水酸化脂肪酸の酵素合成技術開発

イサダは、10ppm程度の8-ヒドロキシエイコサペンタエン酸(8-HEPE)を含有しています。エイコサペンタエン酸(EPA)が酸化することで、HEPEが生成しますが、非酵素的な酸化反応で生成する場合には水酸基の位置の異なる複数のHEPEが産生されます。それに対して、イサダが8-HEPEを特異的に含有するという事実は、イサダがEPAを8-HEPEに代謝する酵素を持っていることを示唆しています。また、8-HEPEには、8S-HEPEと8R-HEPEという光学異性体が存在します。イサダに含有される8-HEPEが、S体なのかR体なのかというのも、解明すべき課題でした。

【イサダからの8-HEPE精製技術の開発】

8-HEPEの健康機能を研究するためには、イサダから8-HEPEを精製して実験する必要があります。マウスでの8-HEPE摂取試験を行うためには、数百ミリグラムの8-HEPEが必要になります。一方で、イサダに含まれる8-HEPEは10ppm程度であり、1 kgのイサダから10 mgほどの8-HEPEしか得ることができません。一度の動物試験のためには、数十キロのイサダから8-HEPEを精製しないといけません。研究室で、数十キロのイサダから8-HEPEの精製を行うのは困難です。


イサダがEPAを8-HEPEに代謝する酵素を持っているなら、その酵素を活かしてイサダからより多くの8-HEPEを得る方法を構築できないかと考えました。イサダは、8-HEPEの基質になるEPA8-HEPEの100倍以上含有しているので、適した条件で反応させることで8-HEPEを増やすことができると考えられます。そこで、ミルサーを使ってペースト状にしたイサダを、様々な温度と時間でインキュベートし、8-HEPEの産生に適した条件を検討しました。検討の結果、20 ℃で20時間イサダをインキュベートすると、8-HEPEの量が約45倍になりました。8-HEPE産生に適したインキュベート条件を見出し、合成樹脂SP700とヘキサン・エタノール・水を用いた液液分離による分画方法を開発したことで、1kgのイサダから純度95%以上の8-HEPEを約200 mg 精製することが可能になりました。(Yamada H., et al. Bioscience, Biotechnology, and Biochemistry. 2020本技術は、機能性食品素材として8-HEPE濃縮素材(8-HEPE含有量 30 - 80 %)の製造に応用可能な技術です。

【イサダ由来8-HEPEの立体構造同定】

イサダ由来の8-HEPEがS体なのかR体なのかを検討するため、ラセミ体8-HEPEを分離できるキラルカラムを検討しました。検討の結果、CHIRALPAK IDカラム(ダイセル)を使うことで、8-HEPEのR体とS体を分離できることがわかり、イサダ由来の8-HEPEが8R-HEPEであることが明らかになりました。Yamada H., et al. Bioscience, Biotechnology, and Biochemistry. 2020ラセミ体8-HEPEの分析方法は、8-HEPE以外のHEPEやヒドロキシテトラエン酸(HETE)、ヒドロキシドコサエン酸(HDHA)のR体とS体の決定にも活用できる分析方法です。

【イサダリポキシゲナーゼ(PK-LOX)同定】

不飽和脂肪酸の酸化酵素であるリポキシゲナーゼ(LOX)は、ヒトやマウス、植物など多くの生物が持っていますが、哺乳動物や植物のLOXのほとんどはS体の水酸化脂肪酸を代謝する酵素です。一方で、イサダはEPAを基質として8R-HEPEを代謝する、R型のELOX8を有していると考えられました。R型のELOX8は珍しいタイプのLOXであり、同定すれば8R-HEPEの酵素生産技術だけでなく、炎症収束因子(SPM)の酵素生産技術にも応用可能であると考えられました。酵素はタンパク質であり、タンパク質はそれをコードする遺伝子の配列を解明することで同定することができます。ヒトやマウス、イネなどのゲノムはすでに解析済みであり、遺伝子情報は誰でも簡単に手に入れることができますが、オキアミゲノムの大きさは50ギガ(ヒトの10倍以上)と推定され、ゲノムが解読されていない生物です。そこで私たちは、次世代シーケンサーによるde novo RNAシーケンシングによってイサダ遺伝子の情報を集めるところからスタートしました。4万を超える遺伝子の候補配列(コンティグ)の中から、ヒトリポキシゲナーゼのアミノ酸配列と類似のアミノ酸配列をコードする配列を絞り込み、PK-LOX1とPK-LOX2と名付けた(PKはイサダの英名: Pacific Krillの略)2つの候補遺伝子配列を得ました。昆虫細胞と昆虫細胞に感染するウィルスを用いた実験系にて、PK-LOX1,2遺伝子からタンパク質を合成し、EPAに対する活性を解析し、PK-LOX1がEPAを8R-HEPEに代謝するR型のELOX8であることを明らかにしました。Yuki S., et al. Scientific Reports. 2020

【PD1 酵素合成技術開発】

レゾルビンやプロテクチンは、EPAやDHAに2個または3個の水酸基が導入された化合物であり、炎症を収束させる効果のある化合物である。10R,17S-DiHDHA(DHAの10番目の炭素R位と17番目の炭素S位に水酸基の導入された化合物)は、プロテクチンD1(PD1)と呼ばれ、マウス脳梗塞モデルにおいて脳の壊死部位を縮小する効果などの神経保護作用が報告されています。脳神経系の保護作用の期待される10R,17S-DiHDHAの合成に関しては、複数の研究グループが取り組んでおり有機合成による10R,17S-DiHDHAの合成は報告されていましたが、合成に必要な過程が多く効率的な方法とはいえない方法でした。LOXなどの酵素を用いて合成することができれば、効率の良い方法が開発できると考えられますが、DHAの10番目炭素R位に水酸基を導入する酵素がないため実現されていませんでした。

我々がイサダから同定したPK-LOX1は、DHAの10番目炭素R位に水酸基を導入することができる酵素であることから、17S-HDHAを基質として10R,17S-DiHDHAを合成できるのではないかと検討し、PK-LOX1を用いることで10R,17S-DiHDHAの酵素合成が可能であることを見出しました。(Yuki S., et al. Scientific Reports. 2020)PK-LOX1による酵素合成技術は、10R,17S-DiHDHAの健康食品素材や医薬品原料として実用化するための基盤技術となります。

8R-HEPE10R,17S-DiHDHA酵素生産】

現在は、8R-HEPEと10R,17S-DiHDHAの酵素生産のため、昆虫細胞でのLOXタンパク質発現と脂肪酸の反応条件等の最適化とスケールアップに取り組んでいます。研究室では、ミリグラム単位の生産を目指しています。