目の前にコップを置いてください。
「実在論と観念論」って何の話かよくわからない方は、騙されたと思って置いてみてください。できれば透明なコップがよいかもしれません。
置きましたか?
とても面白い景色をそのコップから覗くことができるはずです。
*しばらく「実在論や観念論」という言葉は登場しませんが、スクロールして以下のお遊びにお付き合いいただければ、実在論/観念論の面白さがつかめるはずです(→↓のYouTubeから音声でも試聴できます)。
1. コップの存在証明ゲーム
コップ、本当に置きましたか?
もし本当に置いてくださったのなら、コップが目の前にあるはずです。
触って確かめてみてもいいかもしれません。
コップ、本当にあります?
本当にあるとおっしゃるなら、ちょっと考えてほしいことがあります。
あなたの目の前にあるはずのコップが本当にそこにあるということを、わたしに証明してみてください。
名付けて、コップの存在証明ゲームです。
証明する相手はわたしでなくてもいいです。同居人でも友人でも、バーでたまたま横に座っている人でも、あなたの長話に付き合ってくれそうな人なら誰でも構いません。「ちょっと今からこのコップの存在を証明してみたいから話し相手になってくれない?」と頼んでみてください。
たぶん断られますね。
やっぱりわたしに証明するしかないかもしれません。
証明の方法、思いつきましたか?
なるほど、証明もなにも、確かにコップが見えます。そのコップに触ることもできます。コンコンと音を鳴らすこともできます。いろんな確かめ方が考えられるでしょう。
でもわたしは納得しません。昔、道路に落ちているナワの切れ端をヘビと見間違えたことがあるからです。ビニール袋をネコ(敬称略)に見間違えたこともあります。見間違えたことがある以上、私は今も、このコップを見間違えているかもしれないからです。コップを何かと見間違えているどころか、そこには何もないかもしれません。
音でも同じです。物音がして何かがいると思ったけど実際には何もいなかったことがあなたにもあるかもしれません。触覚もそうです。1本しかないとわかっているペンが2本に感じられる遊び、ありましたよね。
あなたの知覚は間違えることがあります。わたしの知覚もそうです。あたりまえです。でもだからこそ、「感覚的に知覚できるから」という根拠によって「そのコップがそこにある」ということは証明できないはずです(まぁ、あなたが絶対に間違えない知覚能力をもっている神様だったら話は別ですが合掌)。
ザツに言ってしまえば、そのコップ、99%そこに存在していると言えるかもしれません。知覚が間違えると言ってもそんなにひどくないでしょう。でも、それが100%でない限り、証明にはなりません。
え?
高級ウィスキーのロックをこのコップでつくってやるからこれで証明に成功したと思ったら飲んでいいだって?
証明成功です、歴史的快挙です!(ウソです)。
ところで、「感覚的に知覚できるから」という根拠によって「そのコップがそこにある」ということが証明できないとすると、もうコップどころの騒ぎではなくなってきます。あなたの身のまわりにあるはずのものすべて、絶対に存在するとは言えなくなってきます。
身のまわりだけではありません。友人や知り合い、駅で昨日すれちがった人、その駅、電車、地面、地球、宇宙、そしてあなたの身体そのものも、何もかも、絶対に存在するとは言えなくなってきました。
いや、それどころか、あなたはいま、夢を見ているだけなのかもしれません。夢でも見ていなければ、「そのコップがそこに存在していることを証明してください」なんて、わけのわからないことを言われるわけがありません。悪夢おつかれさまです。
そうだとすると、この世界に絶対に正しいことなどないのでしょうか?
「そんなことはない!どんなにひどい悪夢のなかでも1+1=2だろう!三角形の内角の和は180度だろう!」
とおっしゃるかもしれません。
そして、もし数学的な知識が絶対的に正しいと言えるなら、それを使ってどうにか、コップの存在を証明できるかもしれません!!
でも、計算ミスしたことありますよね?あるいは、それまで一般的に正しいと思われていた数学的な知識が間違っていたことがわかる、ということも歴史のなかでときどき起こりますよね?1+1=2が間違っているということが明日になったら判明するかもしれません。
そうだとしたら、感覚的な知覚よりは間違うことが少なそうに思える数学的な知識も、絶対に正しいとは言えなくなってきました。
あなたが感覚的に知覚していることも、あなたがもっている科学や数学によって裏打ちされた知識も、もちろんいろんな記憶や思い出も、本当に本当に正しいのかどうか、証明するのはなかなか難しそうです。
「そんな本当に絶対に間違いなく正しいことなんてなくてもオッケーでは?」とおっしゃるかもしれません。一理あります。コップの存在証明できてなくても高級ウイスキーおいしかったし。
2. 絶対に正しいこと探しゲーム
コップの存在証明ゲームはクリアが難しく思えてきました。いや、それ以上に、馬鹿馬鹿しく思えてきたかもしれません。
ただ、ちょっと振り返ってみると、このゲームはいつのまにか、絶対に正しいこと探しゲームになっています。視覚はどうか、触覚はどうか、科学的な知識や数学的な知識はどうか、記憶はどうかと探してきて、絶対に正しいものは特に何も見つからなかったわけです。
せっかくここまで付き合ってくださったので、もう少しゲームを続けましょう。本当にあと少しです。何より、もしかしたら、コップの存在証明ゲームは、絶対に正しいこと探しゲームからアプローチすれば、クリアできるかもしれません!
