礼拝メッセージ(概要) 

―  恵みの扉  ―

◆2024/5/26() 礼拝『イエスのことを考える

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 3/新聖書

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。    ヘブル人への手紙 3:1

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私たちはいつも何を見ているのでしょう。自分自身か他の誰かか…。もっと心を集中すべき方がいます。

●神の家に仕えるモーセ/イスラエル人にとってモーセは特別な存在です。神に家に忠実に仕え、神の律法を受け取り、エジプトから約束の地へと救い出す偉大な働きをされました。神ご自身もモーセは特別なしもべだと語っています(民数1278)。彼を知らない民はいないのです。

●モーセにまさるイエス/ヘブル人への手紙の著者は、イエスはそのモーセにまさる方だと伝えています。イエスは神の御子、世界の創造者、神の家を建てて治める方だからです。イエスは私たちに神のことばを語り、聖なる神と罪人の私たちとの間に橋をかけ、とりなして下さったのです。

●イエスのことを考える/「イエスのことを考えなさい」と勧められています。「イエスを見なさい」ということでもありますが、単に見えたということではなく、そこに心を集中することです。イエスから学び、その思いを理解し、その道に生きようとして、イエスの御声を聴く者となってまいりましょう。

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◆2024/5/19(日) 礼拝『もう一人の助け主』 ペンテコステ礼拝

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 16:7-13/新約聖書

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。   /ヨハネの福音書 14:16

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イエスの復活から50日目(五旬節)、天に上られる前に語られた約束の言葉が弟子たちに実現しました。

●聖霊が注がれた/経験したことのないことが弟子たちの中に起き、人々は見たこともない光景を見ました。聖霊が注がれ、弟子たちが話したこともない外国語を話し出したのです。すべての人々が福音を聞くためです。この出来事を通して人々は心を刺され、大勢の人が信仰を持ちました。

●私たちの助け主/聖霊はイエスご自身が約束して遣わされたお方、もう一人の助け主です。この日、かつて逃げ隠れていた弟子たちが人々の前に立ち、よくわからないままだったイエスの十字架と復活の福音をはっきりと語ることができたのです。聖霊は私たちを真理へと導くお方です。

●真理への導き手/聖霊は多くの人々をも真理へと導きます。罪や義やさばきについて、人々の思い込みを正しい理解へと導くのです。知恵があれば、努力を続ければわかるというのではなく、真理への導き手である聖霊が明らかにするのです。聖霊とともに真理の道を歩みましょう。

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◆2024/5/12(日) 礼拝『イエスと私たち』

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 2:10-18/新約聖書

・・・ あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。   /ヘブル人への手紙 2:17-18

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「誰も私のことをわかってくれない」と嘆いたことがあるでしょう。わかってくれる人がいると聖書が語ります。

●私たちを栄光に導くイエス/人間は神の栄光にために造られたのですが、罪がそれを妨げました。しかし、イエスは私たちがそこに行くために道を開いた方であり、多くの苦しみ、十字架の贖いを通して成し遂げて下さいました。これが「神にふさわしいこと」、つまり神のご計画でした。

●私たちと兄弟であるイエス/このイエスが私たちと兄弟であると語られます。私たちと同じ立場で神を崇め、神に信頼し、共に歩んで下さいます。イエスは私たちと全く別な存在ではなく、私たちと一つになられた方なのです。私たちは今、とても親密な関係をいただいているのです。

●私たちの解放者なるイエス/さらにイエスは私たちを死の恐怖から解放しました。死に打ち勝った方だからです。また、苦しみを経験されたイエスは、私たちの苦しみ、悩み、嘆きを理解できる方です。弱った者の側に立ち、助け、解放して下さいます。イエスと共に歩む者は幸いです。

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◆2024/5/5(日) 礼拝『苦しみと栄光』

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 2:5-9/新約聖書

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。   /ヘブル人への手紙 2:9

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 「こんなはずじゃなかった」と私たちは口にしますが、人を造られた神こそ、これを言いたいかもしれません。

●人間の使命と現実の姿/神は人間に「地を従えよ」(創世128)と使命を与えました。人間には神が造られた世界を治めることが期待されましたが、罪が入ったことで、それをすることができない者となりました。これが私たちの現実の姿です。世界は今なお、混乱と欲望で満ちています。

●イエスの苦しみと栄光/イエスは真の人間として地に来られました。わずかの間、御使いよりも低くされましたが、私たち罪人の代わりに苦しみを受け、復活によって栄光と誉れの冠を受けられました。今イエスが世界を治めています。人間の使命はイエスなしには成り立たないのです。

●全てを治める主を見る/今や私たちは、全てを治める主を見ることができます。ですから、あらゆる事柄の中に主を認め、これから起こることにおいても主を信頼しましょう。新しくされた者として主を見上げ、信じる者は神の栄光を見ることを確信し、揺るがない希望を持ち続けていきましょう。

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◆2024/4/28(日) 礼拝『救いのことばに留まる』

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 2:1-4/新約聖書

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。    /ヘブル人への手紙 2:1

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 福音により新しくされたのですから、そこに居続けたいと思います。そのためには注意すべきこともあります。

●押し流されないように/「押し流される」とは、気づかない内に海上で漂流している状態のことで、危険なことです。礼拝も、聖書を読んだり、お祈りすることも、「忙しくて」、「面倒だなあ」、「今日くらいは」、「自分は大丈夫」と言っている間に、大変なところに行ってしまうかもしれないのです。

●すばらしい救いの福音/御子イエスがこの地に来られて語った福音により、私たち罪人は罪赦され、義とされ、新しい人に造り変えられ、神の子とされました。この福音から私たちを引き離す動きに注意しなければなりません。すばらしい救いの福音を何度も思い起こすことが大切です。

●救いのことばに留まる/救いのことばを心に留めましょう。「心に留める」とは船が潮に流されないために錨を降ろすことと同じです。そのためにはしっかりと「聞く」ことです。もし聞き流すなら押し流されるでしょう。自分の弱さを認め、楽観することなく、救いのことばに留まる道を歩みましょう。

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◆2024/4/21(日) 礼拝『並ぶ者のいない方』

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 1:5-14/新約聖書

・・・ 私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。    /ヨハネの黙示録 22:8-9

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間違った教えに流されるだけでなく、誤った礼拝行為を無意識にしてしまうことがあることを考えましょう。

●御使いは仕える霊/ここでは偉大な御子イエスと御使いが比べられています。御使いは神のことばを伝え、神の民を守り、イエスの生涯においても大切な働きをしています。御使いはイエスに仕え、神の民に仕えるために神が遣わされた霊的な存在です。そして神に造られたものです。

●御使い礼拝の誤り/なぜ御使いのことを語るのでしょうか。御使いを神と人との仲介者と捉え、御使い礼拝が行われていたと考えられます。使徒ヨハネは御使いを礼拝しそうになって注意されました。御使いを礼拝してはなりません。神以外のものを拝む危険は私たちにもあることでしょう。

●並ぶ者のいない方/御使いがすばらしい存在であっても偉大な御子イエスに並ぶことはありません。イエスは造り主で、神の栄光の輝き、まことの王であり、神の右の座に着く方、永遠に変わることのない方です。私たちは今、この偉大な御名を呼び求め、直接近づくことができるのです。 

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◆2024/4/14(日) 礼拝『神が私たちに語る』

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 1:1-4/新約聖書

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。    /ヘブル人への手紙 1:1-2(前半)

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「イエスから目を離さないでいなさい」と書かれています。私たちはもっとイエスのことを知りたいと思います。

●人が探し求める神/日本には多くの宗教があり、多くの神々がいます。本物を探している内に増えてしまったのかはわかりません。その神々は人の世話を必要とし、口があっても話すことはありません。しかし、聖書の神は「語りかける」お方です。「聖書」が存在していることもその証しです。

●神が私たちに語る/昔、神が語られたものは旧約聖書、そこには約束が書かれています。終わりの時には御子イエスによって語られ、新約聖書に記録されています。ここには預言の成就があります。神が語るからこそ、私たちは神を知り、光を受け、救われ、いのちが与えられました。

●偉大なる神の御子/御子イエスは万物の相続者、世界の創造者、神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、万物を保ち、罪のきよめを成し遂げ、神の右の座に着かれたお方です。これほど偉大な御子イエスが私たちに語ってくださいます。毎日、その語りかけを聴く者となりましょう。

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◆2024/4/7(日) 礼拝『近づいてくださるイエス様』

<聖書の言葉> ルカの福音書 24:13-35/新約聖書

話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。   /ルカの福音書 24:15

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救い主イエスは死にましたが、日曜日によみがえり、今も生きておられます。偉大な神のわざを賛美します。

●頭が混乱した弟子たち/イエスの十字架の死は弟子たちを悲しませ失望させました。思っていた救い主の姿と違ったからです。3日目の朝に復活したとの知らせで彼らの頭は混乱しました。イエスを失った嘆きの中で、彼らは現実から、他の弟子たちとの交わりからも離れていきました。

●彼らに近づいたイエス/弟子たちのためにイエスご自身が近づかれ、彼らの悲しみの中身を聴かれました。混乱を言葉にすることは大切な作業です。その後、救い主について聖書から説き明かされました。正しい情報を聞くことで起こったことの本当の意味がわかるようになるからです。

●イエスと共に歩む者へ/イエスと語り合った後、弟子たちはイエスと食卓を囲むことになりました。ここにはイエスとのつながりの回復があります。イエスと共に過ごす中で味わった心が燃える思いに気づき、彼らはイエスの復活を信じ、今、新しい力を得て生きる者へと変えられたのです。

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◆2024/3/31(日) 礼拝『彼らをお赦しください』

<聖書の言葉> ルカの福音書 23:32-48/新約聖書

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。   /ルカの福音書 23:34

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最後の一週間の金曜日。イエスは十字架の上で私たち罪人のために偉大なみわざを行いました。

●計画された十字架/人の死は決して遠くにあるものではありませんが、その「時」を私たちが知ることはできません。イエスの十字架の死は神の計画の中にありました。人が罪人となって以来の計画です。罪はさばかれるものですが、罪人を愛する神はそれを御子に負わせたのです。

●その死を喜ぶ人々/イエスの死を喜ぶ人々がいました。ユダヤ人の宗教指導者であり、群衆です。ようやくここに追い詰めたという達成感があったかもしれません。人の死を喜ぶという心理は異常なものです。戦争、また凶悪犯への死刑宣告などでこの異常な心理が見られます。

●愛し続けるイエス/イエスの口からは、その人々の赦しのための祈りが捧げられました。敵を愛する教えを自ら実践しています。愛にあふれた姿は人の心を動かしました。イエスの隣にいた犯罪者、また、刑の執行を見届けた兵士が信仰を告白しました。愛は人を造り変えるのです。

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◆2024/3/24(日) 礼拝『互いに愛し合いなさい』 受難週

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 13:31-38/新約聖書

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。   /ヨハネの福音書 13:34

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最後の一週間の木曜日。イエスは弟子たちと過ごしました。そこで大切なことを弟子たちに教えました。

●愛が試される私たち/「互いに愛し合いなさい」と語るイエスの教えの前にはユダの裏切り、後にはペテロの裏切りの記事があります。イエスはそれでもこの戒めを与えました。私たちなら心揺さぶられ、愛どころではないでしょう。私たちの愛はいろいろな場面で試されるでしょう。

●古くからある隣人愛/隣人愛はレビ記1918にある通り、旧約の時代からの教えです。しかし、ユダヤ人の間では限界がありました。民族が違うからと条件を付け、隣人愛の対象になる人を区別したのです。他人事ではありません。私たちも隣人愛を注ぐ人を選んでいるのです。

●イエスの愛にならう/新しい戒めが与えられました。イエスの愛にならって「互いに愛し合いなさい」と。愛に条件はありません。イエスはすべての人のために自分を与え尽くし、苦痛に耐え、敵をも愛する愛を実践されました。私たちがこの愛に生きること、それがイエスの願いです。

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◆2024/3/17(日) 礼拝『わたしの家は、祈りの家』

<聖書の言葉> マルコの福音書 11:15-19/新約聖書

そして、人々に教えて言われた。 「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」    /マルコの福音書 15:17

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最後の一週間の月曜日。宗教指導者たちは宮での出来事を経て、イエスへの殺意を固めました。

●欲の深い指導者たち/エルサレムの宮には両替人や鳩を売る商人の屋台が立ち並び、それを利用する者たちで賑わっていました。礼拝者の必要に答えるためですが、そこに欲が入り込んだのです。礼拝の場は市場となり、不当な手数料の請求、鳩は高額になりました。

●宮をきよめるイエス/見過ごしにできないと思ったイエスは怒り、不当な商売をする者たちを追い出したのです。「わたしの家はあらゆる民の祈りの家」であるべきだからです。これは宮を本来の姿に取り戻すための宮きよめです。混雑により人々の礼拝も妨げられていたことでしょう。

●指導者たちとの衝突/指導者たちは損をさせられたと思ったことでしょう。宮のあるべき姿を見失った貪欲な彼らは、この時、イエスに対する殺意を抱き、相談を始めました。自分の中に神を悲しませる思いや行動がないかと自分の心を見張り、きよめられることを求めて祈りましょう。

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◆2024/3/10(日) 礼拝『ホサナ、祝福あれ』

<聖書の言葉> マタイの福音書 21:1-11/新約聖書

群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」   /マタイの福音書 21:9

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イースター礼拝を待ち望む日々を過ごし始めましょう。最後の一週間の始まりです。まずは日曜日から。

●一週間の始まり/オリーブ山から始まりました。ここは都エルサレムの東にあり、ゲツセマネの祈りの場もここの一部で、イエスが昇天した時もここからでした。イエスが都に入るためにろばが連れて来られますが、この時、救い主が来ると預言したゼカリヤ書の言葉が成就しました。

●大歓迎される王/イエスが都エルサレムに入る時に群衆が歓迎している姿は王様の勝利の帰還を喜ぶのと同じです。しかしイエスは戦争に勝利した王ではなく平和の王として入られました。神と人との平和、人と人との平和の実現のためにイエスは福音を持って来られたのです。

●ホサナ祝福あれ/人々はイエスに期待しました。それは国がローマ帝国の支配から自由になるという、言わば目先のことでした。しかし、イエスが来られたのは、私たちを罪から解放し、神と和解し、罪赦されるためです。すべての罪人を救う福音が多くの人に受け入れられますように。

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◆2024/3/3(日) 礼拝『敬虔に生きる者への約束』

<聖書の言葉> マラキ書  3:13-4:6/旧約聖書

しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。 /マラキ書 4:2

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神は、神に対して不信を抱く民との対話を続けて下さいました。民が壊した関係を取り戻すためです。

●敬虔さを拒む高慢な人々/神に仕えるのは無駄だ、悔い改めても何の得もないと民は言うのです。幸せなのは高ぶる者の方だとまで言いました。好き勝手に生きる者が栄えていたからです。目に見える報いが無いことで、敬虔な歩みを拒み、それをばかばかしくさえ感じたのです。

●わたしは彼らをあわれむ/神からの報いはその関係の中にあるのです。神につながる者は「わたしのもの」、「わたしの宝」だと言われます。神と私たちとの深いつながりがここに表現されています。「わたしは彼らをあわれむ」とも言われ、神の愛は変わらないと、語りかけています。

●敬虔に生きる者への約束/神を畏れ、敬虔に生きる者のためには義の太陽が昇ると、つまり救い主が来られ、救いといやし、喜びが訪れるのです。ですから私たちは、神のことばを忘れることなく神の恵みの契約に留まりましょう。神の愛を信じ、誠実に神を礼拝してまいりましょう。

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◆2024/2/25(日) 礼拝『神の祝福を受ける歩み』

<聖書の言葉> マラキ書 3:7-12/旧約聖書

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。—万軍の主は言われる―わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。 /マラキ書 3:10

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自分に不利益があると誰かを責める人は珍しくありません。自分の胸に手を当てる人はいるでしょうか。

●わたしに帰りなさい/神の祝福が止まっていた理由は民自身にありました。「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と神は言われました。悔い改めるようにという神の招きですが、民は悔い改めに鈍感で、わからなかったのです。自分の罪が見えていないからです。

●わたしに捧げなさい/神は十分の一の捧げ物を例にして民に罪を気づかせようとしています。レビ記2730、民数記182126に規定されていますが、民は気に留めていなかったのです。神のものを盗まないで、神のものを捧げよと呼びかけられています。民の目は覚めるでしょうか。

●神の祝福があふれる/神のものを捧げれば、神が天の窓を開いて祝福をあふれさせると、苦しい生活から脱出できると約束しています。民を愛している神は、民を祝福しようと待っているのです。神の思いに敏感になって、悔い改めて神のみことばに聞き従うことが大切です。

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◆2024/2/18(日) 礼拝『必ず訪れる神の救い』

<聖書の言葉> マラキ書 2:17-3:6/旧約聖書

「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。」 /マラキ書 3:1

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近親の人を疑う人の心には何があるのでしょう。近親の人から疑われて、人は耐えられるでしょうか。

●神を疲れさせる民/神の愛を疑った民は神の公義をも疑いました。悪に対して神は沈黙している、神は自分たちに無関心だと思ったのです。民の言葉は神を疲れさせました。それは神が心に苦しみを抱くほど民に関心を寄せていた証、民を気遣っていたことの現れなのです。

●救い主到来の告知/神は先駆者バプテスマのヨハネの訪れを、そして救い主の到来を知らせました。神が人として地に来られることは神の愛の証であり、最高の愛の表現です。その救い主は火が金属を精錬するように民を罪からきよめ、神に喜ばれる者へと造り変えるのです。

●民を愛し続ける神/神は契約したことに対して誠実です。民が神を疑っても神は契約通りに救い主を与えて下さいました。また神は、民への愛において真実です。神の尽きることのない永遠の愛が今も私たちに注がれています。もっと神を信頼し、この神を待ち望みましょう。

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◆2024/2/11(日) 礼拝『祝福を求めて生きる者となる』

<聖書の言葉> マラキ書 2:1-16/旧約聖書

彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公平さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。 /マラキ書 2:6

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神を信じる者の生活が、まるで神を信じていない者のように見えるとしたら、それは悲しい現実です。

●主の道か迷う/「わたしはあなたがたを愛している」と神が語っても、民たちは不誠実な礼拝を捧げていました。そればかりか、祭司たちはあるべき姿(5-7)を捨て、民たちをつまずかせました。指導者が不誠実に教えるなら、人は何が主の道なのか迷い、罪の中に留まるのです。

●鈍感で無感覚/そのような中で民たちは、みことばに従う生き方をすることができなかったのです。神が禁じていた結婚をするなど、罪の中にありながら、神が礼拝を喜んでくれないのはなぜかと不満を口にしたのです。鈍感で無感覚、自分の中にある問題に目が行かないのです。

●祝福を求めて/ 神は私たちを祝福したいのです。神の愛に応えて私たちも心から神を愛しましょう。それは神のみことばに従うことによって表すことができます。また、みことばを通して何が神に喜ばれることなのかを思い巡らし、きよくされる道を選び、主の道を歩みましょう。

