2019年12月の参加者と欠席者の感想

あらき「うなりのワークショップ」

普段、うなりということをあまり考えたことがないので、ワークショップに参加する前の段階でうなりについて考えてみた。すぐに思い付いたことは、「唸る」という漢字の通り、今の心が口から出る、つまり感情が声として出ることだ。自分が唸っているときは負の感情で頭の中で響くような音を出すという意識を持っている。個人的に今年度、毎日のように聞いた折坂悠太というアーティストの曲のなかで口内でこもるような歌唱方法をイメージした。

そして、大城さんのワークショップを受け、うなりに対して少し捉え方が変わった。うなりは音の差音から出るものであると説明を受け十分に納得をすることはできなかった。説明を聞くなかで、大城真さんは、うなりはこの世界に常に起こり続けている現象だと言っていた。また、波のなかで揺れるひもを観ていると少し分かったような気になった。そのような普段見えない現象を露出することがロマンティックだと思うと大城さんはおっしゃっていたが、その言葉がすごく腑に落ちた。その後、zartで、実際にうなりを全員で体験したとき、私は三半規管が耐え切れず、正直気持ちが悪かった。地下一階の部屋がうなりに満たされていて逃げ場がないと感じた。そんななか、他の方たちが場所によってうなりの感じ方が違うと言っていたため、私はうなりの密度が低い所を探し、気持ち悪さから逃れようとした。すると、ほんの少しだが呼吸し易い場所があった。それは主に天井の角であり、その場からもう動きたくないと思っていた。音は、その空間を均一に満たすものだと考えていたため、身をもって、音には密度の差があるということを、とても貴重な体験をすることができた。また、Hzを何人かが変化させると不思議と体に馴染むような瞬間が何回かあった。自分の波長に合うという言葉を時々聞くが、これこそ自分の波長に合うということだと面白くなってしまった。

うなりのワークショップを体験し、自分には考え付かないことに触れることの魅力を感じた。また考えも付かないものが1つの作品となり世に出ていることを改めて知り、自分の限られたものを広げる経験はいくらでもあるかもしれない、と思い知らされた。音の身体への影響を直接感じることができ、これから音や日々の現象への意識を少し変えることができるかもしれない。

きょうこ「視覚のうなり、音のうなり」

12月の寒い日曜日、夏の大△でアーティスト活動もしている大城真さんの音響ワークショップに参加した。前回別の方の「共鳴」を感じるフィールドワークは参加できなかったので初参加。少し緊張してポーの「黒猫」に出てくるような地下室に降りて言われたのが、今回は「うなり」を感じるものです、と。“うなり”なぞ、台風の時か犬の吠える声にしとして形容詞的に使ったことがかろうじてあるくらいで日常的に感じるものではないのでは、と思っていたが実際体験してみて、なかなか面白かった。

まず簡単な実験をします、と一秒間に50回振動する機会と天井の欄干に太い紐をつなぐ。機械の電源を入れると、当たり前だが紐が強く振動するので、肉眼ではぶれてしまい、紐は残像で大きくぶれて見える。しかし照明を消して24回/秒点滅するストロボライトを点灯させると、ストロボに照らされている間だけ紐が見えるため紐は1本に見えるようになる(左上写真)。

これだけでも衝撃的だったが、1本といっても実際は細かく振動しているため少しずつ位置が変化し、下から上に生き物のようにうねっているように見えるのが更に独特の視覚効果を醸し出していた。ストロボの光源を2個に増やせば、2本あるように見ることもでき(左下写真)、実際は1本の紐が振動しているだけであるが、錯覚によってそう見えているのだと、感嘆した。蠅は人間の4倍視覚的処理能力が早いため、アニメーション映像がカクカクしたコマごとに見えるというが、我々より視覚的処理能力が遅い生物がいるとするならばこう見えているのだろうか。新鮮な体験であった。この前実験は、うなりの理論を説明するための布石であり、このように、一定の振動やリズムをもつ音の波長同士も重ね合わさることで強調されるのだと学ぶことができた。

