高田駅から駅前通りを進み、本町交差点から南に10分ほど歩くと「お馬だし」のT字路に着きます。そこから東に10分歩き西堀を渡ると高田城址公園です。この公園は、春の桜、夏の蓮で知られていますが、城跡としてはあまり注目されていないようです。しかし、高田城は高田平野の地質や河川の蛇行を巧みに利用した江戸初期(1614年築城)の画期的な平城で、当時の町割りがよく保存されている城下町とともに貴重な歴史的遺産なのです。
タイトルの「高田城築城の謎に迫る」は、新潟支部高田班で市民向けの普及活動として実施した「第34回上越の大地をさぐる巡検会」(2022年)のものです。上越市高田を訪れたときにはぜひ高田城址公園にも足を運び、築城当時の高田城の壮大さを感じていただけたらと思います。
それでは少し、高田城築城の謎に迫ってみましょう。図は、江戸初期の高田城と城下町の様子を示したものです。この図からどんなことが読み取れるでしょうか。
高田城の外堀の輪郭線に注目すると、内側は直線的で土塁(薄緑色)で囲まれていますが、外側は曲線状です。これは、関川の蛇行をそのまま利用して外堀にしたためです。高田城の場所は蛇行に囲まれた微高地で関川面(沖積面)にあたります。内堀はその中央部を四角く掘り上げたもので、本丸を囲む土塁も描かれています。さらに、外堀の西側と南側にも直線状の堀と土塁を組み合わせた構造があり、東側と北側は自然の河川を堀の代わりとしていて、高田城が三重の堀で守られた巨大な城だったことがわかります。しかも、石垣ではなく土塁をめぐらし、天守閣を持たない城の造りは、鉄砲と大砲が攻城戦の主役になるといった戦術の変化に対応した合理的なものでした。築城期間の「4か月で完成」は現実的ではないですが、周到な準備の後に、一気に人海戦術を駆使し、現地で掘り上げた土砂をそのまま土塁として使うというやり方で達成できたのではないか・・・。
これ以上迫ると、「ねたばれ」になってしまうので続きは現地で。
(新潟支部 山田雅晴)
1950年4月、新潟大学新潟第二師範学校(1951年より新潟大学教育学部高田分校)に地学の教員として故歌代 勤会員が赴任しました。これをきっかけに始まった南葉山の巡検会は、現職教員と大学生だけでなく、多くの小中学生が「ともに歩き、ともに学ぶ」という、団体研究の方法を実践する場となりました。
なぜ、南葉山が最初の研究対象になったのでしょうか?『高田平野に住む私たちは、朝に夕に南葉山をみています。緑におおわれた山が紅葉に変わり、やがて白くなって、里にも雪の近いことを知ります。昔から春になって南葉の山肌に「種まきじいさん」の姿が現れることで農耕の時期のきたことを知ったとつたえられています。このように南葉山は私たちのふるさとを代表する山といえるでしょう。』と、故長谷川 正会員が「上越の大地をさぐる」(1987)に書いている通り、地元ではとても親しまれている山なのです。さらに、その形が写真のように独特で、「南葉のあたまはどうしてたいらなんだろう?」という素朴な疑問を誰もが持っていました。それに答えるには、南葉山にみんなで行って一緒に調べるのが一番でした。
第一回の調査は参加者78名、南葉山の北側に広がる西頸城丘陵で実施しました。高田から桑取川中流の高住小学校までバスで行き、そこから歩き始め、地層観察と岩石や化石の採集をしながら、高田までのおよそ20kmの道のりを踏破しました。途中から雨が降り始め、舗装されていない泥道を小中学生も大人も一緒に歌をうたいながら峠を越え、全員無事に高田の街までたどり着きました。巡検会に参加した子どもたちの感想には、「化石をはじめてとったときうれしかったこと、雨が降っても泥のなかを元気よく歌をうたってあるいたこと、高田についてからとぶようにして家に帰ったこと、化石を家の人に見せたらみんなめずらしがったこと、床の中で一日を思い返したこと」など、感動にあふれた言葉がつづられていました。
(新潟支部 山田雅晴)
高田平野から見える頸城三山 高田平野の西側には南葉山系の山々が屏風のようにそびえていますが、その南側には夏になっても 残雪が残るほど標高の高い山並みが見えます。糸魚川市と妙高市の境界付近にある2400m級の「三山 」と呼ばれている3つの山です。高田の市街地からは最も東に位置する(妙高火山の中央火口丘・標高 2454m)が外輪山のの上に見えます。その右には、(標高2462m)と(標高2400m)がありますが、南葉山 の陰になることで見えにくくなっています。この3つの山々は、妙高戸隠連山国立公園の核心部となっ ており、妙高山と火打山は深田久弥の「日本百名山」でもあります。
