2018年12月の参加者と欠席者の感想

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参加者と欠席者の感想

おーいし(欠席)『共鳴と私』

共鳴と私というタイトルだが、そもそも共鳴というのはどういう意味を持つ言葉なのか疑問に思ったので、意味をまず調べてみることにした。すると大きく3つの意味があることが分かった。


1.振動体が、その固有振動数に等しい外部振動の刺激を受けると、振幅が増大する現象。振動数の等しい二つの音叉(おんさ)の一方を鳴らせば、他方も激しく鳴りはじめるなど。電気振動のときには共振ということが多い。

2.分子の構造が、一つの化学構造式で表せず、二つ以上の式の重ね合わせとして表される状態。

3.他人の考えや行動などに心から同感すること。「主義に共鳴する」

(goo国語辞書より)


今回のレポートにおいては1の意味が主に適用されるのかと思うが、個人的な感覚としては3の要素も多少含まれるかもしれない。しかし、固有の振動数などを個人的に調べるのは難しいので、とにかく音をいつもとは違った方法で感じてみようと思った。

そこで、ペットボトル2種類を使って家の中の音や、外の音を聞いてみることにした。




『仲良く並ぶ小岩井純水りんごさんとC.C.Lemonさん』

・車(軽乗用車)乗車中

左耳に小岩井純水りんごのペットボトル(以下ペットボトル1)を当ててみる。普通に乗っていると聞こえない低い音が聞こえる。車が停止すると聞こえなくなるので、タイヤの回っている音だろうかと思う。ペットボトル1を耳に当てたり離したりすることで、普段気にしていない音、意識の外にある音に注意が向くようになった。ペットボトルという媒介により聞こえる世界が変わることを実感した。また、車に乗りながら空のペットボトルを耳に当てている人間はなかなかいないだろうと思った。


・公園

池があり、風が若干吹いているので、それがペットボトル1の中でくぐもった音が聞こえる。乾燥した冬の風の音をちゃんと聞くこということを体験できたのはペットボトル1の存在があったからだ。こもった風の音を感じることはなかなか趣があって良いと思った。人の足音や子供の甲高い声などハッキリした音はペットボトルを耳に当てていても反響せずにハッキリと聞こえることにも気がついた。


次は、C.C.Lemonのペットボトル(以下ペットボトル2)を使って身の回りの音を聞いてみた。


・テレビ

音の出ているスピーカーにペットボトル1の底を当て、飲み口を耳に当ててみたが、大して普通の音との差異を感じられなかった。女性の声が若干響きやすいか?といった程度だった。


・焼き芋

紅あずまの焼き芋があったので、芋の声はどのようになっているのかと思い、皮にペットボトル2を当ててみた。芋から出る蒸気の音だろうか、シューという音が聞こえた気がした。今度は生きている生の蔓のついたさつまいもの声を聞いてみたいと思った。


ペットボトルの中に籠りやすい音と、そうでない音があるのではないかと感じた。それぞれのペットボトルの中で響きやすい振動数というものがあるのかもしれない。専用の機械があれば、そのようなものを調べたりするのも面白いかと思う。ペットボトルを耳に当てて様々な音を聞いてみた結果、そのような行為を介することで意識に飛び込んでくる音があることが実感できた。また、外でペットボトルを耳に当てていると精神的なことを心配されてしまうかもしれないが、室内の音より外の様々な音を聞いた方が体験としては面白いのではないかと、個人的には思った。



きょうこ(欠席)「震える身体―共鳴ワークショップに思いをはせる」

共鳴ワークショップというものがあったらしい。ワークショップというと創作雑誌やハンドメイド雑貨などが思い浮かぶので共鳴現象という科学的事象を活用しているのは面白い。共鳴という単語を聞いたのは、小学生の理科の授業以来であり、あまり詳しくどういう現象か覚えていなかったので、調べてみた。goo辞典によると「振動体が、その固有振動数に等しい外部振動の刺激を受けると、振幅が増大する現象」らしい。振り子や音叉を使った実験で簡単にその現象を見ることができるという。以前テレビで声だけでワイングラスを割る人を見たことがある。これも声の振動数をグラスと等しくする共鳴現象を利用しているそうだ。お風呂で歌を歌うと普段よりうまく聞こえたり、講堂や体育館でマイクが「ワ~ン」となるのも、すべて声や音が壁に当たって反響し、共鳴現象を起こしていることが原因だ。こうして考えるとあまり身近な気がしていなかったが、共鳴現象はよく目にするものだった。

