2024.02.05 文責【猫跨ぎ】
本稿は、我々はどうして恋愛の欺瞞に気づいていながら恋愛主義を抜け出せないのかという問いに答えるものである。— 結論、それは恋愛主義が近代社会を生きる我々にとっての夢だからである。
この要旨へと入る前に、まず以下の前提を確認しよう。
(1)まず、現代社会における家族を作るシステムは人々の手によって行われる「恋愛」に寄っている。この「恋愛」は、偶然訪れる伝統的な恋愛とは異なるもので、結婚へ進むための手続きとして能動的に意識的に行われる。現在は、社会のほとんど全ての成員が恋愛もしくは「恋愛」によって結婚に至らなければならないとされている恋愛主義社会である。
(2)一方で、恋愛と結婚を結合する考え方に限界があることは家族社会学を引き合いに出すまでもなく、結婚相談所レベルで広く語られる言説である。そもそも、恋愛相手とマッチングする際に、身体的特徴や社会的地位を条件としている人は自分のしている行為が伝統的恋愛とは異なるものだということを理解しているはずである。その上で、みんなが「恋愛」と呼ぶその行為を自分もしているのである。お見合いは周囲の人間が結婚相手を探してくれることをいうが、その選ぶ人間が自分自身やAIに変化しているだけで、現在行われている「恋愛」はその本質において難度が増したお見合いに過ぎない。このように、事実上自己本位でお見合いをしているに過ぎないにも関わらず、恋愛主義の建前がある以上これを「恋愛」という肩書きのもとに各人が行うことになった現代社会は修正恋愛主義になっているのである。
(3)現代の「恋愛」は自分自身で行わなければいけなくなった結婚マッチングである。恋愛市場の中で、人々は皆個人事業主となった。人は皆、自分自身の価値を上げつつ、自分自身の営業もしなければならず、相手の選別も自分で行う。そうして得られた関係性を人は「恋愛」と呼ぶ。そのため、現代社会において「恋愛」は非常に負担の重いものになってしまった。だから、「恋愛」から撤退する人間が増加していくのである。
(4)このように、我々は「恋愛」は欺瞞であることにも、修正恋愛主義が個人に負担の大きいものであることにも、気がついている。にも関わらず、我々は「恋愛」を演じ続ける。我々は恋愛主義の前提を抜け出すことができない。我々が恋愛結婚をしたいと思うし、逆に「愛のない結婚なんて気持ちが悪い」「愛のないセックスで生まれた子供なんて可哀想」などという感覚は、悲しいかな、私ですら持っている。だから、我々は自分の「恋愛」を恋愛だと信じる。恋愛主義は、合理的判断や理性的な言説によって変えることができるものではないのだ。
ここまで議論を進めた上で「恋愛主義は近代社会を生きる我々にとっての夢である」という論考に入っていくことができる。この部分のみを本稿では扱う。
(1)(3)の部分に関しては論考「22世紀の恋愛主義」やABEMA Primeにおいてある程度触れることができているはずだ。(2)の修正恋愛主義については、別の機会に考えをまとめることができると思う。本稿は主に(4)以降を扱う。
本稿の構成は以下である。まず第1章では、19世紀ヨーロッパで恋愛結婚が発明されたとされるのは、民衆層の恋愛結婚の論理が貴族層の規範に侵入したためであるという見方を示す。次に、第2章では新たに誕生したブルジョワと労働者という階級において、恋愛結婚を排除する力学がブルジョワに働いていたのに対し、民衆層は恋愛結婚を拒否する理由はやはりなく、左翼陣営の側から恋愛結婚の称揚が行われたという構造を示す。結果、資本家階級においても恋愛主義の理想は浸透するが、実際面では限界が残っており、この頃から我々は恋愛主義の夢を見始めていたのである。第3章では、1970年代以降、家庭と市場の連関がマルクス主義フェミニズムによって指摘される中で、自由主義の夢はさらに加速しつつ、実際の結婚はやはり修正恋愛主義の現実主義をとっていることから、戦前よりさらに強化された恋愛主義の夢の中に我々がいることを示す。我々のこの夢は産業資本主義の必然によって起こっているのである。