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◆2024/2/4(日) 礼拝『誠実に生きる者となる』

<聖書の言葉> マラキ書 1:6-14/旧約聖書

子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。―万軍の主は言われる― /マラキ書 1:6

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人間関係における不誠実さは信頼を損ないます。では、神の前に不誠実であったらどうなるのでしょう。

●無感覚な礼拝/この頃、民たちが捧げる礼拝は異常なものになっていました。神へのささげ物にもかかわらず、酷い物を選んでいたようです。神への尊敬も、神を畏れる心もなくなっていたのでしょう。神に選ばれた民たちですが、誠実に神に応答する感覚すら失われていたのです。

●形式的な奉仕/礼拝を担う祭司たちは、かなり鈍感になっていたようです。民たちが持ってくる酷いささげ物を、全く気にしないで受け取るのですから、礼拝が形だけのものになっていたことがわかります。神への感謝もなく、神を愛する心も見えない、面倒くさいものだったのです。

●誠実に生きる/神は選びを通して愛を示されました。私たちの礼拝が、愛して下さる神を敬い、敬虔なものになっているか、また、神を愛する思いをもって心から捧げているか、改めて自分を省みたいと思います。そして、神の御前に誠実に生きることを取り戻してまいりましょう。

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◆2024/1/28(日) 礼拝『神の愛の証明』

<聖書の言葉> マラキ書 1:1-5/旧約聖書

「わたしはあなたがたを愛している。 ―主は言われる― しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。 ―主のことば― しかし、わたしはヤコブを愛した。 /マラキ書 1:2

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イエスの十字架と復活を控えた季節にあって、そこに向かうための備えとしてマラキ書を読みましょう。

●神と対話する/旧約聖書の最後の預言者マラキは人々の心の思いを言葉にし、神は人々の疑問に答えてくださいました。失礼極まりないような問いかけでも、神は対話してくださるのです。それは私たちが自分の罪と向き合うため、壊れた神との関係を直すための神の恵みです。

●神の愛に疑問/破壊された神殿が再建されたことで人々は状況の好転を期待したのです。しかし、相変わらずの厳しい現状は苛立ちとなり、失望となりました。そして人々は神の愛に疑問を抱いたのです。神への不信感。神が愛してくれているなら、こんなことになるはずがないと…。

●神の愛の証明/神はイスラエルの選びに触れて答えました。「わたしはヤコブを愛した」と。それは主権的で、無条件、選ばれるに値する何かがあったわけでもない中での選びなのです。この神の愛は神の民の歴史において、そして、イエスにおいて証明されました(ヨハネ316)。 

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◆2024/1/21(日) 礼拝『ヨナとイエス』

<聖書の言葉> ルカの福音書 11:29-32/新約聖書

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。   /テモテへの手紙第二 4:2

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音は長く脳に記憶されるでしょう。教会の中心にある「ことば」が人の心に刻まれることを願います。

●ヨナとイエス/イエスがヨナの働きに触れました。これは誰もが知る話(マタイ123842、ルカ112932)。ヨナとイエスを比べると興味深いです。神に従い通したイエスと背いたヨナ、愛の故に地に降ったイエスと罪の故に海に降ったヨナ。3日墓にいたイエスと魚の腹にいたヨナ。

●ヨナのしるし/イエスは人々から求められたしるし(証拠としての奇跡)について、ヨナが語った神のことばでニネベの人々が悔い改めたことを示しました。ヨナは何の奇跡も行っていないのです。これがヨナのしるし。大切なことは、宣教のことばを聞いて信仰で受け入れるかどうかです。

●宣教のことば/イエスは神の福音を宣べ伝えましたが、ユダヤ人はニネベの人々と違ってイエスを拒みました。ヨナにまさる方ですが、彼らは福音に応答しないのです。私たちは初代教会と同じく、みことばを宣べ伝えましょう。人々を救いに導くのはまさしく福音のことばなのです。 

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礼拝説教をYouTubeでお聞きになる方へのお詫び)録音時に思いがけないノイズが入りました。多少のノイズ除去はしましたが、不快に感じるかもしれません。ご了承ください。

◆2024/1/14(日) 礼拝『神とともに喜ぶ者へ』

<聖書の言葉> ヨナ書 4:1-11/旧約聖書

ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。  /ヨナ書 4:11

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自分の中に子どものような部分、未成熟な部分を感じることがあります。成長には時間がかかります。

●ヨナの喜び/ヨナが子どものように見えてきました。それは1本の唐胡麻による陰を喜び、それが枯れた瞬間に不愉快になっているからです。こんな小さなことに感情が揺さぶられ一喜一憂しています。ヨナの喜びは長続きしないもの、変わりやすいもの、喜びの浅さを感じます。

●神様の喜び/神がヨナのために備えたものがいろいろありました。唐胡麻もその一つ。ヨナの成長を神は待っているのです。神はまた、どのような人でも救いを受け取ることを願っています。ヨナたちの敵ニネベの人々も例外ではありません。神が何を喜ぶ方か理解できるでしょうか。

●ともに喜ぶ/神は意外な方なのかもしれません。聖書は意外な話で満ちています。私たちと感覚が違うわけですが、神とともに喜ぶ者となりたいと思います。人に向けて伸ばされた神の御手を喜び、神の最善のみわざをともに喜びましょう。神とともに喜ぶことは、神の願いです。

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◆2024/1/7(日) 礼拝『不機嫌なヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 4:1-6/旧約聖書

ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだ方がましです。」主は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」 /ヨナ書 4:3-4

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預言者ヨナを見ていると「なんて人だ!」と思いたくなりますが、そこに自分が重なる気がしてくるのです。

●表に現れたヨナの性質/罪深いニネベの人々はヨナが語った神のことばで悔い改め、神はさばきを取り止めました。しかし、ヨナは不機嫌に…。敵が不幸になることを望んでいたのです。預言者のメンツも潰れ、自分を可哀想に思い、怒りました。高慢なヨナがここに現れています。

●他人事でない自己中心/ヨナのような自己中心は放蕩息子の兄の中にもあり(ルカ15章)、私たちも例外ではないでしょう。喜ぶべきところで不機嫌になることはないか、自分の願いばかりに集中し、「神は私を理解していない」と思い上がる高慢も他人事ではないと思います。

●きよめられるべき性質/自分の願いよりも神のみこころを求めているのか、「主の祈り」を真実に祈っているのかと問われている気がします。神の前にへりくだっているのか、神が変わるべきなのではなく、自分に変えられるべき性質があることを発見して、思いをきよめていただきましょう。

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◆2024/1/1(月) 礼拝『互いに分かち合う』-新年礼拝-

<聖書の言葉> コリント人への手紙第二 8:8-15/ 新約聖書

善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。  /ヘブル人への手紙 13:16

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新年のご挨拶を申し上げます。愛と恵みに富んでおられる神の祝福と平安が皆様一人一人の上に豊かにありますようにお祈りいたします。

2024年はヘブル人への手紙1316「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません」を1年のみことばとして歩みたいと願います。

●私たち日本の現実/世界人助けランキングというものがありますが、人助け、寄付、そしてボランティア活動の3部門で評価されています。総合1位はインドネシア、2位はケニア、3位はアメリカ合衆国。日本は119か国中の118位となっていました。世界の水準から見ると他の人のために手を指し伸ばすことをしたがらない国民と映るでしょうか。

●初代教会の生き方/初期の教会には豊かな生き方がありました。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒2035)というイエスの言葉が生きていたのです。ですから、「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」(使徒434)のです。パウロは、「今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになる」(第2コリント814)と、分かち合うことの大切さを勧めています。

●互いに分かち合う/「コイノニア」というギリシア語があります。「交わり」を意味するとともに「分かち合い」を意味する言葉です。私たちは「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」(第1コリント1226)教会として、自分の持っているもので、自分にできることで、他の人のために手を指し伸ばす者になりたいと願います。互いに分かち合う生き方によって、神に喜ばれる1年を過ごしていけるように共に祈りましょう。

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◆2023/12/31(日) 礼拝『神さま、ありがとう!』

<聖書の言葉> 詩篇 103:1-5/ 約聖書

わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを 何一つ忘れるな。主は あなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。 /詩篇 103:2-4

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1年を振り返り、自分の心にどんな思いがあるか思い巡らしてみましょう。感謝、喜び、或いは不満。

●この1年を振り返る/今年度の教会目標は「あらゆる時に主を賛美する教会」。人それぞれの「あらゆる時」があったことでしょう。どの位、神をほめたたえたでしょうか。自分の生活や身体などを思い、社会や世界の出来事に目を留める中で、思うようには行かなかったかもしれません。

●神のみわざはあった/「主が良くして下さったことを何一つ忘れるな」(2)と書かれていますが、神の民はしばしば神の力あるわざを忘れ、不平ばかり言いました。なぜ忘れてしまうのでしょう。神のみわざがなかったのではなく、それを思い出さない私たちの現実だけがあるのです。

●神さま、ありがとう!/この詩篇には、神はあなたのすべての「咎を赦し」「病を癒やし」「あなたのいのちを穴から贖われる」と語られます。私たちはすでに大きな恵み、豊かな祝福を受け取っていることに気づかされます。これを絶えず思い出し「神さま、ありがとう」と賛美しましょう。

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◆2023/12/24(日) 礼拝『喜びの知らせを小さき者たちへ』-クリスマス礼拝-

<聖書の言葉> ルカの福音書 2:8-20/ 新約聖書

あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。  /ルカの福音書 2:12

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救い主イエス様の降誕を喜び、神をほめたたえます。クリスマスの幸いが皆様の上にありますように。

●神に選ばれた小さき者たち/ベツレヘムに到着したヨセフとマリアは家畜小屋に案内され、そこで出産となりました。天使は当時最も小さき者、羊飼いに喜びの知らせを最初に告げたのです。神が小さき者たちを選ばれたのです。それは全世界の人々のための知らせだからです。

●そのままで近づける飼葉桶/天使から救い主は飼葉桶に寝ていると聞いた羊飼いにとってそれは好都合でした。あるがままの自分で訪ねることができるからです。救い主は罪人を招くために生まれたのです。罪で汚れた私たちも、あるがままで救い主に近づくことができるのです。

●小さき者に注がれる神の愛/自分もなかなかの者と思っているでしょうか。それとも小さき者だと受け止めているでしょうか。神の前にへりくだって罪人と認める時、私たちは飼葉桶に寝ている幼子イエスを、すぐに駆け付け礼拝した羊飼いとともに、救い主と信じることができるのです。

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◆2023/12/17(日) 礼拝『喜びの知らせをヨセフへ』-クリスマス・アドベント(待降節)第3週-

<聖書の言葉> マタイの福音書 1:18-25/ 新約聖書

・・・「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」  /マタイの福音書 1:20-21

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裏切られたような経験をした時、私たちはどうするでしょう。ヨセフの生き方を追いかけてみましょう。

●ヨセフの悩み/マリアの妊娠を知ったヨセフは恐れを抱いたようです。彼が律法に従う正しい人だからです。ヨセフの選択肢は二つ。悩んだ末に離縁の意思を固めたようです。これは正しさだけでなく、愛に基づいた決断です。神も私たち罪人に対して義と愛を示しておられます。

●ヨセフの喜び/神は御使いをヨセフに遣わし、マリアと結婚しなさい、彼女の妊娠は聖霊によるものだと伝えました。神は私たちの思いを超えて働き、行くべき道に光を当てて下さいます。ヨセフはマリアの胎にいるのが約束の救い主、インマヌエルなる方だと知り、喜んだでしょう。

●ヨセフの信仰/第三の選択肢、結婚が神によって示され、ヨセフは従いました。しかも、生まれるまで夫婦の営みを制限し、その誕生を見守ったのです。そして生まれた子にイエスと名付けました。神に背を向けた罪人を愛される神は、この二人を通して救い主を与えてくださいました。

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◆2023/12/10(日) 礼拝『喜びの知らせをマリアへ』-クリスマス・アドベント(待降節)第2週-

<聖書の言葉> ルカの福音書 1:26-38/ 新約聖書

 (御使いは彼女に答えた。)「・・・ 神にとって不可能なことは何もありません。」 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」 /ルカの福音書 1:37-38

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マリアが救い主を妊娠した受胎告知。多くの画家が描きました。大いなる喜びの知らせだからです。

●マリアの選び/ガリラヤ地方のナザレに住むマリアはおそらくまだ10代で、どこにでもいる女性だったでしょう。彼女がイエスの母として選ばれた理由を聖書は語りません。神の選びはいつも不思議なのです。ただ、選ばれた者たちが信仰によって応答している姿には目が留まります。

●マリアの喜び/御使いはマリアに「おめでとう」と呼びかけ、救い主の妊娠を伝えました。結婚前の彼女にとってこの知らせは喜べないでしょう。困難が待ち受けているのです。けれどもマリアは、御使いの言葉から、それが待ち望んだ救い主であると知りました。これが彼女の喜びです。

●マリアの従順/処女マリアには自分が妊娠する方法がわかりませんでしたが、聖霊によるものと知りました。また、神のことばは必ず実現すると教えられ、彼女は神の計画をそのまま従順に受け入れました。これは神の救いのみわざが成し遂げられるために必要な信仰の応答です。

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◆2023/12/03(日) 礼拝『喜びの知らせをザカリヤへ』-クリスマス・アドベント(待降節)第1週-

<聖書の言葉> ルカの福音書 1:5-23/ 新約聖書

御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。 /ルカの福音書 1:13

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クリスマスを待ち望むアドベントが始まりました。救い主誕生の知らせが多くの人々に届きますように。

●選ばれた祭司夫妻/祭司のザカリヤとエリサベツ夫妻は神の前に正しく、真実に歩んでいました。神は二人を救い主の先駆者バプテスマのヨハネの両親としました。二人には心の重荷、「子どもがいない」という不幸の現実があったのですが、神はあえてこの二人を選ばれたのです。

●神の約束と不信仰/神殿に入ったザカリヤは主の使いに会い、子どもの誕生の約束を受け取りました。それは祈りの答えでした。同時に、まもなく救い主が誕生することを意味する出来事でした。しかし、ザカリヤは神の力よりも自分の年齢を計算することが勝ってしまったのです。

●賛美するザカリヤ/不信仰から話せなくなったザカリヤは、生まれた子にヨハネと名づけた時に口が開かれ、彼はまず神を賛美しました(164)。不自由な間の苦労よりも誕生の喜びが勝っていたのです。さらにザカリヤは救い主がこの地に来られることを最初に知る特権に与りました。

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◆2023/11/26(日) 礼拝『使命を果たしに行くヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 3:1-10/ 旧約聖書

神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行わなかった。 /ヨナ書 3:10

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聖書の人物を観察する時、「他人事ではないな」と思ってほしいのです。ヨナは自分かもしれません。

●狭い心で語るヨナ/大きな魚から吐き出されたヨナは預言者としての使命を果たしに出かけ、神のことばを伝え歩きました。しかし、神に赦されて再出発したはずですが、神の愛とあわれみを伝えた様子は全く見られません。彼はニネベの悔い改めを望んでいなかったのです。

●ニネベの民の選択/ヨナを通して神のさばきの宣言を聞いたニネベの民はその言葉をそのまま信じました。そして、罪の悔い改めを行動で表現し、しかも王までもがそこに加わり、へりくだりました。神のあわれみを期待したのです。真の神を畏れる心が人々の中に生まれたのです。

●広い心で赦す神様/神は不従順なヨナを赦し、切り捨てることなく使命を再び与えました。神はニネベの民たちが悔い改めた時、彼らを赦しさばきを取り止めました。神は立ち返る者を何度でも赦して下さいます。罪深い自分に注がれた神の愛とあわれみを忘れてはなりません。 

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◆2023/11/19(日) 礼拝『悔い改めたヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 2:6-10/ 旧約聖書

・・・ しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は主を思い出しました。・・・ /ヨナ書 2:6-7

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ヨナが罪を悔い改めました。その言葉はなくても彼の変化した姿の中にそれを見ることができます。

●神に聞く者に変わった/預言者ヨナは神に命じられても「しかし」と言って、自分勝手に、自分を喜ばせる行動を選びました。今ヨナは海に投げ込まれ、自分を呑み込んだ魚の腹の中にいましたが、そこで再び「しかし」と言いました。今度は神に耳を傾ける者に変わっていました。

●「私の神」と変わった/かつてヨナは「私は海と陸を造られた天の神、主を恐れる者」と自分の信仰を語りましたが、今は「私の神」と呼んでいます。ここに神との人格的なつながりを見い出します。罪は神との関係を壊しますが、悔い改めはそれを回復し、喜びをもたらすのです。

●その生き方が変わった/主の御顔を避けたヨナは今「私の誓いを果たします」と言いました。生き方の変化の中に悔い改めの実が見えます。今なお魚の腹の中、つまり、自分を取り囲む環境はそのままでもヨナは変われたのです。罪を離れ神に捕らえられて生きる者は幸いです。

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◆2023/11/12(日) 礼拝(召天者記念礼拝)『私たちが持っている望み』

<聖書の言葉> ペテロの手紙第一 1:3-5/ 約聖書

 ・・・ 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 /ペテロの手紙第一 1:3

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先に天に召された13名を偲びつつ、信仰によって私たちが既に持っている望みを思い巡らしましょう。

●生ける望み/神のあわれみにより私たちは新しく生まれた者となりました。私たちの努力や善行によってではないということです。その結果、生ける望みを私たちは持っています。それは漠然とした期待のようなものではなく現実的なものです。イエスと共に私たちも復活するのです。

●朽ちない資産/私たちには資産を受け継ぐ特権が与えられています。それは朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともないほど確実な資産です。この資産は地上で手にするものではありません。天の御国で受け取るのです。だから、私たちの目を地上ではなく天に向けるべきです。

●救いの完成/神を信頼して歩みましょう。神はその日まで私たちをお守り下さいます。神による保護ほど確かなものはありません。そして天の御国において約束された救いは完成します。信仰によって神の子どもとされた私たちの天の故郷において、永遠に主と共に生きるのです。

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◆2023/11/5(日) 礼拝『大切なことを思い出したヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 2:1-10/ 旧約聖書

ヨナは魚の腹の中から、自分の神、主に祈った。 /ヨナ書 2:1

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思い出せないことは人それぞれいろいろあるでしょうが、心に刻まれたものは思い出せるものです。

●苦しみの中で思いつくこと/自分が苦しんでいる時、誰に原因があるかと考える人がいます。それはあなただとモーセは民たちから責められました。そしてその苦しみから抜け出すために自分を頼り、力強い人を求めたりするということもあります。神を求めない現実がここにあります。

●ヨナが思い出したみことば/海に投げ込まれたヨナは、海底に沈み行く中で神を思い祈りました。彼の祈りのことばは思い出した詩篇の言葉の数々でした。私たちもヨナのように、みことばを思い出すことがあるでしょう。人の言葉よりもみことばが私たちの力、励ましとなるのです。

●神の救いと希望を見たヨナ/「救いは主のものです」とヨナは祈りました。救いようのない者さえ神は救ってくださいます。これは私たちの希望となるでしょう。神は確かに私たちを見捨てることがないのです。みことばを心に刻んで思い起こし、神のみことばの光の下に歩みましょう。