登山案内です。妙高山は登山口から、標高差が1370m、コースタイムは往復で8時間10分。火打山 は登山口であるからの標高差が1150m、コースタイムは往復で8時間45分。焼山は糸魚川市のから入 山しますが、標高差が1547m、コースタイムは往復10時間50分。いずれも、標高差が大きく歩行時間 も長いため健脚者向けといえるでしょう。また、妙高山と火打山の間には「ヒュッテ」と「ヒュッテ 」があるので、妙高山から焼山までの縦走も可能です。ただ、山頂と山頂の間の標高差がいずれも 400mほどありますので、とてもハードな縦走路です。
頸城三山の魅力は、山のもつ表情が大きく異なることです。妙高火山は火山活動で生じた広大な裾 野をもち、高原景観をつくり上げ多くの温泉地が点在します。冬季にはスキー場として国内外からた くさんの人が訪れています。火打山は名前から火山のイメージがありますが、新第三紀中新世の難波 山層をつくる砂岩泥岩互層が侵食され、地層に貫入したひん岩の岩床が侵食に耐えて残ってできた山 です。遅くまで残雪で覆われ、高谷池・天狗ノ庭といった高層湿原があるため、多種多様な高山植物 に恵まれ、多くの登山者で賑わいます。また、ライチョウの生息地でもありますが、近年絶滅が危惧 されています。焼山は約3000年前に誕生した活動的な火山です。規模は小さいですが、1974年7月28 日未明に水蒸気爆発を起こし、キャンプをしていた大学生3名が噴石にうたれて死亡しました。高田平 野には火山灰が降り、農林水産業に大きな被害を与えました。現在も時々噴煙を上げることがあり、 大規模な噴火に伴う火砕流や土石流の発生が心配されています。そのため、2015年6月より山頂から半 径2km以内の地域に入るときには新潟県条例で登山届の提出が義務付けられ、気象庁が24時間体制で 監視している火山の1つになっています。
(新潟支部 大原 剛)
高田平野の地形と歴史高田平野は、日本海に面し南に頂点を持つ逆三角形状をした平野です。平野の大部分を占める沖積面は、段丘化した高田面と関川面に区分されます。高田面には自然堤防が発達し、氾濫原との間に1~5mの段丘崖が形成されています。関川面は高田面の下位に位置し、関川やその支流に沿った狭い範囲に分布します。
平野南東部の山麓地帯には、複合扇状地が発達しています。日本海との境は、潟町砂丘が延び、砂丘列の内側には、江戸時代に干拓された旧潟湖や低湿地が分布します。高田平野の地下には、時代の異なる古い生活面が埋まっており、最初に平野で暮らしたのは、4,000~3,500年前の縄文(後期前半)人でした。現在の高田面は、集落の屋敷畑に珠洲焼や土師器が散布することから、中世以降の地表面と考えられます。高田平野を流れる関川と保倉川は、激しい蛇行を繰り返してきました。
高田城築城に際し関川の蛇行は、外堀として利用されましたが、関川下流では蛇行跡を水田に開発してきました。蛇行跡に新田集落が成立するのは、築城後50年を過ぎた17世紀後半になってからです。現在でも水田域は蛇行の痕跡をよく残していますが、一部では官公庁や住宅地として土地利用が進んでいます。東頸城丘陵から西に流れる保倉川は、かつて激しく蛇行しており、大雨のたびに平野部の流域に水害が発生していました。このため1960年代に改修が進められ、平野東縁部の保倉川橋から直江津港に近い港橋まで約20kmあった河川が、約12kmと元の河道の60%に短縮され、直線的な河道に変わりました。改修前の河川を旧保倉川と呼び、改修の結果できた、三日月湖として残された蛇行部分は、遊水池や「くびきの森公園」として整備・利用されています。また、保倉川が平野に出た頸城区の森本付近から北西方向に、写真のような「さんべ」と呼ばれる河川跡の地形が見られます。これはかつての保倉川の河道で、古保倉川と呼んでいます。
古保倉川には、激しい蛇行を示す河道と両岸の自然堤防がはっきりと残っていて「日本の地形千景」にも選ばれています。この古保倉川が流れていた時代は、水田として利用される旧河道下に埋もれた樹木の年代から、約4,400年前の縄文時代中期と推定されています。古保倉川は今に残る「蛇行の化石」と言えるでしょう。
(新潟支部 岡本郁栄)
高田平野は、北西側を日本海に開いた三角形をした平野です。海岸に沿って潟町砂丘が、西は上
