運営する孤児院に代わって、新しい国立の孤児院の建設を進めるが、火事が原因で計画は失敗に終わる。出火後、彼女は恋人ドゥイベンコとその部隊に助けを求めたがどうにもならず、ドゥイベンコはその事件性を見抜いて捜査を行ったが、真相は闇の中であった。
同時期、彼女はペトログラードのソヴィエトの求めに応じて、廃兵院の建設にも着手している。しかし、場所としてアレクサンドル・ネフスキー大聖堂を政府の権限で接収しようとしたところ、聖職者の強い反発に遭い、またもや恋人ドゥイベンコの軍に頼ったところ、聖職者に死者を出してしまう。この事件で、彼女は正教会から破門されてしまった。
このように、彼女は思い通りいかないことがあるとドゥイベンコを呼んで「やっておしまい」みたいに言う公私混同した女王様だったのである。後にこの彼女の姿勢は取り沙汰されることになる。
この時期、コロンタイは一度レーニンに反発している。背景は1918年1月の憲法制定議会の選挙でボリシェヴィキが多数派になれなかったことを受けて、レーニンが武力で議会を解散させるという独裁強行と、3月に彼が強行したブレスト・リトフスク条約によるドイツとの単独講和の強行であった。この2つは党内で大きな非難を呼び、コロンタイは反レーニン側についたのである。
ここにも、コロンタイが恋人ドゥイベンコに引っ張られている点を指摘できる。というのも、ブレスト・リトフスク条約の締結後、ドイツに明け渡されるはずだったナルヴァにおいて、ドゥイベンコは間違えてドイツ軍を追い払ってしまったのである。これは単純な勘違いでない可能性がある。というのも、当時、ドイツではキール水兵の乱を起点としてドイツ革命が進行中であり、トロツキーなどは戦争継続によってこの革命を支援することを提案していた。ドゥイベンコはその革命の理想のために故意にドイツ軍と敵対した可能性がある。もしそう考えるならば、コロンタイがレーニンの方針に反対したのは、恋人と同じ方向を向いていたことになる、あるいは恋人の行為を正当化することになるのである。
しかし、彼女の行動はレーニンの逆鱗に触れた。彼女はその後の4ヶ月で党と政府の職を全て解任された。また、ドゥイベンコは勾留され、銃殺刑まで噂されるようになった。ここに至ってコロンタイは焦りだし、何を思ったかドゥイベンコとの結婚を突然宣言した上で、レーニンへ必死の擦り寄りを開始した。5月には彼はなんとか釈放されたが、党を追われ、ウクライナに逃れた。2人の関係は有名になりしばしば揶揄された。ここで槍玉に上がったのがコロンタイの過去の公私混同であった。しかし、コロンタイは得意の演説でロシアを回ってプロパガンダを成功させたことで、レーニンの懐柔に成功し、早くも再び党内に居場所を回復した。8月には各地で白軍が蜂起しロシア内戦が始まったことで、彼女のプロパガンダの需要はさらに増し、彼女はレーニンの求めに完璧に答えてウクライナで遊説に邁進し続けた結果、ドゥイベンコの党への復帰をまでも実現し、11月の国家女性大会へのレーニンの支持すら手に入れた。
ドゥイベンコに正式に党から「別に除名したわけではない」という通知が出たのは1919年の1月3日のことで、2人は6月23日に1年ぶりにキエフで再会した。2人は8月末まで共に過ごし、ドゥイベンコはその後ウクライナ南部の戦役に向かい、二人は別れた。
1920年、モスクワに帰ると、女性問題を扱う政府組織ゼノデルが組織され、イネッサ・アルマンが代表となり、コロンタイは実質ナンバー2の地方代表となった。この年、ドゥイベンコは彼女を自分の田舎の生家に連れて行き、家族と農家の暮らしを体験させている。9月にアルマンが過労死すると、ついに彼女はゼノデルのトップに就任した。しかし、程なくしてチフスにかかり、冬まで家で養生した。その際、ドゥイベンコは頻繁に戦線から帰ってきて、彼女を看病した。しかし、この実家体験と看病がコロンタイにはマイナス評価だったらしい。「彼の“妻“として見られるのが嫌だった」などと彼女は書いている。彼女の気持ちは段々と彼から離れ、そこに現れたのがかつての年下彼氏アレクサンドル・シュリャープニコフだった。というのが彼女の主張だが、むしろ時期的に見れば、シュリャープニコフが現れてから彼女の心がドゥイベンコから離れたようにも見える。シュリャープニコフは当時コーカサスに労働者教育学校をつくって、プロレタリアの真の政治参加を目指していた。彼女は6月にドゥイベンコとコーカサスに旅行した際にこの学校に関心を持ち、以降チフスにかかるまで何度か講義を行っていた。
