文革前後の魯迅教材『藤野先生』
加藤正宏
史訪会 第23回学術討論会(2016年7月30日)発表
抗日、反日の意識が強い中国において、日本の一教師を高評価した魯迅の『藤野先生』が、教材として採用されていたのはどうしてか。日中友好の教材としては扱われなかったのであろうか。50年代から70年代にかけての教科書の練習問題や教学参考書の教学目的や方法から、中国の為政者の考えや意図を考察したい。
一、 各教科書の練習問題の比較(文革前と文革後)
写真Aは人民教育出版の1955年『初級中学課本 文学 第二冊』の教材「藤野先生」の課后に設けられた「練習」、写真Bは人民教育出版の1957年『初級中学課本 文学 第六冊』の教材「藤野先生」の課后に設けられた「練習」、写真Cは人民教育出版の1978年『全日制十年制初級中学課本 語文 第五冊』の教材「藤野先生」の課后に設けられた「思考和練習」である。
教材「藤野先生」は民国期の教科書以来、文革時期の一時期(1966年から71年)を除いて、現在に至るまで教材として採用されてきているが、上記に限定し比較考察し、補助的に写真Dの人民教育出版の1987年『初級中学課本 文学 第五冊』の教材を加えて考察してみた。
写真Aの55年版での「練習」は以下のようなものについて、「何故か」「どのように認識すべきか」「何か」が問われている。
練一、(省略)
練二、魯迅の一部清国学生に対する不満
練三、藤野の魯迅への関心
練四、中国人を蔑視する日本の一部学生に対する当時の魯迅の態度や感情
練五、魯迅が医学を中止したこと
練六、魯迅のこのような藤野への敬慕
練七、藤野を賛美する語句
練八、「愛国青年」「トルストイ式手紙」の意義や解釈
練九、「正人君子」とは、“ ”の意図
写真Bの57年版で問われているのは、写真Aの55年版に近似している。
練一、写真Aの55年版の練三及び練六に近似
練二、写真Aの55年版の練二及び練四に近似
練三、写真Aの55年版の練五に近似
練四、作品の中の風刺語句を拾い出せ、写真Aの55年版の練八及び練九に関連
写真Cの78年版では、「思考と練習」は以下のようなもので、写真A、写真Bとあまり変わらない。
思練一、藤野先生はどんな学者か。魯迅が敬慕の念を文中で表明している個所はどこか。
思練二、魯迅はどうして東京を離れて中国人の居ない仙台で医学を学ぼうとしたのか。どうして「日暮里」「水戸」の二地名を忘れずにいるのか。日本の「愛国青年」が魯迅を侮辱したことに対して、どのような態度を示したのか。その後、毅然と医学を学ぶことを中止したのはなぜか。これらの問題を思考し、全文を通じて魯迅の強烈な愛国主義感情を体得せよ。
思練三、魯迅が昔を回想するのは何のためだったのか。作品の最後の結びの文はどんな意味を含んでいるのか。
思練四、魯迅は大事な特徴を掴み取り、人物の思想や品格を書き出している。魯迅の書いた藤野先生と東京の「清国留学生」を例とし、説明を加えなさい。
思練五、思練六は語文本来の「思考と練習」なので、省略する。
一のまとめ
東京の清国留学生と魯迅、日本の愛国青年と藤野先生などの対比、反語による風刺、更に地名(日暮里、水戸)を通じて、愛国感情を学ぶ格好の教材として採用されているとみることができる。78年版には「これらの問題を思考し、全文を通じて魯迅の強烈な愛国主義感情を体得せよ。」と「思考と練習」に明確に記されている。また、この後に紹介する87年版でも、「魯迅の強烈な愛国思想感情が貫徹している。具体的にどんなところに表現されているか考えなさい。」と記述されている。
それだけでなく、「医学を学ぶことを中止したのはなぜか」「作品の最後の結びの文(“正人君子”の輩が痛く憎悪する文字を書き続けるのである)はどんな意味を含んでいるのか」と、祖国を救う活動へ舵を切った戦闘的な行動に注目させている教材だと言える。
“正人君子”については55年版、57年版、78年版に欄外に以下の註あり。
補助写真Dの87年版での「思考」と「練習」は以下のようなものである。上記三課本教材と通じ、上記の答えになっているものが見られる。
思一、(語文本来の「思考」なので、省略する)
思二、魯迅の強烈な愛国思想感情が貫徹している。具体的にどんなところに表現されているか考えなさい。
思三、(語文本来の「思考」なので、省略する)
練一、正しい答えを選択せよ。
練一1、魯迅が東京を去って仙台へ行った原因。(正解3)
選択3、東京の清国留学生が無学無能で無駄に人生を送る生活をしていたから。
練一2、藤野先生はなぜ熱心に魯迅に教えようとしたのか。(正解3)
選択3、藤野先生は民族的偏見がなく、だから真面目に頑張っている魯迅が弱国の学生であっても、同じように扱い、熱心に教えた。
練一3、魯迅が医学を棄て、文学を学ぶに至った原因は何か。(正解3)
選択3、医学では中国は救えない、中国を救うには、当時最も大事なことは、人々の覚悟を呼び起こすこと、人間の精神を改変することで、このことには文芸が最適であった。
