国民政府、排日教科書を禁止(1935年3月15日) 汪兆銘・蒋介石による
対日協調外交
加藤正宏
加藤正宏
中華民国教科書の記述から
国民政府、排日教科書を禁止
(1935年3月15日)
汪兆銘・蒋介石による対日協調外交
兵庫教育大学の大学院修士論文に『汪兆銘の対日政策の変遷について―1930年代を中心にして―』を書かれた新地比呂志さんから、30年代半ばに国民政府が排日教科書を禁止したとお聞きした。
その典拠としたのは、1939年9月に興亜文化協会から出版された森田正夫著『汪兆銘』(P.380)で、「国民政府教育部は全国各市教育長に対し政府の検定を経ざるもの並びに廃止に決定したる教科書は今後絶対に使用すべからずと命令し、排日教科書の改訂さえも企てたものであった。」という箇所である。
新地比呂志さんの考えでは、当時の国民政府の指導者の一人汪兆銘が、当時の中国の国力では、日本とやむを得ず妥協するしかないと考えていたこと、「中日提携」を「長期戦の過渡的な段階」と捉えていたことなどによって、対日関係打開の具体策の一つとして「排日教科書の禁止」が打ち出されたと見ている。
剿共を正面に据えていた蒋介石も同意して排日教科書禁止が打ち出されたのであろう。教科書に政府の意図が明確に示された一つだと見て良いと私は考える。
このことについて、新地比呂志さんの修士論文では現物の教科書での確認がまだされていないとのことであった。そこで、私の収集している教科書の中からその内容を探してみたところ、それらしきものが見つかったので、今回ここにご紹介することにした。
(原文中、○は読めなかった字、文中内の?はHP上で変換できなかった文字である。これらの字は写真を大きくして確認ください。)
一、
教育部審定 新課程標準教科書 ① 世界第一種 国語読本 第八冊
初小四年級下学期用 朱翊新 魏泳心 蘇兆驤 編輯 世界書局印行
中華民国二十四年(1935年)十月六十三版
本書於民国二十二年六月二十八日経教育部審定頒到第二号審定執照
本書於民国二十二年十一月二十二日頒到内政部警二七九九号註冊執照
2~3ページ
一二八記念日覆朋友的信
季霞同学:
?去年給我的信、我早就想覆?了。因為我等待着一個紀念日的来臨所以換到今天。
今天是一個悲壮的紀念日、?知道??當東三省落在敵人手裏的那年、上海的民衆、就抵制仇貨、○○敵人覚悟。那知敵人蛮不講理、○翌年的今日開始、運用鉄甲車、飛機、大?、歩槍等厲害的軍火。轟炸我閘北的工業区域、幸虧我們駐守的十九路軍奮勇抵抗使敵人手忙脚乱、終於不曾達到?據目的。我中華民族自衛的精神、也給全世界人類都佩服了。
在這回奮鬥中、我的??同朋友艱難創造的工廠雖然全部葬入敵人的?火中、但是??説『敵人的?火、炸得燬我們的身体、産業;炸不燬我們的精神』我聴了這白話、興奮極了、現在、我趁着今天的紀念、覆信給?、説?在黒暗中?扎成功!