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◆2023/10/29(日) 礼拝『賛美が届けるもの』

<聖書の言葉> 詩篇 40:1-3/ 旧約聖書

 主はこの口に授けてくださった。

新しい歌を 私たちの神への賛美を。

多くの者は見て恐れ 主に信頼するだろう。 /詩篇 40:3

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礼拝で賛美する以外に、結婚式や葬式の時でも賛美します。喜びの時も悲しみの時も歌うのです。

●平安を届ける賛美/詩篇40篇の作者ダビデは命の危険の中にいて神を待ち望んだようです。「切に」という言葉の中にその必死な様子が伺えます。やがて、神はダビデの祈りに答え、助けて下さいました。滅びの穴、泥沼から巌へ。神の確かな守りが彼に平安を届けています。

●信頼を届ける賛美/賛美歌の言葉は私たちの心を神への信頼で満たしてくれるでしょう。神のみわざ、慈しみ、助け、真実、そして愛などが歌われているからです。心が沈んでいたり、大切なものを失った時にも、口に賛美があるなら、私たちに神への信頼が届けられるでしょう。

●福音を届ける賛美/パウロとシラスはピリピ宣教の最中に牢に入れられました。しかし、自由を奪われた中でも二人の心は神に向かい、賛美していました。それがきっかけとなって看守と家族は福音を聞き、救いを受け取りました。賛美を通して人々に福音を届けることができるのです。

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◆2023/10/22(日) 礼拝『魚の腹の中のヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 2:1-6/ 旧約聖書

 苦しみの中から、私は主に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。 /ヨナ書 2:2

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ヨナは責任を取って海の中へ。これで終わりか…。しかし、神によって彼の人生をまだまだ続くのです。

●ヨナを見捨てない主/ヨナが海に投げ込まれたことで船は助かりましたが、ヨナ自身は死を意識したことでしょう。しかし神はヨナのために大きな魚を備えて呑み込ませ救出したのです。神は彼を見捨てません。たとえ海の底に降るようなことがあっても、神はそこにもおられるのです。

●主に叫び求めるヨナ/ヨナは大波をかぶり、溺れ、海底へと沈んでいきましたが、意識が薄らいでいく中でヨナは神を叫び求めたのです。祈ることをあきらめてはならないのです。神はヨナの祈りを聞き、答えてくださいました。ヨナは今、大きな魚の腹の中で神に感謝しているのです。

●ひとり神の前に祈る/魚の腹の中は光もなく、奇妙な音だけが響く所でしょう。けれども、そこはヨナがひとりになれる場、他の一切のものから離れて静かに祈れる場所です。神がそこにおられます。私たちにもひとり神の前に祈る場が必要です。神と二人だけの交わりが必要です。

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◆2023/10/15(日) 礼拝『自分の責任に目覚めたヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 1:11-17/ 旧約聖書

ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」  /ヨナ書 1:12

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激しい暴風で難破の危機にあった船の乗組員らを観察してみると、ヨナと違う部分に目が留まります。

●非常に恐れる乗組員/乗組員は自分の神に向かって叫びましたが、状況は同じでした。「誰かに罪がある」と悟ったのでしょう。くじで当たったヨナから、彼が真の神の命令に逆らったことが原因と知ったのです。神を恐れないヨナをどう思ったでしょう。乗組員の恐れは強くなりました。

●優しい乗組員とヨナ/ようやく自分の責任に目覚めたヨナは自分を海に投げ込めば海は静まると語りました。乗組員を助けるための行動です。ところが、彼らはすぐに実行することはなく、ヨナの命を助けようとするのです。迷惑を受けた方なのに、ヨナと違って何と優しいことでしょうか。

●神の前にへりくだる/ヨナの言葉を実行すると海が静まるのを見て、乗組員は真の神を信じる者になりました。神は彼の愚かささえも用いられたのです。ヨナには信仰にふさわしい生き方が見えません。神を信じる者にふさわしい歩みのためには、神の前にへりくだることが必要です。

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◆2023/10/8(日) 礼拝『主の御顔を避けたヨナ』

<聖書の言葉> ヨナ書 1:1-10/ 旧約聖書

「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。  /ヨナ書 1:2-3

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ヨナは神に仕える預言者。その内面を観察すると、とても他人事とは思えない課題を抱えていました。

●主の預言者であるヨナ/ヨナは主の預言者として北イスラエルの王ヤロブアム2世の時代に仕えました。彼の預言のとおり、王国は領土を回復し繁栄したのです(第2列王1425)。当時、王国は神の前に酷く罪深い状態でしたが、ヨナが厳しい宣告をする場面はありませんでした。

●主の御顔を避けたヨナ/神は大国アッシリヤの都ニネベに行き、さばきを宣告するようヨナに命じました。しかし、彼は主の御顔を避けて逃げました。神の命令が自分の思いとかけ離れていたからでしょう。神のことばに従うかどうかは私たちの自由にすれば良いことなのでしょうか。

●主の追跡を受けるヨナ/ヨナは船で逆方向に進みましたが、神が彼を見失うことはありません。暴風を通して神はご自身を現しました。そして水夫たちに「何ということをしたのか」と問われたように、行動は他の人を困らせたのです。神に喜ばれる道とは何か考える必要があります。

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◆2023/10/1(日) 礼拝『開かれた祝福の道』

<聖書の言葉> ルツ記 4:7-22/ 旧約聖書

ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。 /ルツ記 4:13

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失う悲しみの中に始まったルツ記が、思いもしない結末へ。神の計画の不思議さを思うばかりです。

●土地の買い戻しの成立/買い戻しの権利のある親類の二番目のボアズは自分の意思よりも神の御心を求めて行動しました。すると一つの道が閉じられ、待ち望んだ道が開かれていきました。結果が判っていたわけではありませんが、神の御心がこのようにして明らかになったのです。

●人々の祈りと男児出産/様子を見ていた人々はボアズとルツの結婚を祝福し、子孫のために祈りました。「ラケルとレアの二人のように」、ここから12部族が始まったのです。「ペレツの家のように」、余りに意外な結婚にも神の祝福はあったのです。そして、ルツは男児を出産しました。

●神の計画の一端を担う/オベデ(仕える者)が誕生したことで買い戻しの本来の目的が達成しました。ナオミもルツもボアズも互いに仕え合う者たち。神は彼らのために祝福の道を開き、ダビデ王につながる家系としました。彼らの人生は神の計画の一端を担うものとなったのです。

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◆2023/9/24(日) 礼拝『神に委ねた者の行動』

<聖書の言葉> ルツ記 4:1-8/ 旧約聖書

 それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお 買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。/ルツ記 4:8

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ごまかし、偽り、不正に生きるより、真実で、正直でありたい、誠実を生きる者でありたいと思います。

●買い戻しの交渉/ボアズはルツとの結婚は望みながら、一番目の買い戻しの権利のある親類の前に立ちました。彼は正しい情報を伝え答えを待ちました。返事は「買い戻す」。ボアズの心は揺れたのでしょうか…。買い戻しにはルツとの結婚を含むことを伝えると答えは「できません」と。

●譲渡された権利/二番目に買い戻しの権利のあるボアズは一番目の人からその権利を譲り受けました。正々堂々、誠実を生きた結果です。ルツとの結婚が神のみこころだったのです。力ずくで長男の権利を奪い取った人物の生き方より、神を待ち望む生き方が期待されています。

●神に委ねる歩み/誠実で信仰的なボアズのような人物が、「自分の目に良いと見えることを行う」不信仰な士師時代にいたのです。神を信頼し、神に自分を委ねて生きる者を神は祝福して下さいます。自分の考えや計画に固執せず、どんな時にも神に身を委ねて歩み続けましょう。

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◆2023/9/17(日) 礼拝『冷静な行動』

<聖書の言葉> ルツ記 3:10-18/ 旧約聖書

・・・ もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。 ・・・ /ルツ記 3:13

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自分の利益を優先して行動する人と他人の利益を考えて行動する人、どちらが信用できるでしょう。

●ルツの誠実な生き様/ボアズはルツからのプロポーズに驚きましたが、「今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています」と語りかけました。故郷を離れてナオミのために尽くし仕えたその生き様と、自分の幸せだけを追いかけることもなかったその姿にボアズは誠実さを見たのです。

●ボアズの誠実な対応/ボアズはルツの申し出を受ける決断をしました。ルツとナオミの二人のためにも犠牲を払う覚悟です。彼も誠実に対応しました。自分の欲望をコントロールしてきよさを保ち、ルツやナオミへの気遣いも忘れません。彼は責任をもって約束を果たそうとしています。

●ボアズの信仰の歩み/ボアズは自分の願いを優先しないで神が定めたルールに従います。手順を勝手に変えたりしません。そして、時間をかけても良いから神のみこころを待つ信仰の歩みを選び取りました。神の時を待つこと、大切なのは神に委ねる、冷静で誠実な生き方です。 

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◆2023/9/10(日) 礼拝『それぞれの決断』

<聖書の言葉> ルツ記 3:1-9/ 旧約聖書

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。  /エレミヤ書 29:11

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「どうする?」という時、人は迷い、計算を始めます。でも、私たちには信仰を働かせる道があるのです。

●ナオミの決断/収穫作業も終わり、ナオミはルツに「あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を探してあげなければ」と言いました。つまりルツの再婚を考えたのです。これがナオミにとっての一番の関心事。そして、ナオミはルツからボアズにプロポーズするように促したのです。

●ルツの決断/「おっしゃることは、みないたします」というルツの答えには迷いが見えません。ナオミに対する信頼の厚さから来ているのでしょう。「落ち穂を拾い集めさせてください」と一歩踏み出したルツは、ナオミの言葉通りにボアズの所へ出かけ、当時のプロポーズに挑んだのです。

●御手に委ねる/二人が決断して実行しても、結果は保証されていません。ボアズがどうするか、二人にはわからないのです。しかし、わかっていることがあります。神は将来と希望を与える計画を持っておられるということです。私たちには神に委ねて待つという信仰の道があるのです。

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◆2023/9/3(日) 礼拝『御恵みを惜しまない神』

<聖書の言葉> ルツ記 2:17-23/ 約聖書

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」  /ルツ記 2:20

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神の恵みを経験した人は喜び、笑顔を取り戻し、そして神に感謝し、その御名を崇めることでしょう。

●二人を驚かせた出来事/ルツは満面の笑みで帰宅したでしょう。驚くほどの収穫物に、土産に食べ物も持ち帰ったのです。ナオミはそれを見て大いに驚きましたが、ルツが働きに行った畑の持ち主がボアズと聞いて、さらに驚くことになりました。ナオミは神を崇めたことでしょう。

●買い戻しができる親類/継ぐ者がいない土地として売られてしまうナオミの夫の土地ですが、ボアズは買い戻しの権利のある親類でした。光が見えてきました。「買い戻し」は「贖い」とも訳されます。罪のために神から失われた私たちを神はイエスを通して買い戻してくださいました。

●御恵みを惜しまない神/絶望しても希望があるのです。神の御手は今なお働いているからです。ナオミやルツが気づいていなくても、神は恵みを届けておられました。二人は今、それを知る者となりました。今日も様々な所で神の御手が伸ばされています。神の恵みに感謝します。

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◆2023/8/27(日) 礼拝『見えてきた希望』

<聖書の言葉> ルツ記 2:8-16/ 約聖書

主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。  /ルツ記 2:12

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今日の聖書箇所で、登場人物たちを称えますか、それともその背後で全てを導く神を賛美しますか。

●ボアズからルツへの親切/ルツが落ち穂拾いに行った畑の持ち主ボアズはルツに対して特別、親切でした。「主があなたのしたことに報いてくださるように」とボアズは語りましたが、神は彼を通してルツに報いを与えているのです。神の祝福は、時に、誰かを通して届けられるのです。

●ボアズが親切にする理由/ボアズはなぜルツに親切にしたのでしょう。ルツが姑ナオミのために熱心に働く姿に目を留め、また、神の翼の下に身を避けようとしてこの地に来た信仰、神を信頼する姿にも心を動かされたのでしょう。このボアズとの出会いは神が備えた希望です。

●ようやく見えてきた希望/故郷に戻る時、ナオミは神の前にへりくだる者でした。ルツはボアズの親切に対して謙遜でした。神はへりくだる者に恵みを与えてくださいます。また、神を信頼する二人に神は恵みを惜しみません。へりくだって神を求める時、そこには希望があるのです。

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◆2023/8/20(日) 礼拝『ルツの落ち穂拾い』

<聖書の言葉> ルツ記 2:1-7/ 約聖書

ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。   /ルツ記 2:3

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慎重になり過ぎて何もしないより「とりあえずやってみよう」という一歩が大事な時があるように思います。

●ルツの落ち穂拾い/神の寛容で慈しみ深い性質は聖書の落ち穂拾いのルールの中に反映していました(レビ記199-10)。ルツはナオミの許可を得て、暮らしのためにその落ち穂拾いに出かけ、熱心に働きました。生きるための一歩…。厳しいその日暮らしでの覚悟が見えます。

●神が備えた場と人/ルツが向かった畑はナオミの夫エリメレクの親戚であるボアズの畑。これは偶然ではなく神の導きです。また、そこで世話係をしている若者はボアズにルツのことを好意的に伝えました。一歩踏み出したルツのために神が備えた場があり、人がいたのです。

●民を見捨てない神/失うばかりの人生だったナオミにとってルツは宝でした。ルツのナオミへの愛は本物だからです。また、ルツのために神は最も適切な働き場を備えられました。神はその民をお見捨てになりません。神を信頼して一歩踏み出すことを神は待っているのです。

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◆2023/8/13(日) 礼拝『正義と平和』

<聖書の言葉> ローマ人への手紙 12:19-21/ 新約聖書

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。  /マタイの福音書 5:9

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神の正義を生き、世界に平和をつくることを目指して、共に平和を考え、平和のために祈りましょう。

●正義/悪に立ち向かう正義の味方を映画などで見ることでしょう。これは人間の正義。「義人はひとりもいない」のですから、本来は神の正義だけが成立するのです。「神の怒りにゆだねなさい」と聖書は語ります。私たちが思う正義感によらず、神の正義を生きることが平和の道です。

●平和/他国からの脅威があれば家族や友のためにも戦うと多くの人が思っています。でも戦いの後に平和は来ないのです。平和のためにはむしろ「善をもって悪に打ち勝ちなさい」と聖書は語ります。憎しみを終わらせ、隣人として、友として愛する生き方が平和への道なのです。

●福音/イエスは私たちに和解の福音を届けて下さいました。神に赦された者として互いに赦し合い、理解し合い、愛し合うのです。この福音は平和の福音でもあります。隔ての壁である敵意はすでに取り除かれたのです。この福音を手にして、私たちは平和をつくる者となりましょう。

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◆2023/8/6(日) 礼拝『失うばかりの人生』

<聖書の言葉> ルツ記 1:19-22/ 旧約聖書

こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。   /ルツ記 1:22

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人生が大きく変化したナオミ。彼女の人生に付添うことを決めたルツ。舞台はベツレヘムへと移ります。

●私をマラと呼んで/10年余りの時を経て戻ったナオミ。それと気づいた人々に向かってナオミは「私をナオミ(快い)と呼ばないでマラ(苦しむ)と呼んで」と言いました。満ち足りていた者が素手で帰ったからです。しかし、神は苦しむ者の祈りを聞く方であることを忘れてはなりません。

●失うばかりの人生/ナオミは「主が私を卑しくした」と言いました。ここには「謙遜にする」との意味があります。ナオミは神の前にへりくだることを学んだのでしょう。「全能者が私を辛い目にあわせた」とも。神がナオミの信仰を訓練したのです。失うばかりの人生にも光が見えてきます。

●前進する神の計画/ナオミには一緒に生きるルツが与えられました。また、ナオミが帰ったベツレヘムはやがてダビデの町となり、さらには救い主誕生の町となります。見えない神の御手が確かに働き、ナオミはルツを伴ってここに戻ったのです。神のご計画が進んでいるのです。

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◆2023/7/30(日) 礼拝『主の恵みはとこしえまで』

<聖書の言葉> 詩篇 136:16-26/ 旧約聖書

荒野で御民を導かれた方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。  /詩篇 136:16

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尽きることがなく、干上がることもない神の愛を思い、「主の恵みはとこしえまで」と神に感謝しましょう。

●どこまでも誠実な神の愛/私たちの神は創造主、そして約束を守る方です。エジプトに長く留まっていたイスラエル人を脱出させ、約束の地へと導いた神は、力強い御手でこの旅を成功させて下さいました。神は約束に対して誠実なのです。民が放り出されることはないのです。

●荒野においてさえ導く神/神は彼らを荒野に導かれました。そこは生きるにも大変な環境でしたが、神は、水やマナを備えました。神が共におられるので、荒野もまた恵みの地なのです。民たちがその愚かさのために苦しみを引き寄せても、民が見捨てられることはなかったのです。

●主の恵みはとこしえまで/この偉大な神から私たちは食物を与えられるのです。日常生活においても神は私たちのために働いておられます。神の恵みを心に刻み、「主の恵みはとこしえまで」と歌いましょう。辛い状況に身を置いたとしても、神に希望を置くことができるのです。

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◆2023/7/23(日) 礼拝『新たな人生の選択』

<聖書の言葉> ルツ記 1:6-18/ 旧約聖書

ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 /ルツ記 1:16

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人生の選択は複雑です。目に見えるものだけを見て選ぶのか、見えないものに目を留めて選ぶのか。

●ナオミの選択/良いニュースが届きました。「主が民を顧みて」くださった、故郷の飢饉は終ったと…。この時、ナオミは故郷に帰ることを選びました。残りの人生をベツレヘムで過ごし、葬られるためです。これは夫も二人の息子も移住地モアブで失ったナオミに残された希望です。

●オルパの選択/ナオミは最初、息子の妻のオルパとルツも連れて行こうとしましたが、思い直しました。自分と共に行っても幸せは来ないからです。涙を流しながらオルパはその説得に応じました。故郷モアブでの幸せを選んだのです。目に見える幸せを選ぶ、これも人生でしょう。

●ルツの選択/ルツはナオミと共に行くことにこだわり続け、ナオミを説得しました。目に見える幸せ以上のものを見ていたのです。ルツは、ナオミの民とともに生き、ナオミと共に同じ神を信じて生きたいと思いを伝えました。ルツの選択は、ナオミにとってこの上もない希望となりました。

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◆2023/7/16(日) 礼拝『人生の選択』

<聖書の言葉> ルツ記 1:1-5/ 旧約聖書

サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。/マタイの福音書 1:5-6

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ルツ記はモアブ人ルツが主人公の美しい物語です。荒れた時代の中で咲いた美しい花のようです。

●飢饉の中で/飢饉のためにベツレヘムから東に100キロ離れたモアブ人の地にエリメレクとナオミ家族は移住しました。神から受け取った地を離れることに信仰によるためらいがあったかどうか不明ですが、これは生きるための選択でした。神より食料を求めたと言えるかもしれません。