恋愛思想の変遷を階級間の論理の超越から説明しようとする本稿の試みは、私の知る限り斬新な物である。また、恋愛主義の欺瞞を社会の必然として説明する枠組みも、私の知る限り他にない物である。これらの説を本稿のみで十分論証し切ることはできないかもしれないが、その可能性を提示することができるだけでも大きな価値があるものと考える。
《社会》は 《家庭》に支えられ、 その《家庭》が 《愛》に支えられている以上、結局《愛》が全てに先行しているのだ。
— ジュール・ミシュレ『愛』(1858)—
恋愛の歴史が語られる時、人々は必ず12世紀の騎士道恋愛やら17世紀摂政期の宮廷恋愛などを引き合いに出すのだが、これは文学上の話なので、小谷野敦のように「恋愛思想史」として叙述するのが最も誠実であろう。これらの文学的恋愛は美的であったり、退廃的であったりするから物語として成立するのであり、現実はまた別であったと考えなければならない。特権階級において恋愛結婚が不可能なのは当たり前で、聖職者の場合アベラールのようにキリスト教的規範の縛りがあるし、封建領主であれば社会階層の維持(マリヴォーの戯曲のような)のために、様々な社会的条件が結婚の論理の軸となる。
しかし、財産もクソもない社会的下層においてはキリスト教や財産の拘束力は比較的弱いので、ある程度恋愛によって結婚相手を決定できていたとしてもおかしくない。猿だって異性を選んで求婚しているのだから、普通に考えれば人間が好きな異性とセックスして子孫を残したいという感情を持つのは当たり前なのである。恋愛結婚が構築された物だとかいう説をしばしば見るが、これは構築主義の妄想の一つで、発明されたのは単婚家族や恋愛主義であって、恋愛結婚ではないのではないか。
19世紀フランス最大の歴史家ジュール・ミシュレも中世世界を描いた小説『魔女』で恋愛結婚を想定している。中世の領主が結婚する新婦の処女を新郎に売ったという話は『魔女』の一節なのだが、有名な話なので聞いたことがある人も多かろう。新郎は新婦の処女のために持参金も含めた全てを領主に差し出したこともしばしばあったというが、そうまでして嫁の純潔を守りたいという心理は、恋愛とセックス、セックスと結婚が民衆の心においてつながっていたことの証左ではなかろうか。
このように、近世において、民衆の多くは個人の感情(恋愛)を軸に結婚相手を決めていたと考えている。領主制においては、農民は場所を移動できないので結婚相手も限られてくる。なので、恋愛を軸にしているといっても完全に自由ではなく、限られた人間の中からある人を選ぶという点で弱い自由が認められており、その限りにおいて民衆は恋愛結婚していた訳だ。一方で、冒頭に触れた貴族階級も、社会的条件を軸に結婚を行っていたのだが、もちろんそれが全てではない。例えばニコラス・ルーマンが指摘しているように、社会的上層でも「あなたのことは好きになれません」という愛せないことを理由に結婚を断るという消極的な恋愛の関与はあった。マリヴォーの『愛と偶然の戯れ』でも、シルビアははじめに相手が気に入らなければ縁談を断ってもいいと父から言われている。貴族階級にとって、恋愛は確かに周縁的であったが、結婚の大切な要素だったのである。つまり、民衆層と特権階級において、結婚の要因としての恋愛がより存在感を持ったのは元々民衆層においてであったが、特権階級においてもその存在が完全に無視されていたわけではなく、むしろ19世紀にはその存在感が劇的に増加したということになるのである。
この特権階級における結婚動態の変化は18世紀末に発生したロマン主義を原因としたものである。フランス文学的にはロマン主義は1830年ユゴーの「エルナニ」上演に始まったものと覚えるが、ルソーらの政治的ロマン主義やゲーテらドイツの「嵐と衝動(Strum und drang)」は18世紀末であり、恋愛に決定的影響を与えたのは彼らであるから、ロマン主義恋愛としてのロマン主義は18世紀末を起点とするのである。
当時最も多くの部数出版された小説はルソーの『新エロイーズ』であった。内容だが、ジュリーとサン=ブルーは両思いだが身分の違いから結婚できず、ジュリーは貴族ヴォルマールと結婚することになる。しかしやがて、そこにサン=ブルーも加えた3人の同居が始まり、彼らは恋愛と友愛に結ばれたユートピア的共同体を形成する。