弟晏渓峯上。一月二十八日
同窓生からもらった手紙に対する返信である。上海事変の起こされた日を選んで、この日を待って返信したことが述べられている。
今日がどんな日かを問い、東三省(東北三省のことか)が敵の手に落ちたその年から、上海の民衆は敵の物品をボイコットしたこと。横暴で道理をわきまえない敵は、翌年の今日、装甲車、飛行機、大砲、鉄砲など大々的な兵器を用いて、私たちの住む工業地域を爆撃してきたこと。幸いなことに、私たちを守って駐屯していた十九路軍が激しく勇敢に抵抗し、敵をきりきり舞いにさせ、終にはその目的を達成させず、その中華民族の自衛の精神が全世界の人々全てに感服を与えたこと。
今回の戦いの中で、父やその仲間が艱難辛苦の下に創造した工場は全部敵の爆撃で失われてしまったが、しかし、父が「敵の爆撃が我らの身体や産業を爆破できても、我らの精神は爆破できない。」と言うのを聞いて、私は最高に興奮し、今、この記念日を利用し、君に返信をしたためている、あなたも暗黒な中でしっかりがんばってください、というような内容である。
掲げた本文写真の次ページには封筒の宛書があり、差出人は上海の人、受信人は瀋陽の人である。1931年の満州事変(九一八事変)に関連した翌年の上海事変(一二八事変)が語られていて、抗日の民族的な気概がそこかしこに見られる。
受信者へ贈られた最後の言葉も、返信した1933年1月18日、日本の傀儡満洲国下に生活する同窓生への抗日のメッセージになっている。
このように抗日のメッセージが強い教科書の内容である。ところで、この教科書の奥付を見ると、中華民国二十四年十月六十三版となっている。
国民政府教育部が全国各市教育長に対し、排日教科書禁止を命令したのが中華民国二十四年三月十五日であったとのことであるから、半年以上の期間があって、その命令を無視した教科書の頒布ということになる。
排日教科書禁止の命令が行き渡っていなかったというべきなのか。故意に無視されていたと考えるべきなのか。奥付の枠外にわざわざ「本書於民国二十二年六月二十八日経教育部審定頒到第二号審定執照」「本書於民国二十二年十一月二十二日頒到内政部警二七九九号註冊執照」などの文字が見られる。
二、
高小修身教科書 第三冊
教育部編審会 新民印刷書館発行 中華民国27年7月15日発行
24~29ページ
十 中日満経済提携
中国和満洲国都是農業国;工業因為資本欠乏、與技術落後、未得発展:工業品也自然不敷分配。但是疆土都很遼闊、各種工業原料、蔵量極富;重要鉱産、更是難計其数。可惜因為資本欠乏與技術落後、多半未経開発。
日本是東亜惟一的工業国。資本既雄厚、技術精良、工業品的産量、足(多句)東亜各国的消費。不過、因為国土較為狭小、農産品及各種工業原料都感不足、以致工業受了限制、不得盡量発展。
近隣相和、有無相通、是人類生活的自然道理。中日満国在地理上既属近在比隣、在経済上又是互有長短、所以應該彼此借長補短、実行緊密提携:中満両国売給日本工業原料、並購買日本的工業品;日本供給中満両国資本和技術、以開発中満敵富源、振興中満的工業。如此、則不僅中日満三国的経済、都能得到繁栄、即東方各民族、也都能受益不浅。
中日満実行経済提携的利益、既有這末多、我們必須努力促其実現才好。
『問題』
1、 中満両国的経済有什麼短處、有什麼長處。
2、 日本経済有什麼短處、有什麼長處。
3、 中日満三国実行経済提携有什麼利益。
『実践』
1、 宣伝中日満経済提携的利益。
2、 勧導別人宣伝中日満経済提携的利益
十一 中日満親善與東亜和平
東亜各国、都處在外人的威脅之下。推求其原因、不外以下両点:第一、対外従来不知道団結互助、其禦外侮;第二、対内毎毎自相紛?、與人以可乗之機。所以、東亜各民族想脱離外人的覇絆、促進東亜的永久平和、必須根本破除這両点、実行東亜民族親善。然而要達到東亜民族親善的目的、又必須由中日満親善做起;以此做中堅、才能聯合其他民族一致団結。
中日満三国、都是東亜民族中最優秀的?子;首先団結、負起領導東亜民族共同維護東亜和平之重任、原是應盡的天職;何况同文同種、同在外人的窺伺之下。唇歯相依、休戚相関、即使為自身打算、也必須実行親善、才能共存共栄。
現在、国際糾紛?釀益深、情勢愈趨緊急;世界人類的危機、也日見迫切。我們生為東亜之人、就有保護東亜的責任、自應一致奮起、対中日満親善東亜和和平有利之事、則盡力保進之;其有害之事、則盡力?除之;人人如此、事事如此、不患不能達到円満目的。進而至於実現世界之和平、與人類之幸福、才算完成我們最後的使命。
『問題』
1、 中日満親善対於東亜和平有什麼関係?
2、 為什麼有促進東亜和平的必要?
3、 東亜人民対東亜和平有什麼責任?
4、 東亜和平対世界和平有什麼責任?