●夫が死んだ/この移住には大きな曲がり角が待っていました。夫エリメレクが死んだのです。生きるための術を失った時、息子たちはモアブ人の女性と結婚。これは「この地に残る意思の表れ」だったのでしょう。しかし、この息子たちも死んだのです。もはや打つ手がなくなりました。

●人生の選択/試練は人の心に影響をもたらします。私は神に見捨てられたか、あの地を離れたことによる自分への報いか、という気持ちになってもおかしくないでしょう。けれども神は恵み深く、神の計画は将来と希望を与えるもの。人生の舵取りを神に任せるあり方もあるでしょう。 

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◆2023/7/9(日) 礼拝『共に主に仕える仲間たち』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 4:10-18/ 新約聖書

彼(エパフラス)はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。 /コロサイ人への手紙 4:12

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福音宣教はパウロ個人のわざでなく、主に仕える仲間たちと共になされたことを忘れてはなりません。

●福音のために働く同労者/ユダヤ人のアリスタルコ、マルコ、ユストからの挨拶。アリスタルコはパウロと共に囚人の道を選びました。パウロが困難に遭う時、彼はそこにいたのです。一方、マルコは一度、伝道旅行の困難を見て脱落しました。しかし、後に役に立つ同労者となりました。

●苦労を共にする仲間たち/異邦人のエパフラス、ルカ、デマスからの挨拶。エパフラスは離れていてもコロサイ教会のために祈っていました。教会を牧する者が祈りを絶やすことはないのです。医者ルカは高収入の人生よりもパウロに付添う道、主治医として、苦労を共にした人です。

●主にある家の教会の人々/当時の教会の多くはリーダーの家を教会としていました。パウロの視野は広く、周辺地域の教会のことも見ていました。手紙の終わり、パウロは鎖につながれたままで自筆で挨拶を書きました。パウロをつないでも福音の言葉をつなぐことはできません。

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◆2023/7/2(日) 礼拝『忠実な仲間たち』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 4:7-9/ 新約聖書

また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。 /コロサイ人への手紙 4:9

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社会にないものが教会にはあります。その豊かな恵みを共にみことばから味わいたいと思います。

●忠実な仲間たち/囚人パウロは孤独ではありませんでした。仲間たちに支えられていたのです。とは言え、囚人の友となることは危険を伴うものだったでしょう。しかし、彼らは忠実な仲間としてパウロとつながり、共に生きていました。世の価値観に縛られない神の家族の姿です。

●忠実なティキコ/パウロの伝道旅行に同行したことがあるティキコはパウロと厚い信頼関係がありました。彼はエペソ教会にも遣わされ、コロサイ教会にも遣わされました。しかも、手紙には書ききれないパウロ自身の様子を教会に伝えることのできるパウロの大使として奉仕しました。

●忠実なオネシモ/主人のところから逃亡した奴隷オネシモは囚人パウロと出会いクリスチャンになりました。パウロは彼を「獄中で生んだわが子」と言いました。彼も今や教会の仲間の一人。元〇〇であっても社会に存在する壁は教会にはないのです。これが神の家族の姿です。

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◆2023/6/25(日) 礼拝-特別礼拝④『真の愛の姿 』

<聖書の言葉> ルカの福音書 15:11-24/ 新約聖書

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。 /ルカの福音書 15:20

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このイエス様のたとえ話は虫がいい話…。しかし、ここには私たちに対する神の愛が詰まっています。

●虫がいい話/息子は自由を求めて勝手に旅立ちました。手元には父からもらえる遺産を先払いの形で受け取った資金がありました。お金の価値もわからなかったのか…、さっさと使い切って、不自由な生活へ。しかし、思い切って家に戻ってみると、彼は父に迎え入れられたのです。

●駆け寄る父/大金を持って家を出た息子を父が忘れることはありませんでした。帰りを待っていたのです。息子は貧しさのために姿は変わり果て、ぼろぼろの身なりで家に向かっていたでしょう。ところが、父はすぐに気がつき、駆け寄って彼を抱きしめ、息子の帰宅を喜んだのです。

●真の愛の姿/神の愛は人の罪深さによって妨げられることがないのです。取税人もパリサイ人も神の目には愛すべき一人です。真の愛は行動となって現れます。父が息子を見つけて駆け寄ったように、神は私たちに近づき、救いの道を備え、私たちを迎え入れて下さいます。

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◆2023/6/18(日) 礼拝-特別礼拝③『ただ神を待ち望む 』

<聖書の言葉> 詩篇 62:1-8/ 旧約聖書

私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。 /詩篇 62:5

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1分、1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年…。正直なところ、私たちが待てるのはどの位なのでしょうか。

●ただ神を待ち望む/この詩篇の作者ダビデは何らかの危機的状況にいたようです。しかし彼は心を神に向け、救いは神から来ると確信し、ただ神を待ち望むと言いました。これは簡単なことなのか難しいことなのか。人は深い悩みを通して神を待ち望む者となるのかもしれません。

●危機や試練の中で/「黙って」とありますが、私たちはどのような時に黙ることができるのでしょう。危機や試練の中で果たしてそれは可能でしょうか。大切なことは「神に向かって黙る」ということです。それは神の声を聞くため、神に任せるため、神の救いを見るためにほかなりません。

●神への信頼と希望/神に向かって黙るためには神への信頼が必要です。「私の救いは神から来る」と信じるからです。そこには希望があります。神の恵みがその先で待っているからです。だから詩篇の作者は自分に命じました。「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め」と。

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◆2023/6/11(日) 礼拝-特別礼拝②『見えていないものを信じる 』

<聖書の言葉> マルコの福音書 10:46-52/ 新約聖書

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。  /ローマ人への手紙 10:17

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信仰をためらう人から聞く言葉です。見ることができない、手にしたりするなど実感が持てないから…。

●見えていないけれど/盲人バルテマイ、彼はイエスのうわさを耳で聞きました。近くを通るとわかった時、彼はイエスを救い主として呼びかけ、願いを叶えてもらいました。見えていないけれども彼はイエスを信じることができました。それは、彼にイエスの言葉を聞く耳があったからです。

●手にしていなくても/聖書の中には、まだ何も手にしていなくても神を信じた者たちが多数存在します。アブラハムにしてもモーセにしてもそうですが、まるですでに手に入れたかのように行動しました。神の言葉への信頼があったからです。信頼があるところに信仰が生まれるのです。

●福音のことばを聞く/信仰は聞くことから始まるのです。では何を聞くのか、それはイエスの十字架の福音の言葉です。十字架で表された愛を、そしてそれは私たち罪人の代わりであることを聞くのです。私にはイエスが必要だとわかった時、人はイエスを救い主として信じるでしょう。

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◆2023/6/4(日) 礼拝-特別礼拝①『平安があるように 』

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 20:19-21/ 新約聖書

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 /ヨハネの福音書 20:19

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「平安」は良い言葉ですが、遠くに感じられるものかもしれません。これをぜひ手に入れたいものです。

●平安を求める人々/多くの人が疲れ、問題を抱えて悩み、傷を負い、酷くストレスを抱えています。だから癒されたい、この場を離れたい、誰かに話を聞いてほしいなどの声が上がるのでしょう。人々は平安を求めています。心穏やかに、波の立たない静かな日々に飢えています。

●平安をもたらす方/イエスは「世の平安」とは違う「わたしの平安」(ヨハネ1427)を与えると言いました。イエスこそ平安をもたらす方。それはイエスに任せれば良いのだという信頼とともにあり(出エジプト1414、イザヤ3015)、祈りと共にあってもたらされるものです(ピリピ467)。

●平安の源である方/十字架の後、恐れに包まれていた弟子たちにイエスは「平安があるように」と呼びかけました。彼らにこれを与えたかったのです。十字架で死んで復活されたイエスを見、信じて生きることで平安は訪れます。この平安は奪われることもなく失うこともないものです。

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◆2023/5/28(日) 礼拝-ペンテコステ『聖霊による証印 』

<聖書の言葉> エペソ人への手紙 1:7-14/ 新約聖書

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。   /エペソ人への手紙 1:13

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キリスト者に与えられている聖霊。これがとても大きな意味を持っていることを改めて確認しましょう。

●約束された聖霊/イエスの復活から50日目、約束された聖霊が注がれ、福音を聞いて信じた者は同じように聖霊を受けました。そして、信仰によって神の子どもとされた者として、私たちは、神を父と親しく呼びかけられることの中に聖霊が内に住んでいることの証しを持っています。

●聖霊による証印/私たちには聖霊による証印が押されています。それは私たちに与えられた救いが変わることのないものであることを保証するものです。同時に、証印は私たちが神の所有とされていることを意味しています。内に住む聖霊という証拠が今ここにあるのです。

●御国を継ぐ保証/さらに聖霊は天の御国を受け継ぐことを保証するものです。この「保証」という言葉は手付金、前払金のこと。私たちは後の日に確かに天国に住むのです。こここそ、私たちが本当に待ち望んでいる約束の都。御国を目指して、聖霊とともに歩んでまいりましょう。

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◆2023/5/21(日) 礼拝『塩味の効いたことば 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 4:2-6/ 新約聖書

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。   /コロサイ人への手紙 4:6

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誰にでもできるのが祈り。そして、どんな信仰の勇者であっても必要としているものも祈りなのです。

●たゆみなく祈ること/神への信頼あればこそ、私たちはたゆみなく、粘り強く祈ることができるでしょう。また、目をさまして祈りましょう。私たちは弱く「祈ったところで…」などと誘惑される場合もあるのです。そして、感謝をもって祈りましょう。感謝は神とのパイプを太くするものですから。

●祈りの支援の力強さ/あのパウロでさえ祈りの支援を必要としていました。ただ、自分が置かれた状況の改善ではなく、宣教の門が開かれるように、また、福音を的確に語れるようにというものでした。宣教は働き人の力量によってではなく、力強い祈りの支援あればこそなのです。

●塩味の効いたことば/知恵のある行動をするよう勧められています。そのためには謙遜が必要でしょう。塩味の効いたことばを話す者でありたいと思います。塩が食品に味わいを出すように、塩味の効いたことばは人の心に届くでしょう。そのような証しのことばを持てるよう祈りましょう。

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◆2023/5/14(日) 礼拝『何をするにも心から 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 3:18-4:1/ 新約聖書

 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。   /コロサイ人への手紙 3:23

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家庭でも社会でも福音に生きる者は人々に光を放つでしょう。世の光とイエスが言われた通りです。

●上か下かの時代感覚/昔、妻は夫の所有物とされていました。それは親にとっての子や主人にとっての奴隷も同じことでした。しかも、夫、親、主人には特権があり、妻、子、奴隷にあるのは義務だけでした。昔の時代のことですが、これと似た感覚の人は今もいるかもしれません。

●互いに義務を負って/そんな上か下かという壁は福音によって取り除かれました。恵みによって新しい人となり、キリストにあって一つとなったからです。夫も妻も、親も子も、主人も奴隷も、社会がどうであれ主にある者にふさわしく、互いに愛を示し、互いに義務を負って生きるのです。

●何をするにも心から/これらのことを主に対してするように心から行うように勧められています。あらゆる人間関係の中で、「ここに主はいる」という感覚を持ちたいものです。時代に影響されることに注意し、みことばが明らかにする光の道を歩み、世に福音の光を輝かせましょう。

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◆2023/5/7(日) 礼拝『新しい人を着た者として 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 3:12-17/ 新約聖書

 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。   /コロサイ人への手紙 3:12

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私たちは今、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者。私たちの生き方はここから始まります。

●身に着けるべきもの/5つのことが勧められています。深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容。これらが身に着けるべきものです。新しい人を着た私たちが神の恵みに応えて生きる姿は人間関係の中で実を結ぶのです。「互いに」忍耐し合い、「互いに」赦し合うことも大切です。

●愛を結びの帯とする/「これらすべての上に愛を着けなさい」と言われました。愛こそ、人と人とを結ぶ完全なものだからです。義務でもなく強制されたからでもなく、神の愛を結びの帯とするところに調和があり、教会は神にふさわしいものとなるのです。これが教会の自然な姿です。

●すべて主の名で行う/キリストの平和を判断の基準として歩みましょう。また、キリストのことばが豊かに住むようにしましょう。これは教会の交わりに欠かせないものです。そしてすべてのことを主イエスの名で行えるかと問いつつ歩みましょう。これらが新しい人を着た者の生き方です。

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◆2023/4/30(日) 礼拝『私たちが目を向けるべき方 』

<聖書の言葉> 詩篇 120:1-7/ 新約聖書

 苦しみのうちに私が主を呼び求めると主は私に答えてくださった。   /詩篇 120:1

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神を仰ぎ見て歩めることは幸いです。毎週、日曜日には教会で主を礼拝できることを感謝します。

●都上りの歌/120篇はイスラエル人がさまざまな地域に散り散りになっていた時代に歌われました。かつていたカナンの地を離れ、都エルサレムを気軽に訪ねることも難しいことでした。都には神を礼拝する神殿がありましたが、イスラエル人はそこに行く時にこれを歌いました。

●寄留地にて/「偽りの唇」「欺きの舌」「平和を憎む者」の言葉を見る中で、イスラエル人が身を寄せた地域における苦悩が感じられます。毎日が悲惨な連続だったのかもしれません。すぐそばにいる人たちがまるで敵のように自分に関わってくるとしたら、いたたまれないことでしょう。

●唯一の望み/「苦しみのうちに主を呼び求めると主は答えてくださった」と。彼らがどれほど神を待ち望んでいたことか…。目はいつも神を見上げ、神を喜ぶ。そこには安息があったのです。月曜から土曜までが苦労の日々であっても、礼拝では平安を得られることに似ているでしょう。

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◆2023/4/23(日) 礼拝『古い人を脱ぎ捨てよう 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 3:5-11/ 新約聖書

 あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。  /コロサイ人への手紙 3:9、10

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古い人を脱ぎ、新しい人を着るという表現。これは洋服の脱ぎ着とはまるで違う、信仰のあり方です。

●新しい人を着ている/イエスにあって新しい命に生きている者は新しい人を着た者だと言われます。神に受け入れられた者として私たちは、神のかたちのように聖くされ続けていくのです。この新しい人とは、古い生き方の延長にあるのではなく、すべてが新しくされています。

●かつての古い人の姿/古い人とは神に義と認められる前の自分  のことです。かつてはさまざまな欲望の中に生き、むさぼりの心がありました。思いは神から遠く離れ、この世と歩調を合わせるだけ歩みだったのです。その古い性質、神に喜ばれない罪の姿に留まるべきはありません。

●古い人を脱ぎ捨てる/新しい人を着た者として、私たちはすでに古い人を脱ぎ捨てた者です。ですから、古い人を再び着るような、或いは古いあり方を持ち込むようなことがあってはなりません。心の思い、発言、行動においても、神の国の民にふさわしいあり方を目指しましょう。

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◆2023/4/16(日) 礼拝『上にあるものを求めよう 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 3:1-4/ 新約聖書

 あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。 /コロサイ人への手紙 3:1-2

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自分とは何者かを知ることは大切です。神に造られた人間。今、イエスの恵みによってキリスト者です。

●主と共によみがえらされた/「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされた」(212)とあるように、キリスト者は死んで新しいいのちに生きている者です。神の国の民、永遠の神に向かって生きている、それが私たちキリスト者です。

●上にあるものを求めなさい/「地にあるものを思ってはなりません」とありますが、いろいろな欲望や生きがいなど、その誘惑はいつもあるでしょう。上にあるもの、神の右の座におられるイエスへの関心を高めたいと思います。キリスト者はこの世のものではなく、天に国籍を持つ者です。

●主と共に栄光の内に現れる/上にあるものを求める者として、私たちは与える者、赦す者、仕える者、また、様々なことがらを神の目をもって見る者となりましょう。今は地において生きていますが、キリストの再臨の時にはキリスト者も栄光のうちに現れ、天で主と共に生きるのですから。

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◆2023/4/9(日) 礼拝-イースター『信じられないほどの喜び 』

<聖書の言葉> マルコの福音書 16:1-8/ 新約聖書

 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。  /ローマ人への手紙 4:25

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よみがえられた救い主を覚え神を賛美します。生きておられるイエスが共に歩んで下さいますように。

●悲しみが笑顔へ/イエスが十字架で死に、墓に納められた時、弟子たちは悲しみに閉じ込められました。イエスの言葉を理解していなかったからです。しかし、3日目に復活したことを知った時、その閉ざされた心の扉は開いたのです。イエスとの再会は彼らに笑顔をもたらしました。

●痛みから赦しへ/十字架はペテロの心に痛みをもたらしました。イエスを知らないと証言したからです。しかし神はこの復活の知らせを「ペテロに伝えなさい」と言いました。心痛める者への神の気遣いが見えます。イエスとの再会はペテロにとって罪が赦される扉が開くことなのです。

●義とされ生きる/イエスの復活は信じられないほどの喜びをもたらしました。今、イエスの前に心を閉ざしていても、その扉を開けて復活したイエスを心に迎えるなら、神はその人を義と認めて下さる、神のもの、聖められた者として下さいます。私たちも喜びに満たされるのです。

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◆2023/4/2(日) 礼拝-受難週『神の愛の深さ。人の罪の醜さ 』

<聖書の言葉> マルコの福音書 15:16-41/ 新約聖書

 キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。  /ペテロの手紙第一 2:24

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今週はキリストの受難週。罪深い人間に対してその愛を極みまで見せて下さった神を崇めましょう。

●神の愛の深さ/神の愛は人との関わりの中で豊かに表現されています。神は罪人に対して手を差し伸べ、また何度も呼びかけ続ける方です。神が罪人を諦めることはないのです。むしろ、神はご自身の姿を私たちに明らかにするためにイエスをこの地に送って下さいました。

●人の罪の醜さ/一方で、私たち人間の何と醜いことでしょう。愚かにも自分で自分を義とする生き方を選び、神の愛よりも世の力の影響を受けてしまいます。神の心を知らない悲しい姿です。しかし、神の救いのご計画さえ見えない弱い私たちのためにイエスは来られました。

●神の愛の極み/人の罪の醜さを思うと神に見捨てられてもおかしくないのです。しかし、それでも神は人を愛され、人の罪を赦されるのです。そして人に仕えて下さいました。イエスの十字架の苦しみにより、その愛を極みまで示して下さったその愛の故に、私たちは救われました。

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◆2023/3/26(日) 礼拝『わたしはぶどうの木 』

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 15:1-11/ 新約聖書

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 /ヨハネの福音書 15:5

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イエスがぶどうの木、枝が実を結ぶために働く農夫が神、ぶどうの枝は救い主を信じる私たちです。

●イエスにとどまる/ここで繰り返し言われているのは「わたし(イエス)にとどまる」ことです。枝が木にとどまる、つながっていることはどうしても必要なことなのです。それはイエスへの信仰のことであり、信頼し続けることです。私たちはそこから離れて何もすることができない者なのです。

●実を結ぶ者となる/イエスにとどまるのは実を結ぶためです。神は私たちが実を結ぶようにと私たちをきよめ、整え、訓練します。成長させ、実を結ばせてくださるのは神だからです。神にふさわしい信仰生活の実、宣教の実、御霊の実など、神が実を期待して下さっているのです。