人間の不平等を批判したルソーは、このようにして身分違いの恋愛にも事実上の結婚が可能であるような状況を描いたのである。ここにおいて、ルソーは貴族層の結婚原理に民衆層の恋愛の論理を導入することを試みたのだと解釈することが可能である。ルソーは、階層による結婚規範の分離を、人間心理に従順な民衆側の恋愛の論理によって統合することを試みたのである。
この小説は、とりわけ貴族の婦女子に愛読されたという。彼女らは恋愛結婚に憧れ、結果、結婚を決定する要因として恋愛の存在感が増した。
もっとひねくれた考え方もある。以下は冒頭に引用したミシュレの言である。
「愛以外の多くのテーマ(例えば教育)については光彩陸離たる論陣を張ってきた著名な空想家たちも、愛というテーマに関してはそれほどの成功を収めなかった。敢えていえば、彼等はこのテーマに関してはほとんど精神の自立性を示してくれなかった。彼等の理論は、形式は大胆だけれど所詮は既成の現実に本質的に縛られており、当代の風俗を臆病に透写しているにすぎないのだ。ポリガミックなものが行われていることに気付くや、彼等はそれに追従して、未来にポリガミックなユートピアを描くのである。」
ミシュレは名指ししていないがこれはルソーのことだろう。ルソーには教育論『エミール』があり、『新エロイーズ』はポリガミックなユートピアを描いたものである。すると、ミシュレが言うにはルソーは「当代の風俗を臆病に透写しているにすぎない」ことになり、ルソーすら当時の特権階級において恋愛の比重が重くなり始めていたのを書き写しただけなのかもしれない。
というのも、当時は革命の時代なのであり、個人主義・理性主義の卓越が起こっていた時代であるから、社会的に行われる結婚と対抗する物としての恋愛結婚は理想として大きな価値を持ち始めていたのである。ルソーはその社会の夢を敏感に感じ取り、小説にしただけなのかもしれないのだ。
このように、フランスの思想が革命へと向かう中で、特権階級においても恋愛結婚の理想と実際の社会規範という二重性が生まれ始めていたことを見ることができた。その恋愛結婚の理想は民衆側の論理として自然に存在していたもので、構築された物でもないことも説明した。
しかし、特権階級は革命によって葬り去られ、その中で19世紀には生産階級と非生産階級という別の階級が立ち現れてくる。次章では、この近代を見ていくこととする。
結婚への入り口をできるだけ簡単に費用のかからないようにしなければならない。そうすることで愛によって結ばれた夫婦を増やすことができるし、恋愛結婚こそそれに唯一相応しい結婚なのである。
— アンリ・クーロン『結婚改革について』(1900)—
ジョルジュ・ルフェーブルはフランス革命を「複合革命」であるとした。これは、特権階級に対するブルジョワ市民革命であるのと同時に、農奴の領主への反抗でもあったからである。なので、特権階級が消え去ったのちには、生産階級と非生産階級の対立が残ったのである。この階級を批判したのがマルクス主義ということになる。
さて、資本を持つブルジョワ階級は、メリトクラシーを維持するために、同じブルジョワの子息か貴族(というのも、フランスは革命後も帝政・王政と共和政の間を彷徨うことになるので)と自分の子息を結婚させたがる。ここにおいて、恋愛結婚を周縁化する新たな力学が生まれる。
一方で、民衆層の恋愛結婚は相変わらず健在であった。例えば、ゾラの『ジェルミナール』は19世紀中盤の炭鉱労働者の話だが、彼らは炭鉱脇に集住させられており、女と男はどちらも働いていて炭鉱で毎日のように顔を合わせ、しばしば適当に恋愛してセックスして子供ができたら結婚している。ここで働いている唯一の結婚に向かう力学は恋愛である。フロベールの『三つの物語』の一つ「純な心」においても、文字の読めない下層民フェリシテは地元の祭りで出会ったテオドールと恋に落ち、結婚する気でいたが最終的に裏切られている。この出来事をフロベールは「他と人と同じように、彼女にも恋愛の話がある」としている。フロベールの観察によれば、当時の下層民にとって恋愛結婚は身近だったということだ。もっとも、これらの話は、近世と同じく、限られたコミュニティの中での恋愛結婚ではあるのだが。
