2024.01.16 文責【猫跨ぎ】
急進共和派の日刊紙 L’Action 1906年7月5日号の一面に「結婚の危機 改革プロジェクト」(LA CRISE DU MARIAGE, Un Projet de Réforme)という題名の記事が大きく掲載されている。
結婚の改革プロジェクトとして、フランス政府が「結婚改革委員会」(la comité de la Réforme du Mariage)を設置したというニュースである。記事によると、委員長となったHenri Coulonは改革方針を3つ述べている:
委員長Henri Coulonは以下のように述べた。
結婚への入り口をできるだけ簡単に費用のかからないようにしなければならない、こうすることで愛によって結ばれた夫婦を増やすことができるし、愛こそ結婚するための理由として唯一本当にふさわしいものなのだ。
次に、夫婦に平等な義務と権利と責任を与えることで、結婚を健全化しなければならない。これによって、結婚をより生活しやすくし、現在あるような不道徳の状態を改善できる。
最後に、これが最も大切なのだが、離婚を簡単にすることで結婚の出口を広げなければならない。離婚は二人の独立した人格を持った人間に対して普通に認められるものになるべきだし、現在のように毛嫌いされるような笑い話であってはならない。
(Il faut, dit le président du comité, M Henri Coulon, que l’entrée dans le mariage soit rendue aussi facile et aussi peu onéreuse que possible : on aura ainsi aidé à l’accroissement des unions fondées sur l’amour, les seuls vraiment dignes.
Ensuite, il faut assainir le mariage en accordant aux époux mêmes droits, mêmes devoirs, responsabilités égales. On l’aura, par cela, rendu plus habitable, moins immoral qu'il ne l’est actuellement.
Et enfin — cela est essentiel — il faut en élargir la porte de sortie en facilitant le divorce — le divorce qui deviendra la separation digne de deux êtres conscients, et ne sera pas l’abominable comédie qu’il est actuellement.)
これはCoulonが1900年に発表した「結婚改革について(De la reforme du mariage)」という論考からの引用である。つまり、結婚と離婚への敷居を低くし、男女平等を推し進めるという趣旨だ。恋愛結婚を称揚するその姿勢が色濃く、離婚への忌避感や家父長への権力集中のような人々の精神に対する問題提起という性格が強い。
一方で、隔週発行された文化系雑誌 La grande revue 1908年8月25日号では、この委員会は「立法者と民間の現行法を改正するための計画を準備するために作られた委員会(une commission de législateurs-amateurs qui s’est donné pour tâche de préparer des projets de loi corrigeant la loi existante)」とされており実務志向が感じられる。現行法とは具体的に民法典(le Code Civil)のことであり、その改正のために作家やジャーナリストなどの民間人を巻き込んでいる。
この委員会は、現在Wikipedia のページすらないほど、フランス史において知られていない。そこで、本記事では当時の新聞記事や実際に委員会が残した資料などからこの謎多き委員会に注目し、なぜ1906年というこの年に結婚が問題視され、その改革が試みられたのか。そしてその改革は何をもたらしたのかなどに迫って行こうと思う。
この記事の構成だが、第1章でまず当時の歴史的文脈を把握し「結婚の危機」とは何を指すのかを検討しする。第2章では結婚改革委員会が何を目指したのか、何をしたのかを新聞記事等から読み解く。第3章ではそれまでの議論を踏まえて、結婚改革委員会が提出した83条の改正案を実際に読んでいく。最後に以上からわかったことをまとめつつ、統計などを用いて1906年という時代の恋愛論的立ち位置を検証する。
La grande revueによると、結婚制度改革の必要性が際立ったのは1903年の民法典100周年記念式典の際であった。この民法典はナポレオン法典とも呼ばれるもので、ボアソナードが起草した旧民法のもとになったものである。100周年を機に、その問題点を改正する作業に注目が集まり、その一つとして結婚制度が俎上にあがったのである。1906年に結婚改革委員会ができる前から2、3の会合は開かれており、そこでの議論が当時の問題点を映し出してくれる。
ここで1人注目しておきたいのはPaul Hervieuである。彼は1900年2月15日にアカデミーフランセーズに選出されていた劇作家であり、夫婦の相互の義務として現行法に記載のある忠誠、援助に加え、愛(l’amour)を書き込むことを提案していた。愛のあるなしをどう判断するかは置いて置いて、立法事実として恋愛結婚以外が社会的に不道徳になりつつあった状況は読み取れる。彼の代表作で1895年に初上演された劇「ペンチ(Les Tenailles)」は若くして結婚させられた夫婦の話で、まず妻が不倫し夫に離婚を申し込むが夫が拒否し、10年後彼女にできた子供が別の男との子供だったことを知った夫が離婚を申し込むが今度は妻に拒否されるという、事情が変わって不倫を望む側が変わるが結局どちらも結婚というペンチにがっちり掴まれていたという結婚制度批判の劇である。この悲劇(喜劇)の原因は2人が若くして結婚させられた点にあるという点で当時の慣習的な結婚を非難し、恋愛結婚を礼賛する劇であるといえる。この劇が上演の翌年の1896年にアカデミーから最優秀喜劇に与えられるトワラック賞(Prix Toirac)を授与されているのは、この考え方が知識人層の理解を得ていたことを示す。
