前回の投稿から随分と時間が経ってしまった。この間、いくつもの出来事があったが、何点かについて記録しておきたい。
日本の農業の貿易自由化に関する研究を遅々としながら進めている。研究報告の機会もあったが、今年はなんとか形にしたいところ。
IEFS Japan(学会)にて、2020年度からはじまったDei Fumio Awardの審査員を2年にわたって務めさせて頂いた。この賞は、神戸大学の出井文男先生の功績をたたえ、新進気鋭の大学院生の研究報告に対して表彰するものである。生前、出井先生に大変お世話になった者として、このような機会を頂けたことに感謝申し上げたい。
21年度もゼミの他大学交流は叶わなかったが、学生のグループ報告は行うことができた。今年度のテーマは「半導体企業の国際戦略(TSMC vs Toshiba)」「デジタル企業における競争政策(Epic Games vs Apple)」「スマートフォン市場における地域戦略比較(Apple vs Samsung)」の3つ。いずれも最近注目されるIT技術の企業やデジタル企業を比較し分析している。春学期に競争政策について学んだため、関連するテーマを選んだグループもあった。いずれも興味深い話題だが、できれば、なぜそのトピックが面白いのか・重要なのか、自分の言葉でもう少し説明してほしい(自戒も込めて)。
2022年8月に通信教育のスクーリングにて、「エンターテイメント産業と競争法」というタイトルで講義をさせて頂くことになった。アメリカの映画産業を中心に、エンタメ産業の競争の在り方を考えてみたい。100年前のアメリカの話題も採り上げるが、今の日本の映画・テレビ・音楽などのエンタメ産業が抱える問題にもつながるテーマだと考えている。
春学期の講義が終了した。ゼミと大学院の修士論文指導は残っているが、大教室の講義と試験は終了し、これから採点の期間となる。本学はマンモス大学のため、通常の講義の履修者は3ケタ。私の授業も3クラスで約600名の履修者がいる。彼らの試験や宿題を1つ1つチェックして採点するのはかなりの重労働だ。オンラインテストであっても、一つ一つの確認が必要なので、意外と手間がかかる。私が最も苦手とする仕事の1つだが、これが終わらないと夏を迎えられないので修行だと思って専念する。
今年の夏は、この後、8月からの通信教育の夏季スクーリングが控えている。法政大学には通信教育部があり、経営学部の専任教員は、数年に一度、スクーリング授業を担当する。私は今回3回目の担当だが、いつもと異なるのは、スクーリングとはいえ、コロナの影響のため、対面は無く、オンデマンドとリアルタイムのビデオを通じた授業を予定していることだ。これまで、通信教育のスクーリングでは資料も当日に印刷したものを手渡しで配布していたが、今回はインターネットを介して配布することになった。私自身にとっては、オンラインで配信・配布できるのは簡易で便利だが、通信教育は様々なバックグラウンドの方が受講しているので、ネットワーク環境やデバイスの使い方に慣れていない方には使いづらい方法なのかもしれない。ビデオ授業に関しても、デバイスにイヤホンとカメラを備えて臨むのはハードルが高い作業なのかもしれない。そうはいっても、この状況なので、少しずつそのハードルに追いついていかなくてはならないのだろう。コロナ禍が教育方法を強制的に変える事例ともいえる。
今年のスクーリングでは、国際経済学の基礎的な内容を6日間×2コマで展開する予定である。授業のポイントと問題演習の解説はリアルタイムビデオ授業、実際の講義はオンデマンド配信、問題演習は配布資料のみとすることを考えているが、なにぶん初めての試みなので、思っていた通りにはならないかもしれない。トライアンドエラーで進めていくことになりそうだ。
実は、この通信教育のスクーリング、来年度も担当したいと考えている。扱ってみたいテーマがある。幅広い層が集まる通信教育だからこそ、展開したいテーマ。できれば今後の自分のライフワークの1つとして取り組んでいきたいと思っているテーマである。正式に発表されていないので予定は未定だが、もし決まればワクワクすることがもう1つ増える。そのための準備を進めている。
華やかな赤をリクエストして作ってもらった夏のブーケとそれに併せた花瓶。お花は癒し。
大学時代の友人から連絡があった。彼女は、学生の頃、オーケストラで同じ楽器を演奏し、多くの時間を共に過ごした友人で、大学を卒業した後も2~3年に一度くらいのペースで会って近況報告をしあう仲。その彼女が音楽配信サービスで作品を公開し、この夏に音楽アルバムを出すのだという。それを聞いた時には率直に驚いた。彼女の本業はどちらかというとお堅い仕事で、キャリアも十分に確立している。週末だけ音楽を作っていることを少し前に聞いて面白い趣味だと思っていたが、アルバムをリリースしてそれが店頭に並ぶことまでは想像していなかった。ただ、彼女の性格から考えても、適当な活動にはならないだろうし、とても個性的で素敵な作品になるのだろうと思った。また、彼女の報告を聞いて、時代は変化し、副業に対するとらえ方も大きく変わってきているのかもしれない、ということと、好きなことを生業としたい人にとって大きな励みになるのではないか、ということを感じた。