●喜びに満たされる/手をかけた枝に実が結ばれたなら農夫が喜ぶのは当然でしょう。そのために労苦してきたのですから。神は私たちが結んだ実を喜び、そして私たちとその喜びを分かちって下さいます。この喜びを味わうために日々しっかりとイエスに結びついていましょう。

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◆2023/3/19(日) 礼拝『わたしは良い牧者です 』

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 10:7-18/ 新約聖書

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。 /ヨハネの福音書 10:14

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神に親しみを感じるか、或いは厳しさを意識するか、このイメージは信仰の歩みに影響してきます。

●羊の門であるイエス/門、それは安心を保障する入口のことです。囲いの中にいる羊は、その入口にいる羊飼いによって守られるのです。そこは救いの門でもあります。ここから入る者は救われるただ一つの道です。イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのち」だと語りました。

●良い牧者であるイエス/イエスは羊である私たちに仕える牧者です。私たちのことをご自身のものとして心にかけて下さるからです。また、私たちを養い育てて下さいます。全てが愛に基づいて行われるのです。私たちはこの方の声を聞き分け、ついて行けば間違いありません。

●いのちを捨てるイエス/繰り返される良い牧者の姿、それは「いのちを捨てる」。私たちにいのちを与えるためです。私たちへの愛がここに極まります。また、一つの群れを作るためでもあります。ユダヤ人に留まることなく、その声を聞き分けた者たちはイエスのもとで生きるのです。

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◆2023/3/12(日) 礼拝『わたしはいのちのパンです 』

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 6:41-59/ 新約聖書

これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。 /ヨハネの福音書 6:58

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ヨハネの福音書には「わたしは〇〇です」というイエスご自身の言葉があります。これはその中の一つ。

●天から下って来たパン/5,000人もの人にパンが十分に与えられた奇蹟は人々を感動させました。出エジプトした民がマナで養われたことと重なっても見えたようです。しかし、これらは体のための食物。イエスは天から下って来たパン、つまり霊の食物であると教えているのです。

●飢えることがないパン/人々はイエスについてつぶやきました。神である方なのに同じ人間としてしか見られなかったからです。けれども、イエスを神として受け入れる者は決して飢えることがなく、どんなときにも渇くことがないと約束されました。イエスへの目が開かれる必要があります。

●永遠のいのちへのパン/イエスこそ天から下って来たパンであり、これを食べる者は永遠に生きるのです。「パン」とは日常の食物ですから、私たちは毎日の生活の中でイエスを受け入れ、絶えず結びついて生きることが必要です。イエスは私たちにとっていのちの源なのです。

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◆2023/3/5(日) 礼拝『危ない逆戻り 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 2:16-23/ 新約聖書

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。/コロサイ人への手紙 2:16、17

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逆戻りしてほしくないものは世の中にいろいろあるでしょう。これは信仰の世界においてもあるのです。

●キリストを見失うこだわり/「食べ物と飲み物」はきよくないものを避けるための決まり事のことです。また、祭りなどは儀式のことですが、これはキリストにつながるための影のようなものです。これらにこだわるあまりキリストを見失うことがあってはなりません。集中するべきはキリストなのです。

●謙遜な人らしく見せる高慢/「自己卑下」という謙遜らしく見せる生き方が入り込んでいました。そういう人に限って人を見下すのです。また、自分は特別な体験をしていると自慢し、高慢になっている人がいました。キリストに結びつくことから離れる逆戻りは人を高慢にするだけでした。

●人間の戒めが与える不自由/私たちはキリストと出会って罪の束縛から解放され、自由を得ました。しかし、人が作った戒めを守ることで自己満足できるかもしれませんが、結局、人はそれに縛られ、不自由な中に逆戻りです。キリストに結びつくことです。そこに自由があるのです。 

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◆2023/2/26(日) 礼拝『キリストによって変えられた私たち 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 2:8-15/ 新約聖書

あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。   /コロサイ人への手紙 2:12

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福音を信じて救われたはずなのに、確信が揺らぐことがあるでしょうか。原因はどこにあるのでしょう。

●喜びを奪う偽りの教え/人の心を捉える新しい教えを聞くことがあるかもしれません。人間の考え出したものは福音ではないので注意すべきです。心が動くことでもあれば、与えられた救いの喜びが奪われるでしょう。私たちの心を満たし喜ばせるのはキリストの福音だけです。

●人を造り変える神の力/私たちはキリストとともに死に、葬られ、キリストともによみがえらされたのです。すでに新しい人に造り変えられています。そのしるし割礼のように体に刻まれたのではなく、洗礼によって心に刻まれています。神の力がこれら全てのことをして下さいました。

●与えられた確かな救い/私たちの罪はキリストとともに十字架に釘付けにされました。あの時、罪赦され、もはや私たちを罪の故に責め立てるものはないのです。こうして与えられたキリストによる確かな救いを疑うことのないように…。この福音に何かを追加する教えに注意しましょう。

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◆2023/2/19(日) 礼拝『キリストにあって歩む 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 2:1-7/ 新約聖書

あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。  /コロサイ人への手紙 2:6-7

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自分のために誰かが熱心に祈り続けている、これは嬉しいことです。教会にあるこの交わりは宝です。

●パウロの祈りと励まし/パウロはまだ会ったことのないコロサイ教会やその周辺の教会を思い祈りの苦闘をしていました。教会が愛をもって結び合わ されるように、キリストを知る知識の理解をもって豊かな全き確信に達するように、神の奥義であるキリストを真に知る者となるように。

●教会を惑わす教えの罠/「まことしやかな議論」は人を惑わせて誤りに導く説得力のある言葉、まさに教えの罠です。異端の教えは教会の秩序を乱し、混乱させ、分裂させるのです。パウロはこのことを心配しましたが、教会には秩序と堅い信仰があったことを知り、喜んでいます。

●キリストにあって歩む/キリストの福音を信じた者はキリストにあって歩むべきです。キリストの中に根ざし、キリストにあって建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しましょう。福音を薄めたり、新しいものを追加したりするものに注意し、この信仰にとどまりましょう。

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◆2023/2/12(日) 礼拝『栄光に富んだ知識 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 1:26-29/ 新約聖書

神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 /コロサイ人への手紙 1:27

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パウロは「あなたがたのために受ける苦しみを喜」びましたが、その理由がここにもう一つ、あるのです。

●隠されていた奥義/奥義とは秘密、隠されているもののことです。旧約聖書では、神が選んだ者にはそれが明らかにされることはありました。しかし今、神はその奥義を私たちに現してくださいました。神による救いのご計画、パウロが人々に伝えているキリストの福音がそれなのです。

●栄光に富んだ知識/これは栄光に富んだ知識なのです。福音を信じる者の内にはキリストが共に住み、それは永遠に続くからです。この恵みはユダヤ人だけのものではなく、世界のすべての人に与えられるものです。この福音をあらゆる人に伝えることは、喜びそのものなのです。

●福音を伝える目標/すべての人をキリストにある成人として立たせることがパウロの目標でした。キリストにふさわしい歩みは何かを考え、判断しながら生きるようになってほしいのです。しかし、これを実現させのはキリストの力です。パウロがもがくように努力するのではないのです。

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◆2023/2/5(日) 礼拝『苦しみを伴う働き 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 1:24-25/ 新約聖書

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。/コロサイ人への手紙 1:24

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驚くほど便利な時代に生きる私たち。面倒なこと、苦労することは、もはや嫌われることかもしれません。

●苦しみを伴う働き/パウロが行う福音の宣教は苦労の多いものでした。死の危険さえ感じるほどで、そのレベルは想像を超えています(第2コリント112328)。福音には人々を救う神の力が満ちていますが、これを伝える者たちには、時代を超えて、今なお苦労が伴っています。

●困難を喜びとする/しかしパウロは「私はあなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」と語りました。それはこの困難が空しいものではなく、福音を聞いた人々が救いの恵みを受けたからです。宣教の実が結ばれるからこそ、今なお困難の多い宣教も喜びとなるのです。

●主と結びつく宣教/パウロは「私の身をもってキリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言います。イエスが宣教を教会に委ねたからですが、彼はこの苦しみにより自分は主と結びつくと受け止めたのです。私たちにとって宣教は主の十字架を担う働きと言えるでしょう。

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◆2023/1/29(日) 礼拝『信仰に踏みとどまる 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 1:21-23/ 新約聖書

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。  /コロサイ人への手紙 1:23

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新しいことを学ぶと自分は進歩したと思うでしょう。でも、忘れてはいけない大切なものがあるのです。

●神と和解した私たち/信仰を持つ前の私たちは、神を離れ、自分が思う正しさの中に生きていたのです。しかし、人となられた御子イエスが十字架で死なれたことで私たちの罪は赦され、神が私たちと和解して下さいました。御子イエスを離れて神と結びつくことなどできません。

●和解がもたらす恵み/罪のために神の敵であった私たちが神と和解した時、大きな変化が訪れました。聖く、傷なく、非難されるところのない者とされました。神にふさわしい者とされたのです。そして、神の御前に立つことのできる者となりました。和解がもたらした恵みに感謝します。

●信仰に踏みとどまる/偽りの教えに迷わされず、真の福音から外れないようにしましょう。この福音こそ世界中に伝えられたものです。そして、この福音を信じる信仰を土台とし、堅く踏みとどまりましょう。そうすれば、決して揺るがされることもなく、確かな希望に生きることができるのです。

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◆2023/1/22(日) 礼拝『神の御子キリストとは 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 1:13-20/ 新約聖書

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。 /コロサイ人への手紙 1:15-16

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イエス様をどのような方として信じているかは重要です。間違った教えが私たちを揺さぶるからです。

●光へと移す方/イエス様は私たちを暗闇から光へと招いて下さいました。私たちは今、罪赦されて神の愛の支配の中に移されています。暗闇とはさまようばかりの世界。しかし、私たちにはすでに確かな導きがあり、お守りがあり、いつも共におられる主の御手の中にあるのです。

●万物の造り主/イエス様も神に造られた者なのではないかと誤解されることがあります。イエス様は神であり、人間を含むすべて命あるもの、全ての世界、宇宙、見えるものも見えないものも、まさしく万物を造られた方です。今なお、イエス様が全てを治め、秩序を保っておられます。

●教会のかしら/イエス様が教会のかしらであることは知られているところです。教会は神の御心を生きるのです。この方が神として私たちのために和解を成し遂げ、救いをもたらして下さいました。私たちは、御子イエス様を、救いを与えてくださった神として信じ、告白するのです。

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◆2023/1/15(日) 礼拝『あなたのために絶えず祈る 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 1:9-12/ 新約聖書

また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。 /コロサイ人への手紙 1:10

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コロサイ教会の満足できる様子を聞いてもパウロが彼らのために祈る必要がなくなることはないのです。

●真の知識に満たされるように/この世の知恵は神の前では愚かだと言われています。大切なのは霊的な知恵。それは聖霊によって与えられるものです。この知恵が神にみこころに関する真の知識に満たしてくれるでしょう。これにより私たちは神を知り、神を信じ、神に従うのです。

●神を知る知識が増えるように/神を離れた生き方の先に実を結ぶ生活はありませんが、神にかなう歩みの先には幸いがあります。あらゆる点で神に喜ばれ、良い行いの実を結び、神を知る知識が増えるでしょう。コロサイ教会の良い姿を聞いてもパウロはこう祈っているのです。

●神の御力で強くされるように/私たちは本当にそこまでできるのでしょうか。力は私たちにはないのですが、神の御力が私たちを強くし、それを実現させて下さいます。忍耐と寛容が備えられ、光の中を歩み続けることができるのです。絶えずとりなし祈ることが互いに必要です。

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◆2023/1/8(日) 礼拝『あなたを思い感謝する 』

<聖書の言葉> コロサイ人への手紙 1:1-8/ 新約聖書

私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。 /コロサイ人への手紙 1:3

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コロサイ人への手紙は私たちが何につながっているべきなのかを改めて確認させてくれるでしょう。

●コロサイ教会/パウロの宣教によって信仰告白したエパフラスがこの教会の始まりです。彼はコロサイ出身です。パウロはこの手紙を牢にいる時に書きました。それは教会に偽りの教えが入り込んでいることをエパフラスから聞いたからです。教会を正しく導く必要があったのです。

●パウロの挨拶/パウロは自分を「使徒」と表現しました。神のみこころによって遣わされた者だからです。教会の人たちは「聖徒」と呼びました。神に聖別された者ということです。「兄弟」とも呼びました。主にある神の家族だからです。私たちは皆、主にあってつながっているのです。

●教会への感謝/教会の実情がどうであれ、パウロは彼らのために祈り、神に感謝していました。彼らのイエスへの信仰、愛の豊かさ、約束の希望に目を向ける姿があったからです。この福音は実を結び、広がり続けていました。私たちも互いを思い感謝の言葉を掛け合いましょう。

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◆2023/1/1(日) 新年礼拝『あらゆる時に主を賛美する 』

<聖書の言葉> 詩篇 34:1-10/ 旧約聖書

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。 /ヘブル人への手紙 13:15

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新年のご挨拶を申し上げます。愛と恵みを惜しむことのない主への賛美に目を向けたいと願います。

●主を賛美する/賛美歌を歌うことにはいくつかの意味があります。一つは信仰告白。神様がどのようなお方なのかを歌うのです。モーセやイエスの母マリヤたちは告白と共に神を賛美しました。次に祈り、そして感謝です。詩篇とは賛美歌であり、そこには祈りや感謝があふれています。

●あらゆる時に/ダビデは「私はあらゆる時に主をほめたたえる」と歌いました。彼は敵陣内に逃げる状況にあっても、不思議な神の知恵によって乗り切ってこう歌ったのです。パウロはピリピの町で牢獄に入れられる苦境の中で賛美し、十字架の前夜、イエスと弟子たちも賛美しました。

●賛美の捧げ物/十字架の贖いの故に動物の犠牲を必要としない私たちですが、「賛美のいけにえ」を捧げるよう勧められています。それは「くちびるの果実」と言われ、これをキリストを通して、絶えず捧げるのです。新しい年、主に対する賛美の捧げ物を日々捧げてまいりましょう。

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◆2022/12/25(日) クリスマス礼拝『光の訪れの約束を実現するために 』

<聖書の言葉> イザヤ書 9:1-7/ 旧約聖書

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。/イザヤ書 9:2

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救い主イエス様の降誕を喜び、神をほめたたえます。クリスマスの幸いが皆様の上にありますように。

●光の訪れに期待/イエス様誕生の約700年前、イスラエル人たちは苦しんでいました。その闇の中で人々は不安や恐れに包まれていたでしょう。私たちが苦悩を抱える時も同じです。出口の見えない中で期待するのは明るい兆しです。人々は光の訪れを待ち望んでいました。

●光の訪れの約束/神は預言者イザヤを通して光の訪れを約束して下さいました。光が来れば人々の重荷は取り除かれ、平和が来るのだと。その光がイエス様です。インマヌエルと呼ばれ、私たちとともにおられる方です。これを成し遂げるのは、熱心な神の愛のおかげです。

●光の訪れが実現/闇の中で輝く大きな光として救い主は確かに来られました。羊飼いたちは夜を照らす光とともにその知らせを受け取り、東方の博士たちは夜の星を通して知り、それぞれ救い主を礼拝しました。このイエス様を受け入れるなら、私たちは光の中を歩むのです。

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◆2022/12/18(日) アドベント(待降節)第4週『人間の生き方を示すために 』

<聖書の言葉> ペテロの手紙第一 2:18-25/ 新約聖書

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 /ペテロの手紙第一 2:21

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アドベントの中でイエス様の降誕の意味を振り返ってきました。もう一つのことを確認したいと思います。

●困難な時代と信仰者/「しもべたち」とは家庭用の奴隷のことです。信仰者の中にも奴隷の人が多くいたのです。彼らは苦しみや痛みを経験し、非人間的な扱いも受けたはずです。教会はその時代にあって奴隷制の廃止に動くのではなく、そこで如何に生きるのかを示しました。

●模範を残したイエス/こんな時はイエスに目を向けましょう。誕生の時の困難、生涯における数々の苦しみ…。しかしイエスは罪を犯さず、報復せず、全てを父なる神に委ね、ご自身は人への愛を極みまで表されました。私たちに生き方を示すためイエスは模範を残されたのです。

●イエスの足跡に従う/ですから私たちはイエスの足跡に従って生きるのです。置かれたところで積極的に善を行い、自分が経験している苦難を与えられたものとして受け留め、そして耐え忍びつつ目標を目ざして生きるのです。主は私たちを慈しみの御手で支えて下さいます。

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◆2022/12/11(日) アドベント(待降節)第3週『世の罪を取り除くために 』

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 1:29-36/ 新約聖書

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。   /ヨハネの福音書 1:29

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新聖歌99番「馬槽の中に」では「この人を見よ」との歌詞が繰り返されます。「この人」とは誰でしょうか。

●世の罪/聖書が語る「世」とは社会ではなくこの地の全ての人です。そして、私たち人間は全て罪人であると聖書は語ります。「私は不法なことは何もしていない」と言っても弁明できないのです。しかし、イエス様は全ての人を愛された方(ヨハネ316)、私たちの救い主なのです。

●神の小羊/毎朝毎晩、祭壇に小羊が犠牲として捧げられました。民の罪のためですが、これは不完全でした。しかし、イエス様ご自身が「神の小羊」として、愛と従順をもって犠牲となられました。私たち罪人の贖いの完成がここにあります。神の愛がその極みまで注がれたのです。

●見なさい/バプテスマのヨハネはイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証ししました。これこそ人々に伝えられるべきメッセージです。救いの道はただ一つですから。私たちはこの方によって救いを受けました。今、私たちも、「見なさい」と人々に向かって証ししましょう。

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◆2022/12/4(日) アドベント(待降節)第2週『すべては私たちのために 』

<聖書の言葉> ヘブル人への手紙 2:14-18/ 新約聖書

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。  /ヘブル人への手紙 2:17

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聖書で神は人に対して「恐れるな」と語ります。私たちにはいつも恐れがつきまとっているからでしょう。

●死の恐れを解放/死は私たちに恐れを抱かせ、不安にさせるでしょう。人となられたイエス様も死の苦しみを経験されました。けれどもそれは、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、私たちをその恐れから解放するためでした。イエス様は復活し、罪の力、死の力に対して勝利したのです。

●罪の赦しを実現/イエス様は大祭司となられました。旧約の時代の大祭司は動物の血をもって罪の贖いをしましたが、イエス様はご自身の命をもってそれを行いました。真の神であるイエス様は真の人として、父なる神と罪人の間に立ち、罪の赦しを実現してくださいました。

●人の弱さを理解/この地に住まわれたイエス様は私たちと同じ人間です。ですから、私たちと同じように弱さ、苦しみ、恐れも経験されました。つまり、私たちの胸の内を理解し、同じところに立つことができる方だということです。私たちを助けるためにイエス様は来てくださいました。 

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◆2022/11/27(日) アドベント(待降節)第1週『まことの神を明らかにするために 』

<聖書の言葉> ヨハネの福音書 1:1-18/ 新約聖書

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。  /ヨハネの福音書 1:18

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クリスマスを待ち望むアドベントが始まりました。すべての人に救い主誕生の喜びが届きますように。