休憩をはさんで今度は実際に音のうなりの実験を行った。約10個のスピーカーで周波数の異なるサイン波をだしてその共鳴を感じあった。数が数だけに音の連鎖反応が予想できず、一つのスピーカーの周波数をいじっただけで変わるときもあれば、感じ取れないこともあった。狭い地下室で柱の下に立つと、上下左右からの音の跳ね返りが更に複雑になって耳内に響き、“音酔い”しそうになるのも分からなくない。三半規管が弱い人は実際気持ちが悪くなるらしい、音響専門家とは日々何を考えているのか疑問であったが、少し音の深さを覗けた気がした。

なりと(欠席者)「うなりについて書いてみた」

大城真さんのワークショップについての感想を書くべきこのレポートにおいて、欠席した私はワークショップのテーマである「うなり」について書かなければいけないらしい。私は参加していないのだから、当日に何があったのかは知らないし、一週間がたった今も詳細を聞いたりはしていない。

さて、参加者の皆さんが野毛の地下で「うなり」について思いを馳せている間、私が何をしていたかというと、千葉の袖ケ浦フォレストレースウェイというサーキットで自転車のレースに参加していた。当日にワークショップが開かれることと、テーマが「うなり」であることを聞いていたから、私も朝起きてから一日「うなり」について考えるよう努めた。朝、私の自宅上空を飛ぶ米軍機のプロペラの「うなり」が一日の始まりを告げた。双発のプロペラ機が二機、合計4発のエンジン音は自宅のボロアパートの窓を揺らす。空は快晴だった。

車に荷物や自転車を積み込み、チームメイトのNと出発した。首都高を抜けてアクアラインに入る。交通量はそこまで多くないが、天気のいい週末ということもあってかバイクのツアラーが多い。彼らのエンジン音が海底トンネルの中で反響し「うなり」になる。

特に迷うこともなく会場に到着し、準備、そしてレース開始。参戦カテゴリーは2時間エンデューロ。2時間で一番多く周回した人が優勝というルールだ。レースがスタートすると、コース上には他カテゴリーを含めた60人ほどの先頭集団ができる。聞いたことのない人には分からないと思うが、自転車がこれだけの集団で走ると、とても大きな音がする。アスファルトをタイヤが転がる音が自転車の空洞の中で反響し、乾いた音になる。選手それぞれ、タイヤもホイールもフレームも異なるから、出てくる音も異なる。集団の中の風を受けないポジションにいれば、不思議なくらいこの音が大きく聞こえ、それがおおきな「うなり」であることに気づく。下りで漕ぐ足を止めれば、ラチェットの「ジャーッ」という音がかさなり、「うなる」。レース自体は、目の前で落車があり、集団から切れてしまったので、なんということもない順位で終ってしまった。特に何もなく帰宅。あ、落車した選手は痛そうに「うなって」いた。

一日「うなり」に思いを馳せてはみたものの、結局それが音の重なりで、その中でも特に少しゆっくりしたもの、というイメージを感じることしかできなかった。ただ、私自身が生活の中で「うなり」にさらされることで、体が揺れ、脳が揺れ、ともすれば私の人生も少し揺れているのかもしれない。就活生の私は志望動機を揺らされないように、音を遮断して生活してみるのもいいかもしれない、などと現実逃避したところでレポートを終わろうと思う。

なつき「見ているのに見ていないもの『うなり』」

自己紹介をしながら、大城さんが何やら準備していた。ひもを天井に結び付け、機械とつないでいた。機械を動かすとひもが振動する。そしてストロボをつけて電気を消すと、ひもの動きが遅くなっていた。ずっと見ているとひもが2本に見えたり、止まって見えたりした。これは、ひもが50Hzで振動し、ストロボが24Hzで点滅するように設定されているため、コマ送りのようにゆっくり見えるそうだ。さらに、ストロボの点滅が変化するため、ひもの見え方も変化するそうだ。大城さんはこれを「波の形を描写する」と言ったと私はメモしている。とても印象的な言葉だ。

このパフォーマンスは視覚的なものだが、次に音の話に移っていく。音の波を5Hz変えた2つの音を流すと、人間の耳は20Hz以下の違いは聞き取れないため、1つの音として聞こえる。そして、5Hz違うことにより、音の波の山が時折重なり、音が大きくなったり小さくなったりする「うなり」として聞こえるということだ。これを利用して、参加者でそれぞれ1音ずつ出し、音楽を作った。はじめは近い周波数を重ねていき、どんどんいろいろな音を重ねていく。それぞれの音は変わらないはずなのに、なんだか不思議な音になって聞こえた。去年もそうだった気がするが、ZARTの地下の部屋は、部屋自体が共鳴して空間全体がゆれている感じがした。去年の佐藤実さんの共鳴のワークショップで、1階にいた人が「音が大きすぎるんですけど」と言ってきたことを思い出した。うなりの音は部屋の中の場所によって音が違って聞こえていた。1階で聞いていたらどうだったのだろう。試してみればよかったとこの文章を書きながら思っている。

