England1

最初の英国

幸か不幸か,父の仕事の都合で5歳から7歳までイギリスに滞在し,Oxfordshire の現地の小学校 Chilton Primary School に通った.そんな片田舎に日本語学校などあるはずもなく,当然,現地の小学校の授業は英語であり,遊びの会話も英語だった.英語の教師の資格を持つ母親と,研究者の父親は英語は問題なし.我々も渡英前に色々仕込まれたが,結局現地で覚えた言葉の方が多かった.

私はともかく,妹は小さすぎて気の毒だったかもしれない.小学校に通い始めて,始めのうちの数日は毎日,休み時間になると友達と先生に連れられて私の所へ来て泣いていた.英語で質問責めにされたらしい.
私自身も最初,What's your name? が聞き取れず,首を傾げてばかりいた.一応言い訳をしておくと,英会話教材のような "ホワッツ ユア ネイム?" とは聞こえない.現地の小学生が子供らしい甲高い声で)手加減なく発音するのを,敢えてカナで書くと "ホショ ネイ?" (最後の「ム」は慣れないと聞きとりづらい)と聞こえる.何度も何度も繰り返し同じことを尋ねられ,どうも最後がネイム (name) らしく聞こえたので名前を聞かれているのだと判った.Ichiro ,と答えられるようになってしばらくすると今度は,妹が泣いてばかりで答えないせいか, "ホショ シスタス ネイ?" ("What's your sister's name?"と言っている)と聞かれるようになった.

ともあれ,その小学校ではイギリス文化の怒濤のような洗礼を日々受けて過ごした.

その一つが食文化だった.体育館に机を並べたのが食堂になっており,長手方向の端で壇に近い方に必ず一人先生が座る.校長先生のことばで神様に感謝の祈りを捧げた後,食事が始まる.まず,私は勝手が分からないので回りを見渡して真似をするところから始めた.先生は,アーメンと言い終えるやいなや,塩の入れ物をガッシとつかみ,料理にまんべんなく振りかけ,隣の人に塩を渡す.私もそれに倣った.現在の味音痴はこの時のせいだろうと思う.多かったメニューはレバー,マッシュポテト,グリーンピースであった.給食のおばさんの "any more green peas?", "any more gravy?" の声が今でも懐かしい.Gravy の味をここで覚えたのは,しかし,幸運だったかもしれない.

小さな学校で,各学年一クラスしかなく,インテリの息子も農家の息子もみんないっしょくただった.毎週,水曜日に全学年まぜこぜのサッカーがあった.当時は広いと感じた校庭の両端にゴールが据えてあり,どっちがどっちへ攻めるのか分からないまま,ボールを奪ってゴールへ突進する.雨の日も,晴れの日も,毎週水曜日の午後はサッカーだった.

休み時間の遊びは兵隊ごっこかビー玉だった.兵隊ごっこは,現在の日本ではまずない遊びだろう.階級のシールをもらって胸に貼り,藪の中をガサゴソと歩き回る.時にはなぜか落下傘部隊になり,木の上から次々と飛び降りる,というのもあった.ずるい奴は,すぐに負傷兵になって休んでいた.ビー玉は2,3個から初めて最後は紅茶缶いっぱいくらいまで増やした.いかにして連続してぶつけるかで獲得できるか否かが決まる.

興味深かったのは,「高鬼(たかおに)」という遊びがあったことである.地面より高いところに上っていれば鬼に触られず安全,というあれである.入学当初言葉もろくに通じなかった私を,学級委員の子が手を引っ張って仲間に入れてくれた時に,初めて遊んだのが高鬼だった.今でも不思議だが,こういう子供達の遊びって,どうやって伝播したのだろうか.

学校は付近の田舎町を学区にしていたので,スクールバスが家の近くまで迎えに来てくれた.2階建ての赤いバスだったことは1度か2度しかなかった.バスに乗って,鞄を肩からたすきに掛けて,鞄にはおやつを詰めて通った.おやつの時間は午後3時頃.みんなでおやつを交換したりした.

学校から帰ると何をしていただろう?少し日本語の勉強をして,夕食を食べて寝てしまっていた気がする.時々日本にいる祖母から送られてくるレトルトの日本食が待ち遠しかった.

休みの日には,Abingdon か Oxford という近くの町か,London まで車で出かけた.出かけない日は家で遊んだ.家は小さな一戸建ての平屋で,前庭と後庭がちゃんとついており,庭いじりの好きな母が大変喜んでいた.後庭の垣根の向こうに馬で通る道があり,庭で遊んでいると,垣根越しに乗馬をする人が見えた.

一度,父の恩師である谷 一郎 先生がその田舎の家に来訪されたことがあった.私の下の名前はその先生にあやかったんだそうで,他にも色々と逸話は伺っていたが,まだチビだったため挨拶をしたら早々に遠ざけられてしまった.直接お会いしたのはその時一度きりで,残念ながら谷先生の印象はあまり残っていない.夕方の家の中で小さい食卓を挟んで父と差し向かいに座り,話をしていた様子だけが記憶に残っている.

家の近くの公園で近所の子供達とよく遊んだが,不思議なもので,この時に嗅いだ「雨に濡れた芝の匂い」が今でも懐かしい.この匂いを嗅ぐと,一瞬だけタイムスリップする.とにかく,イギリスは雨が多かった.学校に通うときも,黄色いゴムの合羽を着て,傘はささなかったんじゃないかな.

父と妹と Blenheim palace にて (1974)
Blenheim palace は第2次大戦時の英国の宰相チャーチルが育った場所.彼が幼少期に使った品々などが多数展示されていた.

夏休みには一家でスコットランド周遊ドライブをした.エディンバラから出発してぐるっと周回してエディンバラへ戻った.途中はマナーハウスやB&B に宿泊した.当時の両親の収入で泊まれたぐらいだから,そう高い宿泊費ではなかったのだろう.

新婚旅行で湖水地方からロンドンまで南下する旅をしたときに,この時のまねごとをしようとしたが,当時とは観光客の多さが違い,行き当たりばったりで探したB&B はなかなか空きがなかった.それに,宿泊費が異常に高かった.この話はまた別に記すことにする.

ともかく,この初めての英国滞在強烈なカルチャーショックだった.私の人格形成にもかなりの影響を及ぼしているものと思われる.

part2 へつづく)