さて、初めに引用したL’Actionの記事によると、結婚の危機の主な要因は離婚の制度設計と離婚数の増加にあるという。こちらが結婚の危機の最も中核と言える部分だろう。フランスでは、革命期に離婚が初めて権利として認められ、ナポレオン法典で暴行や姦通などの理由がある場合に認められることになったが、復古王政期にキリスト教的な伝統に立ち返って離婚は禁止され、それが再び認められたのは1884年に化学者Alfred Naquetが提出した法案が国会で可決された時であった。ここではナポレオン法典と同様、離婚は姦通や暴力などの理由がありその証拠が提出された場合にのみ可能となった。この法律は1975年にジスカール・デスタン大統領の元で改正させるまで有効であり続けた。L’Actionはこの離婚制度に問題提起している:
女性は、結婚時の若い内から、自分が非難されるべきことは何もしていなくても、夫も同様だが、離婚につながるような環境(暴力など)の犠牲にならなければなくなるかもしれないということを知らなければならない。
(La jeune fille, au moment de son mariage, doit savoir que même si elle n’a rien à se reprocher, elle pourra devenir comme le mari du reste, victimes de circonstance rendant inévitable le divorce.)
セーヌ区民事裁判所の副裁判長Séré de Rivière氏の調査によると、1885年には3000ほどの離婚しかなかったのが、1902年には11000を超えており、パリだけで2771件の離婚判決が出ている。
(D’une enquête fait par M Séré de Rivière, le vice-président du tribunal de la Seine, il résulte qu’il y avait à peine 3,000 divorces en 1885 ; il y en a plus de 11,000 en 1902. A Paris seulement, en 1902, il a été prononcé 2,771 jugements de divorce.)
このように、Naquet法の下では離婚する場合、夫婦のどちらかが姦通や暴力をしていなければならず、夫婦がどんな問題を抱えていても実際にその事態が起きるまで離婚することはできなかった。もっと言えば、離婚のために不義の罪を着せられる女や、暴力夫の誹りを甘んじて受けた男もいたことだろう。それなのに、離婚の数は増加する一方で、多くの人間がこの法律の犠牲になっていたのである。委員会の改革方針の中で離婚改革が主要とされていたのは、このような事情が背景にあった。
また、人口減少と結婚の危機を絡める意見もある。保守派でグルノーブルの地方紙Les Alpes pittoresques 1910年6月15日号、7月1日号、8月15日号に「結婚の危機(La Crise du Mariage)」という連載がある。前の二つとは違い、右派的な立場から独特の見解を見ることができる:
それによって、フランス人たちはますます慎むようになっていった。彼らの結婚は遅くなり、人によっては結婚することを忘れてすらいる。そのうち、たくさんの子供を産もうなどと考えつく人間などというのはもっと珍しい。
結果、フランスの人口は減少し、その周りの多産な国家は成長していき、その人口が国境から溢れかえるようになれば、フランスに侵攻し、フランスを消し去ってしまう用意ができている。
(C'est pourquoi nos compatriotes s'abstiennent de plus en plus: ils se marient tard, ou même, oublient de se marier, et bien rares sont ceux d'entre eux qui osent donner l'essor à une nombreuse progéniture.
Résultat: la France se dépeuple pendant que des nations prolifiques grandissent autour d'elle, prêtes à l'envahir et à la supprimer dès que leurs frontières ne pourront plus contenir l'afflux débordant de leurs populations.)
第一次世界大戦は1914年に始まるが、1907年には英露協商成立により三国協商が完成し、1908年にはオーストリアのボスニア・ヘルツェコビナ併合などがあり、バルカンの火薬庫化が進んでいた。独仏間の緊張も高い中、開戦時の1914年にはフランスの人口が約4000万人だったのにたいし、ドイツ帝国の人口は約6800万人いたとされている。実は革命以降のフランスは人口停滞にあり、ドイツの人口の圧をひしひしと感じていたことが読み取れる。そんな中、Les Alpes pittoresquesは結婚改革の必要を訴えていた。
ちなみに、実際のところ人口学者のJacques Dupaquierによると、歴史を大局的に見れば結婚率は増加傾向にあり、初婚年齢も減少傾向にあったようである。生涯未婚率は12.4%(1815-24生まれ)、約11%(1841-50生まれ)、10.5%(80年生まれ) と推移しており、初婚年齢も革命前26.5歳、中間期25.6歳、1913年23.8歳となっている。もちろんこれは鳥の目で見た歴史で、同時代の批評として晩婚化への懸念があるというのは1つの真実として考えておかなければならない。
では、Les Alpes pittoresquesは具体的にどのような結婚改革を唱えたのかであるが、要約すると2点に絞ることができる。意識改革と都市化阻止である。意識改革に関しては記事の導入部分の問題提起に見ることができる:
義務はどこにあるのだろうか? 魂に責任のある親たちは慎重さを捨てて子供らに早く結婚するように促すべきだろうか。夫婦は大家族を形成する負担に耐えうるか判然としない状態で楽観的に子供を産むことができるだろうか。
(Où est le devoir ? Les parents, qui ont charge d’âme, doivent-ils encourager les mariages précoce de leurs enfants et se départir de leur prudence un peu timorée. Les époux doivent-ils assumer, de gaieté de cœur, les charges d'une nombreuse famille sans être bien certains que ce fardeau si lourd n'excédera pas leurs forces?)