ワークショップ最後に、大城さんのいつもやっているパフォーンマンスの動画や、他の人のパフォーマンスの話になった。大城さんは「僕たちのパフォーマンスはよく分からないでしょう」「他の人のものは映える」などと言っていたので、私は最後に大城さんに、視覚的なことにはあまりこだわらないのかと聞いた。大城さんは「日常の中で起こっていることだと表現したい」と言っていた。はじめに言っていた、「波の形を描写する」に共通することだと思った。知らないうちに起こっている出来事をあらためて描写するのが大城さんなのだと思った。私は宝塚歌劇団が好きで、宝塚は日常とはかけ離れた作品ばかりだ。思えば美術館に行く時も、演劇を観るときも、非日常を求めていた気がする。しかし、今回のワークショップで日常にも見ているはずだが見たことのないものがあって、おもしろい世界が広がっていると分かった。去年と同じように、また未知の世界に出会えてよかった。

たまき(欠席者)「12月15日」

午前5時30分、アラームの音で目覚めた。目覚めのいい私の日課は、まずその日のスケジュールを思い出すことだ。いつものように前夜に確認しておいた一日の予定を頭の中でさっとなぞる。するとたちまち憂鬱な靄が心を覆った。しかし形がないから逃げようもない。15分で支度を済ませ、まだ暗い中、家を出る。12月15日、その日はコンビニエンスストアの早朝アルバイトで始まった。

早朝アルバイトは週末の3日、就職活動が始まってからも変わらず続けている。いつものように3時間働き、9時15分に帰宅した私は朝ご飯を準備する。普段は米派の私だが、この日は前日の夜に買っておいた6枚切りの食パンを焼いた。直前の帰省で母からもたされたマーマレードを使いたかったからだ。久しぶりのトーストを頬張りながら考える。何時に家を出るのか、今日はどこの企業だったか、面接で何を言おうか。朝食を終えると、メイクをしてスーツに着替えた。なるべくゆっくり、入念に準備をした。

あと5分で家を出るというその時、別の企業から結果連絡が届いた。落選。ただでさえこれから気乗りしない面接に向かわなければならない。モチベーションを下げないように、一度忘れよう。そう頭では考えているはずなのに感情は言うことを聞かない。大して行きたいわけではない企業、自分を祈る企業如きに落ち込んでやる必要はない。……本当に? しんどい気持ち見ぬふりしてない? …いやいや、これから別の面接を受けるんだ、落ち込んでいる暇はない。……あれ、でも今日、どこ受けるんだっけ。興味ある? …あるある、今から受けるんだから、ちゃんとしなきゃ…。

なんとなく落ちる予感はしていた。興味があろうがなかろうが、時間やお金をかけた相手に落とされるのは落ち込むしなんとなく腹も立つ。家事なんて一つもしたくなくなる。だから、予めパンを買っておいた。事前に伝えられている結果連絡の時間を忘れようとゆっくり支度をした。

どれが本物か分からない感情、認めたい、でも認めたくないアンビバレントな感情の中、電車ではひどく暗い顔をしていたのではないかと思う。その日、再び家に帰宅するまでのことをよく覚えていない。3度ほど乗り換えをしたはずだが、何線に乗り、どこを経由したのかさっぱり記憶にない。ただ、「最後に、この企業へのパッションがあればお聞かせください」という面接官の言葉に「特にありません」という大変失礼な言葉を返し退出したことだけは確かである。

夜、放置していたスラックの通知で初めてワークショップの日であったことを思い出した。そういえば感想文書かなきゃいけないんだっけ、でも今日はもういいや、何もしたくない、寝よう…。