副業について、私は専門家ではないので詳しいことは分からないが、以前に担当した社会人大学院のワークショップでは、一緒に担当した同僚教員やその時にご登壇下さったゲストスピーカーの方々から、副業の面白さ・可能性・多様性を教えていただいたことがある(その時にサードプレイスという言葉も初めて教わった)。私たちの働き方が多様化し、労働市場が流動化するほど、副業の意味や重要性は高まっていくだろうし、それは働くことにとどまらず、どう生きるのかということにつながっていくのだろうと思う。そうはいっても、いきなり副業をはじめることは実際には難しい。本業で確かなキャリアを持つこと、副業として何を行うか明確なビジョンを持つこと、本業・副業・他の生活のバランスをとることなど、考えるべきことは沢山ある。そして、スタンダードではない生き方にはリスクも伴う。そういったことを踏まえると、彼女の生き方は素晴らしいなと思った。
世の中、好きなことで身を立てたいと思う人は沢山いるだろう。学生と話をしていても、自分の好きな映画・テレビ・音楽・舞台・小説・スポーツの世界で仕事をしたい、と夢を語る人はとても多い。しかし、実際にそういった世界で身を立てることは簡単ではないし、現実を踏まえて別の道に進む人も多いだろう。私は子供の時から楽器を弾いていたので、周りに似た環境の人が多かったが、音楽を趣味として続けるか私のように音楽をやめてしまった人が大半で、最初から本気でプロになる人や本業をやめて(音楽家になることを諦められず)プロに転身した人はごく僅か。そういった中、彼女の生き方は新しい可能性を提示してくれている。好きならば続ければいいし、チャンスと努力があれば仕事に結びつくこともできる。私たちの生き方はきっと自分たちが考えるよりずっと自由で多様だ。
人知れぬ苦労があったことは想像に難くないが、彼女は生き方も音楽も唯一無二。自分らしくというのは簡単だが、自己を持って新しい道を開拓する友人の存在を励みとして、私自身も努力を続けたい。そしてレコード店に彼女のアルバムが並び、これから益々活躍の場が広がって多くの人に作品が親しまれることが今からとても楽しみである。
春学期も中盤にさしかかってきた。今年度の春学期も、昨年に引き続き、新型コロナウィルス感染拡大のため、緊急事態宣言下での授業となり、第1週目にゼミを対面で行った後はオンラインでの授業が続いている。コロナ禍での新しい生活様式については否定的な声も耳にするが、私自身にとっては良かった点も多かったと思っている。例えば、コロナ禍以降、自分の時間が増えた。通勤時間が無くなり、人との関わりが減ったことで、自分を内省する機会も増えたように思う。仕事の時間の他、本を読んだり映像を観る時間も増えたし、料理の機会も増えた。元々、私の仕事は考える時間が多いが、読書や料理はまた少し違った視点でゆったりとした気持ちになれる。そうすることで、気持ちの振れ幅が広がったし、仕事にも確実にプラスの影響があると思う。自分と向き合うことは必ずしも楽しいだけでなく、自分の至らなさや弱さに悔しい思いをすることも多いが、今まで見過ごしてきたこともきちんと考え直してみる大事なチャンスだと捉えたい。
コロナ禍の新しい生活でポジティブな側面があったのは、私だけではないと思う。昨年の授業で学生にコロナ禍をどう過ごしているか尋ねた際、多くが自分の時間を大切に過ごしていると答えてくれた。好きな本を大人買いして全巻読んだ、オンデマンド配信で映画を沢山観た、好きな音楽を見つけた、料理を覚えて色々なレシピに挑戦している、裁縫と刺繍にチャレンジしてバッグを作った等。自分が何に興味を持ち、どのようなものに心を動かされるのか、そういうことをじっくり考えることができるのは、静かに過ごす時だと思う。学生には良い時間を過ごしてもらいたい。
私自身、コロナ禍でマインドが変わったことの1つがお花を飾る事だった。以前はあまり花に興味が無く、花束を頂いても飾るのが少し面倒で、種類にも疎かったのだが、昨夏、都内で素敵なフラワーショップを営む友人から、コロナで花をオーダーする人がすごく増えていると聞いて、私たちがコロナ禍でなんとなく感じている不安や閉塞感にはお花が効くのかもしれない、と興味をもち、お花を飾ることが習慣となった。友人のお店、職場や自宅近くのお花屋さん、いつも行くスーパー、友人からのプレゼント、インターネットの定期便など、色々なところから縁あって我が家にやってきた子たち。強い子もいれば、弱い子もいる。色も形も大きさも様々。社会の縮図のようだ。どの花にも存在する意味があり、どんなに綺麗でもその命には限りがあることを知る。切り花は私たちを楽しませるためだけに居て、その健気さに心が少し痛むのだが、花の美しさや逞しさを観て心が洗われるのも事実。きっとそう感じているのは私だけではないと思う。花を愛でる生活、今しばらく続けていきたい。