この部分の批判は現在にすら有効な真っ当な批判である。結婚させる親の判断、結婚後の夫婦の判断、そこに重い責任がのしかかっているために結婚がしにくくなっているということである。ここだけ見れば法や福祉制度に対する問題提起にも思える。その上で、この記事は3つの具体的な問題を挙げる:
社会的生活習慣の弱体化に関してはすでに語った。これは具体的に言えば、贅沢、幸福、快楽への嗜好が以前よりも強くなっていること、徴兵制が地方の人口を減らしていること、そして最後に最近完遂された法整備である。この法整備によって結婚への大きな力となっていた宗教的な概念が取り払われてしまった。
(On a parlé de l'affaiblissement de nos mœurs; — du goût de plus en plus prononcé pour le luxe, le bien-être et le plaisir; — de l'influence du service militaire qui provoque la dépopulation des campagnes, et enfin de l'oeuvre législative accomplie dans ces derniers temps et dont les tendances s'écartent nettement des conceptions religieuses qui avaient fait jusqu'ici la grande force du mariage.)
最初の2点はその後の部分で都市化とも言い換えられる。記事では、パリの風俗の乱れと地方の善良な家族観を対比し、地方の伝統的家族観を保守することが結婚の危機を乗り越えるとした。3点目の法整備とは1905年に成立した政教分離法に伴う一連の社会改革を示すものと思われる。3点とも、旧家族観を守る必要性を訴えている。精神の都市化への批判を踏まえ、この記事の結論部分は以下のようになっている:
現在、数少ない例外を除いて、贅沢は真面目に働いてきた人の頑張りを表現するものではなくなっている。贅沢は不安定な財を背後に隠すためのキラキラした幕であるか、ますます傲慢になっていく成金の見せびらかしであるか、もっと一般的には、上の階級に這い上がるための道具である。
フランスの未来に重くのしかかる悪を作り出したのは、この階級脱出の欲求、近づきがたい高みへの登りたいという普遍的欲求である。出生率低下の要因となっているのは、農村の放棄、晩婚化、持参金のとめどない追求、資力のない若い娘への不当な軽視、子供の数に対する不安なのである。
(Actuellement et sauf de rares exceptions, le luxe n'est plus la manifestation sincère et discrète d'une situation sérieusement établie. II est devenu le rideau brillant et trompeur derrière lequel se débattent certaines fortunes chancelantes, ou bien l'affirmation de plus en plus arrogante de certaines opulences de parvenus,ou bien encore, et cela d'une façon presque générale, l'instrument de conquête dont chacun se sert pour sortir de son rang et se hisser à un rang supérieur.
C'est ce besoin de déclassement, ce désir universel de s'élever vers les sommets inaccessibles, qui ont créé le mal qui pèse si lourdement sur notre avenir national. Ce sont eux qui engendrent tous les faits particuliers qui contribuent au ralentissement de notre natalité: désertion des campagnes, mariages tardifs, chasse effrénée à la dot, dédain injuste des jeunes filles sans fortune, limitation inquiète et inexorable du nombre d'enfants.)