越市五智から東は柿崎区竹ヶ鼻にかけて20 kmにおよび分布します。この砂丘は、表面のサラサラした砂からなる新砂丘砂層と、その下の硬くしまった古砂丘砂層からなり「2階建ての砂丘」と呼ばれています。古砂丘砂層は上越市大潟区の潟町付近でよく発達しているので、潟町砂層と呼ばれています。北陸自動車道を走ると、道路の両側に砂丘地形の起伏が見られ、古砂丘列は7 列確認されています。
古砂丘砂層はしっかり固まっており、N 値は多くの場合50 以上です。一方、新砂丘砂層は5 〜30 程度です。古砂丘砂層の最上部には褐色土層が形成されていて火山灰を含みます。上部の火山ガラスを含む層準は、2.6〜2.9 万年前の姶良火山灰層(AT)で、その下位の火山灰の層準は約6 万年の大山倉吉軽石層(DKP)です。この時代には古砂丘はすでに形成されていたことになります。古砂丘砂層の形成年代の決め手は、大潟区天ヶ池で観察されるオレンジ色の風化軽石層で、砂層に挟まっています。この軽石は砂層中に点在する部分があり、堆積後の風による攪拌を示しています。年代は9.5 万年前の御岳潟町火山灰層(On-Kt)に対比されています。潟町砂層は、その下位の平山層(後期更新世)とは不整合の関係です。
潟町砂層を不整合に覆う新砂丘の地層が、新砂丘砂層です。この中に黒色〜褐色の腐植質層があり、これを境に下位を新砂丘砂層Ⅰ、上位を新砂丘砂層Ⅱと区分しています。新砂丘砂層Ⅰを覆う黒色腐植質層土の中から、縄文後期の土器が見つかりました。新砂丘砂層Ⅱについては、近くで発掘された泥炭層の年代などから、平安時代以降と推定されています。
古砂丘は、氷河時代に日本海の海面が下がったときにできたと考えられています。この古砂丘の形成により、縄文海進時には陸側に朝日池などを含む大きな潟湖が出現したと考えられています。
ちなみに、新潟古砂丘グループは、地元の潟町砂丘の研究を皮切りに、中国地方から東北地方まで、鳥取砂丘をはじめ日本海側の砂丘を調査して、新砂丘の下に古砂丘があることを明らかにしました。
(新潟支部 吉越正勝)
米どころは酒どころ 越後といえば米どころ、米どころといえばお酒が美味しいとなるでしょう。上越市もお米が美味しく、12 の酒蔵があります。総会コンパでは、地元の美味しいお酒を堪能いただけることでしょう。また、上越市は「発酵のまち」を売りものにしていて、微生物の研究で世界的権威だった坂口謹一郎の記念館や「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる川上善兵衛が築いた岩の原葡萄園とワイナリーがあります。
名所めぐり まず、おすすめは高田城址公園です。高田城址公園は日本三代夜桜の名所ですが、残念ながら8 月は桜の季節ではありません。しかし、外堀を埋め尽くす蓮は、花の盛りは過ぎたものの、まだまだ見ごたえがあります。この蓮は明治4 年(1871 年)、戊辰戦争や凶作により悪化した高田の財政を立て直すために、戸野目の大地主・保阪貞吉がレンコンを売ることを思いつき、私財を投じてとハスを植えたことが始まりです。レンコンの収穫は昭和37 年(1962 年)まで続けられました。新潟景勝百選に選ばれています。
街中を歩くなら、雁木通りがお勧めです。雪国高田、通りに面した各家が軒を伸ばして、冬季、雪に濡れずに歩けるようにした歩道が雁木です。本町通りと並行する、仲町通り、大町通りには古い雁木通りが残っています。また、大町通りには、明治時代から続くバテンレース(雪国の内職として始まった)の家・今井染物店があります。高田城址公園と雁木通りはポスト巡検に参加すると訪れることができます。
郊外へ足を伸ばすなら、日本スキー発祥の地といわれている金谷山スキー場、越後の戦国武将上杉謙信の居城があった春日山城跡めぐりがいいですね。金谷山頂上には、明治時代に陸軍第13 師団にスキー技術を伝えたオーストリアのレルヒ少佐の像があります。その像の足元は、金谷凝灰岩層(約680 万年前)で、高温型石英を含んでいます。
おみやげ 上越妙高駅のお土産店には地酒をはじめ多彩なものが揃っています。私のイチオシは、夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくるキヨのせりふ「おみやげは越後の笹飴」です。また、謙信にちなんだ「第一義羊羹」、「出陣餅」や「情けの塩最中」、桜にあやかった「桜サブレ」などの銘菓があります。記念となるおみやげ品なら、上記バテンレースのハンカチやテーブルセンター、最近人気のある新和メッキ工業のチタン製品「iroiro」(定規、お皿、コースター、ぐい呑み、弁当箱など)がおすすめです。
まだまだ伝えたい情報がたくさんありますので、ホームページで検索をおすすめします。
(新潟支部 豊岡明子)