England3

三度目のイギリス(1994)

二度目に訪れてから約5年,学会に出席するためにマンチェスターへ行った.

この時はちょうどアメリカ留学(イギリス派だった私がなぜアメリカに留学したかは別頁にて)を終えて1ヶ月ほど帰国した後だった.John Dalton’s colour vision legacy という色覚研究の発祥200年を記念する学会(以下,John Dalton conference )が9月初旬にあり,その直前にオランダのEinthovenという町で European Conference on Visual Perception (ECVP) という会議が開かれた.そのため,ECVPに出席し,John Dalton conference にも出席して帰った.ただ,留学先にやり残した仕事があり,ECVPの発表ポスターとJohn Dalton conference の発表の中身は U.C. San Diegoで準備した.

つまり,Narita -> San Diego -> Eindhoven -> Manchester -> Narita というルートになったわけで,このルートは誰が見ても世界一周ルートである.この一連の旅費の一部は San Diego の Don と,東工大の研究室がもってくれるというのでさっそく旅行代理店に連絡し,切符の手配を始めた.ただ,Einthoven -> Manchester はどうしても部分的に逆行することになるので,世界一周切符としてはNarita -> San Diego -> Amsterdam -> Narita という東回りのルートで手配し,Amsterdam <=> London を別途購入することになった.

ところが,Amsterdam -> Narita のエコノミーの切符が寸前になってもどうしても取れないと旅行代理店から連絡があった.ビジネスクラスだったら空いているという.1994年当時,世界一周はエコノミーで 29 万円,ビジネスで 36万円だったので,一部負担してもらえることを思えばこの差額7万円ならビジネスでしょう,ということで,ビジネスクラスで世界一周することになった.つまり,方々の空港のラウンジで酒が飲める,ということである.ところが,2ヶ月ほどの間にアメリカ→日本→アメリカ→オランダ→イギリス,と強行軍で移動したためか,風邪を引いてしまい,イギリスでは体調不良のまま学会発表にのぞむことになってしまった.世の中いいことばかりではない.

たまたま,大学時代の友人の一人が会社の駐在でLondon におり,London泊の日は彼の家に泊めてもらい,London <=> Manchester は BritRail で行くことにした.というのも,この友人がJR東海に勤める筋金入りの鉄道マニアで,私にも鉄道を薦めたのだ.Einthovenに飛ぶまでは1ヶ月San Diegoですごしていたのだが,そこからLondon の友人と連絡を取り合い,なんとか邂逅に成功.元々この友人は学部でイギリス文化研究をしていたので,英語はペラペラ.私も米国留学直後だったので,だいぶ英会話ができるようになっていたが,彼がタクシー運転手に話す英語は異常に早口だった.久しぶりのLondonは一泊で,翌朝出勤する友人とともに Euston 駅に向かい,Manchester行の列車に乗った.

イギリスの鉄道といえば,「なんだ,時間通りに来たじゃないか」「いえ,あれは昨日の列車です」というjokeがあるほど時間にかけては怪しい,とされている.実際,新幹線ほど精密ではなかったものの,Manchesterまでのcitylinkは快適で,ほぼ時間通りであった.座席指定はしなくてもすんだが,指定席の背には紙片が貼ってあり,これがあるところは指定券のある客が来る場所,ということだった.乗ってしばらくすると,検札が来るのだが,検札と一緒にワゴンサービスが来る.ワゴンには飲み物とサンドイッチ,クラッカーなどがあり,雰囲気買わざるを得ない状態であった.この時に車窓から見たDerby辺りの田園風景はグリーンのスロープが美しく,映画「ベイブ」の牧場風景そのままであった.

Manchesterでの宿は UMIST (マンチェスター工科大)の学寮だった.部屋には通常のコンセントがなく,掃除機を掛ける人が使うのであろう特殊コンセントしかなかった.そのため,某先生は髭剃りをトイレの洗面台に放置しなければ充電できなかった.隣の部屋は視覚研究の世界では有名な John Krauskopfで,ドアを出て顔を合わせると必ず挨拶をしてくれた.ただ,既に相当のご年配だったので,単に顔と名前を覚えられなかっただけかもしれない.