しかしこの共鳴現象、音が波であると前提を知らなければ発見できないものではないだろうか。音の波と波が重なって高めあう図を基礎物理で習った時は感動を覚えたものだ、よくぞ目に見えない“音”という現象を波ととらえたものだ。古代中国・古代ギリシャではすべての物事を元素でとらえたというし、音は粒子であるというイメージを抱いても不思議はない。しかし音-すなわち音楽という特性を考えると波ととらえる人がいたことにも納得がいく。音楽哲学者のバロウズは音楽を“身体の行為”としてとらえた。「視覚的世界が私たちの身体から離れたところで経験されるのに対し、音は私たちを取りかこみ互いに混ざり合い浸透しあう。」確かに音は、たとえばライブや野外ステージにいると、たとえ聞こえない高(低)周波であっても内蔵から揺さぶる衝撃があるときがある。圧倒的な音量や音の周波は、人間を音叉のように振動に合わせて内側からの振動を感じさせる。ステージ全体が一つに、というのはライブや演奏会等でよく聞く単語であるが、共鳴という点から考えるなら、実際に私の身体感覚は隣の人と(音楽の振動を受けているという意味で)共有しており、よい音楽は二重の意味で“震えるほどの感動”を覚えるのであろう。アフリカの主労災州民の合唱や、グレゴリオ聖歌等の宗教行事やスポーツの前に音楽が用いられているのも、集団で同じ音に身をゆだね、共鳴する感覚、内側に響く感覚を共有することで一体感と高揚感が得られるからではないか。つまり古来から人々は共鳴という現象を身体的に理解しており、浸透する点、高まったり低くなったり安定性がないこと等を考慮した結果音=波という仮説に至ったということになる。これもまた仮説にすぎないが。



しょうへい「共鳴ワークショップ 三つのショック」

共鳴ワークショップは、ひたすらショックだった。ショックは三つある。

一つは、共鳴を実際に体験したことである。定在波という波がこの世には存在していて、それを共鳴させることで特定の定在波を強調、増幅させることができるらしい。よくわからないが、確かに音がどんどん高音と低音に分かれていき、それぞれが強調されていったことはよく分かった。さっきまでは何の音か聴き取れたものがどんどんあやふやに抽象的に破壊的になって行くのは、モヤモヤするが、でも気持ちいいような気もして不思議な体験だった。これが一つ目のショック。

二つ目は、ワークショップ参加者の感性の鋭さである。共鳴した音は何の音かも分からない、いわばノイズなのに、それに耳をじっと傾けて、この音は机の振動の音だとか部屋の床の振動の音だとか部屋全体の共鳴の音だとか分析をする先生と参加者には驚かされた。私には全く分からなかった。他の参加者の方は定在波や共鳴のメカニズムに関する理解が進んでいただけなのかもしれないが、私にはもっと根本的な違いに思えた。つまり、他の参加者の方は音を聞いているというよりも波を聞いているように思うのだ。私の言う、波を聞くというのは、音を聞くときに、線で描かれた波が何本も絡まっているのが音だとすると、音を一つひとつ分解していって、一本の波だけを聞き取るという、私のイメージである。他の参加者の方の音をそのようにミクロに聞く姿勢、聞ける感性に衝撃を受けた。これが二つめ。