●いまだかつて神を見た者はいない/神は人に語りかけるお方です。旧約聖書の人々は神のことばを聞きました。しかし、神が顔と顔とを合わせて語られたと言われるモーセでさえ、神を見ることはありませんでした。彼らは皆、神のことばを信じ、見えないけれども神を信じたのです。

●まことの神を明らかにするために/ことばが人としてこの地に来られました。イエス様の誕生です。「御子は見えない神のかたち」、「わたしを見た者は父を見た」と言われているように、イエス様が神を明らかにして下さいます。そして、イエス様を通して神の愛が見える形になりました。

●人々に神を見せていく日々の歩み/私たちが互いに愛し合う時、「神の愛が私たちのうちに全うされる」と言われています。つまり、人々は、見えない神を、神の愛をいただいた私たちの中に見出すのです。私たちの日常を通し、教会を通して、神を見せていく者となりましょう。

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◆2022/11/20(日) 『神を畏れる毎日』

<聖書の言葉> 箴言 31:20-31/ 旧約聖書

主を恐れることは知識の初めである。 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 /箴言 1:7

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箴言のテーマは「主を恐れることは知識の初め」。最後31章で、改めてこのことを思い巡らしましょう。

●真珠に優る女性/しっかりした女性の姿が描かれています。妻また母として、家族のためによく働くのです。その上、悩む人、貧しい他者のためにも働きます。未来に不安を抱かず、言葉にも性格の良さが現れる、よく磨かれた女性です。彼女は真珠よりも遥かに尊いのです。

●見習うべき姿勢/この女性のような生き方を真似ることは難しいとしても、そこに見習うべき姿勢を見い出すのです。それは人のために仕えることに熱心であること、身近な関係においても感謝のことばを掛け合えること、そして何よりも不可欠な事柄は、神を畏れる人であることです。

●神を畏れる毎日/神に拠り頼む者となりましょう。神を仰ぎ見、待ち望む、それが私たちの最善の生き方です。誠実に生きる者となりましょう。みことばに聞き、みことばに生きるのです。神に心を向ける者はいつも心満たされていることができます。神を畏れる毎日でありますように…。

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◆2022/11/13(日) 『敬虔に生きることを求めて』

<聖書の言葉> 箴言 30:1-14/ 旧約聖書

  神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。 箴言30:5

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「敬虔」とは神を信じて敬い、神への畏れをもって生きることです。ここに確かな歩みがあるのです。

●日々の生き方に気を配る(10-14)/自分を上にし、他の人を見下す傾向の人がいます。これは高慢な生き方であり、神は厳しく戒めています。他の人に対する思い、発する言葉や態度など、実際に自分がしている行動を見つめ直し、胸に手を当てて気を配ることが求められます。

●どんな境遇にも対応する(7-9)/貧し過ぎて盗みをするか、豊かな富に慣れて神を忘れるか、そのどちらも危険であると語られます。神は私たちの欲ではなく、必要を満たして下さる方です。神を信頼し、神によって心が満たされている時、どんな境遇にも対応できることでしょう。

●神のみことばに聞き従う(2-6)/神を知り尽くすことなどできません。私たちには限界があるのです。また、神のみことばは純粋で、私たちが何かを加えることなどありえません。ただ神の前にへりくだり、みことばをそのまま受け入れて聞き従うこと、それが敬虔で確かな歩みです。

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◆2022/11/6(日) 『みことばを守る者の幸い』

<聖書の言葉> 箴言 29:12-23/ 旧約聖書

  幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。 箴言29:18

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聖書が教えているのは幸いな歩みです(詩篇1191)。神が私たちをそこへと招いているのです。

●誠実に統治する者の幸い(1214)/指導者が自分に都合の良い言葉ばかりを求めれば、部下は機嫌を損ねないようにするでしょう。その実例が聖書にありますが、その結末は悲劇です(第2歴代誌18章)。誠実な統治こそが求められます。理想の姿はイエス様の内にあります。

●子どもを教える者の幸い(1517)/子育てで「しつけ」は大切です。良いことと悪いことを、神に従う道を教えなければなりません。叱るべき時に十分に叱らないと、後の日に悲しみが訪れるでしょう。聖書を基準として愛する子どもを教え、しつけることは幸いへの道なのです。

●みことばを守る者の幸い(18)/神のみことばから離れた生き方の先にあるのは罪と悲しみです。アダムとエバはその道を選び、他にも多くの実例が聖書にあります。しかし、みことばを守る者は幸いです。悲しみや試練の中でも、みことばは人に祝福と喜びをもたらすからです。

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◆2022/10/30(日) 『自分の生き方を見直す』

<聖書の言葉> 箴言 27:1-10/ 旧約聖書

  近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。/箴言27:10

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聖書に親しむ時、「知ること」以上に「生きること」が大切です。みことばを生活に当てはめていくのです。

●真実な愛の表し方(5-6)/愛は表現することで伝わります。「ひそかに愛する」ならば、それは伝わらない愛となるでしょう。愛するからこそ「責める」ということがあるわけですが、親が子に、友が友に忠告するのは真実な愛があればこそです。真実な愛の表し方を見直しましょう。

●日常生活の見直し(7)/人は一度、豊かさを味わうと貧しい時代に戻れないと言われます。世界に飢餓や貧困に苦しむ人が多数いる中で、食べられるものを捨てるのです。まだ使えるものも大胆に捨ててしまうのが私たちの世の中です。時々、日常生活を見直すことが大切です。

●身近な友の大切さ(9-10)/「遠い親戚より近くの他人」という言葉がありますが、いざというときに助けてくれる人は身近にいるということです。教会には神の家族の交わりがありますが、これはとても大きなつながりです。お互いがお互いのために大切な身近な友となりたいと思います。

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◆2022/10/23(日) 『自分の心を制する』

<聖書の言葉> 箴言 25:16-28/ 旧約聖書

  自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。/箴言25:28

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聖書の鋭い言葉に「痛いなあ」と思うことがあります。けれども、その痛みの先には幸いがあるのです。

●「もっと」を制する/食べ過ぎ、そして友人宅への訪問のし過ぎに注意するように勧められています(1617)。また、人からほめられることを求め過ぎないようにとも言われています(27節後半)。度を超さないことが知恵深い生き方ということです。過ぎればかえって失われるからです。

●「ことば」を制する/偽りの言葉は人を破壊する武器だと言われ(18)、陰口は人に悪影響をもたらし、人生を台無しにするかもしれないのです(23)。配慮が必要な人への思いやりを欠いた言葉も注意です(20)。言葉に関するみことばは多く、それだけ重要なことなのです。

●「こころ」を制する/敵に対して善を行うことについては(21、22節)、イエス様もパウロも語りました(マタイ5:44、ローマ12:20)。さばきは主に委ね、私たちは愛に生きるのです。争いより平和を選ぶのです(24節)。難しいことですが、心を制する(28節)ことが自分を守ることになるのです。 

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◆2022/10/16(日) 『他人を守る知恵』

<聖書の言葉> 箴言 23:10-18/ 旧約聖書

 昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑に入り込んではならない。彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ。 /箴言23:10-11

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自分の物と他人の物を区別し、注意することは大切です。これがいい加減になるとトラブルになるでしょう。

●他人を守る(10-11)/イスラエル人にとって土地は神から与えられたものです。その地境を守ることは重要です。力ずくで弱い者の土地の現状変更してはなりません。神が弱い者たちを保護されます。目に見えない地境ですが、誠実に正直に守ることが他人を守ることになるのです。

●正しく語る(15-16)/「知恵を愛する人は、その父を喜ばせ」(箴言293)るとあります。神の前にも人の前にも正しいことを語る者は両親の喜びです。子どもが素直に成長した姿がそこにあるからです。これは隣人にとっても喜びとなるでしょう。正しく語る姿は人々を守るのです。

●主を恐れる(17-18)/「主をいつも恐れていよ」と言われます。たとえ罪人が栄えても、身近な人が優って見えても、妬むことのないように注意が必要です。寝ても覚めても主を恐れて生きる者には未来があります。主が全てを知り、希望あふれる祝福を約束して下さっているからです。

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◆2022/10/09(日) 『心のきよさと愛に生きる』

<聖書の言葉> 箴言 22:1-16/ 旧約聖書

 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。 /箴言22:11

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社会で認められたいと願うかもしれませんが、神に認められ喜ばれることこそ、私たちの望みです。

●富にまさる名声(1)/名声とは良い評判のこと。これは財産に勝ると言われています。自分の内面に気を配り、みことばに養われることです。そうすれば人々から信頼される者となり、神の好意も得ることができるでしょう。この生き方は財産より価値があり、大切にするべきものです。

●報いを得る謙遜(4)/謙遜とは神に頼るしかないと知って生きる態度のことです。モーセはまさしく謙遜な人でした。苦しい時でも神に従いました。高慢で神の前に曲がった道を進む者に神の恵みはありませんが、謙遜で主を恐れる者に、神は報いを約束してくださっています。

●心のきよさと愛(11)/心のきよい者、人を愛し、思いやりのある者でありたいと思います。「王がその友となる」とは、王に喜ばれる者となったこと、最高の幸せを意味しています。イエス様が心のきよい者は神を見ると言われたように、この生き方は本当に素晴らしいものなのです。

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◆2022/10/02(日) 『救いは主による』

<聖書の言葉> 箴言 21:21-31/ 旧約聖書

馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。  /箴言21:31

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知識も経験も失敗も人生の知恵となります。しかし、真の知恵は神の前に敬虔に歩むところにあります。

●受けると与える(2526)/「なまけ者」は受けることに熱心で、欲望が満たされることを願う自己中心な者です。彼らに未来はないと…。しかし、神の前に「正しい人」は与える生き方を選ぶのです。欲望に支配されないので、誰かのために手を開き、愛のわざを行うことができるのです。

●ささげる者の心(27)/神からの利益を引き寄せようとする者からのささげ物を神は受け入れません。しかし、神への愛と献身をもってささげる者からのささげ物は神が受け入れてくださいます。礼拝、祈り、賛美、献金、奉仕などを、心から、愛をもって神に向けてささげたいものです。

●救いは主による(3031)/「馬」は人間の力を頼る姿を象徴しています。かつてイスラエルは、神よりも大国に救いを求めました。しかし、神に代わるものはないのですから、神の力にこそ信頼するべきなのです。何事も神抜きには成り立たないという信仰に立ちたいと思います。

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◆2022/09/25(日) 『誠実に歩む者の幸い』

<聖書の言葉> 箴言 19:1-11/ 旧約聖書

貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。 /箴言19:1

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人はいったい何を幸せと思っているのでしょう。なぜ同じような不正行為などが繰り返されるのでしょう。

●愚かな者の姿/曲がった、悪い手段で儲ける者は愚かな者であり、熱心なだけで神の知識もなくあせって行動する者も同じだと言われます。このような自分勝手な道の先にあるのは滅び…。そこで神に悔い改めるなら良いのですが、この責任は神にあると言う愚かさが加わるのです。

●冷たい世の中/財産や権力のあるところに人が群がるのは昔も今も同じでしょう。偽りの言葉やまやかしも社会に溢れています。その陰で貧しい者、寄るべのない者から友は遠ざかっていく…。これは冷たい世の中の現実です。貧しい者が受け入れられる社会を作りたいものです。

●誠実に歩む者/「貧しくても誠実に歩む者」であることが勧められています。罪を離れ、まっすぐに正直に生きるのです。これが神の国に生きる者としてふさわしい生き方であり、神がそれに報いて下さいます。自分を喜ばす道にではなく、神に喜ばれる道にこそ幸いがあると信じます。 

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◆2022/09/18(日) 『主の名は堅固なやぐら』

<聖書の言葉> 箴言 18:1-10/ 旧約聖書

主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。 /箴言18:10

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私たちがお互いのことを喜び、感謝し、思い起こしてはお祈りする交わり、これは教会の豊(ゆた)かさです。

●おのれを閉ざす者の姿(1-2節)/世の中、人との交流など必要ないと考える人もいるようです。面倒で、時間の無駄だなどと理由があるのでしょう。人は人との関わりの中で生きる者として造られていますが…。神ともつながらず、人ともつながらないなら、自己満足しかないようです。

●陰口はおいしい食べ物(8節)/おいしい食べ物は忘れられず「また食べたい」と思います。陰口はそれと同じだというのです。人を引きつけて離さないのです。しかし、そこには依存性だけではなく毒性もあるのです。私たちは人の徳を養う言葉、恵みを与える言葉を持ちたいものです。

●主の名は堅固なやぐら (10節)/神の御名には愛、救い、いやしなどがあります。神の御名は堅固なやぐらなので、そこで生きる私たちは揺るがされることなく安全なのです。財産や地位などは決してそれに代わることはできません。神の御名の下に生きる、ここが平安な居場所です。 

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◆2022/09/11(日) 『すばらしい天国』 ※召天者記念礼拝

<聖書の言葉> ヨハネの黙示録 21:10-22:5 / 新約聖書

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。  ヨハネの黙示録 21:23

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先に天に召された13名を偲びつつ、やがて私たちを迎えてくれる天国に思いを向けたいと思います。

●約束の国/天の故郷、神の国、パラダイス、天の御国、聖なる都、新しいエルサレム…、天国をイメージするみことばはいろいろあります。そこに私たちは希望を置き、先に天に召された者たちと再会できると信じ、今なお慰められています。天国は神が約束して下さったものです。

●栄光の国/天国は表現のしようがないほど神の栄光に富んでいます。あらゆる宝石で飾られています。神ご自身がそこにおられるので、神の光が満ち、私たちはいつも神とお会いできるのです。闇は消え、夜もなく、あるのは光だけです。神の平安がそこに住む人々を包むのです。

●生命の国/水晶のように光る「いのちの水」、実の絶えない「いのちの木」が天国に備えられています。罪のために人は死ぬ者となりましたが、天国にあるのは永遠のいのちです。しかも、そこで私たちは直接神の御顔を見ることができるのです。このすばらしい天国を待ち望みましょう。      

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◆2022/09/04(日) 『人の歩みを確かにする神』

<聖書の言葉> 箴 言 16:1-9 / 旧約聖書

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。 箴言 16:9

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知識、経験、情熱などを頼りに動く世の中ですが、私たちはいつも神を信頼して歩みたいと思います。

●主に喜ばれる歩みと和解(7節)/私たちは自分の歩みが主に喜ばれるものでありたいと祈りながら暮らしていますが、この道を歩む人を主は敵と和解させてくださるというのです。聖書にはその実例があります(創世記26:26-31)。私たちはこの道を信じて歩みたいと思います。

●おごり高ぶる歩みの危険(5節)/自分の人生は自分のもの、私は私のやり方で生きていく、神の助けなど私にはいらないという生き方、それが心おごる者の姿です。高ぶりは優越感を生み、人を見下すことにつながるでしょう。神はこの歩みの危険を私たちに知らせているのです。

●人の歩みを確かにする神(1、3、9節)/私たちは計画を立てますが、最終的に責任をもって導いてくださるのは神です。人生における神の主権を受け入れてまいりましょう。「私が」から「神が」へ。だからこそ神にゆだねるのです。神は私たちの重荷をも担ってくださる方です。      

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◆2022/08/28(日) 『穏やかな心は、からだのいのち』

<聖書の言葉> 箴 言 14:26-35 / 旧約聖書

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。箴言 14:30

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箴言が現代社会にも有効であることを実感します。時代が大きく変わって同じ人間社会だからでしょう。

●民の数と王の栄え/民を国のために利用するのは誤りです。民が大切にされるから民も増える、それが王たち指導者の栄えとなるのです。また、国を高めるのは領土、資源、軍備ではなく正義。罪によってむしろ民は辱められるのです。正義を追い求める国であるべきなのです。

●穏やかな心と健康/短気な人は注意が必要です。激しい思い、妬みには警戒すべきです。それは自分のからだに害となるからです。しかし、怒りを遅くし、穏やかな心でいることは健康な生き方です。神の前に自分を点検し、自分を祈り委ね、穏やかに生きる者でありたいものです。

●貧しい者への配慮/神の目は貧しい者たちに注がれています。神は彼らへの愛の配慮を求めています。つまり、これは神の御心なのです。どのような状況にいる人をも神は愛しているのです。これを実行することは神を敬う行為です。神はこのように生きる者に報いて下さいます。      

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◆2022/08/21(日) 『親切なことばは人を喜ばす』

<聖書の言葉> 箴 言 12:15-25 / 旧約聖書

心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。箴言 12:25

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言葉は誰のためにあるのだろうか、と思い巡らしています。神は私たちにことばを与えて下さいました。

●知恵ある者はそれでも黙る(16節)/感情的になって怒り出す人の言葉はまるで剣のようです。しかし、知恵ある者は自分の感情を制御して黙る、あるいは柔らかい言葉(箴言15:1)を使います。これは自制心についてのことです。神に委ねて祈れる人はこのように歩めることでしょう。

●正しい者は災いに会わない(21節)/疑問を感じる人がいても不思議ではない言葉です。思わぬ災害、悲劇はいろいろな人に訪れるからです。これは表面的なことでなく究極的な道のことです。神を信頼して生きる者たちを神ご自身が守り、祝福の中に招いて下さる約束なのです。

●親切なことばは人を喜ばす(25節)/痛みを抱え、傷つき、弱さを覚えている人は優しい言葉かけを求めています。親切な言葉は人をいやし、笑顔にし、生きる力とさえなるでしょう。自分の言葉が誰かの益になるなら幸いです。人を励まし、支える言葉を持ちたいと思います。     

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◆2022/08/14(日) 『神に愛されている一人一人』

<聖書の言葉> ダニエル書 10:18-19 / 旧約聖書

「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」/ダニエル書 10:19

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8月の第2日曜日は聖書から平和について思い巡らす時にしています。一人一人の命を大切にして、そして平和をつくる者でありたいと思います。

●人の価値を割引く戦争/戦争では人の価値が簡単に引き下げられてしまいます。また、不安が増す中で防衛力強化が叫ばれていますが、これには終わりがなく、悪循環です。自分の国を守るためなら法に違反してもいい、手段より結果だと…。犠牲になるのはいつも人なのですが…。

●一人一人を愛される神/神はダニエルに「神に愛されている人よ」と呼びかけました。神は私たちにも同じ声をかけて下さいます。神は出身地、肌の色、置かれている環境などにもよらず一人一人を愛されます。個人として尊ばれるのです。日本の憲法はこれを明記しています。

●お互いを愛し尊ぶ者へ/今、世界に必要なのは武力ではなく、お互いを愛し、お互いを尊ぶ生き方を選ぶ固い意思です。人の価値を決めるのは神です。神が一人一人を愛し、御子さえも与えて下さったのです。私たちがお互いに愛し合うこと、この神の御心に生きてまいりましょう。

※情報:短編アニメ「戦争のつくりかた」

https://www.youtube.com/watch?v=cUGu73hnjdY     

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◆2022/08/7(日) 『正しい者の口はいのちの泉』