学会会場で千葉大の矢口先生(右)と(1994)

学会初日は registrationとwelcome partyだったのだが,partyにはうずたかく積まれた手製の卵サンドイッチとお茶,お酒少々があるだけだった.コロラド大の某先生は,これで終わりじゃないでしょ?と不思議がっていたが待てど暮らせどそのままだった.英国人の参加者たちは非常にenjoyしており,あまり頓着していない様子であった.これに引き換え,日本人はあまりに露骨に眉をひそめる.おそらく英国人も決して満足はしていないのだろうが,面にあらわさない,というところは大人の国という印象を受けた(単に私と同様に味覚音痴だというだけかもしれないが).夕食は結局外で食べることになり,町の中心部まで出てchineseを食べた.古い町のため,市街中心部は石づくりの建物が多く,壁は煤けていて,いわゆる大都市然としたたたずまいであった.

この学会の「目玉」の一つは John DaltonのDNA鑑定による色覚の判定結果の発表であった.John Dalton は200年ほど前の科学者で,高校化学の分野で必ず出てくるドルトンの法則の発見者であるが,自分が色覚異常であることを始めて書面に残し,その原因について考察した人ということで世界初の色覚研究者ということになっている.この学会も色覚研究200年を記念する学会で,ManchesterもDaltonにゆかりのある町だったのである.John Dalton の業績を顕彰している団体の人々は”Daltonian”と呼ばれていた(註:一般には色覚異常のことを指す).

学会の中日の午後は科学技術博物館の見学である. Manchester, Liverpoolといえば,Beatlesの地元でもあるが,近代重工業が開花した産業革命の中心地である.それらの歴史的な遺品を見ながら学会の案内で地下の特別研究室へ入れてもらい,通常は展示していないあるものを見せてもらった.

John Daltonは自分の見た色が他の人と違うことから,じぶんの目にはピンクのフィルタが掛かっているもの,と思っていたらしく,死後,眼球を摘出してその背後(中心窩付近)を切り取って瞳孔の方をのぞき,ピンクかかっていることを確かめよ,と遺言したらしい.その眼球が残っているというので,”Daltonian”の方に説明とともに実物を間近に見せて頂いた.直径10cmほどのシャーレの中に乾いた眼球が入っており,確かに後端が切り取られていた.Manchesterは工業都市であるために戦火にあったが,いくつかの貴重な遺品は散逸を免れたという.この眼球の網膜付近の断片からPCRしたDNAが鑑定されたのである.

学会の最終日の前日に Manchester近郊の製糸工場(近代工業の楚)を見学し,そこでsocial dinnerとなった.その場所に移動するときに,たまたまバスの中で隣の席に居合わせたのが日本の視覚心理学の研究で有名な東大の鳥居修晃先生で,私も学部で先生の講義をうかがったことがあります,と申し上げたら,その後も覚えていて下さったようである.私がアメリカでお世話になった Don MacLeod はCambridge 大の出身で,Donの指導教官が鳥居先生もご懇意のWilliam Rushtonという視覚科学の大先生だったことも一因だろう.2年後に出会った家内が大学でお世話になってい先生がこの鳥居先生の奥様(望月 登志子 先生)で,数年後,奥様まで私をご存知だったことが発覚し,なんとも世の中の狭いことに驚くことになった.余談だが,家内の大学院の指導教は私の中学・高校時代の友人のご尊父(鷲見 成正 先生)で,やはりこのManchesterの学会にいらしていた.世の中,ほんとにせまい.

帰りは Londonで3泊ほどして,大英博物館とOxford見物に行った.だいたいどの先生も考えることは同じで,帰りの飛行機には何人も学会で見た顔の人々が乗っていた.一つだけ気まずかったのは,私は今回ビジネスで飛んでおり,私よりずっと年配の先生がエコノミーで飛んでいたことである.顔を合わせるのもバツが悪いのだが,オランダの空港でラウンジから出たところを某先生に見つかってしまった.いくら事情を説明してもからかわれるだけであった.しかも,アムステルダムの空港で飛行機の器材の不具合で出発が遅れ,空港内のレストランで食事ができる券をもらったのだが,これまたエコノミーとビジネスでは食べられる額が違う.なんともバツの悪い思いをした.

今回の ECVP, John Dalton conference で知り合った豊橋技科大の中内先生とは,すっかり意気投合し,今でも親しくお付き合いさせて頂いている.

色々な意味で収穫の多い旅行であった.


part4-1へつづく)