2021年1月の参加者の感想(順不同、特定されない名前で)

たかはしの感想

 密集しない音楽実践という言葉に隠れているのは、音楽は複数人によって体験されるものであるという前提だと思った。パネリストの複数人で大きい音が好きという話もあったが、演奏者が装置(あるいは身体という装置)を用いて振動を発生させ鑑賞者を攻撃する、この暴力的な直接性が両者にとって安心するコミュニケーションなのではないかと感じた。鑑賞者は一様に被害者(悪い意味じゃないです)として集団の意識を生み、攻撃側はその反応を見ると同時に自傷行為のようにダメージを受け、被害者の集団に敵対しない形で受け入れられる。密集しない音楽実践はこの関係を守ったまま行うこともできるだろうし(単純に音がでかければ密集しなくてもいいかもしれない)、この関係の外で密集しないからこそできる体験(レコーディングとか)も当然あった。ならば密集しないということに着目する意義は何なのか。私は今日のトークイベントで音楽を音という自然現象ではなく人を中心として考え直すことだと思った。密集しないことは逆に音楽に人を発生させている点が面白いと感じた。

いなの感想

 今回のトークイベントのテーマである「密集しない音楽実践」という言葉を聞いて、話を聞く前はオンラインライブや音楽配信はあくまで「現実のライブの代替」だと思っていた。しかし、細田さんの仰っていたzoomのカメラONやOFFを使った視聴覚の分断と再統合など現実のライブの代替ではない新たな音楽の楽しみ方の発見や山本さんの紹介された事例のなかでコロナ禍によってより日常と創作の融合が可能になったアーティストの方を聞くなかで、コロナウイルスは経済や大半の社会行動において「停滞」を招いたものだが、音楽はコロナ禍においても歩みを止めないどころか、むしろ新たな「気づき」を与えてくれたのだということがわかった。

付記

 今回のトークイベントのテーマである「密集しない音楽実践」という言葉を聞いて、話を聞く前はオンラインライブや音楽配信はあくまで「現実のライブの代替」だと思っていた。しかし、細田さんの仰っていたzoomのカメラONやOFFを使った視聴覚の分断と再統合は現実のライブでは決してできないし、音楽を奏でている様子なのにミュートの状態で全く聞こえないというのはライブの代替ではない新たな音楽の楽しみ方の発見であり、普段私もzoomを使っているが、まったくその発想はなかったので、音楽家の方の着眼点や気づきは感心するものばかりだった。また山本さんの紹介された事例のなかでコロナ禍によってより日常と創作の融合が可能になったアーティストの方は音楽家としての「ワーク・ライフ・バランス」を体現するものであり、そのような活動に新たな深みをもたらしたことを考えると、コロナウイルスは経済や大半の社会行動において「停滞」を招いたものだが、音楽はコロナ禍においても歩みを止めないどころか、むしろ新たな「気づき」を与えてくれたのだということがわかった。

 また普段の聞きなれた音楽(JPOP)とはまた異なる音楽実践をする方々の話を聞くことは初めてでしたが、このようなコロナ禍においてもsniffさんの仰った香港の安全な場所の音やライブハウスでの試みなど「音楽とは社会にとって、人にとってどういうものなのか」という世界の音楽家達の探求力を今回のトークイベントで少しでも学ぶことができたことはとても有意義なものだった。*少し感想が少なかったので書き直しました。


れおんの感想

 音楽が虚構であるかどうかという議論が、美学上にはどうやらあるらしい。確かに、映画や小説が虚構だと言うに相応しいものだとすれば、音楽は虚構である、という言葉の使い方があまりしっくりこないことに、ハッとさせられた。ただよくよく考えると、少なくとも録音物においては、音楽は虚構っぽいものなんだなぁと思われる。実際の時間経過のうちにあった音楽演奏を、録音によってある時間軸に固定してそれらの素材を編集することで、録音物の音楽は生成している。それら素材の総体を音楽として受け取る聴者は、さまざまな時間の重なりを経験しているという事実からすれば、その音楽体験は現実にはない虚構っぽい世界を垣間見ている(聞いている)ものだと思われるのだ。

