2022.11.25 文責【ロール覇者テスト】
商業アイドルの闘争が拡大したのは、我々が「小さなアイドル」を失ったからである。昔、私たちの教室には「クラスのマドンナ」と呼ばれる「小さなアイドル」が存在した。彼女は集団からその可愛らしさを承認され、満たされていた。だから、商業アイドルになる人は少数でよかった。彼女は現代人の病的な自意識を持たなくてもよかったのである。翻って現在を見る。現在、我々は小さなアイドルを失った。男性の好みに合う特定の女性を、多数の男性が承認する構造は「男権的」だからである。ある人をきれいだと判断することで「傷つく人が生まれる」からである。「ルッキズム」によって、現在の男性は可愛い人を可愛いという権利を奪われた。小さなアイドルとなるはずだった女の子は、承認欲求が満たされず、ファンの数や得られるお金といった分かりやすい数字に自分の価値を求め、芸能界に一歩を踏み出す。アイドルを志望する女性の数は、今日、異常に膨れ上がっている。しかし、アイドル市場は自由化・多様化しており、地下アイドルや地方アイドルなどマージナルなアイドルも多く、全国規模に活動するグループに入れたとしても人数が多く内部の闘争に晒され、結果的に不満足に消費されて終わってしまう人も多いだろう。人間にとって大切な人格的な連結と承認が社会正義に破壊された結果がこれである。AV女優になりたい人が増えている理由もこれだ。承認欲求は全ての人間が持っているものだから、悪いのは彼女らではない。悪いのは社会だ。アイドルの窮状は、現代の病的な自意識が生み出したある種の現代病なのである。
AKB48の岡田奈々氏の熱愛が発覚したことを念頭に、11月20日、AKB48総監督の向井地美音氏はTwitterで「今まで曖昧になっていた『恋愛禁止』というルールについて改めて考え直す時代が来た」とつぶやいた。この問題提起が現在、議論の対象になっている。確かに、あんなにも母数の膨れ上がったアイドルが皆、恋愛禁止しているという状況は何かがおかしい。しかし、この問題はアイドルが恋愛禁止をしなくなったとしても解決しない問題である。なぜなら、アイドルは構造的に恋愛できないためである。では何が歪んでいるのかといえば、それは現代の承認欲求とその行きつく先の資本主義という構造である。とくに、承認欲求の不足は人間同士の素直なコミュニケーションがなくなったために生じているものであり、多くのアイドルは、学校で異性に「かわいい」と言葉によって価値を承認されるだけで満足していた可能性がある。このような言葉による承認を行えなくなった理由の一端は上でも言ったように「社会正義」にある。だとすれば、アイドルの母数が拡大する「アイドルの窮状」と童貞の自意識の拡大「童貞の窮状」は同源であり、童貞学として扱う事の出来る題材となる。
以上の事を論じるために、本記事は以下の構成を取る。まず第1章でアイドルは構造的に恋愛をしえない理由を、完全なる私の主観から説明する。まあ、ここは正直飛ばしてもいい。次に、第2章で集団に存在した「小さなアイドル」が商業的なアイドルに吸収されていった過程を確認し、現在のアイドルと童貞が同様のゆがみを抱えていることを説明する。最後に、第3章で「小さなアイドル」を回復するための道筋を示し、本記事の信仰告白とする。
まず、私の立場をはっきりさせておくが、私はアイドルが恋愛禁止なのは当たり前だと思うし、それ以外受け入れられない。よく、ファンは疑似恋愛しているから、他の男と恋愛しているのが許せないのだと言われるが、それはファン心理を全くはき違えている。恋愛は苦しくて汚いものだ。アイドルに苦しい思いを抱くような恋愛体力は、我々にはない。そして、アイドルの方にもその体力がないことを望むのである。つまり、アイドルには恋愛など知らないでいてほしいし、無関係でいてほしいのである。「恋愛禁止が云々」と口に出しているだけで耐え難い。もちろん、彼女らの曲には恋愛の苦しさを歌っているものが数多くある。しかし、それは彼女らが作った歌詞ではないか、または、ステレオタイプな歌詞を想像で作っただけであると私は深く信じている。そうでないと、恋を歌いながらあんなに笑って踊れるわけがない。