このように、19世紀の社会では新たな階級分裂に基づいて、新たな恋愛の分裂も行ったのである。バルザックの『ゴリオ爺さん』のゴリオ爺さんは成金で娘らを上流階級に嫁がせるも、その出費の多さから破産するが、これなんかいい例だ。
さて、この階級をマルクスとその後の左派陣営は批判していくことになのだが、しばしばそこには結婚や恋愛への批判が混ざっている。最初に単婚家族を批判した重要人物はエンゲルスである。1884年の『家族・私有財産・国家の起源』において、彼は一夫一妻制は歴史的文脈に依存するもので、将来には変わりうるものであるとし、この私有財産制との連関を指摘している。この発想は、その後の女性社会主義活動家に継承されていき、1910年にはオーストリア人のグレーテ・マイゼル・ヘスが『性の危機に関して(Die sexuelle Krise)』で一夫一妻制を批判し、アレクサンドラ・コロンタイがこれに同調して「結婚の鎖から放たれた本当の性的な恋愛を求める女性の気持ちは、現在の伝統では敗北しているが、我々はここから抜け出すことができるかもしれない」と書評を発表している。コロンタイに関しては当会の「アレクサンドラ・コロンタイの恋愛遍歴」をご参照願いたい。彼女はボリシェヴィキでロシア革命後ソ連の閣僚となっているが、1918年には演説において結婚を以下のように定義している。
「愛と尊敬によって結ばれ、嫉妬から解放され、女性が男性に従属していない、つまり、両者が平等であるような、労働者国家の成員2名」
愛によって結ばれながら嫉妬がないというのはポリガミーのことをいうのだろうが、とにかくコロンタイの思想においても、結婚は恋愛による結びつきとして帰結している。共産主義においては階級は存在せず、財産の不平等もないのだから男女が結ばれる論理は恋愛のみとなる。コロンタイの発想にはこの前提があった。つまり、自由恋愛による結婚とは圧倒的に労働者側、共産主義側の論理だったのである。
フランスにおいて、この批判が一部実現した時がある。本章冒頭の引用は「結婚の危機とは何だったのか?」において検討した、20世紀初頭の結婚批判における一節である。1906年、フランス政府は官民合同で結婚改革委員会という組織を立ち上げた。当時の政府は急進共和派で、ワルデック・ルソーなども実権を持っていた比較的労働者に近い革新的な政権である。引用にあるように、本委員会が立法府に提出した案には「愛によって結ばれた夫婦という、唯一相応しい結合(des unions fondées sur l’amour, les seuls vraiment dignes)」とあった。この改革は結婚を恋愛に基づくものにするために結婚を変革するという物だったのである。改革の帰結に関しては、上に挙げた記事に詳述した。
しかし、このように「結婚は恋愛に基づくべきである」としばしば彼らが発信しているのはなぜなのかといえば、それは実際には結婚を恋愛に基づいて行っていない人たちが多くいたからなのである。みんなが恋愛結婚することが前提の現代社会では「結婚は恋愛に基づくべきだ!」と言っても「何を当たり前のことを」と思われるばかりであり、あえていう必要がない。逆に、このように何度も革新勢力の知識人らによって批判されているということは、それがまだ市民社会において当然の前提ではなかったということなのである。
一方で、この革新的市民層は民衆層の恋愛の論理を使いながらも、出自をブルジョワ階級に持っていることを見逃してはならない。結婚改革委員会は弁護士やジャーナリスト、文学者から構成された集団で、全員知識階級である。副委員長であるAvril de Saint-Croixは婦人参政権を要求して活動したフェミニストでコロンタイから見れば敵に相当する。また、そういうコロンタイも母方の実家はフィンランドの大土地所有者であり、両親が死ぬまで資金援助を受けてスイスの大学で勉強していたブルである。
彼らの存在のおかげで、プロレタリア革命が成功せずとも、労働者階級における恋愛の論理はブルジョワ知識階層にイデオロギーとして侵食していったのである。日本でも平塚らいてうや与謝野晶子らのようなブルジョワ・フェミニストが自由恋愛を標榜し、その思想は一定の影響力を持ったわけである。彼女らは自由を夢見た。