青をリクエストしてつくってもらった花束。これは特別。
新しい年度がはじまった。新入生が入学し、在学生も学年が変わり、新しい学習がスタートする。昨年度に引き続き、今年度も新型コロナウィルス感染拡大予防に注意を払いながらの授業となるだろう。私の担当科目ではオンデマンド配信・Zoomによるリアルタイム授業・対面授業を併用しながら進めていく予定である。特に、演習(ゼミ)は、対面を基本とする大学の方針に従い、対面とオンラインの併用型(ハイフレックス)で進めていく予定である。先日、ゼミのスタート前にゼミ生にアンケートを取り、対面/オンラインについて、どの程度の割合を希望するか尋ねた。毎回対面での参加を希望する者が約半分、それ以外(2回に1回・3回に1回・4回に1回で対面・毎回オンライン)が約半分であった。昨年度の授業(1・2年生向け少人数クラス)でも対面かオンラインかというアンケートをとったが、その時は8割以上の学生がオンラインを希望していた。この結果を予想通りとみるか、意外とみるか、人それぞれだと思うが、必ずしも継続的に対面を希望する学生ばかりではないことをこれらのデータは示している。昨年度1年間、私はオンライン授業を中心に行ってきたが、オンラインと対面には、それぞれ良い点と悪い点があり、これからはそれらの良し悪しを踏まえ、うまく使い分けていくことが求められるのだと思う。
ゼミについて書いたので、昨今の本ゼミの特徴についても記しておきたい。本ゼミは国際経済学を主なテーマに掲げていることもあり、ゼミを希望する学生は海外に関心を持つ者が多い。また、過去には実際に海外に在住した経験を持つ者もいる。ゼミ発足当初は、1年次に学部主催の短期スタディ・アブロードプログラムに参加した者が多かったが、近年はそれに加え、高校までに1年以上の留学経験を持つ者、家庭の事情で海外で長期在住の経験を持つ者、海外からの留学生も増えてきた。中には、10年以上、日本以外の国で暮らしてきた者もいる。彼らの大半がバイリンガル・トライリンガルである。また、そういった学生からの刺激を受け、学部在学中に私費留学や本学の派遣留学に挑戦する者や、卒業後に自ら海外赴任を希望し、国際的に活躍する者も増えてきた。ゼミ生自らが国際的に活動し、活躍し始めている。また、ここ数年の特徴としては、転入生のゼミ生が増えてきた。彼らは他学部から転籍した者、他大学・他の専門学校から2年次・3年次に転入した者である。多くは、強い志を持ちながら、親しい友人をこれから見つけようと多少の不安を感じてゼミの門を叩いた学生である。ゼミ発足当初から、本ゼミでは、多様な学生を受け入れ、多様な社会の中で互いを認め合う組織を目指してきた。多くは無いが、体育会所属の学生も年に1名程度参加していることも本ゼミの特徴と言えるのかもしれない。今年度も新たなゼミ生を迎え、新たな活動を進めていくことが今から楽しみである。
数日前、バレエダンサーの吉田都さんがテレビで映っていたのを偶然観て、子供の頃にテレビでよく観ていたローザンヌバレエコンクールを思い出し、1989年の東京大会のシーンを探してみた。あの時の熊川哲也さんのドン・キホーテは圧巻だった。改めて今見ても、跳躍力・舞台の使い方・魅せ方、どれも他の人に無い魅力がある。熊川さんには人を惹きつける天性の力がある。バレエの上手な人は沢山いるが、観る人を圧倒するダンサーは世界においても多くはいない。熊川さんはその数少ない一人である(熊川哲也は、16歳でローザンヌバレエコンクールで日本人初の第1位・金メダルを獲得、その後は日本人ではじめてイギリス・ロイヤルバレエ団に入団し、ダンサーとしての最高位・プリンシパルにまで登り詰めた)。
そして、今年のローザンヌコンクールはどうなっているだろう、と気になって確認したところ、タイムリーなことに、まさにその週がコンクール期間であった。月曜日から4日間の予選の後、金曜日がファイナリストの発表、そして、土曜日に本選と授賞式が行われた。今年は、コロナ禍のため、すべてビデオでの審査であったが、予選から本選・結果まで全てをオンラインで誰でも観ることが出来、バレエファンにとってはかえって楽しめたのではないかと思う。私は本選をリアルタイムで観たが、大変面白かった。世界の若者が人生をかけて競い合うコンクールは非常にシビアで刺激的だ。
日本からは、100名ほどがエントリーしたようだが、予選通過の時点で10名に絞られており、ファイナリストはうち3名、最高位は5位の男性ダンサーであった(この方はとても上手でダイナミックかつ正確な踊りを披露した。将来、素晴らしい活躍をされると期待したい)。今回の優勝者はポルトガルの男性ダンサー、2位はエジプトの男性ダンサーであったが、この2名は抜きん出ており、順当な結果であったと思う。