『実践』
1、 宣伝中日満親善的意義。
2、 表演東亜和平之路的劇本。
教科書の本文はそれぞれの文末問題で次のように問われている答えである。
「中日満経済提携」では、次の3問の答えが本文と言えよう。
1、中国と満洲国両国の経済にはどんな短所があり、どんな長所があるか。
2、日本経済はどんな短所があり、どんな長所があるか。
3、中日満三国が経済提携を実行すればどんな利益があるか。
中国と満洲の経済的短所はどちらも農業国で、工業面では資本が欠乏し、工業技術も遅れていること、長所としては土地が広く、各種工業原料、特に鉱物資源が豊富であること。
日本は東アジア唯一の工業国で、資本も豊富、技術も高く、工業品の産出量も東アジア各国の消費をまかなうに十分であるが、その短所は土地が狭く、農産品や工業原料が不足していること。
この三国が相互に補い合えば共に繁栄をし、また東アジアの各民族にも利益をもたらすことになること。
「中日満の親善と東アジアの平和」でも、次の4問の答えが本文と言えよう。
1、 中日満の親善は東アジアの平和とどんな関係があるのか。
2、 どうして東アジアの平和を促進させる必要があるのか。
3、 東アジアの人民は東アジアの平和にどのような責任があるのか。
4、 東アジアの平和は世界平和に於いてどのような責任があるのか。
東アジアの各国は、どの国も欧米人(外人)の脅威の下に晒されているとし、東アジアの各民族が欧米人(外人)の覇絆を離脱し、東アジアの永久平和構築のために東アジア民族の親善を実行しなければならないし、中日満三国の親善を作り上げ、東アジア各民族の中核となることで各民族の一致団結を図ることができるというのである。
中日満三国はどの国も東アジア民族の中で最優秀民族であり、先ず三国が団結し、その他の東アジアの国々指導し、東アジアの平和を護る重い責任があり、また天職でもあるのだという。まして、同文同種で、欧米人が東アジアを狙っている中で、互いに密接な関係により利害が一致しているのだから、親善を実行し、共存共栄することができるのだという。
そして、国際間に紛糾が醸し出されて深まる中、情勢はいよいよ緊急となり、世界人類の危機が切迫しており、東アジアに生まれた我々が東アジアを護る責任があるとして、一致奮起して、中日満の親善及び東アジアの平和に有利なことは力を尽くして促進し、有害なことは排除する、このように全ての人が行動し、全てのことを行うなら、円満に目的を達せられなくても案じることはなく、ひいては世界の平和と人類の幸福実現について、我らの最後の使命がやっと完成し有効になるのだといっている。
この「中日満の親善と東アジアの平和」を読んでいて思うことは、民国政府の主張というよりも、日本の主張した大東亜共栄圏そのものではないかということである。
この教科書が印刷されたのは中華民国27(1938)年7月15日である。既に日中戦争(1937年7月7日に盧溝橋事件が発生している)が始まって1年にもなる時期である。
奥付に記載されている著作兼発行者は教育部編審会で住所は北京、印刷所は協成印刷局で天津、発行者は新民印書館で北京であり、華北で印刷発行された教科書であることがわかる。北京、天津、華北を当時統治していたのは中華民国臨時政府(冀東防共自治政府をも吸収合併)で、1937年末から1940年まで統治し、その後汪兆銘の南京国民政府に吸収されている。この政府も日本の傀儡政権と一般にみなされている。この高小修身教科書はこの中華民国臨時政府の下で発行された教科書ということになろう。
今回取り上げた2冊の教科書は、結果的には汪兆銘が対日関係打開の具体策として出した「排日教科書の禁止」命令を受けての教科書ではなかった。
汪兆銘の意図に沿った教科書が発行されたとするならば、1937年の盧溝橋事件の発生とも関わり、禁止命令からこの事件までの僅か2年強の間に発行されているはずである。そしてその僅か2年強の間にも、今回取り上げた国語読本に見られるように、その年代枠にあるにもかかわらず、命令が受け入れられていないことを考えると、教育現場で本当に受け入れられ実施されていたのか検証の要するところではないかと私は考える。これからも引き続き注目していきたいものと考えている。
(2008年9月15日、加藤正宏 記)