これがワークショップのあった12月15日の私である。後日、欠席者はその日に感じた「うなり」について書くようにという指示があった。一週間経ち、気分こそ落ち着いたものの、自分の本当の感情や考えがどこにあるのか分かりはしないし、どんな言葉で形容してもいまいち納得はできない。できれば思い出したくもない。しかし、12月15日の言葉にし難いあれこれをグラフにして可視化するときっと間違いなく大きなうなりを見せるのではないかと思う。いい機会だからこの靄を無理やり文章にして、憂鬱と課題にさよならしよう。一石二鳥じゃん、とうことでこれを提出する。

れおん「うなりをきいて」

「うなりをきく」ワークショップと聞き、少し身構える思いで向かった。自然と、理解できないものに直面することになるのではと、楽しめるのだろうかと不安になったのだ。しかし、うなりをきく事は日常に程遠い体験ではなかったというのが、実感であった。というのも、私たちが日常で聴く音楽にもうなりは潜んでいると考えたからである。それからというものの、少しだけ音楽を聴く際の考え方が変わったような気がするので、それについて述べようと思う。これから述べる「うなり」は大城さんが提示してくれた、僅かに異なる周波数を持つ2つの音が重なった時に立ち現れるものを指すことにする。

さて、どのように私の音楽に対する考え方が変わったのかというと、簡単に言えば音痴が悪者であるという考え方から、音痴もアリなのではないかという考え方になったのである。そもそも私たちが聴く誰かが作った「音楽」の中では、大抵の場合聞こえて分かる程のうなりはタブー視されているのだ。つまり、音痴な歌手はなかなかいないし、調律されていないピアノは使われないのである。物心のついた頃、テレビから流れるアンパンマンマーチは正しい音程のように聞こえただろう。学校で扱った楽器はどれも楽譜のドレミを辿るように設計されたものだっただろう。カラオケでも「精密採点」といった機能で音痴を矯正されて育っただろう。こういった環境の中で、私たちは音程のズレが不快なものであると刷り込まれてきたのではないだろうか。ワークショップを終えてそのようなことを思うようになったのだ。音痴もアリなのではないかと述べたのは、私たちがそのような環境の中では、音痴を試す機会が許されなかったので、改めて音痴を試してみるのはどうだろうかということだ。私が感じたのは、もしかしたら誰かが決めた「美しい和音」がなかったら、更に面白い音楽もあり得たのではないのかということだ。もちろん、決まったルールがあるから学ぶことができて、とっかかりのある文化になったのだろうとも思うが、もう少しだけそのルールが寛大なものだったら、もっと楽しい体験も生まれていただろう。ワークショップでは、その可能性を感じさせるように、音程のズレが生んだうなりは不快に聞こえるようでもあり、不思議と心地よいものにも思えた。

ところで、ワークショップ後の懇親会で調律についてお話を伺う機会があり、自分でも少し調べてみた。どうやら、大きくは純正律と平均律という考え方があり、それぞれに特徴があるようだ。主流なのは、広い音域や転調に比較的影響の少ない平均律であるらしい。比較的といったのは、平均律が音程のズレを平等に分配した調律であるために、完全に正しい音程ではなく全ての音差がちょっとずつうなりを生じるらしいということだ。一方で純正律は「正しい」調律なのだが、1オクターブ間でもかなりのうなりが生じるほど音程のズレが現れてしまうのだ。これを思うと、やはりもうちょっと「音痴」になってみてもいいのではと考えてしまう。「正しい」とされる調律であっても、どうやらそれほど完璧な音程ではなかったようだからである。

めぐみ「うなりのワークショップ」

2019年12月15日、うなりのワークショップに参加した。参加する前のイメージとしては、音がうなる、音がぐわんぐわん聞こえることなのかと考えており、それを体験しに行くのだろうかと考えていた。

野毛にあるZARTという、地下の部屋でワークショップが開催された。そこは静かで落ち着いた部屋で、秘密基地のような場所だった。

私たちは最初に大城さんに、視覚としてのうなりを見せてもらった。というのは、細いひもを天井からつるして、50ヘルツの音の振動を流し、部屋を暗くして24ヘルツの光を当てた。すると、ひもがゆっくりとうねうねして見えたのだ。本当はかなりはやく振動しているものの、ゆったりとうねうねが見えるのだそうだ。うなりを音としてではなく、物体の振動として目で見ることができたのが新鮮であり、またそのうなりを見ることで落ち着くような気持ちになった。