ヨーロッパからのエントリー数はあまり多くは無いが、17/18歳のヨーロッパのダンサーは実力者が多い印象。ブラジルも強い。一方で、日本はエントリー数は世界で一番多いが、印象に残るダンサーが少ないように感じた。特に女性。日本は幼少期からバレエを習う女子が多く、それなりのスクールも揃っていると思うのだが、世界で戦えるダンサーを本当に育てているのかはよく分からないと思った。例えば、熊川哲也主宰のKバレエスクールはローザンヌバレエコンクールにも協力しているようだが、今年の予選通過者は1名もいなかった。また、今年のローザンヌの審査員にも日本人はいない。もう少し情報を集めて、世界で戦える若いダンサーを育てていかないと、せっかくの日本のバレエも発展しないのではないだろうか。やはり、多くの観客はスターのバレエダンサーを観に行くわけだから、才能ある若者を育てることが一番大事だと思う。1989年のコンクールの様子にワクワクしただけに少し残念に感じた。
早くも年がかわり、2021年になってしまった。2020年は大変な年だった。1年前の今頃は、新型コロナウィルスによって私たちの生活がここまで大きく変わるとは思っていなかった。私たちの生活も大きく変わったが、メンテリティや価値観も大きく変わった1年だったと思う。たとえば、家にいる時間が増えたことで、私は本を読む時間や映像をみる時間が増え、これまで考えることのなかったことを考える機会が増えた。年始なので、最近読んだ本と、そこから考えたことを書こうと思う。
きっかけは、昨年秋に開催された日本経済学会のアウトリーチプログラムであった。同プログラムは、日本最大の経済学の学会である日本経済学会が学部生や一般社会人向けに経済学を紹介した企画である。せっかくなので、私もオンラインで受講してみた。日本を代表する経済学者が各分野を分かりやすく、そして魅力的に紹介しており、今後も続いてほしい企画だと感じた。その中で、ある方が自分の研究を紹介する際に「すぐに役に立つ学問は、すぐに役に立たなくなるということでもあります。私の研究はすぐには役に立たないかもしれませんが、長い目でみた時には重要だと思っています」と仰った。この文言が私には胸に深く刺さった。私たちは、時に学問が役に立つのか否か、ということに力点を置きすぎることがあるように思う。それに対する戒めだと思った。
その後、すぐに役立つ学問は、すぐに役立たなくなるということでもある、というメッセージについてどう考えるか、何人かに尋ねてみた。そして、年が明けて、ある時、「すぐに役に立つ本は、すぐに役に立たなくなる」といったことが小泉信三の『読書論』に書かれていることを知った。小泉信三は、私の母校・慶應義塾の中興の祖ともいうべき人物である。彼は、慶應義塾においては、福沢諭吉に続いて尊敬されている。『読書論』というタイトルも興味深いし、すぐに役に立つ…のくだりも気になる。これは読んでみるしかない、と思い、年始の一冊をこれに決めた。書かれたのは1950年なので、今から70年以上前だが、読みやすく内容も深い良書である。本書は全部で十章から成り立っている。第1章~第6章の各章の概要は以下の通りである。
第1章:何を読むべきか:古典や大著を読むべきである。
第2章:如何に読むべきか:臆することなく読み進め、繰り返し読むべきである。
第3章:語学力について:外国語の書籍も臆することなく繰り返し読むべきだが、外国語の繊細な言葉のあやまで理解するには、もう一段階の努力を要する。
第4章:翻訳について:翻訳によって原文を理解することも多い。その際、逐次訳ではなく、分かりやすく大意をくむ訳が大事であろう。
第5章:書き入れ及び読書覚え書き:読んだものを自分の心に留めるには、書き入れ・覚え書き・他者との議論が有効であろう。
第6章:読書と観察:読書は大切だが、自分で見て考える観察思考力はもっと大切である。ただ知識を増やすだけでなく、読書を通して観察思考する力を養わねばならない。
…とここまででも、非常に深い内容だということが分かる。これらの内容が、小泉信三の読書経験に基づいて、様々な文献を引用しながら展開されるのである。私は、普段は自分の趣味の範囲であまり本を読むことが無いのだが(もっぱら、仕事の読書が殆ど)、この『読書論』は読んで本当に楽しかった。
さて、「すぐに役に立つ本は…」のくだりだが、これは、第1章に書かれてあった。小泉信三は、古典や大著を読むべきだ、と主張するが、これらは、すぐに役に立つものではない。すぐに役に立つのは、例えば、電話番号を知りたければ電話帳を、旅行先のことを知りたければ旅行案内を、といったことになろうが、役に立ってしまえばそれきりで、あとには何も残らない。しかし、古典は精神的栄養を増し、大著は人に何物かを与えてくれる、とある。さらに、小泉は、福沢諭吉の『福翁自伝』を引用して学問の実用について論じる。福沢は「江戸では学問が武家にとって如何に役立つかが重視されたのに対し、大阪では、町人主体の街であったが故に、ただ学問のために学問する者が大半であった。その構造の違いによって、蘭学の水準が江戸よりも大阪の方が高かった」と述べている。学問をしながら我が身の行く末を考えるのではなく、ただひたすら学問に集中する時期がなくては真の学びとは言えない、と福沢は主張する。そして、小泉は、同様に、読書の利益を卑近なる実利に求めるべきではない、と論じている。
