England2

二度目のイギリス(1989)

二度目に訪れたのはそれから 15 年後のことだった.学部の夏休みに語学研修と称して Oxford に1ヶ月半ほど滞在した.なぜアメリカではなかったか,というのは同じ所だったら安心していける,という妙な用心深さから来ていた.一度行っていなかったら,おそらく行かなかっただろう.

OxfordのHigh Streetを南へずっと下ったところにRose Hillという小さな町があり,そこに住んでいた元エンジニアという老夫婦の家にホームステイして,Oxford市内の語学学校に通った.途中の経過や,当時の生活は今思うと非常に無謀なことも数々あった.でも,それ以外のところを書いておく.

当時はバブル真っ盛りで,夏の成田は非常にごった返していた.私は格安の便でイギリスに飛んだので,航空会社はAeroflotで,便はモスクワ回りだった.機内で隣の席に座った英国人の女の子と話をしていたら,イギリスの食事は不味い,という話でもちきりになった.世の中にパブ以外の形でイギリス料理屋という独立したレストランがないのはうなずける,という話を思い出しながら会話をしていた.

Aeroflotはモスクワで3時間近い transitをさせられた.乗客は全員いったん空港ロビーへ出され,ひたすら待たされていた.最初にイギリスに行った時は日航機だったが,やはりモスクワで待たされたのを覚えている.当時('74)は冷戦真っ只中で,肩に銃を掛け毛皮の帽子をかぶったソ連兵がタラップの下や,建物の入り口に立っていたのを幼いながらに記憶していた.この時('89)は東西の融和とソビエトの改革(ペレストロイカ)が進んでおり,空港のロビーの片隅でやる気のなさそうな工員が Duty Free Shoppers の店をダラダラと作っていた.出発のアナウンスは非常に早口のロシア語と英語,フランス語だったが,非常に短くて聞き取りにくく,アナウンスのたびに緊張していた.

Heathrowには夜9時頃に着く便で到着し,あらかじめ空港からステイ先への送迎を頼んでおいた語学学校の人と会った.驚いたのはmotorwayにほとんど街灯がなかったことである.所々のjunctionに街路灯があるだけで,後は自分の車のライトで光るキャッツアイで行く方向の道を知るだけだった.ステイ先に着いたのは,もう夜の 10 時過ぎだったと思うが,水を一杯もらってその日は寝てしまった.

語学学校は Groucester Greenの傍にある建物の二階にあった.夏のその時期はホームステイでやってくる学生がいっぱいいて,夏休みの間はOxfordのWadham collegeで授業が行われていた.初日のオリエンテーションの時にOxford市内のバスは乗り放題,という期間限定のパスを買った.Rose Hillにあるステイ先から市内までは車で30分ほどだったので,否応無しに買った.Freedom passportという名前の写真入りのパスで,当時 WH Smith で買ったカード入れに入れて,今でも大事に持っている.

最初の2週間は個人授業で,イギリス人の学生と毎朝決まった時間に待ち合わせて,その日の新聞の中から興味のある話についてdiscussする,という形式だった.私が知っていることを説明したり,説明を聞いたり,とにかく1対1で英語を話さざるを得ない環境になった.Oxford の学生が一緒でないと入れない college の庭に入ってベンチに腰掛けて1時間くらい話をして,散歩をしながら場所を変えてまた1時間くらい,というスタイルだった.

翌週からクラスに入って授業をさらに3週間受けた.スペイン人とイタリア人,中国人,日本人がたくさん,という構成だったが男性は私だけだった.日本人の女の子達もみんな真面目で,今思うと,なかなかレベルの高い構成だったのではないかと思う.今でもどこかを探すとクラスのみんなで撮った写真があるはずだが,どこにあるか定かではない.

個人講義もクラス講義も午前中で終わりで,お昼を食べてどこかへ遊びに行って,夕方までにステイ先に帰る,というのが日課だった.Corn market street 沿いのパン屋でサンドイッチと揚げたての French fried potato を買って,向かいの芝生の広場に腰を下ろして食べた.サンドイッチに飽きた時は Cornish pastie (pastryと書いてあることもあった)とポテト,という組み合わせのこともあった.

昼過ぎにどこへ遊びに行ったかはあまりよく覚えていない.どこかに日記があるはずなので,それを見ればわかるだろう.でも Christ church college の芝生でボーッとしていたり,Blenheim palace の庭園の芝生でボーッとしたりしていたのは今でもよく覚えている.Oxford Univ.のmuseumでアインシュタインの板書というのも見た覚えがある.

Warwick castle(1989当時)

週末は語学学校主催の遠足に出かけたり,London やWarwick castleに行ったりした.OxfordとLondonの間はcoachという大型バスで移動した.Victoria coach stationまで往復が3.6ポンド,面白いことに片道でも往復でも同額だった.要は帰りに乗ってね,ということなのだろう.

不思議と雨に降られた記憶があまりない.この点はあまりイギリスらしくなかった.ただ,Stratford upon Avon へ行った日だけは朝からザーザー雨が降っていてすこしうんざりした気分になった.でも,バスに乗ったら雨は上がり,Stratfordに着く昼過ぎには晴れてしまった.イギリスの天気は「曇時々晴れ一時雨」と思っていれば,ほぼ間違いない.