この発想は、同時代の左派の新聞や言論にはなかなか見られない。そして実際、現代の研究でも、第三共和制期の人口停滞の原因として都市化や脱宗教化は指摘されている。Les Alpes pittoresquesの主張は、少子化を危惧している点、その原因として都市的な風俗の影響や宗教の崩壊を捉えている点で、非常にユニークかつ有効であった。しかし、結婚制度改革の構想は急進共和派内閣において進んだのであり、この新聞のような意見が政権側にあったとは思えない。それでも、右派左派ともにこの時代の結婚問題への注目度は高かったことは少なくとも言えるだろうし、当時の状況を正確に読み解く上でこの新聞を読んでおく意味はあっただろう。
以上が「結婚の危機」の内訳である。危機は民法典の古さに起因するもので、その古さは恋愛結婚が前提となっていないことや、離婚をするためには不名誉な理由が必要であること、結婚が大仰なものと扱われていることなどがあった。さらに、人口停滞から結婚の危機を憂う意見もあった。これらを解決するためのプロジェクトとして1906年、結婚改革委員会は立ち上がったのである。
L’Actionは細かく組織に参加した人間の名前を記録している。委員長は弁護士で画家のHenri Coulon、副委員長は女性でジャーナリストAvril de Saint-Croixであった。Coulonは離婚事例での弁護経験や著作が多い。Saint-Croixは第一次世界大戦後の国際連盟で国際フェミニスト連合の代表になるような著名なフェミニスト活動家であった。その他31人ものアクティブ・メンバーが書かれており、内4人が女性である。Jules Renardの名もあるが、Jules Renardの日記の1906年7月前後の内容を見てもこの委員会のことは見つからなかった。
一応1906年のフランス政治の傾向にも少し触れておく。1880年代に共和派が王党派を排して政権中枢を握って以降、ジュール・フェリーを中心とする穏健共和派が主導権を取る時代が続いたが、1887年ブーランジェ事件、パナマ事件等を機に穏健共和派が急進共和派を取り込んで政権は左傾化し、1906年10月には対独強硬派で共和主義者のクレマンソーが首相になっている。一章でも少し触れたが、1905年には政教分離法が可決され、聖職者の政治活動が禁止され、国家の宗教予算が廃止された。以降、宗教は信徒団体として登録が必要となったが、キリスト教はこの登録を拒んだことで、法的にはキリスト教が不法宗教となってしまうという状況が成立してしまっていた。革命後、国家の認める結婚は市民契約として宗教とは切り離されたとはいえ、伝統的に結婚や出産と教会は強い結びつきを持っている。そんな中、政府は頑なに世俗化の道を進んでいたのである。
以上のように、委員会が左翼系の活動的な人物を起用していたこと、そもそも当時の政権がかなり左傾していたことを踏まえると、委員会の急進的性格がわかるのではないだろうか。
さて、委員会の活動目的は初めに書いた(1)結婚の敷居を低くする(2)夫婦の義務を平等にする(3)離婚の敷居も低くするの3点がまずあるが、翌年1907年にLéon Blumが書いた『結婚について(Du Mariage)』にも、この委員会への言及があり、そこにはさらに具体的な委員会の問題提起を読むことができる:
昨年、政治家、文学者、ジャーナリストらが(その中には私の敬愛する人たちもいたが)1人の活動的なジャーナリストによって集められ、結婚改革委員会を作ったのを皆覚えているだろう。私はこの公的委員会が表明したいかなる関心事に関しても問題提起や解決を試みるつもりはない。結婚という概念につながるような法的な問題を扱うつもりもないし、多数派の結婚年齢、親の同意、契約の形式、非嫡出子を嫡子同等に扱うこと、私生児の承認問題、その他の類似の課題にも首を突っ込むつもりはない。
(On se souvient que l’an dernier un certain nombre d’hommes politiques, d’hommes de lettres, de journalistes — et dans le nombre j’en sais que j’admire ou que j’honore — réunis par un journaliste actif, constituèrent un comité pour la réforme du mariage. Je n’entends pas résoudre ou poser un seul des problèmes sur lesquels l’officieux comité publia son sentiment. Je ne traite aucune des questions légales qui peuvent accompagner l’idée du mariage, ni l’âge de la majorité matrimoniale, ni le consentement des parents, ni la forme du contrat, ni la légitimation des enfants naturels, ni la reconnaissance des adultérins, ni rien d’analogue. )
レオン・ブルムは当時国務院で仕事をしており、1936年には人民戦線内閣を形成して首相となる人物である。当時から社会党のリーダーであるジャン・ジョレスと盟友であり、政治には通じていた。つまり、ここに挙げられている問題は、当時の結婚に関する問題として政治的に認識されていたものということになる。
ここで注目すべきは、非嫡出子や私生児の権利の問題への言及があることだろう。ナポレオン民法典では、子供は嫡出、近親相姦、私生児で相続上の立場等が違った。私生児の立場が嫡子と平等になるのは2005年のことなので、この問題は委員会どころかその後長らく解決されなかった。しかし、議論自体はこの時代から存在し、ブルムが言及していることを考慮すれば、結婚改革委員会も無意識ではなかっただろうということが予想できる。これは一つ面白い事実だ。
さて、以上のように委員会は結婚・離婚の敷居を低くすること、夫婦の義務を平等にすること、さらには私生児の状況改善などの目標を持って立ち上がったわけであるが、その改革の実態はどのようなものであったかを見ていこう。
まず、成功事例を紹介しよう。委員会の主導による法改正と思われるものが2つある。1つは1907年7月13日法で、これによって妻は夫の許可のもと仕事に就くことができ、妻が働いた分の給与は妻が自由に使うことができるようになった。2つ目は、1907年7月21日の民法改正で、21歳を超える男女は親の許可を得ずに自分たちの決定によって結婚することができるようになった。つまり、夫婦の同権と結婚の簡素化において進展があったのである。