これは、私自身にとっても、大きな戒めである。学んで役に立つだろうか、学べば次はどうなるのだろう、と先回りするのではなく、我を集中させ、学問のために学ぶ、という時間が必要だ。今の研究が役に立つのかどうか…ということを考える前に、もっとやるべきことがあるのだろう。2021年は、そのやるべきことをきちんとやる、という年にしたい。さて、ここで油を売っていないで、やるべきことをやらねば…。
映画『天外者』から考える市場の質理論 ー3人の天外者に寄せてー
映画『天外者』を観た。キャスティングに加え、際立っていたのが小道具や衣装の素晴らしさであった。特に、藍を使った布製品の質の良さは、主演の三浦春馬さんが『日本製』で紹介した徳島のBuaisouによる藍染だからだとすぐにわかった。藍染の工具入れ、藍染のハンカチ、藍染の衣装、ひとつひとつ色の濃淡やデザインが異なり、とても美しい。三浦さん演じる五代友厚が製藍業に携わったという史実に焦点を充てたい意図もみてとれた(『日本製』の巻末には、その時のエピソードが記されている)。
さて、ここでは映画を観ながら考えた日本経済のことを書いてみたい。映画の中では、幕末の日本経済が停滞した要因として、日本と欧米各国との間で結ばれた不平等条約が挙げられている。日本と先進諸外国との間の不平等条約が明治期の日本経済に負の影響を及ぼした、という考え方は古くからあるが、その理解は本当に正しいのだろうか。例えば、Bernhofen and Brown (2005)は、定量的な分析を通じて、日本は開国によって比較優位に基づいた貿易が進み、日本の社会厚生は改善したと結論づけている。
つづいて、映画では、イギリス留学の後に、五代友厚が明治政府に対して「日本の通信や鉄道の事業を外国に売ってはいけない、これらを外国に売り渡してしまえば、すべて彼らに利益を吸い取られてしまう」と訴えるシーンがあるが、これが現代へのメッセージであるとすれば、どう解釈すればいいのか、そんなことを映画を観ながらずっと考えていた。そして、市場の質とデジタルデータの所有権の問題がそれにあたるのではないか、とふと思った。市場の質理論は、矢野誠教授によって提唱された日本発祥の新しい経済理論である。デジタルデータは資本や労働に続く現代社会の新たなリソースであるが、デジタルデータが現在はGAFAを代表とするアメリカの大手デジタル企業によって独占的に所有されているため、競争的で公正な経済は成り立たず、その結果、市場の質が悪化してしまう、と市場の質理論は論じている。矢野他(2019)は、新技術であるブロックチェーンの導入によって、データ所有権の独占は防止でき、分権的な市場取引が可能になると主張する。さらに、Yano (2019)は、デジタルデータの所有権の分権化に加え、適切なルールを設定することが取引費用の軽減と市場の質の改善につながる、と指摘する。五代の主張した欧米諸国による日本の通信・鉄道の独占と市場の質理論が主張するGAFAによるデジタルデータの独占の問題は、時代は違えど構造は共通している。しかし、それは、100年以上経っても日本の経済構造は何ら変わらない、という悲しい現実なのかもしれない。
また、映画『天外者』のクライマックスでは、大阪商工会議所を舞台に、五代友厚が渾身の演説を展開する。そこで五代は「富も名誉もいらない、私は夢のある未来が欲しいだけだ」と語るのだが、五代の目指した、世の中の誰もが夢を持ち、各人が己の欲するところに従ってその夢に向かって何かを成しえていくことのできる社会が高質な市場と共にあるのだとしたら、天外者の五代友厚の目指した100年先の市場の在り方と市場の質理論の目指すところは同じなのではないだろうか(高質な市場の3要件は、1.私的財産権の確立、2.自発的活動、3.無差別取引であるが、これらの背後には五代の言う誰もが自分の夢に向かって努力して報われる未来、という哲学があるように思う)。加えて、五代は早い時期から貨幣鋳造の技術を日本に導入することが日本経済の発展に必要だと説いているが、これも分権的な市場経済に必要な貨幣への信用という点では、ブロックチェーンに通ずるように思う。
天外者=素晴らしい才能の持ち主、という意味だそうだが、時として、天外者たちは、多くの人には見えない先々の色々なことが見通せてしまう故に周囲に理解されず、苦悩することも多いのだろう。時代を切り拓き、新しいことに挑戦し続ける者は沢山傷ついている。 せめてこれからの世の中においては天外者が多くの人から認められる社会であってほしい。その為に、私自身も確たる目を養わなくては、と改めて強く感じた。
【参考文献】
Bernhofen, D. and J. Brown (2005) "An Emprical Assessment of the Comparative Advantage Gains from Trade: Evidence from Japan," American Economic Review, Vol. 95, No.1, pp. 208-225.