彼女らはフランスギャルのように、純粋な心を持った操り人形なのである。そうでないと、オンリーユーフォーエバーの原則に立ったロマン主義的な恋愛ソングを恥ずかしげもなく歌う事などできるわけがない。彼女らはまじめに恋愛ソングを歌っている限りにおいて、必ず無垢なのであり、この論理がアイドルのアイドル性を支えている。だから、アイドルが無垢でない場合、私はアイドルの構造を理解できない。恋愛を行う個体の存在は、アイドル論理に対する巨大な脅威であり、矛盾なのである。アイドルが恋愛しないという事実は、帰納的な推定ではなく、演繹的な定理なのである。
このように、アイドルは恋愛をしてはいけないのではなく、アイドルは構造的に恋愛をしないのである。もちろん、ももクロという反例を挙げる人もあるだろうが、あれはもう彼女らの無垢性によるファンではなく、人格に由来するファンを獲得していたのであって、それはもはやアイドルを超える何かであるとしかいいようがない。ひろゆきが「恋愛しなくても歌と踊りと活動が出来るというのを証明」すればアイドルの価値は失われないのだろうという趣旨のツイートをしたが、それはアイドルをはき違えている。アイドルを応援するというのは、彼女らの純潔を買っているのである。すくなくとも、秋元康の生んだアイドルは純粋であること以外には何の価値もないと私は思う。彼女らが恋愛を知らないから、私は彼女らが笑っているのを見て笑えるし、悩んでいるところを見て涙を流せるのである。普通、誰かの純潔を望むなんて大いなる傲慢だが、我々は何の疑いもなく、アイドルに対してそれを要求する。なぜなら我々の間には金銭による売買関係があるからだ。アイドルとファンの間に生まれた純潔契約は資本の裏付けによってのみ成立する。だから、アイドルというのは歪んでいるし。アイドルは構造的に恋愛をしないのである。
冒頭に記したように、フェミニズムの攻撃を食らった男は女性に「かわいい」という事ができない。私もその1人である。これは、童貞の窮状の一部を成している。しかし、「かわいい」という価値判断を除いて成立するつながりなんて嘘だ。フェミニズムは、女性と男性の間に嘘の関係性をもたらした。その結果、どちらも承認を失った。承認を失った女性はアイドルに向かい、男性はコンピュータに向かった。こうして、本当は結ばれるはずだった男女は、アイドルとファンという資本契約に収まった。男性はコンピュータに向かっても男権的だと上野千鶴子は言ったが、その男権性を必要としたのはアイドルの側でもある。つまり、童貞の窮状とアイドルの窮状は表裏一体なのであり、「オタクは恋愛禁止守ってんのにな」という今回のAKBの騒動で話題になった文言は、あながち的外れでもないのである。
ミスコンの窮状もアイドルと同様である。ルッキズムが問題になり、ミスコンが学園祭の実行委員会のような学内の学生有志団体によって行われることがなくなった。例えば東大の場合、ミス・ミスターコンを行うのは、東大の学友会に加盟していない学外団体「東京大学広告研究会」とその上部にある「株式会社エイジ・エンタテインメント」および、ここに莫大な資本投入を行っている「リゼクリニック」である。2020年と2022年には、コンテストの本番がキャンパス外で行われた。学生の生きたコミュニティの中にいた「小さなアイドル」を決めるミスコンは、学生の手から遠く離れた資本と「オトナ」によって運営され、パンフレットを買ったオトナたちによって選出される「商業アイドル」へと変貌した。だから私はミス・ミスターコンが嫌いなのである。しかし、この状況を生んだのは、「小さなアイドル」を拒絶した学生の側である。これはゆるぎない事実だ。
だからといって、フェミニストを責めることもできない。ミスコンで苦しんだ人間がミスコンを潰そうとするのは当たり前だからだ。しかし、なぜ、バランスが取れなかったのか。社会正義はなぜ左翼原理主義に堕落してしまったのか。いま、我々はそれを反省する時期にある。左翼原理主義に陥るのは、中庸がリベラルであるという大学の常識に由来する。いまこそ、この原理主義を脱構築し、キャンパスに彩りを取り戻す必要があると私は考える。