シュリャープニコフは当時、ボリシェヴィキ独裁がエリート専制になっていることを批判し、レーニンに対抗して「労働者の反抗」という組織を党内に作っていた。その彼と関係が再び深まったことで、コロンタイも1921年1月28日に雑誌に記事を出し、彼の側についてレーニンとついに決定的に袂を分つ宣言をした。党の10回大会で2人はレーニンと演説で直接対決することになるが、農民の反乱が激しさを増す中「今は革命政権の防衛に努めるべきで、こいつらのアナーキズムに負けるわけにはいかない」とするレーニンの論の方が支持を得た。ちなみに、この大会はネップが決まった大会でもある。コロンタイは6月コミンテルン大会でネップに反対の演説を行なっているが、私にはレーニンへの私怨としか思えない。このせいで1922年1月にはゼノデル代表の任も解かれている。3月、彼女は党から休みをもらい、ドゥイベンコのいるオデッサで10ヶ月間の休養をした。このように彼女は何度もレーニンと対決することを厭わなかったのである。
1922年までの間に、ドゥイベンコは参謀学校を卒業し、士官レベルまで順調に郡内で出世していた。コロンタイは一度、レーニンとの対立を経たことで悪名を馳せてしまった自分とはもう関係を持たない方がいいと彼に手紙を書いている。当時ドゥイベンコはシュリャップニコフとコロンタイの関係を訝しみ、嫉妬に駆られていたとコロンタイは書いており、そのために心が離れたのである。オデッサに行っている間も、2人は稀にしか会わず、ついには口喧嘩の末ドゥイベンコは自殺未遂を図り、足を怪我している。彼女はここに来て、恋愛に消極的な印象を持つに至った。ちなみに、コロンタイは彼の訝しんだような不倫関係はなかったというけれど、私は嘘だと思う。
この散々な休養から抜け出すため、彼女はスターリンに党のポストを求める手紙を書いていた。ここでようやく、彼女に外交官としての役割が与えられるのである。
1922年10月、当時正式な国交のなかったノルウェーに商業的交流のための代表として駐在を開始した。当時50歳である。
そこに彼女と共に派遣されたのがマルセル・ボディであった。彼は革命時にロシアに馳せ参じたフランス人の共産主義者で、ロシア共産党内ではジノヴィエフの近くで仕事をしていた。ジノヴィエフとコロンタイの関係は悪く、彼女にとって彼は当初目の上のたんこぶのように思われた。しかし、学園アニメのような感じで、これが友情になり、同志になり、もっと深い仲になっていったのである。年齢を考えると、流石にセックスはしていなかったと思うが、1925年にボディがモスクワに呼ばれた際には自分も休暇を取って彼についていっている。ちなみに、ボディは一児ありの既婚男性である。
彼女が小説処女作『働き蜂の恋』を書いたのはこのノルウェー滞在中である。この話はドゥイベンコと彼女の恋愛に依拠している。話の筋としては、ボリシェヴィキ同士付き合って結婚するが、少し離れている間に彼はネップで儲けて労働者を搾取する存在になってしまったので分れて、男からの保護を望む伝統的な女性にくれてやり、自分はモスクワに帰って女性の共同体を作ってそこで協力して子供を育てるという、まあ、彼女の理想と現実の入り混じったものになっている。
私が注目したいのは、彼女は夫と別れて「おひとりさま」になりつつも、家事労働を分担するもっと大きな「家」を作って孤独を回避している点である。斉藤幸平がマルクスは最後に地域共同体の可能性を示していたのだとマルクスを読んでいるが、コロンタイも女性の自由の先に受け皿として共同体の相互補助を想起していたのである。この点で、コロンタイには1970年代のフェミニズムには見えていないものまで見えていたんじゃないかと言える。
この小説は成功するが、共産主義者らからは「一杯の水論」としてしばしば非難されることになった。一杯の水論とは、彼女が1921年に「性的な行為は恥や罪として見られるべきではなく、空腹や喉の渇きのような健康な人体に当たり前の他の欲求と同じような普通のものとして捉えられるべきである」と書いたのをレーニンが批判して生まれた言葉である。