しかし、この時代の生産階級と非生産階級の文化資本の違いは大きすぎる。実際にはブルジョワ階級は子女が自由恋愛によって結婚したとしても、教養の足りない工場労働者を恋愛相手として連れてくるなどということはほとんどなく、せいぜい『若草物語』のようにドイツ人の貧乏な教員を連れてくるくらいが関の山なのである。ブルジョワ階級が自由恋愛思想の浸透に概ね寛容だったのは、恋愛結婚でとんでもないことになるということはまず起こり得なかったからであり、当時の自由恋愛がある程度の範囲の異性から節度と良識を持って選択を行うゲームに過ぎなかったことを指摘できる。
ここに、恋愛主義の理想と事実上の社会的結婚という事実の両輪がすでに見え始めている。産業資本主義において、生産手段を持ち続けることはブルジョワにとって絶対の要求であり、これが日本の場合市民層における根強いお見合いの保持に向かった。一方で、近代社会とは自由な個人が民主主義によってものを決めるという理想に根ざしており、完全に個人主義的に人に訪れる恋愛を結婚の動機づけとすることは理想として確立されたのである。
よって、恋愛主義は近代社会の夢なのである。この夢は第3章で見るように、1970年代の家庭批判において、さらに強化されることになり、日本の恋愛主義の確立につながっていく。
ところで、戦後日本で自由恋愛の称揚が行われたのは、GHQの言論統制のもとにおいてであり、CIEが民主主義の啓蒙として自由恋愛を取り入れた映画を作るように指示し「彼と彼女は行く」や「はたちの青春」などの接吻映画が撮られた。これらの映画では、恋愛が結婚に直接結びついている。
ここにおいて、自由恋愛の標榜者は社会主義者からアメリカという自由主義者に変化しているという点を見逃してはいけない。やはり、民衆層から革新的知識人が取り出した恋愛主義の論理は、自由主義陣営に理想として受け入れられ、ブルジョワに浸透したのである。同時に、日本を含む列強のメリトクラシーは帝国主義であり、帝国主義は戦争の推進力であった。そのため、自由恋愛による階層の解体は平和の実現を考える上でも手を取り合う存在だったのである。世界平和ももとは4月テーゼのような左翼勢力から起こり、戦後市民階層の理想となった思想である。恋愛と平和主義は実は同様の構造を持って人口に膾炙したのである。
「家族」という領域から「市場」は、ヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使いものにならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとって労働力資源としか見なされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。
— 上野千鶴子『家父長制と資本制』 (1990)—
現在の結婚は多くが「恋愛結婚」の建前のもとで行われる。恋愛結婚の数がお見合い結婚の数を上回ったのは1970年代である。70年代に家族が創造されるシステムが抜本的に変化したのだ。この解体の理論的支柱となったのはマルクス主義フェミニズムである。なぜフェミニズムは家族創造のシステムを変革しなければならなかったのかといえば、それはお見合い等の既存の家族創造システムには家父長制が内在していたためである。
この制度の下では、女性は男性を中心とする家に嫁ぎ、①子供を作り育てることで将来市場に供給する労働力を準備し、②労働者である男性の回復を助け、③市場で役目を果たした老人を引き受けて介護するという再生産労働を市場の外で担っていた。この労働と見做されない労働がいわゆる「家事労働」という奴である。女性は市場の外で、間接的に市場の要請を受けて再生産労働に勤めていたのである。マルクス主義フェミニズムはこれを解放しようとしたのだから、家族創造のシステムも当然市場とは別の論理に委ねられなければならなくなった。そうなると、既存のお見合いのような経済合理性の高いマッチングは使えない。果たして、市場と関係のない「自由」な家族創造システムとして採用されたのは、古くから財産を持たない民によって脈々と受け継がれてきた恋愛結婚であった。恋愛は偶然訪れ、愛し合う2人は本人らの意思のもと自由に結婚することができる。この偶発性が市場原理とかけ離れたマッチングを生み出すためには必要だったのである。