三つめは、二つ目に関連する自分の愚かさに対するショックである。私は、他の人と異なって、共鳴した音はいつまで経ってもノイズだった。強いて言えば、あっこれホラー映画みたい、と思うことがあったくらいのことで、周りの参加者に比べていかに自分が劣っているかを痛感した。一応、私も人並みには音楽とかも好きだし、最近はウィントン・ケリーがかっこいいなと思ったりしていたのだが、思えば、私が聴いてきた音楽は、もうすでに評価が定まっていたし、ルーツもあるし文脈もあるし、一定の親しみが持てるものだった。そして、目の前で徐々に生まれて来る共鳴の音に私は太刀打ちできなかった。今目の前で鳴っているこの共鳴の音をどう聞けばいいのか、どう受容すればいいのか、どう評価すればいいのか全く分からなかった。これが三つ目のショック。

以上が共鳴ワークショップ、三つのショック。未知が目の前で作られていって、そして目の前に現れた未知について少し考える。そんなワークショップだったような気がする。



たまき(欠席)「共鳴ワークショップについて」

共鳴ワークショップに参加できなかった。

そもそも共鳴ワークショップについての説明があった日にフランスにいて、説明をまともに聞いていないので共鳴ワークショップとは何なのかが分からない。説明だけでなく、共鳴ワークショップにも行けなかったので、やっぱり何かわからない。正解が分からないので想像してみる。

「共鳴ワークショップ」とは「共鳴」と「ワークショップ」という言葉からできている。

まず、「共鳴」。漢字は簡単なので、何となくの意味はとれる。しかし、私にとって頻繁に使う言葉ではなく、何か具体的なものを指すのか、形のないものを指すのか、いまいちわからない。調べてみた。


共鳴(きょうめい)

1 振動体が、その固有振動数に等しい外部振動の刺激を受けると、振幅が増大する現象。振動数の等しい二つの音叉 (おんさ) の一方を鳴らせば、他方も激しく鳴りはじめるなど。電気振動のときには共振ということが多い。

2 分子の構造が、一つの化学構造式で表せず、二つ以上の式の重ね合わせとして表される状態。

3 他人の考えや行動などに心から同感すること。「主義に共鳴する」

(デジタル大辞泉)


理科が苦手な私に、一目でわかるのは3つ目の説明だけだ。とりあえず、1つずつ見てみる。1つ目の説明は正しく理解できているのかもわからない。物理の話なのではないかと思うが、とりあえず、ある二つの新動体の振動数が等しければ、一方が鳴れば、もう一方も鳴るということはわかった。確かに物と物の「共に鳴いている」状況が想像できる。先生の専門分野が「音」に関することだった気がするので濃厚な説である。2つ目について、今度は化学の話だろうか。「化学構造式」は「重ね合わせ」ることが可能なことを初めて知った。意味はよく分からないが、文系の学生に化学構造式を重ねさせるのはあまりにも酷なので除外する。3つ目について、音は空気の振動というので、「鳴」くことには振動が必要だ。感動した時など、感情が動いたときに「心が震える」などの表現を使うので、人と人の心の「共鳴」は「共に心が震える」という、「同感する」ことの比喩表現のようにも捉えられる。1つ目には劣るが、今回のワークショップのテーマとして消しきれない。次に「ワークショップ」について考える。「ワークショップ」は何度か経験がある。雰囲気はわかるが、語義はわからない。


ワークショップ

1 仕事場。作業場。

2 参加者が専門家の助言を得ながら問題解決のために行う研究集会。

3 参加者が自主的活動方式で行う講習会。

(デジタル大辞泉)


先生からすると仕事や作業であっても、生徒にとっては授業である限り、仕事でも作業でもなく、学びなので1つ目は除外。今回の「共鳴ワークショップ」で問題解決を図っているならば2つ目、そうでなければ3つ目ということにする。

「共鳴」が1つ目の意味なら、生徒がそれぞれ振動体を持ってきて「共鳴」を確認したのだろうか。画としての想像はつかないが、理科の実験みたいである。3つ目の意味なら、心の「共鳴」を確かめたのか。方法は様々にありそうだが、思いつくのはどれも子供だましに感じられ、小学校の道徳の授業のようになりそうだ。