この小説が出た後、ノルウェーでドゥイベンコはコロンタイに会いにきている。コロンタイはここで、2人の間にもう愛がないことを再度確認しつつ、ボディの存在で孤独を慰めたという。ドゥイベンコが気の毒である。
1924年2月、ノルウェーは正式にソ連を国家として承認し、9月6日にはノルウェー国王からコロンタイを大使として受け入れる旨が伝えられた。こうして、冒頭に書いたように、世界初の女性大使が生まれたのである。
1925年12月12日、コロンタイとボディは同時にノルウェー大使館を去り、一度別れたのち1926年4月にベルリンで落ち合い、同居を開始した。この間に彼女は一緒に党を辞めて世界のどこかで平和に執筆生活を送っていこうという旨の手紙をボディに書いていたのが残っている。しかし、ボディは彼女にソ連の要職にあり続けることを求め、彼女はそれに応じた。スターリンは今度は彼女にメキシコ大使としての職を与えた。しかし、革命を恐れるアメリカ政府やメキシコ政府の圧に耐えられず、1927年5月には配置換えを願い出てウルグアイ大使を割り当てられるが、ヨーロッパに帰りたかった彼女は健康上の理由を盾に大陸への帰還を要請し、2ヶ月の休暇を取って温泉街バーデン・バーデンで湯治を行いつつ、ベルリンでボディや結婚して子供を儲けた息子に再会している。特にボディとは甘美な時間を過ごしたようである。
1927年12月に、再びノルウェー大使としてオスロに入った。1928年には3週間ボディと同居生活している。1930年にはスウェーデン大使としてストックホルムに駐在地を移した。ここでも2人は時々会い、森を散歩したりなどしている。
1930年代後半にはスターリンの虐殺が起こる。かつての恋人たちも犠牲になり、1935年にはシュリャープニコフ、1938年にはドゥイベンコが逮捕され死刑になっている。コロンタイ自身は1924年にレーニンがトロツキーを批判している手紙を公開したことでスターリンに取り入り、以降ノルウェー大使時代にもトロツキーのビザを拒否するなど、スターリンに忠実に仕事を行っていたため、粛清の対象にはならず、むしろスターリンから一定の評価を得ていたものとされている。2人の元恋人の死に関しても、公式には何の反応もしていない。この粛清を少しでも非難すれば自分の身が危うくなることを悟っていたのである。
1936年にはコロンタイはボディを通じて、スターリンはヒトラーと不戦条約を結ぶ用意があることを当時のフランスの首相レオン・ブルムに伝えている。当時からみれば当然だが、ブルムはそれを信じなかったという。
彼女は以降、新しい愛人を持ってはいないようである。ということで、恋愛遍歴はここで終わりだが、一応彼女の死まで簡単に書いてオチをつけよう。
1939年に独ソ不可侵条約が結ばれ、その際の秘密協定に従ってドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まる。ソ連は中立を主張して動かなかったフィンランドがレニングラード(ペトログラード)に近すぎるのを危険視し、フィンランドに侵攻を開始する。コロンタイはフィンランドに出自を持つものとして平和条約締結のために尽力しつつ、スターリンに忠実に従ってスウェーデンが中立を保つように外交的圧力をかけた。1941年、不可侵条約が破られ独ソ戦が始まったのちも、コロンタイはフィンランド停戦とスカンディナビア半島の中立確保に尽力した。その最中、多忙のためか1942年夏に彼女はついに倒れ、左半身が麻痺し、以降は車椅子に乗っている。当時70歳である。業務続行不可能と判断されてソ連に帰ったのは1945年春に肺炎を発症した際であり、以降彼女は外務委員の指南役としてモスクワに留まることになった。
彼女が死んだのは1952年3月9日の朝で、まもなく80歳の誕生日を迎えるところだった。死後、政府の広報では外交官として讃えられたが、革命家としての称賛はなかった。翌年にはスターリンが死に、ソ連は一時代を終えるのである。
コロンタイはウラジミール・コロンタイとパヴェル・ドゥイベンコの2名と結婚しており、ウラジミールとの間に1人の子供を作っている。ウラジミールは彼女との離婚後再婚しているが、ドゥイベンコは独身のまま粛清によって命を起こした。彼女の文学的人生に最も影響を与えたのはドゥイベンコである。