こうして、結婚にはおしなべて恋愛が先行するという恋愛主義の理想が成立する。しかし、現代の恋愛は本当に真に偶発的なものだろうか。この点に関して、私は「22世紀の恋愛主義」やABEMA Primeなどの発言で疑義を呈してきた。私の考える修正恋愛主義システムにおいては、人々は恋愛できないと結婚できないので、結婚をするための手続きとしての擬似的な「恋愛」を行う。この疑似恋愛は実質的に条件の良い結婚相手を探す作業に過ぎないので、近くにいる人から相手を探す場合、その人の見た目や性格、経済力等を総合的に判断して妥当かどうか判断する。またマッチングアプリ等を通して互いの条件を照らし合わせる場合は、マッチングさせる存在が親や親戚からAIに変わっただけで、実質、精度の悪いお見合いである。つまり、偶然で「自由」な恋愛と違い、疑似恋愛は市場の合理性の影響のもとに必然的に判断されているのであり、そもそものマルクス主義的な理想すら追えていない空想、すなわち「夢」なのである。
現代社会は、現実は修正恋愛主義システムに従って、多くの人間が「恋愛」に見える何かを行って、結婚相手を決定している。しかし、人々は自分の行なっているものは恋愛であり、この世は恋愛主義であるという「夢」を見ている。そして、この「夢」も、現実の修正恋愛主義システムも、どちらも近代産業社会の仕組みから生み出されたものなのである。
ここからは堂々巡りである。近代産業社会とは何か? その特徴は産業資本主義という経済制度と民主主義という政治制度の2つにある。
産業資本主義とは簡単に言えば利益追求を原動力として発展する構造のことである。近代社会はこの構造のもとに発展を遂げてきた。その馬力となる労働力を吸収しつつ破棄する場として家庭があるのであるから、どうしても家庭は再生産されなければいけいない。この要求にしたがって、人々の結婚をマッチングなどによって促進するのが修正恋愛主義の原理である。
一方で、民主主義の特徴は個人主義と自由主義である。前章の最後に書いたように、アメリカは民主主義の普及のために、接吻映画で自由恋愛による結婚を奨励したのである。このようなアメリカによって作られた平和主義と自由主義に基づく民主主義の理想のことを人々はしばしば戦後民主主義と呼ぶ。戦後民主主義は70年代に新左翼から歪曲されて非難されるが、その精神は確かに左翼に受け継がれていっていた。だからこそ、戦争の推進力となった家父長制の解体という側面からも、自由な個人が産業社会の要求に関係なく家族を創造する必要が生まれ、その論理は偶発性に支えられた恋愛を起点とするものにならなければいけなくなった。ここにおいて、現代社会は恋愛主義の建前を必要不可欠なものとして要求することになるのである。
この構造は、前章で見たように、すでに19世紀に発現していたが、1970年代の市場と家庭の関係性に関する批判を経た後においては、単なる自由を理想とするロマン主義ではなく、女性解放の実存的な必要に迫られた思想へと変化したのである。
このように、近代産業社会の論理が修正恋愛主義の現実と恋愛主義の「夢」の両者を同時に生み出しているのである。これが、我々が恋愛主義の限界を理解して行動しているにも関わらず、頭においてはその夢を見続けている原因なのである。
市民革命と労働者革命の思想において、結婚に関する独特の力学が働いていた社会的上層に対し下層の持っていた比較的自由な恋愛の思想が理想として流入した。それがルソーやコロンタイの思想だったのではないのかと、本論考では読んだ。ロマン主義の発想の一つは合理主義によらない人間の実存を解放することであったが、恋愛結婚というのは確かに自由な人間の本能に基づいた家族生成の欲望なのである。この自由恋愛という夢が産業社会を支える上流階級にたびたび照射され、恋愛思想に揺らぎが生じてきたのが産業資本主義成立以降の恋愛思想史なのではないか。