 ではライブ演奏による音楽体験もまた、虚構と言うに相応しいものなのだろうか?録音物に比ベてみると、ライブ演奏による音楽とは、実際の時間経過のうちに体験できるという点で、虚構ではない経験が得られるものだ、と私は考える。そしてその虚構であるかどうかというあまり実感のない区別をつけることに、実はライブ演奏の魅力があるのではないか、と思う。録音物にある虚構っぽさは、その実誰もが感じ取っているもので、だからその虚構っぽい体験を、虚構ではない体験に昇華したい、という欲求がライブ演奏に足を運ぶ理由の一つでもあったはずだ。虚構から実体験へという欲求がこれで解消されるぜ!という思いが、ライブ演奏に魅力を与えていると思う。

 したがって映像配信による密集しない音楽実践がなんだか面白くないのは、密集する音楽実践で本来得られた虚構から現実へのカタルシスのようなものを削ぐから、と言えるのではないだろうか。ライブ、生配信という方式は、虚構から実体験への昇華を期待させる面があるだろう。その期待が裏切られ、人々は落胆しているのではないだろうか。また、映像は配信などの同時性を持ったとしても、何となく虚構っぽさを拭えないことが、虚構−現実カタルシスを得られない原因であるように思われる。だから、映像による密集しない音楽体験を提供するのなら今はまだ、ライブ感なんかを売りにしてはいけないのだと思う。視聴者にとってそれは映像に過ぎないのだから、映像作品として、虚構としていかに人々を惹きつけるか、ということを考えるべきなのだと思った。とすると一旦ライブ配信とか生配信とか言うのをやめてみてはどうだろうか。ライブ風映像作品とか、ちょっと生っぽい配信とか言った方がいっそ潔く、人々の期待を裏切らずに済むのではないだろうか。

ひぐちの感想

 密集する「ライブ(ハウス)」と密集しない「配信ライブ」、どちらが良いというわけではないが、後者が前者の模倣に過ぎない劣化版となるのは面白くない。このような認識は今回のトークイベントのパネリスト全員に共通していた。また、そもそもレコード音楽やラジオなど「密集しない音楽」に分類できそうなものはあるのだという話も出ており、なぜ音楽に受け手が触れる手段が映像になってしまいがちなのかという論点が忠さんから提示されるなど、視覚が有利になりがちな「配信ライブ」をはじめとした現代の音楽実践に対してパネリストの皆さんからは聴覚を重視する声が多く出ていたように思う。

 しかし、その一方で「ライブ(ハウス)」については音を体で感じられる体験ができる、コミュニケーションから新たな文化的表現が生まれる、多くの人と同じ空間にいるからこそ感じられるにおいや身体的な接触など人間の体全体を使った音楽実践ができる場と肯定的に語られることが多かった。

「音楽実践」において「五感」に注目してみると、「配信ライブ」では視覚・聴覚が、「ライブ(ハウス)」では五感全てが使われる。全体的に「ライブ(ハウス)」に肯定的だったパネリストの皆さんが、「配信ライブ」について語るときには視覚の優位性に否定的で「聴覚」にこだわっている様子が個人的にはとても気になった。「なぜ、現代の人は視覚的な音楽実践を求めがちなのか」という今回のトークイベント内における一つの疑問についてすぐに思いつくのは、当たり前だが、音楽実践において五感全部を使った体験が理想とされるから「配信ライブ」は「ライブ(ハウス)」に近づける体験の提供のために伝えられるものは全て伝える、つまり音だけでなく映像も伝えようとするのだろうという答えだ。しかし、五感全部を使った音楽実践が難しくなり、技術的な問題もあって音楽実践が視覚・聴覚に絞られると、今度は視覚が邪魔に感じられるものなのだろうか。「音楽≒音≒耳で聞くもの≒聴覚」という誰にでも思いつく連想は実は「音楽実践」のほんの一部に当てはまるものに過ぎないのかもしれない。人間は音楽をどこで感じているあるいは感じたいのだろうか。