<聖書の言葉> 箴 言 10:11-22 / 旧約聖書

正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す。箴言 10:11

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箴言で気になったことばを生活に当てはめ、ゆっくり考えてみましょう。これは一つの味わい方です。

●いのちの泉が流れる口/乾いた地を潤し、木を育て、花を咲かせ、生き物を育む、それが「いのちの泉」。それは人の心の渇きをもいやします。「正しい者の口」がそれだと言われています。神を恐れ、神を信じ、神のことばに養われている人の言葉は人をも幸せにするのです。

●そむきの罪をおおう愛/他人を責め立て、あるいは報復することが昔も今も繰り返されています。憎しみのあるところに争いは絶えません。しかし、愛はそむきの罪をおおうのです。愛は人を悔い改めに導き、罪を赦し、傷んだ心をいやすのです。イエス様はそれを実践されました。

●自分の唇を制する思慮/たくさんの事を次々と話せる人は間違ったことを言ってしまうこともあるかもしれません。よく考えて話す、愛を持って語ることは大切です。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」(第1コリント8:1)、「聞くには早く、語るには遅く」(ヤコブ1:19)とも言われます。いのちの泉が流れる口を持つ者となれるように祈りましょう。    

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◆2022/07/31(日) 『そのみわざの初めから』

<聖書の言葉> 箴 言 8:22-31 / 旧約聖書

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。箴言 8:22-23

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私たちにとって大切なイエス様を、新約聖書からだけでなく旧約聖書からも知ることができるのです。

●知恵とイエス様/箴言8章22‐31節では「知恵」が「わたし」と書かれています。知恵をまるで人間のように表現しているのです。実はこれはイエス様を指し示しています(コロサイ1:15-17)。この方はそのみわざの初めから、全てのものが創造される前からおられる神ご自身なのです。

●救い主と創造主/私たちはイエス様を救い主、愛と赦しと憐みに満ち、また、良い羊飼いだとイメージしています。実際、それだけではないのです。この天地万物を創造し、私たち人間も造り治めておられます。そして「人の子らを喜んだ」と私たちの存在を受け入れて下さいます。

●神の知恵と共に/私たちの住むこの世界は神の知恵と共にあるのです。その歴史も、私たち一人一人の命も人生も、全てが神の知恵と共にあるのです。神の知恵が始まりであり、基礎だからです。この偉大な方に拠り頼み、日々仰ぎ見て生きること、それが私たちの人生です。   

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◆2022/07/24(日) 『体のすべてを使って』

<聖書の言葉> 箴 言 4:20-27 / 旧約聖書

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。箴言 4:23

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うそが明らかになり大きな損失となった人がいます。私たちは目、口、足、心を見張る必要があります。

●日々襲って来る誘い/不安や恐怖心がうそとなり、自分の利益のためなら偽るのです。目で悪い道に誘われ、足が思わぬ方向に向いてしまうこともあるでしょう。心に満ちていることを口が話し、口から出て来るものが人を汚します。私たちを日々襲う誘いが世に溢れているのです。

●体のすべてを使って/悪いことに誘われる一方で、同じ体が良いことをすることもできるのです。だからこそ私たちは何が良いことなのかを見分け、自分を見張る必要があるのです。体のすべてを使って神に向かい、右にも左にもそれず、まっすぐの確かな道を進んで行きましょう。

●いのちの泉めざして/その先にあるものは「いのちの泉」です。悪い道に引きずられたり、揺さぶられたりしないよう心を見守りつつ、目標を見失わないようにしましょう。みことばを蓄え、神から目を離さず、ダメな道には境界線を引きつつ、私たちはいのちの道を生きるのです。   

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◆2022/07/17(日) 『新しい出発のために』 ~小山宣教30周年・教会設立20周年 記念礼拝②~

<聖書の言葉> ヨハネの黙示録 2:1-7 / 新約聖書

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。ヨハネの黙示録 2:4-5

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私たちの新しい出発です。一つの教会の姿に目を留め、私たちのあるべき姿を考えましょう。

●教会の称えるべき姿/イエスがエペソ教会を称えています。彼らの労苦と忍耐を見たからです。教会は偽教師による間違った福音を見抜いて退け、異端の教えにもだまされることなく耐え忍んだのです。このような正しい福音に生きる教会の歩みをイエスは知っておられるのです。

●教会の改めるべき姿/イエスは「初めの愛から離れた」と教会を非難しました。それは神への愛またお互いの間の愛のことでしょう。偽りの教えを警戒するあまり批判的になったのかもしれません。教会が愛を捨てたら何が残るのでしょう。悔い改めて原点に戻ることです。

●教会の向かうべき姿/教会は初めの愛に生きるのです。大切なことから離れているとわかったら悔い改めるのです。神が赦して下さいます。そうすれば教会から神の光が失われることはありません。10年後も神に喜ばれる教会であり続けられるよう信仰に堅く立って歩みましょう。  

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◆2022/07/10(日) 『神が始めた働き』 ~小山宣教30周年・教会設立20周年 記念礼拝①~

<聖書の言葉> 使徒の働き 16:6-15 / 新約聖書

パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。使徒の働き 16:10

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1992年4月から30年間。私たちには困難に見えることもありましたが、主の真実は変わりませんでした。

●神が始めた働き/パウロの伝道旅行の計画が聖霊によって閉ざされましたが、それは別な道に進むための導きでした。小山宣教も当初は茨城県のつくば・土浦が視野に進めていたのが変更になったのです。人の思い、人の計画があっても、神がこの地で働きを始めたのです。

●神が見せる恵み/順風満帆とはとても言えない教会の歩み…。紆余曲折があり、危機があり、30年が経ちました。人々に神の福音が語られ、信仰を告白し、洗礼を受ける人が起こされ、福音を必要とする人との関わりは増えています。神は数々の恵みを私たちに見せて下さいます。

●神が牧する群れ/福音を宣べさせるために神が私たちを遣わします。そうして神の教会が建て上げられていくのです。教会を牧するのは神ご自身。私たちをみことばで養い、声を聞き分け、私たちのために最善を行って下さいます。ですから教会にはいつも平安があるのです。 

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◆2022/07/03(日) 『あなたの隣人のために』

<聖書の言葉> 箴 言 3:27-35 / 旧約聖書

あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。箴言 3:17

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他の人との向き合い方はいつも私たちの課題かもしれません。聖書から知恵を得て歩みましょう。

●善行に歩む生活/そこに手を伸ばすべき人がいる時、もし私たちに援助する力があるなら、隣人のために行動するべきです。拒まないように…。それは国と国との関係においても同様で、教会が社会に向けて行動することも期待されているでしょう。(参考:ガラテヤ人への手紙 6:10、マタイの福音書 7:12)

●平和を保つ生活/隣人に対する妬みやうらやましく思う心が悪を生み出すことが多くあります。この誘惑は要注意です。目先の利益のために悪い仲間に加わらないように…。私たちは隣人に対して善を行ない、平和を保つことに心を向けましょう。(参考:ローマ人への手紙 12:18、箴言 24:1)

●へりくだる生活/神が嫌う歩みは高慢な生き方、偽り、欺き、争いなどです。この生き方が隣人に益をもたらすこともありません。神に祝福される道を選びましょう。それは神の前にへりくだることです。神への恐れ、信頼があってこそ成り立つものです。(参考:ヤコブの手紙 4:16、ペテロの手紙第一 5:5) 

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◆2022/06/26(日) 『危機の中で見つけた希望』 ~特別礼拝④~

<聖書の言葉> 使徒の働き 16:19-34 / 新約聖書

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」/使徒の働き 16:31 

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良い事をしたはずなのに、悪い結果が自分に降りかかってくると、心が折れそうになるかもしれません。

●光を見失わない人の信仰/不当な逮捕、むち打ち、拘留となったパウロとシラス。危機的状況の中でも二人は神を呪ったり信仰が折れることもありませんでした。彼らから光を奪うことはできないです。暗闇の牢の中でも祈り、賛美する姿の中に、主を仰ぎ見る信仰が見えてきます。

●危機の中で見つけた希望/真夜中の大地震は看守を危機に陥れました。牢が開いたからです。囚人が逃げればその責任を問われる…。誰も逃げていないことを知りホッとしたでしょうが、看守は命の危機を経験する中で神の救いを求めました。神の福音に希望があるのです。

●人に救いを届ける神の愛/パウロとシラスが牢に拘留されたのは、この看守と家族に救いを届けるためだったのでしょう。神が二人を遣わしたのです。誰の目にも辛い出来事で、危機的だったかもしれませんが、神はそこで人に救いを届けたのです。神の愛がここに溢れています。 

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◆2022/06/19(日) 『信じてくれる人がいた!』 ~特別礼拝③~

<聖書の言葉> 使徒の働き 9:26-31 / 新約聖書

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。/エペソ人への手紙 1:5

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人にだまされた話をよく耳にします。ですから様々な場面で警戒してしまうことも多いかもしれません。

●人間の警戒心/誰も予想しなかった危険な迫害者サウロがクリスチャンになりました。その後、彼は教会に加わることを願いましたが、教会は警戒しました。当然の反応です。警戒心が働くことで身を守ることができます。しかし一方で、不信がずっと続くなら、それは寂しいことです。

●教会の包容力/教会のバルナバがサウロを引き受けました。まっ先に彼を信用したのです。それは、彼がイエスに出会ったこととその後の活動が彼の信仰を確信させたのです。過去がどうであれ、好みにもよらず、神が受け入れた人を受け入れる、それが教会の包容力なのです。

●信じ合う関係/信じてくれる人がいることは幸いです。教会にはどんな人とも信じ合える豊かさがあるのです。これは神の豊かさです。どんなに罪深い者でも、迫害者や犯罪者であっても、神は悔い改めて信じる者を受け入れるからです。この神の愛に応えて信仰を告白しましょう。 

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◆2022/06/12(日) 『まさか  と  まさか』 ~特別礼拝②~

<聖書の言葉> 使徒の働き 9:1-20 / 新約聖書

しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。/テモテへの手紙第一 1:16 

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世の中、予期しないこと、絶対にありえないことが起こるものです。それが喜びの出来事なら幸いです。

●危険人物サウロ/教会の全滅がサウロの願いでした。彼は迫害する者です(使徒22:3—5、26:9-11、ガラテヤ1:13-14参照)。神に対する熱心さから来る行動だったのでしょうが、彼はイエスへの誤解と偏見に満ちていました。教会にとって彼ほど危険な人物はいませんでした。

●衝撃的な出会い/しかしサウロは旅の途中、復活したイエスと出会ってしまいました。まさか、本当にイエスは生きている…。これほど衝撃的な出会いはなかったでしょう。一度、目が見えなくなったことでサウロは、今まで見えていなかったことを見ることができるように変えられました。

●まさかとまさか/諺の「目からうろこ」はここから来ています。誤解と偏見は取り去られ、心の目は見えるようになり、サウロはイエスを信じたのです。弟子のアナニヤも「まさか」の経験をしましたが、計り知れない神の愛とあわれみを知ることになりました。どんな人でも救われるのです。 

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◆2022/06/05(日) 『人は新しくなれる』 ~特別礼拝①(ペンテコステ)~

<聖書の言葉> 使徒の働き 4:1-12 / 新約聖書

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。/コリント人への手紙第二 5:17 

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人生経験を積むと人柄が変わることがありますが、人を新しくする神の力を知ってほしいと思います。

●人を恐れる者だったが/イエスの弟子ペテロは積極的な人でしたが、一方で気が小さく、立派で勇敢な意思を持っていても実行できない弱さがありました。ペテロは人を恐れるあまり大失敗し、泣き崩れたほどです。私たちも決して他人事ではありません。共通するところがあるでしょう。

●聖霊が人を新しくする/イエスの復活を信じそして約束の聖霊が与えられた時、ペテロは変わりました。人を恐れる者から神を恐れる者、神を信頼する者になりました。ペテロたちの宣教を中止させようとする強い力が働きましたが、世の力は彼を止めることなどできませんでした。

●私たちも新しくなれる/目の前で権力者がペテロに圧力をかけても、話を聞いた人たちはイエスを救い主と信じました。みことばが彼らを捉えたからです。人が新しくなるのは努力の結果や環境の変化、人生経験ではなく、神のわざです。私たちも新しく造り変えられるのです。 

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◆2022/05/29(日) 『神を信頼する』

<聖書の言葉> 箴 言 3:1-12 / 旧約聖書

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。/箴言 3:5-6 

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暮らし、仕事、趣味、お出かけの時など、生活時間の中で神を思う時間はどの位あるものでしょうか。

●いのちと平安/神のことばに従って生きる者に長命が約束されています。それは祝福された「いのち」ということなのでしょう。しかし、辛い事ばかりの日々では耐え難いでしょう。そこに「平安」が増し加えられると約束されています。皆さんの日常に神の平安が伴っているでしょうか。

●恵みとまこと/「恵み」と「まこと」は神に属する性質ですが、私たちは神に倣い同じように行動することが期待されています。神の前にも人の前にもこれを持ち続けましょう。これは車の両輪と同じです。このバランスが崩れてはいないか、時々、自分を振り返ることも必要だと思います。

●拠り頼む幸い/いろいろな場面で力み過ぎて失敗するということがあります。神の前にはむしろ、力を抜くことが重要です。自分の考えにこだわらないで神を信頼し、お任せしましょう。そして、どこにいても、何をする時でも、神を思い、祈って委ねましょう。そこに幸いがあります。  

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◆2022/05/22(日) 『知恵を求めるなら』

<聖書の言葉> 箴 言 2:1-22 / 旧約聖書

だから、あなたは良い人々の道に歩み、正しい人々の道を守るがよい。正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。/箴言 2:20-21 

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神は幸せのためにみことばを与えて下さいました。私たちはまっすぐにこの道を進みたいと願います。

●知恵を求めるなら/神のみことばを受け入れること、蓄えることが勧められています。日々聖書に親しみ、繰り返しみことばに触れて考え、心の内に残していきたいと思います。これに取り組むためには熱心さも必要となるでしょう。これが知恵を求める方法であると語られています。

●神が知恵を与える/神の知恵を熱心に求める者に、神が知恵を与えて下さいます。そうして神は私たちを守って下さいます。正しい生活に導かれ、悪者からのさまざまな誘いや影響から守られ、滅びにつながる罪への誘惑からも守られるのです。神の知恵を捨ててはなりません。

●良い人の道に歩む/神を恐れ、神の知恵が与えられ、神のみことばに聞き従う者は「良い人々」「正しい人々」「正直な人」「潔白な人」と語られています。神は私たちに幸せの道を示して下さっています。人間の知恵によってではなく、神が与えて下さる知恵をもって歩みましょう。 

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◆2022/05/15(日) 『神からの呼びかけ』

<聖書の言葉> 箴 言 1:20-33 / 旧約聖書

しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。/箴 言 1:33 

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自然界から知恵を得て進歩してきた私たちですが、他に聞くべき声があることに気づいているでしょうか。

●神からの呼びかけ/神は私たちに呼びかけて下さいます。流されやすく、高慢で、鈍い状態にいるからです。「わたしの叱責に心を留めるなら」(23節)という呼びかけは悔い改めへの招きです。間違った道、罪の中にいるからさあ立ち返れと神は愛をもって呼びかけているのです。

●耳を傾けない人々/しかし旧約聖書には、神を捨てて偶像礼拝に陥ったこと、助けを外国に求めたことが記録されています。イスラエル人は神の呼びかけを拒んだのです。そして、御子イエス様さえ拒みました。神を恐れない者は神のことばに耳を傾けない、これが現実です。

●聞き従う者の安心/けれども、神に聞き従う者には安心が約束されています。困難のただ中において、平安が与えられます。神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。神は今、私たちに呼びかけておられます。へりくだって、聞くべき神のことばに耳を傾けましょう。 

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◆2022/05/08(日) 『父と母からの教え』

<聖書の言葉> 箴 言 1:8-19 / 旧約聖書

わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。/箴言 1:8 

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子どもを育てるのは簡単ではありません。何とかして正しい道に歩む者となることが親の願いでしょう。

●イスラエルの教育/神の民イスラエルでは律法を教えることが重要でした。子どもたちは律法を学び、その意味を理解し、そしてそれに従うように育てられるのです。両親、特に父親は、教育において責任がありました。十戒や祈りを教え、神の救いの歴史を繰り返し教えたのです。

●父と母からの教え/十戒に「あなたの父と母を敬え」とあるように、父と母の両方からの教えが大切です。箴言では母親への愛と尊敬を何度も語っています(6:20、10:1、15:20、19:26、23:22、25)。両親がそれぞれの役割を果たし、責任をもって子どもを教え、育てたのです。

●共に神に従う歩み/親は子どもの将来をいろいろ思い描くでしょうが、何者かになることよりもむしろ、まず神の救いを受け取り、そして神の前に誠実に生きる者となるよう育てることが重要です。それは言葉よりも行いで見せていくべきです。その生きる姿から子どもは学ぶからです。 

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◆2022/05/01(日) 『知識の初め』

<聖書の言葉> 箴 言 1:1-7 / 旧約聖書

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。箴言 1:7

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知識を手に入れる方法はいくらでもあるでしょう。では、知恵を得るにはどうすればよいのでしょうか。

●知恵の言葉/ソロモンの作品である箴言。これは金言、格言、人生の手本とすべき知恵の言葉のことで、人生に適用してこそ意味のあるものです。人の知恵は能力、賢さ、優れた技術などの中に見出せるでしょうが、神の知恵は無限です。では私たちが求める知恵とは何でしょうか。

●知恵と訓戒/王となったソロモンは神に知恵を求めました。与えられた知恵により国を治め、また三千の箴言を語ったと言われます。しかし、欲に流されて外国からたくさんの妻を迎え、そこから偶像礼拝が入り、家庭も壊れ、やがて国は大変な道へ。彼に何が足りなかったのでしょう。

●知識の初め/7節は箴言のテーマそのものです。「主を恐れる」とは、全ての権威を持つ神の前にへりくだり、自分は神に造られた者として神に聞き従うことです。これは人生の基礎なのです。いつもここから始め、ここに立ち、時に自分の人生を正すのです。ここに知恵があるのです。 

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◆2022/04/24(日) 『イエスの偉大なことば』

<聖書の言葉> マタイの福音書 28:11-20 / 新約聖書

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。マタイの福音書 28:19-20

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復活したイエスは、弟子たちに言葉を残しました。それは現代の私たちも聞くべき大切な言葉です。

●復活のイエスの権威/イエスにはいっさいの権威が与えられています。権威をもって人を教え、罪を赦し、あらゆる病気をいやされました。イエスの言葉には力があり、全てその通りになるからです。イエスは私たちのために低くなられ、罪の滅びから私たちを救い出して下さいました。

●復活のイエスの命令/かつて弟子たちをイスラエル人のところに派遣したイエスは今、あらゆる国の人々に福音を語るように命じられました。イエスの救いは全世界の人々のためだからです。また、イエスの言葉を教えるようにとも命じています。宣教と教育、これが教会の使命です。

●復活のイエスの約束/その誕生の時に「インマヌエル」と呼ばれたイエスは、偉大な約束をして下さいました。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と。命じられた責任を果たすのに、弟子たちも私たちも力不足です。ただイエスが共にいる、これが力です。 