実は、すでにある哲学者が、この絶対に正しいこと探しゲームをクリアしたと主張しています。
「私はある、私は存在する!!」と、その哲学者は言っています。(「!!」は勝手につけました)
どういうことでしょうか?
簡単です。
これまで考えてきたように、目の前のコップもテーブルも部屋も土地も地球も宇宙も、そしてあなたの身体さえ、確実にある(or「x が存在する」ということが絶対に正しい)とは言えないわけです。
しかし、
あなたがこれまで考えてき"た"ということ、
いやそれすら記憶でしょうから、
今まさにあなたがあれこれ考えているということ、
"ゆえに"、考えているあなたが存在するということ、
このことだけは絶対に正しいと言えるのではないでしょうか。
「私はある、私は存在する!!」と言った哲学者はそう主張しました。
そして、"現段階で"もう一つだけ絶対に正しいと言えることがある、ともその哲学者は言いました("現段階で"というのは、最終的にその哲学者はコップの存在も証明したと主張しているからです)。
それは、考えている「私」に、いま何かが写っているということです。言い換えると、コップを触ったりコップのことを考えていたりする「私」は、コップのことを心に思い浮かべています。
そうです。この〈コップのことを心に思い浮かべている〉は確かに正しいと言えそうです。
繰り返しになりますが、心に思い浮かべているそのコップが「私」の心の外側に本当に存在しているのかどうかーーこれは今のところ証明できていません。
でも、この〈コップのことを心に思い浮かべている〉は否定しようがないのではないでしょうか。
3. 実在論と観念論
はい、ここまでであなたはすでに、実在論/観念論という議論の大枠をつかむことができているはずです。
今あなたがコップのことを考えているとして、あなたの心に思い浮かべているコップのような何か、それが「観念」です。この場合、「コップの観念」と言います(もちろんコップである必要はありません)。
一方、「観念」とは別に、それを思い浮かべている心や思考の外側に、またそれを観念として思い浮かべようが浮かべまいが、コップが存在するとして、その存在は「実在」と呼ばれます。
コップの存在証明ゲームは事実上、コップが実在していることを証明するゲームだったわけです。
そして、これまで考えてきたように、コップの存在証明ゲーム(コップが実在することを証明するゲーム)はクリアがとても難しいわけです。
そこで一部の哲学者たちは、何かの実在を証明するのを止めて、むしろ「この世界は観念からできている!」と主張するようになりました。このタイプの主張をそのまま「観念論」と呼びます。
もちろん、「いや何かの実在は証明できる!」「実在を放棄してはいけない!」と主張する哲学者もいます。このタイプの主張を「実在論」と呼びます。
「観念が実在である」とトリッキーなことを主張し始める哲学者もいます。「その問題って面白いの?」と言う哲学者もいます。
観念論にも、実在論にも、その組み合わせにも、「その問題って面白いの?」にも、たくさんのバリエーションがあります。問いのかたちそのものが様々に変容しています。さらに言えば「考えている私」の存在についてすら、すでにいくつもの批判があり、決して証明されているとは言えません。
おわりに
これまで、目の前のコップから始めてゲームをプレイしてきました。目の前の小さな小さなコップから始まった割には、透明なコップから宇宙の深淵を覗き込むような、なかなか壮大なゲームだったのではないでしょうか。
数多くの哲学者たちもこれと同じようなことをやってきたはずです。コップではないかもしれませんが、目の前の些細な事柄からいかに世界や宇宙の裏側までを覗き込むか(そして、いかに覗き込むことなどできないか)を様々に考え、言葉を重ねてきました。今でもそうです。
「実在論/観念論」は、そういった哲学者たちの思索の痕跡を、もっとも見晴らしよく見渡すことのできる議論空間の一つです。
「哲カレ講座:実在論と観念論」では、以上のような壮大な議論空間を一つ一つ見直しながらも、パノラマのような大きな視野をもって見晴らしていきたいと考えています。
あなたやわたしが触れているこのコップは、単なる観念にすぎないのか否か、観念の外側には本当のコップが実在するのか否か、本当のコップに触れることはできるのか否か、それとも何か別の考えがあるのか、そうだとしたらどう考えることができるかーー。
ぜひ皆さんで壮大なパノラマを見晴らしながら考えていきましょう!
おまけ(重要)
本ページで「コップの存在証明ゲーム」や「絶対に正しいこと探しゲーム」というかたちで紹介したのは、ルネ・デカルト (1596-1650) という近世の哲学者が『省察』という哲学書で示した議論の"ほんの"一部を、おもしろおかしく書き換えたものです。
『省察』は初めて西洋古典の哲学書を読む方には最もオススメの一冊ですし、読みやすい翻訳(←クリックすると筑摩書房のホームページにジャンプできます)が出ているので、ぜひ読んでみてください。
「いきなり哲学書はちょっと、、、」という方は、ナイジェル・ウォーバートンの『入門 哲学の名著』を傍に置きながら(コップと同様、本当に置けるのであれば)、挑戦してみるのもオススメです。第3章がデカルトの『省察』に割かれています。このウォーバートンの著作は、哲学書に即しながらもとても優しく書かれており、初心者が一緒に哲学書を読むのにとても役立つと思います。