徳山の盆踊

夏のの神すずしめる風流踊

徳山の盆踊は、浅間神社の例祭日の夜に奉納される「ヒーヤイ踊」「狂言」「鹿ん舞」からなる踊りです。室町後期に登場した華やかな趣向を凝らして人目を惹く風流(ふりゅう)の美意識を体現した踊りが、現在でも日本各地に残っています。徳山の盆踊もそうした踊りの一つです。

「ヒーヤイ踊」は、ヒーヤイという囃詞が入ることからその名前で呼ばれています。「ヒーヤイ踊り」の演目には「神すずしめ」「ここは住吉(演目名:神よせ)」など、神様に関係ある歌が多く見られます。

「狂言」は、現在では新曽我、頼光の2演目のみが伝わります。新曽我にはヒーヤイ踊りの踊り子が登場し、宴を盛り上げます。

「鹿ん舞」は鹿に扮した若者がかがんだまま飛び跳ねる踊りで、牡鹿を先頭に、2頭の牝鹿、ひょっとこがその後に続きます。「鹿ん舞」はヒーヤイ踊と狂言の舞台を回るように踊ります。

徳山の盆踊では「ヒーヤイ踊」「狂言」が交互に演じられ、その合間に鹿ん舞」が演じられます。小歌踊と狂言を交互に演じる様式は、古い歌舞伎の姿を伝えるものであり、そこに地方色豊かな動物仮装の風流が添えられているめずらしい芸能です。

徳山の盆踊の由来

それぞれの芸能のはじまり

徳山の盆踊の由来は定かではありませんが、江戸時代には徳山地区(当時の堀之内村)に伝わり定着していたようです。

ヒーヤイ踊りと狂言は、近世初期に京都から地方へ広がっていった流行のかぶき踊りが盆の踊りとして当地に残ったものと推察されています。かぶき踊は、後に現代の歌舞伎に発展してゆくのですが、その初めの段階のものがこの地に伝わり残ったものと言えます。

鹿ん舞は、伝承によれば旅の僧の勧めにより、作物を荒らす鹿を追い払い豊作を祈願する踊りを愛宕地蔵で行った事が始まりのようです。

神社と盆踊り

江戸時代にはヒーヤイ踊、狂言、鹿ん舞は、神社の祭礼行事ではありませんでした。江戸時代の村の氏神様は八幡神社であり、八幡神社の8月15日の祭礼日には近隣の村からも人が集まり、相撲、流鏑馬などが盛大に行われていたとの記録が残っています。

明治時代に入り、今の社殿にて、浅間神社御嶽神社に八幡神社が併せて祭られるようになりました。神社の名前は浅間神社になりましたが、祭日は八幡神社の例祭日8月15日を引き継いでいます。相撲や流鏑馬はいつのころからか行われなくなり、明治の中頃からヒーヤイ踊りと狂言、鹿ん舞が浅間神社で奉納されるようになりました。

かぶき踊りがいつしかお盆の踊りとして神社で奉納するようになったという複雑な伝来を反映してか、当屋から出立して愛宕地蔵に寄ってヒーヤイ踊と鹿ん舞を奉納してから神社へ向かいます。神社での最初の演目は神寄せと言い、「ここは住吉」の歌と神寄せの笛の曲を奉納します。これは徳山神楽などの神楽式を参考にした構成のように思われます。神社での奉納が終わった後に、もう一度愛宕地蔵に赴き神すずしめを奉納して終了となります。

文化財として

国指定重要無形民俗文化財 1987年(昭和62年)12月28日

風流踊の一つとしてユネスコ無形文化遺産登録 2022年(令和4年)11月30日

徳山古典芸能保存会

浅間神社で行われる徳山の盆踊、また徳山神社で行われる徳山神楽を保存伝承してゆくための組織です。祭典の前には盆踊や神楽の練習を行い、祭典当日に奉納をします。

徳山古典芸能保存会では協力していただける方を募集しております。詳しくは徳山古典芸能保存会のページをご覧ください。