古老の方々の言い伝えや聞き取りによると・・・
昭和22年にひどい干ばつがあったようです。(気象庁データで確認)
当時、木の本(にし)・南木の本(ひがし)両村は雨乞いを勤めておったようです。その中で、もっと盛大に神に祈りを・・・。
当時、すでに河内一帯に存在していた【布団太鼓】の存在を知り、木の本村の人々は盛大に雨乞いを行うべく、【布団太鼓】の製作を村の大工に依頼し取り掛かった。雨乞いの要素が多いため、村中を隈なく回れるような寸法での作成に至る。
その木の本(にし)の【布団太鼓】の作成を見聞きした南木の本(ひがし)の村の人々は、『にしが、太鼓台作っとるらしいで』、『太鼓台というのは淡路島が本場らしい』、『もっとええのん。ほんまもん買わなあけへん!!』と意気揚々と淡路島に渡り、淡路梶内より購入」に至る。
『わしら若い時分、青年団(しぇーねんだん)の時、天保山の船着場から8人で担いで(かいて)降ろしたんや』村の古老談。
おそらくは、田植えが終わり雨の無い日が続いたのであろう・・・
そこからわずか数か月・・・
わずかな日数で淡路島へ渡り、太鼓台を我が村へ調達し、秋の祭りを執り行った。
そこには、当時の人々の計り知れない様々な思いがこもっており、現代に至るまで様々な局面を乗り越えてきたのであります。
当時の布団太鼓と担ぎ手
昭和22年10月8日撮影
【有志の方々の聞き取りをまとめてみました】
◆布団太鼓が出来る前から旧村の町(丁)に太鼓があった。
東北町→宮さんに現存 東南町→東南町倉庫に現存 東中町→不明
布団太鼓を練りだす前の祭礼はどんなものだったのだろうか??
明神講という講が存在した。祭礼や行事を取り仕切っていた可能性??
◆当時の日本は太平洋戦争終戦後の米軍占領下で、旧村内で進駐軍を見かけると男共は家の中へ逃げ隠れていたようです。そんな意気消沈している若者達に、旧村東南町にある笹倉薬店の当時のおばさんが、『いつまでも下を向かず元気を出せ!!』と若者達を奮い起こす言葉をかけ、太鼓台購入を後押しするきっかけを作ってくれたようです。(村の古老談)
◆昭和22年10月8日秋祭に布団太鼓が担ぎ出される。(木の本の太鼓台の完成は翌昭和23年7月15日初担ぎ出し。尚、木の本太鼓台の土呂台墨書の年月の昭和22年10月吉日の文字は発起した年の祭りの年月を書いていると推察)
◆購入当初の祭礼時の布団太鼓はコマは存在しないので、細い村中をすべて担いで練り歩いていた。
◆昭和30年代中頃と思われるが、祭の最中、血気盛んな若者が多く喧嘩や揉め事が頻発ふとん太鼓の巡行を中止をせざるを得なくなる。
法被に「青年団」の文字
撮影年不明
◆昭和34年9月 南木の本子供会が結成される
◆昭和40年代に入り【子供達に楽しみを】との思いから、当時の有志数名が発起し、祭礼時に巡行を中止している布団太鼓の引き回しを画策。昼間の引き回しのみであるが、ふとん太鼓の復活である。
子供会結成記念
昭和34年9月24日撮影
◆その後昭和40年代終盤から昭和50年頃の間に新たな有志により南木の本青年会が発足。喧嘩の多かった青年団のイメージを拭うため、青年会という会のつく名称にした模様。昼は子供達・夜は大人達という現在の祭の原型ができる。主に南木の本子供会育成会が境内での出店も含め、祭りの運営を行っていた。残念ながら、昭和60年代に入り青年会は解散。
◆昭和50年代終盤 太鼓正にて飾金具・布団〆・昼提灯・本体部分・彫刻部分の修理を行い購入当時の輝きをとりもどす。ふとん部分(5段の赤い部分)が各1段ずつの厚みが増した修理も行っている。よって、布団〆の寸法は購入当時のままなので、飾り付けの際にサイズが合わないシルエットになっている。彫刻部のニス塗りも行われている。又、同時に鳴太鼓も新調。鳴太鼓の新調以前は旧村内の光蓮寺の太鼓楼の太鼓を拝借し、鳴太鼓として使用。
◆昭和の終わりごろから平成初頭にかけて育成会の運営方が徐々に弱体化、祭礼が1日のみの開催になる年があった。
◆平成5年 是非とも祭りは2日間開催したいという思いから青年団を立ち上げる機運が高まり村中の若者が居る家をお願いに回って青年団員を募り、南木の本青年団を立ち上げ秋祭実行委員会の構成団体の一翼を担う。現在の青年団の立ち上げメンバーは、太鼓台保存会の発起人でもある。現在は南木の本子供会の休会により、秋祭実行委員会の構成を次の様に行い現在に至る。
秋祭実行委員会構成団体
南木の本樟本神社奉賛会・南木の本青年団
南木の本高齢クラブ・南翔会・太鼓台保存会
後援団体
八尾市消防団大正分団木の本分隊
青年団
平成31年撮影
最後になりますが、南木の本樟本神社の秋祭は秋祭実行委員会を組閣の下、地域の皆様をはじめ、関係団体方々のご協力があり、執り行うことが出来てきました。現在の青年団を立ち上げてからの布団太鼓の運行は子供達の曳き回し巡行も大切にしながらふとん太鼓購入時に近い、【担ぐ】ことにも力を注いできました。遠い昔に巡行が途絶えた時期もありました。が、約70年以上もの年月を子供達の引き回しと元気よく担いで巡行という役割を担っておりました。祭礼における御寄付の額の減少などに伴い、修理できる部分は復活した青年団のメンバーが主となり自分たちの手で修理を重ねてまいりましたが、元気の良さに耐え切れず数えきれないほどの箇所が限界を迎えようとしています。先述にある布団太鼓の購入の経緯は農家が多い村で飢饉の克服を願った訳であります。当時と生活様式等が様変わりしておる訳ではありますが、地域におけるコミュニケーションや繋がりや助け合い。子供達からお年寄りまで老若男女問わずの喜びが絶えない姿を
【布団太鼓】が皆を繋いでくれると信じて・・・
我々南木の本樟本神社太鼓台保存会は布団太鼓新調プロジェクトを進めて参ります。皆様、御理解・御協力宜しくお願いいたします。
旧丸運にて
平成29年撮影
南木の本布団太鼓詳細
【創生】
昭和22年淡路島梶内より購入
【形式】
淡路型
【大工】
不明
【彫師】
中山龍雲(初代)
【彫刻】
狭間 正面 天の岩戸
後面 川中島の合戦
右面 村上義光錦御旗奪還
左面 神功皇后応神天皇平産す
虹梁 波に千鳥
木鼻 阿吽の獅子
【布団〆】
阿吽の竹に虎(本金総刺繍)
【昼提灯】
伊勢二見ケ浦御来光(本金総刺繍)
淡路島の本来の容姿に習いトンボなし