ここで、フランスにおける夫婦間の義務関係の一般的な歴史の流れを書いておく。夫婦間の不平等な関係性を定めたのは1804年のナポレオン法典である。ここにおいて、既婚女性は未成年と扱いとし、夫の保護下に置くものとして規定されていた。妻の権利は穏健共和期に拡大し、1881年に銀行の貯蓄口座の自由な開設、1895年に普通預金からの自由な引き出しが可能になった。そして、1907年に妻は夫の許可のもと仕事に就くことができ、妻が働いた分の給与は妻が自由に使うことができるようになった。次に1938年の左翼政権で成人年齢に達した既婚女性は成人として契約を行う人格を認められ、1965年に結婚前に所有していた財産に関しても自由に処分する権利が認められた。以上が夫婦同権へのフランスの歩みの概略である。
この概略を見ればわかると思うが、1907年の法改正は大切な一歩であるとはいえ、十分な夫婦同権への改革ではなかった。さらに、委員長のCoulonが最重要課題として挙げていた離婚制度はどこへ行ってしまったのか。
もちろん、委員会が何もしなかったわけではない。その戦いの痕跡がla grande revueに書かれている:
この委員会の会合は新聞でも反響があり、83条からなる法案が作られ、そこでは財産分離の強制化、双方の合意による離婚の認可が盛り込まれていた。(中略)また、Violette氏は民法の家族会議の構成に関する部分を改正する法案を下院で可決させた。これによって、女性も家族会議に参加できるようになったが、既婚女性の保護者は依然として夫が務めることになった。既婚女性が絶対的に従属するという原則は、活発なフェミニスト界に強い抗議を呼び起こした。
(Les séances de ce Comité eurent quelque retentissement dans la presse et ses travaux aboutirent à un projet de loi en 83 articles, demandant que le régime légal obligatoire soit celui de la séparation des biens, et réclamant le divorce par consentement mutuel. […] M. Violette a fait aussi voter par la Chambre une loi modifiant les articles du Code civil relatifs à la composition des conseils de famille. Les femmes seraient désormais admises dans ces conseils, mais celles qui seraient mariées seraient toujours représentées de droit par leurs maris. Cette grosse restriction, qui consacre le principe de la subordination absolue de la femme mariée, n'a pas manqué de soulever de vives protestations dans les milieux féministes agissants.)
このように、委員会は1965年に可決されることとなる夫婦の財産分離に関する法改正や、離婚の条件緩和も法案として提出していたのである。しかし、当時の国会の雰囲気としては、既婚女性の権利向上には逆風が吹いていたこともその後の記述からわかる。
実は、この83条の法案は国立図書館の資料に現存している。細かい内容は第3章で見ることにして、今は当時の雰囲気を知るためにニュースの読解に専念する。
なぜ結婚の敷居は下げてもいいのに離婚の敷居は下げられないのか。共和派の伝統的な新聞le Voltaireの1907年7月14日号には、結婚の敷居が下がったことを評価する記事が上がっているのだが、ここでは離婚の敷居を下げようとする委員会の思惑には異議が唱えられている:
しかし、結婚改革派の関心は伝統的な結婚の敷居にとどまらなかった。この関心は二重的で、わずかに矛盾している。なぜなら、幸福への希望に向かって扉を開くことに全力を注いだすぐ後に、今度はその出口を開こうと努力しているのだから。(中略)色々考慮したが、もはや我々は彼らが結婚の味方なのか敵なのかよくわからない。
(Mais la préoccupation des réformateurs en chambre nuptiale ne s’arrête pas au seuil du mariage traditionnel. Elle est double et légèrement contradictoire, car après s’être appliquée de tout leur cœur a l’ouvrir tout grand aux espoirs de bonheur qu’il fait naître, nos bons apôtre s’ingénient aussitôt à en faciliter également la sortie. […] On ne sait plus bien, à tout considérer, si nos réformateurs sont amis ou adversaires du mariage. )
Coulonの目的は1884年以降増加していた離婚に際し、夫婦のどちらかが謂れのない罪を着せられるケースがある現状を改善することが目的だったのであるが、ここでは彼の目的は完全に無視され、離婚を簡素化することに対する漠然とした不満から反対意見が出されている。そこには「結婚することがいいことで、離婚は悪いことだ」とする社会の風習が透けて見える。離婚の悪いイメージを払拭することをCoulonは目標として挙げていたが、そのイメージ自体が法の改正を許さなかったのだから、彼がいかに大きな敵と戦っていたかが分かろうというものだ。
ちなみに、離婚改革を推進したのは委員会だけではなかった。1911年のla grande revueに「フランスにおけるフェミニスト運動(mouvement féministe en france)」という総括記事が載っていおり、離婚改革の試みにも言及がある:
離婚改革に関しては、結婚改革委員会、女性の権利連盟、1900年会議が相互の合意による離婚、さらには一方の意思による離婚まで見据えて主張を行っていた。同じ方向でPaul Margueriteのような作家やPaul Hervieuのような劇作家も動いていた。彼らの努力は依然として達成されていない。
(Pour la réforme du divorce, le Comité de la Réforme du Mariage, la Ligue du Droit des femmes, le Congrès de 1900 insistent surtout en vue d'obtenir le divorce par consentement mutuel, ou même par la volonté d'un seul. Dans le même sens, des écrivains, Paul Margueritte, des dramaturges, Paul Hervieu, ont fait campagne. Leurs efforts n'ont pas encore abouti.)