いろいろ想像してみたが、結局「共鳴ワークショップ」が何なのか、やっぱりわからなかった。


なかおか「共鳴ワークショップのあれこれ」

2018年12月16日、桜木町にある野毛zartという場所で「共鳴ワークショップ」というものが行われた。アーティストの佐藤実(m/s)さんを講師にお迎えし、共鳴について教わった後、実際に様々なモノの共鳴を参加者全員で聞いてみるというワークショップだ。主催は横浜国立大学の中川克志教授である。私は中川ゼミの一員としてこのワークショップに参加した。横浜国立大学に関係のない一般の方も参加していて、総勢10数名でさながら秘密結社のように行われた。このレポートでは、ワークショップ当日の様子をお伝えしながら、私の感想を述べたい。

ワークショップの第一部は佐藤実さんによる共鳴の授業である。佐藤実さんが前に立ち、パソコンやホワイトボードを駆使しながら、「波」とはなにか、「共鳴」とはなにかということについて講義してくださった。私は高校一年生の時に勉強した物理を思い出しながら佐藤実さんが言っていることをノートにメモしていったが、30分くらい聞いたところでもうついていけなくなった。知識としての「波」や「共鳴」の原理と、実際の現象をどうにも結び付けられなかったのである。他の参加者の方々は内容をきちんと理解しているように思えた。私は第一部の後の休憩時間中にゼミの仲間にもう一度解説をしてもらったが、それでもあまり腑に落ちなかった。

続く第二部では、参加者がそれぞれ持ち寄った直径4㎜以上の穴を持つ容器の共鳴を聞いていった。手順はまず、録音機二台・スピーカー・容器の中に入る大きさのマイクを用意する。共鳴を聞く容器を机や床に置き、スピーカーからなんでもよいので音を流す。その状態で、マイクを容器の中に入れて録音する。そうすると、スピーカーから流れている音とともにその容器の共鳴の音が録音される。次に、片方の録音機からスピーカーを通してこの時録音された音源(スピーカーから流れる音と容器の共鳴音が収録されている)を再生し、その状態でもう片方の録音機を使って同じように録音する。これを3、4回繰り返す。すると、最初にスピーカーから流していた音(関係のない、なんでもよい音)が録音された音源から消えていき、容器の共鳴の音が大きく聞こえるようになる。

様々な容器が持ち寄られたが、特に印象的だったのはお菓子の箱の外装に使われている透明なフィルムである。フィルムは四角柱の片側の端が開いているような形になっており、指で押せばすぐに形が変わってしまうほど柔らかいものだった。こんなにふにゃふにゃでは共鳴なんて聞けないのではないかと思ったが、意外にもそこそこ鮮明に聞こえた。フィルムを参加者全員で囲み、じっと見守り、耳を澄まし、共鳴が鮮明に聞こえて盛り上がるという光景は、外から見るとかなり異様だっただろう。

以上でワークショップは終了した。最初中川教授に「共鳴ワークショップをやります」と言われたときは内容を全く想像できず、面倒臭いとも思ったが、参加してみるととても楽しいワークショップだった。またこのような機会に巡り合えると嬉しい。



なつき「空間の共鳴」

市営地下鉄で桜木町駅に降り立ち、会場である野毛 Zart が見つからず、駅周辺を2,3周した。時間ギリギリになってやっと見つけたのは隠れ家のような会場だった。地下に案内されると、そこはコンクリートに囲まれた空間で、十数人のワークショップ参加者がいた。現役のアーティストから学生まで、このような機会でないと集まらないようなメンバーが一つの空間に集った。

ワークショップは共鳴についてだった。前半は講師の佐藤実さんが、物理的なアプローチ で波という現象から丁寧に説明してくださった。文系の私としてはわからない点もありつつ、何となく共鳴というもののイメージをつかんでいった。

休憩中に佐藤実さんと少しだけお話をし、前半の話がよくわからない点もあったことを 伝えると、佐藤さんは「前半の話が分からなくても、後半の内容で実感してみることが大切」 と言ってくださったので、その言葉を信じて後半に臨んだ。