Yano, Makoto (2019) "Market Quality Theory and the Coase Theorem in the Presence of Transaction Costs," RIETI Discussion Paper Series 19-E-097.
先日のゼミで少し考えさせられることがあった。今秋は例年と異なり、教科書の学習から離れて「私の伝えたい映像作品」をテーマに、個人プレゼンテーションを行っている。コロナ禍でのオンラインゼミでは、モニターを通したコミュニケーションの難しさがあり、互いの考えていることが見えにくいことが気掛かりだった。そこで、今秋は、アカデミックなプレゼン手法を維持しながら、学生一人一人の考えていることがみえやすいテーマを材料に発表してもらっている。
先日の発表者2名の挙げた映像作品は「何者」と「最強のふたり」という映画であった。前者は就活生の心の闇を描いた日本映画、後者は事故で半身不随になった富豪と前科ある介護者の間の友情を描いたフランス映画である。発表によれば、どちらも他人にみせたくない自分の心の闇をどう扱うか、ということがテーマであった。
「何者」は、不完全な自分を他人に隠し、何物にもなれずに壊れていく就活生を描いており、「最強のふたり」は、他人にみせたくない自分の気持ちを補ってくれる友が現れて前向きに生きていく、という紹介だった。2作品のテーマは似ている一方、物語のアプローチは真逆のように感じる。学生がこれらの作品をとりあげたのは、コロナ禍での心理的な影響もあるのかもしれない。他人にみせたくない心の闇を自分ならばどう扱うか、他人との距離と自分の心のバランスをどううまくとればいいのか、多くの人が感じている問題なのかもしれない。後者を発表した学生は、自分の心の問題を他人との関係で解決しようというのは、アジアのマインドでは難しい、と話していた。私は、後者の作品の前向きな姿勢が良いと思った。
次の写真は愛媛県松山市にあるカフェの一角にある。松山・道後温泉の正面二階の一六茶寮には、伊丹十三監督の写真が飾られている。私の祖父は、一六茶寮の母体である株式会社一六を経営していた。その後は叔父と従兄弟が継承している。私が経営学部の教員になったのは、もしかすると、祖父や叔父の影響があるのかもしれない。祖父は松山の郷土菓子メーカーに加え、スーパー・レストラン・自動車ディーラーへと経営を多角化した。叔父は、祖父の会社を引き継ぎながら、伊丹十三監督と親交を深め、後に伊丹プロダクション社長として伊丹映画の製作に携わった。伊丹監督亡き後、彼は一六本舗を経営しながら、伊丹十三記念館の設立と運営に尽力している。
伊丹映画の第1作「お葬式」が誕生してから今年で36年が経つが、作品の斬新さや映画マネジメントの独自性は今も変わらず目を見張るものがあると思う。現在の日本映画の殆どが製作委員会方式で作られ、映画の利益は委員会メンバーの企業に配分される。この方式の場合、映画監督の享受できる利益は少ないため、映画が成功したとしても次回作を監督の資金で作ることは非常に難しい。自前の映画プロダクションの資金で映画を制作できる監督は日本では少ないはずだが、伊丹監督はその数少ない監督の1人であった。彼は、最初の映画「お葬式」の成功で得た利益で次の作品をつくり、全部で10作品を残している。その際に監督が直面したリスクの大きさは想像を絶するが、伊丹監督は作品で勝負した結果、見事にそのリスクを克服して次作を作るためのリターンを得た。映画監督として自分の作りたい作品を作るには、伊丹プロダクションのマネジメントの手法は理想なのではないだろうか。
私の叔父と伊丹監督の出会いは、偶然も重なっていたようだが、監督が映画をつくる際に叔父が製作者として協力できたことは、運命でもあったように思う。私がはじめて伊丹映画を観た子供の時分にはよく分からなかったが、伊丹十三の映画の作り方、資金の集め方、マネジメント、いずれも映画業界(そして私自身も!)が学ぶことが多いと今更ながら強く感じている。伊丹十三の鮮やかな多才ぶりは、今もなお輝き続けている。私たちは、彼の作品からそれを知ることができる。
伊丹十三氏については以下が詳しい。「伊丹十三の言葉(Twitter)」も余蓄があり、興味深い。