この期間中に一度だけ小学生のときにイギリスに居た頃の友人と会った.Jonathan は私が帰ってもクリスマスカードの交換などを続けていた相手で,彼自身も一度日本にも遊びにきたことがある.今度は私の番で,私は彼の家に Bank Holiday の日に半日お邪魔した.お昼を食べた後,Lord Carnarvonの城(表題写真)というのに連れていってもらった.家内と見ていたテレビ番組の中で「王家の谷」の発掘のスポンサーということで登場し,その居城(わたしが訪れた所)の映像も出てきた.確かに,見せてもらったお城(公開されていた)には奥の部屋の扉の脇に小さな隠し棚があって,小指の先ほどの大きさの発掘品の小さなオブジェなどが収められていた.このお城の執事がJonathanの名付け親(godfather)だったので,挨拶をしてお城を案内してもらった.
その後,Jonathanは私を,以前家族で過ごした場所へ連れていってくれた.その場所は家がとりつぶされ,土の山になっていた.また,我々が通った小学校へも連れていってくれた.彼は自慢の Morris Minor という車を見せてくれた.最後にその車でステイ先まで送ってくれた.私はまだ彼と会うチャンスはあるのではないかと密かに思っている(最近,Linked In で発見!).

Jonathan (後ろ姿) と我々が通っていた小学校 Chilton County Primary School の校門(1989)

学校のエントランス(1989)
通路の右側に化石(模型?)が嵌め込まれたディスプレイが並んでいるのも,我々が通っていた15年前と同じ.

James(爺) の庭で遊ぶ James (孫)  (1989)

ステイ先の家は朝晩をまめに提供してくれて,夜はテレビを一緒に見せてくれた.週に1回金曜日だったと思う夕方からずーっとお笑い番組ばかり流している日があった.でも,Mr. Beanはまだなかったんじゃないかな.ああいう(非常にバカバカしいがきわめてスタンダードな)ノリが英国でうける,というのは私は肌で理解できる.James(爺), Barbara (婆), James (孫), Boffy (コリー犬), Sammmy (ダッチボーダー犬)という家族構成で,家はいわゆる semi-detouched house であった.裏庭はきれいな温室があり,庭仕事大好きなイギリス人,という典型であった.

James(孫)はこの家の娘の子供で,躾のためかBarbara(婆)のところに預けられていたようだ.とにかくキカンボウで,Barbara(婆)のことはnannyと呼んでいた.James(爺)は奥さんのことを名前を縮めて Bab と呼んでいたのだが,最初の頃,イギリスでも老婦人はババァと言うのかと私は不思議に思っていた.Barbara(婆)はWould you like a cup of tea? とよく声を掛けてくれて,時には近所のお茶に呼んで(連れて行って)くれることもあった.

時々,夕飯のデザートにアップルパイが出されることがあった.温めたアップルパイにスクープしたアイスクリームを乗せ,これまた温かいカスタードソースを掛ける.毎日食べていたら確実生活習慣病になるが,これは最高の組み合わせだった.今でも時々食べたくなって,素材を買い集めて試してみる.ただ,サマータイムの英国の妙に明るい中での夕食後に食べたあの味には,なかなか再会できない.
Gravy - Custard 教があったら,絶対に入信する.

語学学校での生活を終えて,最後に一週間だけロンドンの市内にある B&B に宿泊して大英博物館に通う,という生活をした.ステイ先を出る一週間前の週末にロンドン市内に出て大英博物館に隣接するブロックに宿を取った.旅行ガイドブックに出ていた安宿の一つで,ベッドが傾いていた,という報告が書いてあった.まさか,とおもいきや,やはり傾いていた.壁に向かって下がるように傾いているならいいのだが,床の方に向かって傾いていたので,寝づらかった.朝一番で大英博物館に入って,お昼に一度出て,昼食がてら買い物に出て,帰ってきて,また博物館に入って,夕方に博物館が閉まる時間に出てから,夜は近くのお店で買った夕食を食べながらクリケットの中継のテレビを見ていた.近所を歩いていたら,日本人観光客に道を聞かれたこともあった.まぁ,私が1週間合法的に泊まれたのだからやはり安宿だったのだろう.

そうこうしてあっという間に一月半が過ぎ,イギリスを去る日になった.この日のフライトはお昼前の Aeroflot便だったので,朝6時頃に宿を出て,あらかじめ調べておいた始発から4番目の地下鉄に乗って,Russell square から Heathrow へ向かった.宿から駅に向かう途中でタクシーが声を掛けてきて乗せようとしたが,地下鉄の駅のすぐ傍だったので固辞してそのまま地下鉄で空港へ行った.

飛行機に乗ると,隣の席は日本人のフリーライターという女性だった.妙に旅慣れていると思ったら,旦那はベルギーに居て,日本からも頻繁に往復しているようだった.女性誌に生活文化関連の記事を書いている,と言っていたが私がそんなことを知る由もない.名刺はもらったが,私は学生だったし,あったとしてもバイト先のコンピュータショップの名刺だったから,そんなもの渡してもしかたなかった.が,それが始めてもらった名刺だったことは今でも記憶にある.色々なことをよく知っている人だったが,私の住所を言ったら,ああ,あの外人屋敷がいっぱいあるところでしょ,といわれたのには驚いた.なんでも,数多い外国人の知り合いの一人がそこに住んでいて,パーティで行ったことがある,との話だった.その女性の名前は今でも良く覚えているが,あいにく,どの雑誌にも記事が出ているのを見たことがない.

幸か不幸か,語学学校の外では希に出会う人々以外に日本人と会ったことはなく,割と一人でなんでもしないといけない状況にあったことは何らかの意味でいい体験だったと思う.

part3に続く)