練二1、藤野先生と魯迅の交流についての四つの具体的事例について空白を埋めよ。
(空白には学習していた生徒が鉛筆書きで下線部のように記す)
⑴ 講義を書き写した魯迅のノートを藤野先生が検査し訂正する
これは藤野先生の仕事に真面目で責任感ある性格を表す
⑵ 魯迅が描いた解剖図を正す
これは藤野先生の学問についての要求は厳格である態度を表す
⑶ 魯迅が死体を解剖するのを見て安心する
これは藤野先生の魯迅に対する優しさと誠実さを表す
⑷ 中国女人の纏足の足の形について質問する
これは藤野先生の真実を追求する精神を表す
練二1、反意語の句を選び出し、その語が含む意味とその作用をそれぞれ分けて説明せよ。(学習していた生徒の鉛筆書き解答と欄外の註を記す)
⑴ 標示(美しい) → 丑陋(ぶざまだ)
⑵ 精通時事 → 無聊(つまらない)
⑶ 愛国青年 → 87年版課本の註⑤写真
正人君子 → 87年版課本の註②写真
練三 、討論、写真Cの78年版では、「思考と練習」の四に内容は近似する。
練四、練五は語文本来の「練習」なので、省略する。
二、教学参考資料の比較(59年版と74年版)
A・北京出版社の1959年『北京市高級中学課本 語文教学参考資料 第二冊』、B・遼寧省人民教育出版の錦州市中学語文教学参考材料編写組編1974年『遼寧省中学試用課本 語文教学参考資料 第三冊』、これらを一の教科書課后に設けられた「練習」或いは「思考和練習」と照らし合わせ比較し、中国の為政者の考えや意図の変化或いは相違を見ておく。
それに先だち、教学目的、作者の制作意図や背景を比較しておく。
A・北京出版社の59年『北京市高級中学課本 語文教学参考資料 第二冊』 教学目的
A・59年版の「課文と作者」についてでは
B・遼寧省人民教育出版の錦州市中学語文教学参考材料編写組編1974年『遼寧省中学試用課本 語文教学参考資料 第三冊』 教学目的
74年版の教学目的では、愛国主義だけでなく、戦闘精神にも触れ、これらから社会主義祖国のために努力し学習することが求められている。
同上のように、「二、時代背景」にも戦闘精神が記載されている。
① 魯迅の一部清国学生に対する不満について
A・59年版
B・74年版
② 藤野の魯迅への関心 ③ 魯迅の藤野への敬慕
A・59年版
④ 中国人を蔑視する日本の一部学生に対する当時の魯迅の態度や感情
⑤ 魯迅が医学を中止したこと
④ と ⑤ は絡みあっているので、分けずに教学材料をそのまま写真で示す。
民族的自尊心と救国への熱い闘争心を④と⑤では考えさせ、意識させようとしている。
二のまとめ、
両版とも、愛国思想感情を涵養する格好の教材として、魯迅の感情や態度を考えさせようとしている点を具体的に示している。これらを簡潔な言葉で示せば、上記一の補助写真Dの87年版で「思考」と「練習」における答えになろう。
この両版の違いは戦闘精神について触れ方に多少強弱があるくらいであるが、下記の教学建議から考えると、戦闘精神を学ぶことを求めている以外に、更にその2で触れられている中日友好内容がA・59年版との大きな相違である。
「人民日報」の記事『魯迅与中日文化交流』は、新華社記者が魯迅の生誕92周年に合わせて魯迅の学んだ仙台、魯迅が敬慕した藤野先生の故郷である福井県を訪れ、魯迅の『藤野先生』通じての日中の文化交流を紹介したものである。魯迅が翻訳本の魯迅選集に『藤野先生』を入れることを増田渉に求めていたこだわりなども紹介されている。
この記事の中には次のような文がある
人民日報の『魯迅与中日文化交流』
左の記事の一部
以上のように、一人の日本人の言辞として採録されてはいるが、中国の立場においても本音であろうと考えられる。更に、この記事は次のように結ばれている。
上記人民日報の記事
B・74年版の「二 時代背景」の項でも、中日友好については、次のように書かれている。
「五、教学建議」の3で紹介されている『魯迅的故事』にも、「“中日両国人民親如兄弟”」の項目があり、ここでは魯迅夫人の許広平が友好代表団として1956年に日本を訪問した時に出会った中年の日本人男性のことから、彼と魯迅の交流を回想している。その中に以下のような記述がみられる。
跋、
課本后の「思考」や「練習」、及び教学参考書などから、民国期以来、愛国感情の醸成にこの『藤野先生』が教材として採用されてきたことが理解できる。藤野と対比的に描かれる日本の「愛国青年」などから、題名とは異なり、主題は民族自尊心と救国への闘争心が主題であったことが理解できる。そして、文革後半の時期以降には日本との国交回復という政治情勢の中、課本には示されていないが、教学において、日中の文化交流を伝統的なものとして意識させる教材としての活用も行われていたことが分かる。
これは1972年9月には田中首相が訪中し、中日共同声明に調印し、国交正常化が実現し、78年には日中平和友好条約が調印されていることに関連しているものだろう。
これらは、時の政治背景が教材の扱いに影響することの、一つの証左といえる。