やや過激だが、結婚に関する保守派の雰囲気が伺える記事も1つ見つけた。L’Univers israélite(イスラエル世界)というユダヤ教保守派の新聞の1908年5月15日号には以下のようにある:
結婚の危機を恐れる全ての人に思い出して欲しいのは、ユダヤ教の大いなる原則の一つである。結婚とは聖なる結合なのである。すなわち、道徳的なものであり、聖なるものというよりは、聖なるものにすることkiddouschinなのである。「男は父と母を捨て、妻と合体し、一つの聖なるものになった」夫婦の関係とは、親や子の関係と同様の結合をしているのである。親愛と信頼。この二つが結婚の基礎であり、道徳の条件である。
(A tous ceux qui sont effrayés par la crise du mariage dans la société contemporaine, il faut rappeler la grande vérité proclamée par le judaïsme. Le mariage est une union sacrée, c'est-dire morale, non un sacrement, mais une sanctification: kiddouschin. « L'homme abandonne son père et sa mère, il s'unit à sa femme et ils deviennent une seule chair », de sorte que les rapports entre époux sont les mêmes que ceux qui unissent les parents et leurs enfants. Affection et confiance mutuelles, voilà les bases du mariage et les conditions des moralité)
そのような聖なる結合を簡易化することは百歩譲っていいとしても、切り離すなどということは、保守派にとっては許されざる事態だったのではないだろうか。
以上のように委員会の改革ははっきり言って中途半端に終わっている。これが、「結婚改革委員会」の名が現在のフランス史において全く知られていない理由だろう。
ここまで、当時のニュースから結婚改革の実際に迫った。この章では、その改革案自体を少し見てみる。実は、この史料は第二章までの部分を書き上げてから見つかった。流石に内容を再構成するのは面倒なので、第3章として追加することにしたが、言いたいことは前の章まででほとんど言ってあるのでこの章はおまけみたいなものである。
当時の教養的市民層は新聞やブルムの本を読むことはあっても、流石に法案までは目を通していない人も多かっただろうから、前章までは当時の市民層の見ていた委員会、ここからは法律家が見ていた委員会の姿ということで一応章立ての意味づけはしておきたいと思う。史料のレベルから叙述の順番を決めるというのは割と歴史叙述の方法としてアリなのではないかという気はしないでもない。
さて、初めに言っておくが、この83条の改正案は結局成立していない。しかし、これを読むと、委員会がかなり積極的で急進的な提案を行なっていたこと、そしてその関心が戦後フランスの問題にまでつながる要素を持っていたということがよくわかる。
法案は7ページの「立法動機の表明(Un exposé des motifs)」と11章83項目からなる「立法計画(un projet de loi)」からなる。法律は細かい手続き論まで含んだ精密なものなので、この記事では特筆すべきものを絞って紹介していく。
まず、立法動機の表明では現行法の問題点と改正案の利点が説明されている。全体を通して大部分が離婚の規制緩和の正当化に割かれており、一部夫婦の同権にも触れられている。全体を踏まえて論点を絞ると、まず離婚に関しては
・離婚の自由は必ずしも不義を促すものではない。むしろ現代の新たな精神に照らせば、離婚によって結婚はさらに道徳的なものになる。
・民法に夫婦が一生一緒に生きることを強制する力は本来ない。
・実際、夫婦が一生愛し合えれば一番いいが、そうでないこともある。
の3点が基本的な理由で、民法典成立前の1792年9月20日法では夫婦は同権で一方の宣告による離婚も認められていたという歴史から、革命の精神はむしろこちらだという正当性の主張もみられる。
夫婦内の男女同権に関しては、民法は女性の権利を認めているにもかかわらず、結婚した瞬間にそれを剥奪するのは立法者の恣意的な家族支配の論理を反映している。とし、ここでもCambacérèsが民法を起草した際には夫の権力に関する規定はなく夫婦は同権で財産も別れていたという歴史への言及がある。
さらに、この二つを組み合わせ、離婚を認めない法の精神の先には運命的に既婚女性の権利剥奪があったのであるとして二つを分離不可能なものとして結びつけ、この両者の同時解放を強く目指している。具体例として英国や独国を見れば、既婚女性の権利が大きい国の方が離婚もしやすい制度になっていることがわかると、相関を指摘している。言っていることはわからないでもない。財産が分与されていれば、離婚・再婚はしやすいからである。
次に実際の改正案である。繰り返すが、全訳は補遺として末尾につけた。
第1章が結婚に関してで、重要なのは