井上章一の『美人論』よると、明治期などは綺麗な女性は学をつけさせてもらえなかった。初めて、大学生がミスコンに優勝したのは、学習院大学の末弘ヒロ子である。写真が佐伯順子の『明治<美人>論』載っているが、確かにきれいだ。綺麗な女性にアカデミアが閉ざされていた時代は長く、戦後1960年代にも、まだ女性の学歴と美しさは反比例するという事が公然と言われていたと井上は指摘している。その状況を変えてきたのは、ミスコンに挑戦した勇敢な女子学生らだった。彼女らが綺麗な女性たちの進学の道を切り開いてきた。上野千鶴子を三大美人学者と呼ぶ人も世の中にはいるらしいが、本当に彼女が美人ならば、彼女もミスコンの恩恵を多少受けているということになる。
大学ミスコンの排除を論じるとき、あるいは、現在盛んになっている男女トイレを廃止しようという運動を行うとき、フェミニストらはこれまで誰が何を変えてきたのかという事にしっかりと敬意を払っているのだろうか。東大の女子トイレは女性の社会寝室の象徴でもあった。ミスコンも同じだ。その側面を考慮したうえで現在の運動をお子なっているのならば、まだ話にはなるが、無視しているようにしか私には見えない。まあ、この話は本題からずれるのでもうやめるが。
商業アイドルはゆがんでいる。アイドルの資本関係は人間のつながりとして自然なものではないからだ。彼女らはある意味犠牲である。市場が自由化すれば、犠牲者は必ず生まれる。これはミシェル・ウエルベックの最も本質的な思想である。それは資本主義も恋愛市場も同じだ。恋愛できない童貞や商業アイドルは、別のようでいて同じロジックのもとで犠牲になっている。だからこそ、童貞学の課題としてアイドルを考えることができるし、その救済の道を思案することもできるのである。次の章で、私は希望の道を提案しようと思う。
つながりを拡大し、人格の共同体を再生し、小さなアイドルを復活させよう。「小さなアイドル」は集団に共通に認められ、言葉によって承認があたえられる。言葉は、お金よりも何倍も温かい。それでいて、資本契約を持たない「小さなアイドル」は自由に恋愛を行う。こんな世界がかつてはあった。誰のためにもならないような資本の流動はここにはない。「小さなアイドル」は、アイドル以外のもてない女に対しては加害となる。もてない女は「小さなアイドル」に夢中になる男に苦しみ、「小さなアイドル」に嫉妬する。男女逆でも同じだ。もてない男は「小さなアイドル」を追いかけまわす女に見向きもされず、嫉妬を抱く。嫉妬は悪いことではない。恋愛の苦しみは悪ではない。それは大切な人間の感情である。負の感情も含めて、人間の感情は尊い。世界は残酷だ。そして美しい。人間性を排除したホワイトな世界に私小説は生まれない。社会正義はそんな世界に突き進んでいる。
男性が変われば女性は変わる。女性が変われば男性も変わる。これは、社会学の男性性の議論や人文学のポストフェミニズム理論などでは当たり前の公理である。アイドルの窮状は、女性が変わり→男性も変わり→女性が変わった、ことで生まれた。時間を巻き戻そうとは言わない。それはこれまでの改革に対する失礼というものだ。ではなく、もう一度変わろう。いま必要なのはバックラッシュを含む新たな男性性の変化である。それが、アイドルの窮状と童貞の窮状を同時に改善する。
具体的には、誰かを「あの子可愛いよね」とか「あの人カッコイイと思う」とか友達と話してみることから、「小さなアイドル」の再生成を始めてみよう。もっとも「カッコイイ」談義は現時点ではそんなに抑圧されていないように思うので、特に「あの子可愛いよね」というところから。ジェンダーに詳しい人がいたら、ホモソーシャルだと言ってくるだろうが、本当の事は本当の事だ。「お前、あの子のこと好きなのか?」と言われたら、照れ笑いして「だって、可愛いから」とでも言おう。こんなかわいらしい会話すら、今の我々にはおぼつかない。しかし、成功の期はあるのだ。正直、私も怖い。言った後に死にたくなるかもしれない。でも、ここから始めるしかない。「個人的なことは政治的なこと」。私もそう思う。だから、個人の領域から、素直に口に出すことで、「社会正義」への反乱、人間性の再獲得(レコンキスタ)をはじめようではないか。