戦後、階級間の文化資本の差は縮まり、恋愛思想の階級差は減少した。20世紀を通じて、全ての労働者が生産に関わるようになり、有閑階級となった。日本は一億総中流とされ、これは佐藤俊樹が嘘だと暴いているが、少なくとも恋愛思想においてはよほど上層や下層でない限り同じマインドを持つことになった。ここにきて、日本は60・70年代を迎え、マルクス主義フェミニズム批判を喰らうのである。「お見合い結婚」は解体され「恋愛結婚」が主流となり、人々は皆誰でも偶然訪れる恋愛によって自由に家族を作るのだということになった。しかし、これは自由民主主主義の見せる夢であり、実質は修正恋愛主義によって産業社会の支配下に存在し続けている。
産業資本主義が成立したのは19世紀である。本論考で見てきたように、19世紀以降、生産階級において自由恋愛の称揚と実際の家族生成は乖離していたのであり、それは現在においてさらにひどくなっている。
「近代社会は恋愛を夢見る」という本稿のタイトルの要旨は、ここまでで十分伝わったのではないだろうか。
恋愛主義は社会の仕組みの変化に従って移り変わる。社会を変えるために恋愛のシステムを人間が変えることはあり得ない。
逆に言えば、恋愛の今後も、社会の仕組みの変化を予測することによって、占うことも可能である。
この占いは、冒頭に宣言したように「修正恋愛主義」に関する詳しい論考をまたの機会に書くことで詳述していきたいが、ここで少し予告しておくと、産業社会の論理では家族の生成は効率化するほうがいいわけだから、人間をマッチングするさらに効率の良い方法ができつつ、我々がそれを恋愛であると信じ続ける世の中ができあがっていくのではないかというのが一つの仮説としてありうる。
その時、童貞存在はどのように変わるだろうか。私は、私以外の全ての人間が恋愛主義の夢を見ている社会にあっても、童貞の自意識を忘れないでいたいと思う。
そういえば、上皇と正田美智子すら恋愛結婚である。上皇は君が代を学校で無理に歌わなくていいと言ったという戦後民主主義の権化みたいな人であるが、なるほど、まさに戦後恋愛主義の象徴である。
悠仁様も、来年東大にいらっしゃったら、学内で素敵な相手を見つけられるのだろうか。いっそのこと、人権がないのを逆手にとって側室を作りまくって天皇後継問題を解決して欲しいものであるが、恋愛主義の社会がそれを許さないだろう。
本論考は、恋愛主義言説の歴史を辿りつつ現代まで至り、近代社会の恋愛主義という「夢」が立ち現れる構造と、実際に家族が生まれる構造に関して考察を行った。恋愛観に関して階級差を導入した視点と、現代を生きる我々が恋愛主義の夢想を抜け出せない理由を近代社会の仕組み自体によって理由づけした点に、本論考の新規性がある。
<主要参考文献>
BARDET, Jean-Pierre. dir, Histoire des populations de l’Europe, tome 2, Frayard, 1998
CARRERE D’ENCAUSSE Hélène, ALEXANDRA KOLLONTAÏ La Walkyrie de la Révolution, Fayard, 2023
MICHELET Jules, L’amour, Hachette, 1870
MICHELET Jules, La sorcière, Calmann Lévy, 1873
Comité de réforme du mariage, La réforme du mariage : exposé des motifs et projet de loi, MAHCHAL ET BILLARD, Paris, 1906 [En ligne] https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k57006727/f1.
上野千鶴子『家父長制と資本制ーーマルクス主義フェミニズムの地平』岩波現代文庫 2021
佐藤俊樹『社会は情報化の夢をみる』河出文庫 2015
ジュール・ミシュレ(訳:森井真)『愛』中公文庫 2007
山本昭宏『戦後民主主義 ーー現代日本を創った思想と文化』中公新書