一六茶寮は道後温泉の正面2階
法政大学市ヶ谷キャンパスは、靖国神社と隣接している。大学の裏門をでて、靖国神社と接している細い路地を抜けると、靖国通りに出る。その路地の片側には靖国神社の大きな裏門がある。とても大きい木の門で、古くて威圧感がある。門の向こう側には鬱蒼とした森が見える。この門がどのくらい古いのか、どのような経緯があるのか知らないが、威厳があり、物々しい雰囲気が漂う。また、路地の反対側には、日蓮宗のお寺があり、その建物の仏塔や建物の横にそびえたつ南無妙法蓮華経と書かれた石碑は、神社とは異なるオーラを発している。そして、その建物の入り口には「日印サルボダヤ交友会」の表札がかかっている。インドとのつながりが深いらしいことは、異国情緒ある建物からもうかがえる。法政大学裏と靖国通りを結ぶ細い路地は、狭小ながら不思議な空間なのである。
靖国神社裏門
今年4月に、HOSEIミュージアムなるものが誕生した。私もまだ中に入って展示物をみていないので、詳細な内容を語ることができないのだが、大学史が主要テーマである様子。法政大学の歴史は、1880年にフランスの法学者であるボアソナードの薫陶を受けた薩田正邦ら3名の法律家が東京法学社を設立したことからはじまる。フランス法を基に、自由と進歩を基調とする教育がなされたという。法政大学憲章「自由を生き抜く実践知 (Practical Wisdom for Freedom)」は、建学の精神に基づくものである。私も、自由を生き抜くために、そして少しでも進歩するために、日々研鑽を積んでまいりたい。
詳細は、本学のホームページにて
HOSEIミュージアム@九段北校舎1階
引っ越しの荷造りのため、休日出勤。コロナの影響もあり、大学に殆ど人がいない。そして、この辺は、日曜日は休業の飲食店も多い。外食もままならないので、この日のランチはちらし寿司のテイクアウト。
一仕事を終えて、誰もいないボワソナードタワーをゆっくりと眺める。つい最近、タワーから中庭に出られるようになった。一歩外にでて、下からタワーを見上げると、右のような風景が撮れた。いつも見る建物と違う感じがした。
ボワソナードタワー
目に映るものが必ずしも正しいとは限らないことを考えさせられる数か月だった。
目に映る笑顔や幸せな様子は、その人の心の内とは異なる装いであるかもしれない。今、私たちには、そのことに少しだけでも想像力をはたらかせることが求められていると思う。とても難しいスキルではあるのだが。
自分自身のことを振り返っても、自分の心の内のすべてを他人に見せてきたかと問われれば、そんなことはあり得ないわけで、人間は大人になると、求められる役割を演じる部分も多々あるのだろう。だからといって、すべてが嘘であるとも限らない。人間は複雑で儚いもの、コロナによる生活の変化で、そのことを強く感じている。
2020年夏
今週は、祝日(文化の日)と法政祭の準備等のため、授業はオフ。この1週間で色々な仕事の準備ができるし、ここ数日の天気はとても気持ちがいい。諸々の仕事をするため、職場に出かけた際に撮ったのが右の写真。市ヶ谷キャンパスは、靖国神社と隣接している(意外と知られてない?)。職場に向かうため、靖国神社の横から裏道に抜ける直前に撮った塀の瓦紋。詳しいことは分からないが、木々・瓦・塀の色合いのコンビネーションも文様も美しいと思う。
10月が始まったばかりのある日、久方ぶりに市ヶ谷キャンパスを訪れ、自分の研究室に入った。あまりにも久しぶりすぎて、何がどこにあるのか、かなり忘れていた。そして、部屋に余計なものが多すぎるので、ここぞとばかりに不要な書類等を処分した。机の上も片付いて、なんと清々しい気分!しかし、自分の姿をよく見ると、うっかりパジャマの延長線上のような間抜けな恰好であったことに気が付いてしまった。コロナボケで、普段、洋服に殆ど気を遣うことなく生活をしていたため、何も考えずに来てしまったようだ。あまりにも恥ずかしいので、コッソリと帰ることにした。
そして、研究室の引っ越しがもうすぐはじまる。建物の不具合のための一時的な移転なのだが、引っ越しはかなりしんどい。引っ越しに何が必要で何が必要でないかを考えることから一々面倒だ…。
研究室からの眺め。この日の空は綺麗だった。