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◆2022/04/17(日) 『生きておられるイエス』 ~イースター(キリストの復活祭)~

<聖書の言葉> マタイの福音書 28:1-10 / 新約聖書

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。/コリント人への手紙第一 15:20-21

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私たちの救い主イエス様はよみがえられました。このイースターの喜びが皆様の上にありますように。

●石はころがされた/墓は大きな石で閉じられ、封印され、番兵が監視し、誰も手出しできない中で石はころがされました。これはイエスが墓を出るためではなく、弟子たちが空の墓を見てイエスの復活を信じるための神のわざです。心を塞いでいた悲しみも神はころがしてくださるのです。

●思い出すべき言葉/御使いは女性たちに「前から言っておられたように」と語りました。指導者たちはイエスを「人をだます男」と言いましたが、イエスの言葉はその通りになったのです。今こそみことばを思い出すべきです。復活は事実であり、みことばは必ずその通りになるからです。

●希望を与える復活/死は罪への刑罰として人間の世界に入りました。今や、死がイエスの復活によって力を失ったのです。これによりイエスと同じように新しい命に生きる希望が私たちに与えられました。私たちの罪のために十字架で死なれたイエスは、確かに生きておられます。 

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◆2022/04/10(日) 『葬りに立ち会う』 ~キリストの受難週~

<聖書の言葉> マタイの福音書 27:57-66 / 新約聖書

ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布で包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた/マタイの福音書 27:59-61 

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人の葬りはいつも厳粛です。しかし、十字架で死なれたイエスの葬りには特別な要素がありました。

●葬りに立ち会う/宗教指導者の側にいるはずのヨセフが、あらゆる恐れを乗り越えてイエスの体の下げ渡しを願い、葬りに力を尽くしました。思い切って信仰を表明したのです。彼の信仰の足跡はこの一度限り。しかし、彼はこの葬りにおいてイエスに仕えた奉仕者でした。

●葬りと募る不安/死んで3日の後によみがえるというイエスの言葉を指導者たちは覚えていました。彼らは不安を募らせ、思わぬ事態を起こさせないために、墓をふさいでいる石に封印し、番兵もつけてもらいました。たとえ安息日であっても、彼らは必死に対策に飛び回ったのです。

●葬りが示す事実/これらの出来事から、イエスが死なれたこと、そして葬られたことが確かな事実であることを知ることができます。女性の弟子たちは死を目撃し、葬りも目撃しました。誰も手を出せない形で墓が監視された時、3日目の朝の驚くべき出来事が神のわざと知るのです。 

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◆2022/04/03(日) 『どうしてわたしを・・・』

<聖書の言葉> マタイの福音書 27:45-56 / 新約聖書

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイの福音書 27:46

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十字架。たとえ形は美しくとも元は恐ろしい刑罰の道具。しかし、それが愛のシンボルとなったのです。

●どうしてわたしを…/人類の最初の罪に始まり、罪はさばかれるべきものです。罪がもたらすものは死…。イエスは十字架の上で「どうしてわたしを…」と叫びました。これはイエスが罪人として神に捨てられた者となったことを意味しています。これがイエスにとって最も苦しいことでした。

●真っ二つに裂けた幕/イエスは息を引き取られました。この時、神殿の幕が真っ二つに裂けたのです。神と人とを隔てる最も神聖な幕が取り除かれました。イエスの十字架の血を通して私たちは神に近づくことができるようになったのです。神の愛がこの贖いを完成させたのです。

●真に神の子であった/大勢のユダヤ人がイエスを拒否したのに、全ての出来事を目撃していた百人隊長がイエスを信じました。救いが外国人にも広がることが明らかになったのです。さまざまな人と人とを隔てる壁が取り除かれ、神の救いは全ての人に及ぶものとなったのです。 

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◆2022/03/27(日) 『ゴルゴタへの道』

<聖書の言葉> マタイの福音書 27:27-44 / 新約聖書

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。ペテロの手紙第一 2:23-24

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イエスが十字架を背負い歩まれた道、ヴィア・ドロロサ(苦しみの道)。そしてゴルゴタに到着するのです。

●兵士によるからかい/兵士たちはイエスをからかいました。「ユダヤ人の王」が罪名だからです。彼らにはイエスへの憎しみも妬みもありませんが、単に無知だったのです。苦しみを和らげるものを飲ませようとするあわれみはありましたが、イエスはすべての苦しみを受ける覚悟でした。

●人々によるののしり/ユダヤ人たちは兵士とは違います。彼らはイエスを知りながら反対し、明らかに憎んでいたのです。道を行く人、祭司長たち、そして同じ時に十字架に付けられた人も口汚くののしり、イエスに奇蹟を要求しました。「十字架から降りろ。そうしたら、信じるから…」 と。

●愛による苦しみの道/イエスはすべてを耐え忍ばれました。肉体的にも精神的にも極限まで苦しめられ、誘惑の言葉を聞かされても、十字架に留まったのです。私たち罪人を愛する真実の愛、これこそがイエスなのです。イエスの満ちあふれる愛が十字架の上で示されているのです。 

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◆2022/03/20(日) 『私には責任がない』

<聖書の言葉> マタイの福音書 27:11-26 / 新約聖書

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。イザヤ書 53:7

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神は私たち罪人を救う計画を進められます。しかしその陰で人間の罪深さが色濃く表れています。

●ピラトの敗北/総督ピラトは苦闘しながらも敗北して行きました。どんなに不利な証言を前にしてもイエスが何も語らないのです。イエスを釈放してユダヤ人に恩を売ろうと提案しても失敗し、暴動の危険を感じたので、自分の立場を守るためにイエスに十字架刑を言い渡したのです。

●指導者の敗北/イエスを訴えたユダヤ人の指導者も敗北の道を進みました。ピラトが簡単に手続きしてくれると想定したのにも関わらず裁判が始まり、政治的な罪を告発する必要に迫られて偽りの証言をし、恵みの神が預言した救い主を自ら拒んで神に逆らう罪を犯したのです。

●私たちの責任/私たちはピラトに対しても指導者に対しても傍観者でいることはできません。彼らを責めることもできないのです。彼らも罪人、私たちも罪人なのです。しかし、イエスは私たちを救うために真実を語り、十字架に向かい、黙ってその道を受け入れて下さったのです。 

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◆2022/03/13(日) 『二人の悲しみ』

<聖書の言葉> マタイの福音書 26:69-27:10 / 新約聖書

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。/コリント人への手紙第二 7:10 

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聖書は失敗者を隠さず明らかにし、失敗しても失格者になるわけではないことを私たちに教えています。

●ペテロの涙と悔改め/弟子ペテロのイエス様への愛は確かでした。逮捕されたイエス様の近くにやって来たのです。イエス様の弟子と気づかれてもそこを出ては行きませんでした。しかし、結局、イエス様を三度も否認し、涙を流すことに。でも、心はイエス様に向いていたのです。

●ユダの悲しみと後悔/弟子ユダはイエス様に失望し、逮捕の手引をしました。しかし、裁判でイエス様に死刑が確定すると、自分の過ちに気づき、受け取ったお金を指導者に返しに行きました。しかし、イエス様に心を向けなかったのです。彼も悲しみましたが、後悔しただけでした。

●御心に添った悲しみ/二人の悲しみには違いがありました。ペテロはユダと違って悔改めたのです。後悔は自分を責めるだけですが、悔改めは神に向かっているので赦され、救いがあるのです。これが神の御心に添った悲しみです。ですから、失敗しても失格者とはならないのです。 

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◆2022/03/06(日) 『あなたの言うとおりです』

<聖書の言葉> マタイの福音書 26:36-56 / 新約聖書

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」マタイの福音書 26:64 

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一度動き出したら止められない指導者の姿…。イエス様の裁判でもよく似た悲しい姿がありました。

●議会は偽証を求めていた/公正であるべき裁判。しかし、ユダヤ人指導者たちはイエス様の裁判においてはルールを破り、不正な裁判が平然と行われていったのです。偽証をすれば重罪でしたが、それさえも求める異常な裁判。罪深い人間の愚かさが浮き彫りになっています。

●あなたはキリストなのか/彼らが求めていたのは死刑にするための証拠。しかし、偽証を求めてもそこにたどり着けないのです。イエス様は何も反論しません。ゲツセマネの祈りでこの道を受け入れていたからです。「あなたはキリストなのか」と問う以外、大祭司には手はなかったのです。

●あなたの言うとおりです/その問いかけに口を開き、イエス様は真実を語りました。ついに彼らの目的は達せられました。罪のない者を罪に定めるほど大きな罪はありませんが、イエス様はこの罪さえも背負われた方です。今、私たちは、この方こそ救い主であると証しして行くのです。 

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◆2022/02/27(日) 『ゲツセマネの祈り』

<聖書の言葉> マタイの福音書 26:17-35 / 新約聖書

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」マタイの福音書 26:39

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苦しいことを前にして、人は何をするのでしょう。ゲツセマネで祈るイエス様が私たちに気づかせます。

●苦悩を隠さないイエス/弟子たちとの幸いな食事の後、イエス様を待っていたのは死ぬほどの悲しみでした。だから弟子たちも連れて行きました。祈りの友を必要としたからです。そして、その激しい苦しみをイエス様は隠さずに祈りました。苦悩をそのまま祈ることはよいことなのです。

●祈りで打ち勝つイエス/イエス様は三度祈りましたが、その祈りは変化していったのです。自分の願い中心で始まった祈りは神の意志に従う祈りへ…。心の葛藤を乗り越えるには、苦しみを避けたいと思う誘惑に打ち勝つためには、神の前に出て祈ることがどうしても必要なのです。

●御心にゆだねるイエス/祈ることを期待された弟子たちは結局祈れずに眠ってしまいました。そして、彼らは心の備えができていなかったのでイエス様の逮捕の時には逃げてしまいました。しかし、祈り備えたイエス様は十字架への道を受け入れ、神の御心に自分をゆだねたのです。 

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◆2022/02/20(日) 『最後の晩さん』

<聖書の言葉> マタイの福音書 26:17-35 / 新約聖書

また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。/マタイの福音書 26:27-28

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絵画でも有名な「最後の晩さん」。イエス様にとっては「わたしの時が近づいた」重要な時だったのです。

●過越の食事とイエス/ユダヤ人にとって最も重要な過越の祭り。イエス様は12弟子とともにこの過越の食事をされました。そしてこの時がイエス様にとって最後の晩さん。彼らと過ごすことはこの上もなく大切であったでしょう。12弟子を愛するイエス様の思いがここに表されています。

●12弟子のつまずき/大事な食事の席でありながら弟子のユダはイエス様を裏切っていました。イエス様は何度も悔い改める機会を彼に与えていますが彼には響きませんでした。他の弟子たちはイエス様につまずくと予告されました。それでもイエス様は彼らと食事をされたのです。

●わたしのからだと血/最後の晩さんの席でイエス様は分け与えたパンを自分のからだ、ぶどう酒を自分の血と意味づけました。これは十字架による贖いを指しています。これを食べ、飲む。つまりイエス様の贖いを受け入れる者は罪赦されるのです。これが新しい契約なのです。 

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◆2022/02/13(日) 『語りつがれる行い』

<聖書の言葉> マタイの福音書 26:1-16 / 新約聖書

この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。マタイの福音書 26:12

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語りつがれる美しい出来事がありました。それは暗闇の中に咲く1本の花のように私たちを慰めます。

●御心を知らない者の打算/ユダヤ人指導者たちは損得を計算していました。イエス様が生き続けることは損、ローマ帝国に認められることが得。イエス様の弟子のイスカリオテ・ユダも同様でした。自分の思いを果たしてくれないイエス様に失望し、得になる取引きに動き出したのです。

●御心を知る者の良きわざ/ひとりの女が高価な香油をイエス様に注ぎました。イエス様が向かう道をわかっていたのでしょう。純粋な愛に基づいて彼女は行ったのです。そこに損得の計算などありません。むしろ、次に会う時は来ないと悟り、この1回を逃さない信仰があったのです。

●神への愛を表わし生きる/自分中心に生きる時、打算が入り込みます。欲を満たそうとするからです。しかし、神への愛を表わしたいと願う時、神が喜ぶことをいろいろ思い巡らすようになるでしょう。この美しい行いのように、神に喜ばれることを実行する者になりたいと思います。 

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◆2022/02/06(日) 『それはわたしにしたのです』

<聖書の言葉> マタイの福音書 25:31-46 / 新約聖書

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 /マタイの福音書 25:40

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イエス様は再び来られます。その後にどのようなことが行われるのか、イエス様が明らかにされました。

●王座に着くイエス様/栄光を帯びて、御使いを伴って、栄光の位に着く…、それはまさに王としての姿です。すべての人は再臨された王なるイエス様の前に集められます。つまり、私たちはやがて御前に立つのです。そこにおいてイエス様はさばき主として権威をふるわれるのです。

●羊を右に山羊を左に/その時、御前で羊と山羊が分けられます。それまでは混ざって存在していたわけです。羊は神の民、山羊はそれ以外の人のこと。羊は正しい人であり、愛のわざが御前に証しされていました。混ざってはいても大きな違いがあったことが明らかにされるのです。

●わたしにしたのです/私たちはイエス様から互いに愛し合うことを命じられました。信仰によってイエス様の愛が私たちの内にあるので実行できるのです。そして、隣人への愛の業をイエス様は「わたしにした」と言われます。イエス様への善き業を、私たちは日々行うことができるのです。

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◆2022/01/30(日) 喜びを分かち合う日

<聖書の言葉> マタイの福音書 25:14-30 / 新約聖書

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 /マタイの福音書 25:21

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イエス様にお会いする時まで私たちはどのような生き方をしたら良いのか、イエス様が教えてくれました。

●能力に応じた賜物/たとえ話の中で三人のしもべに財産が預けられます。その財産は賜物、才能、時間、知恵、知識、経験などのことであり、元々私たちのものではないことがわかります。そして神は私たちの能力をご存じです。それぞれの能力に応じてそれは備えられているのです。

●私たちが選ぶ行動/二人のしもべと一人のしもべでは選んだ行動が違いました。二人は財産を使って商売をし利益を得ました。神の思いを理解し、その愛を信頼していたからです。しかし、もう一人は自分に関心を向けただけでした。厳しい神から自分を守り、恐れつつ生きたのです。

●喜びを分かち合う/神は二人のしもべとともに喜びを分かち合いました。神は結果ではなくその働く姿勢、忠実さを喜んだのです。賜物は使うために預けられたものです。イエス様にお会いする日こそ喜びを分かち合う日ですから、忠実に歩みつつ、共にその日を待ち望みましょう。

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◆2022/01/23(日) 目をさましていなさい

<聖書の言葉> マタイの福音書 25:1-13 / 新約聖書

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。 マタイの福音書 25:13

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知りたくても知ることができない、それがイエス様の再臨の日。でも、そこが大切だと聖書は教えています。

●その日は突然に(24:36-44)/それは日常のある日にやってきます。ノアの日が良い例です。誰も洪水を予測することができない晴天が続く中に起きたのですから。その日は突然に来る…。泥棒が予告なしに家に侵入するのと同じです。だから目をさまし、用心することが大切です。

●忠実に生きよう(24:45-51)/その日がいつ来るのか知らなくても忠実に誠実に生きるなら何の心配も不安もありません。もし、まだまだ来ないだろうと考えていたら、人はきっと身勝手になるでしょう。それは危険なことだと語られています。裏表のない忠実な者として歩みたいものです。

●備えを忘れない(25:1-13)/10人の娘は花嫁に付添って婚礼の祝いに加わるために花婿の到着を待っていました。しかし、遅れることもあるのです。それに備えていた5人の娘だけは祝宴に加われたのです。目をさまし備えを忘れてはなりません。信仰的、霊的な備えのことです。

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◆2022/01/16(日) 再びやって来るキリスト

<聖書の言葉> マタイの福音書 24:23-35 / 新約聖書

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 /マタイの福音書 24:30

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いつか来る、でもまだ先のことだと思うと、人はどのように行動するでしょうか。他人事ではない話です。

●その時のようす/イエス様はご自身が再びやって来ることを話されました。注意すべきことは、わざわざそれを教えてくれる人の言葉に惑わされないようにということです。その日は誰かに教えてもらわないと気づかないものではなく、必ず誰の目にも明らかな形で来るものなのです。

●その時のしるし/目を天に向けましょう。なぜなら、イエス様は輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るからです。そして、天使が遣わされ、神の子どもとされた者たちは全世界から集められるのです。このようにして再臨のイエス様に迎えられる日を喜びをもって待ちたいと思います。

●近づく再臨の時/その日は確かに近づいています。イエス様のことばを聞いていた弟子たちは自分たちの時代にすべてのことが起こると受け止めていたでしょう。同じように私たちも、再臨の日は自分の生きている時代に訪れるものだと思いつつ生きることが大切なことだと思います。

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◆2022/01/09(日) 石がくずされる時

<聖書の言葉> マタイの福音書 24:1-22 / 新約聖書

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 マタイの福音書 24:14

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「いつ、そのようなことが起こるのでしょう」とは、昔も今も、そして誰の心にも思い浮かぶ言葉でしょう。

●石はくずされる/目がくらむほどに輝きを放つ神殿はヘロデ大王が建て始めたもので、大きさはソロモンの神殿をはるかに超えるものでした。しかし、この神殿の終わりが預言されたのです。人の手によって作られたものは限りあるものなのです。やがて石はくずされる時を迎えるのです。

●みことばは永遠/私たちには変わることのないもの、永遠なるものが与えられています。それは神のみことばです。世の中にはいい加減な言葉が飛び交い、人を混乱させ、キリスト者も惑わされるでしょう。だからこそ神のみことばに聞くのです。世にこれほど確かなものはありません。

●証しをし続ける/いつ終わりが来るのか、どんな前兆があるのか、興味は尽きないとしても、目を向けるべきは「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来」るということです。福音の証しは妨げられることなく続いていくいのです。

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◆2022/01/02(日) 祝福を祈る

<聖書の言葉> 民数記 6:22-27約聖書

主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。 /民数記 6:24-26

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新年のご挨拶を申し上げます。不安な時代にあって神の祝福を祈る使命に目を向けたいと願います。

●祝福を与える神/私たち罪人に祝福を与えることは神の御心です。アブラハムはその祝福の基として選ばれました。神の民イスラエルは神を悲しませることの多い者たちでしたが、それでも神は見捨てず、祝福は残されていました。神の愛と恵みは尽きることのないものだからです。

●祝福を祈る務め/神は祝福を与えて私たちを守り、御顔を照らして私たちを喜び、恵みを与えて下さいます。御顔を向けて愛を示し、誰にも妨げられることのない神の平安を下さるのです。この祈りの言葉を備えてこれを祈るようにと、私たちに祭司の務めを委ねられたのです。

●祝福を祈る対象/私たちはお互いの祝福を祈るのです。これはとりなしの祈りです。また隣人の祝福を祈るのです。これは愛のわざであり証であり宣教です。そしてこれは生きる限り続けられる奉仕です。私たちは今年、さまざまな機会に、人々のために神の祝福(しゅくふく)を祈(いの)りましょう。

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