5条 満21歳に達しない男子、満18歳に達しない女子は、父親、母親、もしくは保護者の同意なしに結婚することはできない。ただし、妊娠している場合はこの限りではない。
という条文だろう。結局翌年1907年に21歳以上の男女は親の同意なく結婚できるようになったのだが、その案の原型はここにあるとみて良いだろう。
第2章は結婚の手続きに関する詳細、第3章は結婚の義務に関してで、
18条 夫婦は平等な権利と義務を持つ。
というように平等の表明がある。さらに第6章の結婚制度の詳細には
28条 結婚に関する法制上の義務は夫婦の財産分与である。
30条 既婚女性は完全な市民権を行使できる。
とあり、夫婦の平等が裏付けられている。第7章は離婚の原因に関してであるが、これは以下のように決められた。
35条 離婚は夫婦相互の合意によって行われる。
36条 夫婦の一方は、気質や人柄の相入れなさを理由として、一方的に離婚を宣言することができる。この場合6か月ごとに2年間繰り返して宣告することで有効になる。
37条 離婚を申請する者が引き合いに出すことができ、離婚を強制化する根拠として認められる行為は以下のものである:
1 不貞行為
2 体刑や名誉刑を伴う有罪判決
3 盗み、ペテン、信用詐欺の軽犯罪による有罪判決
4 2年間故意に夫婦の家を不在にすること
5 夫婦どちらかの精神錯乱。ここでの精神錯乱は、精神病院への監禁や後見人制度を伴うものを言う。
6 根深い飲酒癖や重大な性病
これを見れば、離婚をしやすくするとはいえ、衝動的にできるというものではなく、理由がない場合は6か月ごとに裁判所に出頭するのを4回しなければ訴えは無効になってしまう(63・64条)当時の最ラディカルでこれである。離婚への制限はこれだけではない。合意による離婚は手続きがやや複雑に設定されていた。
38条 合意による離婚は25歳以上の夫と21歳以上の妻の間で認められる。
39条 合意による離婚は結婚の2年後以降でなければ認められない。
40条 合意による結婚を行いたい夫婦は、あらかじめ財産目録を作成し、動産、不動産の価値を推定し、お互いの権利について自由に妥協し決定せねばならない。
41条 この時、以下のことに関して書面で合意しなければならない、
1 離婚審査中、離婚宣言後、子供はどちらに委ねられるのか
2 妻に生活するだけの収益がない場合、どれだけの額のお金をどれくらいの期間夫が妻に払うのか
41条の2つ目の条件で、金を払う想定が夫に対してしかされていないのは、そういう時代だったということである。第9章は一方的に性格の不一致から離婚を宣告するための手続き、第10章は特定の妥当な理由から離婚を宣告する場合の手続きが書かれている。第11章は離婚の効果となっている。
81条 子供は母親に託される。ただし、裁判所が、子供のより大きな利益のために、全員または一部の子供を父親または第三者の監護に委ねるよう命じた場合がある。
82条 子どもが誰に託されるにしても、父親と母親はそれぞれ、子どもの養育と教育を管理する権利を保持し、可能な範囲でこれに貢献する義務を負う。
83条 民法63条から77条までと1387条から1582条までを廃止する。
以上で改正案は全てである。この改正案の主眼はやはり離婚だと考えるべきだろう。全てで83条ある中で、第34条以降の条文はほぼ全て離婚に関係している。しかし、実現したのはその前の結婚の簡易化と既婚女性の権利の一部解放にとどまったというのはもう見た。
さて、ここまで1906年に生まれた結婚改革委員会の知られざる歴史に注目し、その実情を解き明かしてきた。最後にその評価を行いつつ記事を終わろうと思う。
フランス史では人口停滞への対処が政権にとって重要な問題となったのは1920年代とされている。それまでは人口増加論者と新マルサス主義論者(人口抑制論)の間の論争に決着がついておらず、政治的判断は遅らされていた。しかし、第一次世界大戦で150万人もの人口を失ったフランスはいよいよ子供がいなければ未来の戦争に勝てないという現実に直面したのである。ドイツ国境にマジノ線という長い塹壕も、将来の戦争における人材不足を憂いて作られたものである。この塹壕があったことで、第二次世界大戦時、ドイツの将軍マンシュタインはオランダ・ベルギーから迂回してフランスに攻め入るプランを立てなければならなかった。1920年がフランスの少子化政策の転換点だと言えるのは、この年に政府が「産児制限のプロパガンダ」を禁止したからである。この法律では、中絶を進める行為が実際に中絶に結びついた場合、刑法が適用されることになった。1923年には、中絶の犯罪としての扱いが変更され、刑事裁判所で裁かれることになり、法律の適用が厳格化した。フランス政府は中絶を厳格に禁止することで、出生数を増やしにかかったのである。
1900年代に結婚の危機が騒がれ、1920年代に少子化が問題化するというのは面白い関係性である。1900年代に結婚した人間が産んだ子供が1920年代の大人なのであるから。
新聞の記述を横断的に検索できるAPIを用いて「結婚(mariage)」「出生率(fécondité)」という言葉の1900年から1940年までの登場回数の推移を見ると、上の考察を裏付けることができる。左が「結婚」右が「出生率」だ。
「結婚」のトレンドは1905年から1910年の間、つまり、今回注目した期間である。一方で、「出生率」がトレンドとなるのは戦中である。一方で、戦中は「結婚」の話題が明らかに減っている。さらに、「結婚」に「恋愛(amour)」の推移を重ねると、以下のように同型となっている。青が「恋愛」赤が「結婚」である。