一方で、彼女の政治的人生に影響を与えた愛人はマロトフ、アレクサンドル・シュリャップニコフとマルセル・ボディの二人である。マロトフの影響で彼女は長くメンシェヴィキに止まったが、シュリャップニコフは彼女をボリシェヴィキに引き入れた上でレーニンと対決させ、一方、ボディは彼女に実践的有用性を説いてスターリンと良い仲であり続けることを勧めたものと思われる。
コロンタイは愛人の影響を大きく受けながら、その政治的な態度を変えていった。彼女が1900年代には死刑に反対し党員生命をかけてレーニンに反対したのに対し、1930年代には大粛清を行うスターリンに迎合した点に一貫性を見ることができないのが、現在までのコロンタイ評価の問題となっている。
現在まで多くの仮説があり、日和見主義だった、スターリンの虐殺から子供を守りたかった、世界大戦を前にしてロシアのために戦うにはスターリンに協力せざるを得なかったなど、さまざまな解釈が存在する。スターリン時代は人民にソ連への愛国心を育んだ時代であるとして、現在でもロシア人の中にはスターリンを評価する声が多い。コロンタイもスターリンの影響下でナショナリズムを育んだ一人だったのかもしれない。
しかし、上に示した通り、恋に忠実だったと見ることも出来なくはないのである。彼女は第一次世界大戦前に平和主義を訴えて回ったことで「ペチコートを着たジョレス(Jaurès en jupon)」というあだ名を付けられている。ジャン・ジョレスは平和主義を訴えたフランスの社会主義者で、第一次大戦前に暗殺されている。私は正義に頭でっかちになっているジョレスが嫌いで、1900年代のコロンタイには確かにジョレスに似た正義感ぶって悦に入っているような雰囲気を感じて正直嫌悪感を覚える。
しかし、もし彼女のその振る舞いが恋人へのアピールだったとしたら。彼女の演説が世界に向けられたものではなく「あなたと同じ意見ですよ」と恋人に伝えるための大演劇だったのだとしたら、私はコロンタイを愛せるかもしれない。
いずれにしろ、彼女の思想・行動は恋愛と切り離せないものがある。その意味で、これ以降彼女の恋愛思想を読んでいく上でも本記事に書いたような知識が役立つものと思う。
この記事は彼女の伝記から恋愛に関する部分をすっぱ抜きつつ、必要に応じて別資料を参照して再構築しただけという中田敦彦的な制作物であるが、彼女に関して日本語で読める文献が少なそうだったので(日本にいないので実際は確認していないのだが)ある程度価値があるんじゃないかと思って公開する。
最後に、ロシア語のカタカナへの言い換えに自信がないので、それぞれのアルファベット表記を書いておく。
ツトロミン:Toutlomine
マスロフ:Maslov
シュリャープニコフ:Chliapnikov
ドゥイベンコ:Dybenko
ゼノデル:Jenotdel
<主要参考文献>
CARRERE D’ENCAUSSE Hélène, ALEXANDRA KOLLONTAÏ La Walkyrie de la Révolution, Fayard, 2023
COEURÉ Sophie, « Alexandra Kollontaï, révolutionnaire et féministe », Collège de France, [En ligne : https://laviedesidees.fr/Alexandra-Kollontai-revolutionnaire-et-feministe.html ] diffusé le 10 janvier 2023 (consulté le 17 janvier 2024)
ZETKIN Clara, Souvenir sur Lénine, Janvier 1924 [En ligne : https://www.marxists.org/francais/zetkin/works/1924/01/zetkin_19240100.htm]
M.I.A library, Alexandra Kollontaï [En ligne : https://www.marxists.org/archive/kollonta/index.htm]
▲コロンタイとドゥイベンコ