10月下旬のある日、大学の図書館に立ち寄った。目的は、図書館に蔵書を希望することである。推薦図書として、市ヶ谷キャンパス図書館に購入リクエストを出した。リクエストした書籍は以下の3点。いずれも学部生に読んでほしいものだ。
1は、子供向けの絵本である。小学生でも読めるが、大学生が学ぶべき経済学の理論書でもある。上巻は、子供が原材料からレモネードをつくって販売するまでに、何にどのくらいのコストがかかるのか、価格付けや賃金はどうするのか、企業戦略は…といったミクロ経済学について、下巻は、経済危機によって企業活動・雇用・物価・資金調達はどのような影響を受けるのか…といったマクロ経済学について、楽しみながら学ぶことができる。楽しく経済学を学ぶには最高の1冊(2巻セットだが)である。絵もかわいらしい。そして、翻訳者が佐和隆光先生(京都大学経済研究所所長や滋賀大学学長を務められた経済学の重鎮)であることは、この本が学術的にいかに重要かを示している。
2は、単なるタレント本と思うなかれ。著者が4年をかけて日本の47都道府県の地場産業を訪れ、作り手への丁寧なインタビューを行い、まとめた書籍である。個々の製品には、作り手の想いやストーリーがある。また、地場産業で作られるいわゆる「ご当地もの」は、その土地固有の歴史・風土・文化を内包した差別化財である。経済学では、多様性を実現する差別化財を広く流通させることによって、豊かな経済が実現されることが学術的に知られている。また、 近年、日本各地の伝統工芸品の海外展開が国策として推進されるなど、国際経営戦略の観点からも地場産業が注目されている。経営学では、インタビューやフィールド調査によって定性的な分析を行う手法がある。本書はテーマとしても手法としても興味深い。
3は、なかなかの上級者向け。仮想通貨の仕組みを支えるブロックチェーンの在り方について、市場の質の観点から議論している。新しい技術が誕生する際には、適切な制度設計ができずに市場の質が後退することがあるが、果たして、今後、ビジネスの発展や我々の生活に重要な役割を果たすと考えられる仮想通貨が安全・安心・便利に使えるようになるためには、どのような仕組みや制度が必要なのだろうか。ビットコインやGAFAの動きに興味がある人には特にオススメ。
市ヶ谷キャンパスで一番新しい大内山校舎。左端にうつるのが図書館のある80年館。今や市ヶ谷キャンパスで最も古い建物である。
数年前に建てられた富士見ゲート校舎。もうすぐ法政祭のため、垂れ幕が掲げられていた。
重い腰をあげて、ようやくウェブサイトをリニューアルした。以前に作ったサイトは、すでに化石化しており、使い物にならない。しかし、ウェブサイトは以前よりもずっと作りやすくなっている。折角なので、授業やゼミの様子も分かるように加えてみた。今後、こまめにアップデートできるかどうかで、このページが生きるかどうか決まるだろう。
2020年度は、COVID-19の影響で、大学の授業が一変した。私の授業は、基本オンラインで実施している。ゼミだけ10月に対面の授業を1回行った。教室に集まったのは、ゼミ生のおよそ2/3、残り1/3はオンラインでの参加であった。対面とオンラインを同時進行させるハイブリッド形式を採用したが、ハイブリッド式は細かい配慮が必要だということが分かった。特に音声とビデオの配置場所に気を配る必要がある。大教室での授業の場合は、講義をしながら、そのような気配りをしなくてはいけないとなると、かなり難しいように感じた。
小規模クラスの入門外国語経営学で秋学期の初回授業にアンケートを実施した。対面とオンラインのどちらを希望するか、という質問に対して、対面を希望した者は、僅か2名であった(残りの25名はオンライン希望またはどちらでも良いと回答)。理由も聞いてみたが、オンラインの方が時間の融通が利く、通学時間や交通費がもったいない、コロナの感染が怖い、オンラインで何も困らない、といった意見であった。同様のアンケートを春学期にも実施したが、秋とほぼ同様の結果であった。ゼミでも、オンラインの方が楽、毎回対面は希望しない、といった声があがった。私の授業だけかもしれないが、メディアでとりあげられているほどには、対面の授業を希望したり、対面が大事だと思っている人は多くないのかもしれない。