戦争の前後には「結婚」や「恋愛」の話題が盛り上がり、戦時中には現実主義になり「出生」が話題になるというのは悲しい現実というべきか。第二次世界大戦中の日本の「産めよ増せよ」のようなことだろうか。
第一次世界大戦後、1920年代のフランスは「狂騒の時代(les années folles)」に入る。アメリカの文化に影響を受け、ジャズやカクテルバーが流行り、ジョセフィン・ベーカーが活躍し、シュールレアリズムやキュビズムが生まれた。フランス人が出会い頭にキスするようになったのもこの時代であるらしい。
せっかくなので、その後の話も簡単にしてしまおう。結局その後もフランスは人口停滞を続け、第二次世界大戦には敗北し、ヴィシー政権でさらに強い出産奨励が行われるも、数年で戦後を迎え、1949年以降の女性解放運動(MLF: Mouvement de libération des femmes)を経て、女性の解放は少しずつ叶えられていった。フランスにおいて中絶が合法化するのは1975年のヴェイユ法においてであるが、フランス共産党の党首モーリス・トレーズの妻だったJeannette Vermeerschは1956年段階では出生のコントロールに反対していたのが1967年には中絶禁止法の撤廃法案に賛成している。これは旧左翼と新左翼の間の葛藤を感じさせる話である。
このように、1920年代の出生に関する議論や、戦後の改革は1900年代の結婚改革の時点ですでに問題提起されていたものや、結婚改革委員会が取り組んだ問題の陸続きになっていることが見て取れる。1900年代の結婚改革のトレンドは現在のフランス史においては忘れられているが、実は恋愛思想史において重要な時代だったのではないだろうか。少なくとも、その可能性を示すために十分な事実を本記事で提示できたと思う。
以上、本記事では、1906年ごろ「結婚の危機」として新聞や雑誌に取り上げられた当時のフランスの結婚に関する法的な問題や恋愛の問題を確認し、その改革を行う機関として「結婚改革委員会」が生まれ、確かに法案の提出などの活動が行われたものの、実現された改革は結局1907年の2回の法改正による微細な変更のみであり、大部分は実現せずに終わったことを見た。そして最後に、フランス史の大枠の中でこの時代の位置付けを検討した。
本記事の新しさは、これまであまり知られてこなかった「結婚改革委員会」に関して、当時の史料にあたってその実態を探った点にある。これによって、フランス恋愛論の歴史研究に一石を投じることを目的とした。
<一次資料>(時代順)
HERVIEU Paul, Théâtre, Paris, A. Lemetre, 1900
Comité de réforme du mariage, La réforme du mariage : exposé des motifs et projet de loi, MAHCHAL ET BILLARD, Paris, 1906 [En ligne] https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k57006727/f1.
« Un Projet de Réforme », L’action, le 5 juillet 1906
« La Réforme du Mariage », Le Voltaire, le 14 juillet 1907
CHEVALIER-MARESCQ Henri, Nouvelle LÉGISLATION DU MARIAGE, le 21 juin 1907, p.3
« La crise du mariage », la grande revue, 25 août 1907
« La crise du mariage », les Alpes pittoresques, le 15 juin 1910, le 15 août 1910
L’Univers israélite, le 15 mai 1908
« mouvement féministe en france », la grande revue, le 25 janvier, 1911
BLUM Léon, « Du Mariage » [1907], L’œuvre de Léon Blum (1905-1914), Albin Michel, 1962, p. 1-181
<二次資料>
DUPÂQUIER Jacques, Histoire de la population française [tome 4], Presses Universitaires de France, 1988
« La femme mariée avait le statut de mineure au même titre que les enfants » [En ligne] https://www.gouvernement.fr/actualite/la-femme-mariee-avait-le-statut-de-mineure-au-meme-titre-que-les-enfants diffusé le 12 juillet 2023 (consulté le 13 janvier 2024)