続いてブラウン管のテレビの前に、59ヘルツのスピーカーを置いた実験の映像を見せてもらった。ブラウン管テレビは60ヘルツなので、1ヘルツの差がある。映像では、音の干渉によりスピーカーが先ほど述べたひものようにうねうねしていることが確認された。私たち人間の耳では1ヘルツの音を聞くことができないので、それを視覚で感じとる?ことができるのは面白いし、もっといろいろな物体に応用できるのではないかとも考えられた。

そして、大城さんから音の干渉についての原理を教えてもらったり、実際の干渉している音を聞かせてもらったりした。ここの部分は高校の物理をもう一度勉強しているような感じであった。高校生の頃はただ公式の暗記やテストのための勉強であったが、今回のワークショップを通して、音の干渉をごく身近な現象として捉えなおすことができた。

休憩を挟んだあと、私たちはそれぞれのスマホやスピーカーから一人一人が少しずつ周波数の異なる音を出し合って、実際にうなりを体験した。たくさんの音が重なり干渉し合っていたのだろうが、穏やかな音が生まれた。また、部屋をぐるぐる移動することで音の印象が結構変化し、高い音が大きく聞こえる場所や全体的に音が調和しているように感じられた場所があった。頭を動かすと複数の音がどこの方向から来ているのかがなんとなく分かるような気がして、大城さんいわく「音が立体的に感じられる」のはこういうことなのかなぁと考えた。その後一つずつ音を消していったのだが、一つの音がなくなるだけでも結構印象が変わり、物足りなさを感じたり落ち着きを取り戻したように感じたりした。

今回のワークショップは音の振動に興味を持つことができ、更にワークショップで体験もできたことから、音楽にあまり興味がなかった自分にとって視野を広げることができたいい機会であった。

みく「12.15 うなり体験記」

最近耳の調子が悪い。左耳が詰まったような感じがしている。左右で音の聞こえ方が全く異なり、とにかく気持ち悪い。私は鼻が弱いので、季節の変わり目には必ず耳鼻科にお世話になっている。例のごとく、寒くなり始めてから鼻詰まりがおさまらない。しかし、今シーズンは何かとあって、耳鼻科に行く機会を逃し続けてしまっている。そのせいで、鼻どころか、最近は耳の調子が悪い。最悪だ。ワークショップまでには治しておこうと思っていたのに。こんな具合で、果たして正しいうなりの体験ができるのだろうか。はじめはそう、不安に思っていた。だが、「正しいうなりの体験」とは、いったい何なのだろう。耳の状態が異常ならば、それはまたそれで、特異な体験ができるのではないだろうか。持ち前の楽観的な思考でうなりというものに臨んだ。結果として言えば、何の問題もなかった。大城さんがうなりとして説明したような音・現象を、私も体験することができた。周波数の異なる二つ以上の音を同時に鳴らせば、別の音が鳴っているように聞こえ、音の強弱の変化もしっかりと聞き分けることができた。それどころか、ワークショップが終わってからは、始まる前に比べて心なしか聞こえが良くなっているように感じた。うなりという初めての体験、また(気のせいかもしれないが)耳の詰まりが改善されたことに感動した(後日、完治したわけではなかったので耳鼻科に行き、聴力検査などを受診したが原因不明と診断され、恐怖である)。

今回のワークショップで感動した点はもう一つある。それは、大城さんが、目に見えない音の波を、ロマンティックである、と言ったことだ。これまで、私の中で「ロマンティック」とは、例えばみなとみらいのイルミネーションだったり、星の綺麗な風景だったり、恋愛的な意味で用いられたり、という認識だった。なるほど、人間の目に見えないけれども、常にそこで起きている現象を意識してそれの仕組みに触れるということ、そしてその現象に思いを馳せること。これもまたロマンティックなのか。私も日常に潜んでいるロマンティックに気づける人間になりたいと強く思った。

高校時代死ぬ程嫌いだった物理を、嫌々ながら経ていたおかげで今回のワークショップの理解に少し役立ったこと、日常に溢れる音、うなりという捉え方が増えたこと、ロマンティックの視野が広がったこと、そして多少ながら耳の聞こえが良くなったこと。今回のうなりのワークショップはQOLを向上させるものであったと同時に、これからの生活の中での視界の次元が増え、大変貴重な体験だった。