ワークショップの後半の内容は、容器にマイクを入れて音を流し、録れた音を流してまた録音をするということを繰り返すことで、ものの定在波が共鳴してだんだん大きく聞こえてくるというものだった。いくつかのものの定在波を聞いていくうちに、2 つの音が響いていることに気付いた。参加者の中から、もしかしたらこの会場自体が共鳴しているのではないかという指摘があった。どうやらその通りのようで、会場のこのコンクリートの空間が低い音の共鳴を生み出していた。私にはそのことが一番面白く感じた。

空間の音の響きの関わるものとして、反響という現象がある。反響は共鳴とは違い、壁にぶつかった音が帰ってくる現象だ。一方で共鳴は、そのものの定在波と同じ大きさの波が増幅して聞こえるものだ。ワークショップの途中、会場の1階にいたスタッフさんが、音が響きすぎているということで抑えるように注意しに来た。つまり、共鳴させることで、空間の外にも響が伝わっていたということだと思う。反響と共鳴の大きな違いがここにあると感じた。反響は空間の中の音が空間の中に響くが、共鳴は空間自体が鳴るといえるのではないだろうか。空間をこのように使うこともできるのかと思って面白かった。

容器を使った実験の中で、布をかぶせてみたらどうか、逆に敷いてみたらどうかなどの試みもあった。あの空間を容器だと考えると、上には建物が載っていたり、中にはワークショップ参加者が十数人いたり、共鳴に何らかの影響を与える条件があったと思う。あの空間の共鳴はあの時、あのメンバーがそろっていたからこその響きなのではないかと考えるととても思い出深く、大切なもののように感じられた。



なりと「感想」

ある音源から、あるものの共鳴を聞く。今回のワークショップでやったことを簡単に説明すれば、こういうことだろう。仕組みはそう難しくない。ある音と、あるものを用意する。その音のうち、ものの定在波と一致するものが共鳴し、強化される。その音をマイクで拾い、撮れた音をもう一度かけて、同じように共鳴を聞く。これを繰り返すことで、徐々にもとの音源の中から定在波が濃くなっていき、音としてはっきりと聞くことができるようになる。

この作業によって得られる音は一体何なのか。もちろん、共鳴の音、定在波の音である。これはマイクを入れるものを変えれば当たり前に変化する。金属の角パイプやティーポット、フラワーベースからお菓子の包装まで様々なものの定在波を聞くことができた。その音はそれぞれに周波数が異なり、個性的な音であった。さらに、予想外のことではあったが、会場となった場所の壁がコンクリートだったことが要因して、会場の定在波までもが音として現れたのだ。それらを聞くことは、目の前にある「もの」を見ることや触ることではなく、聞くことで認識するという新しい体験だったのではないかと私は考える。角パイプもティーポットも普段は見たり触ったりしてその物体を我々は知覚している。しかし、ワークショップで我々が行ったのは、さながらコウモリが音の反射で物体を知覚するような、音による物体の認識だったのだ。

どんな部屋ですか、と聞かれたら、その部屋の広さや形、壁の材料や色を答えるのが、我々が普段行う一般的な回答だろう。しかし、その部屋の定在波を聞かせることで、その部屋を説明したことになるのではないか。なぜなら、定在波はそのものに固有のものだからである。むしろ、部屋の壁の材質のようなものは視覚に頼った認識では十分にその部屋の情報を伝えられないかもしれない。しかし、定在波なら、その部屋の本質を伝えることができるかもしれない。

共鳴を生み出す音源のリズムがだんだんと溶けていき、緩やかな定在波の響きだけが残るようになるプロセスはそれだけでも神秘的で、会場にいた十人弱の人々が中心に置かれた、共鳴するものを静かに見つめながらこの音を聞く光景も、不思議な空間であった。その音が、ものの本質をとらえた音であれば、なお、世界の本質を会場で聞いているようで、素敵ではないだろうか。これらを踏まえて、私たちの知覚を新たな切り口から見るという点でも、今回のワークショップは面白かったと私は考える。