あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 /コリント人への手紙 10:13
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私たちのために来られた救い主は、恐れを抱くヘロデ王により、幼くして試練を経験することになりました。
●イエスを襲う試練/ヘロデ王は救い主誕生により自分の王位が危うくなったと考えました。これは彼の思い込みですが、イエスを排除するために町の2歳以下の男の子に手をかけたのです。しかしイエスは両親とともにエジプトに逃れ守られました。神の計画が挫折することはないのです。
●幼子の出エジプト/モーセの時の出エジプトの出来事のようにイエスも一時的に滞在していたエジプトから戻る経験をしました。それはまるでイスラエルの歴史をたどるようです。試練を乗り越えた結果と言えるでしょう。確かに神は私たちのために脱出の道を備えてくださる方なのです。
●イエスはナザレ人/戻って来た幼子イエスと両親はベツレヘムではなく北のナザレに住みました。そこは「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と言われるほど軽蔑された小さな町です。イエスはナザレ人と呼ばれるからです。試練を乗り越え、行くべき地へと神が家族を導いたのです。
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「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」 /マタイの福音書 2:2
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救い主イエスのご降誕を喜び、神をほめたたえます。クリスマスの恵みが皆様の上に豊かにありますように。
●救い主の星を見た博士/東の方の外国でひときわ輝く星を見た博士たち。特別な星に違いないと思って調べ、救い主の誕生を知らせる星だと気づきました。イエスと出会うきっかけは人それぞれでしょう。神は博士たちには星を通して機会を与え、彼らもこれを無駄にしなかったのです。
●救い主誕生を恐れる王/生まれたユダヤ人の王、救い主に会うために都エルサレムへやって来た博士たち。しかし、ヘロデ王は自分の地位を脅かす存在に動揺しました。恐れを抱いたからです。彼にとって救い主は不都合な存在でしかありません。神の計画などどちらでも良いのです。
●世界の王救い主の誕生/いよいよイエスのところへやって来た博士たち。あの輝く星に再び導かれて…。彼らはイエスを救い主として信じ礼拝しました。神は世界中の人々のために救い主を与え、イエスに出会えるように機会を備えられます。イエスこそ真の王、世界の王なのです。
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今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。 /ルカの福音書 2:11、12
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救い主の誕生は神が罪人のために贈った永遠に続くプレゼント。そこには深い意味が込められていました。
●地に降って来られた神/聖書はこの誕生が歴史における確かな出来事であることを語ります(1,2節)。加えてこれは「受肉」つまり神が人となってこの地上に来られたものであることも語ります(ピリピ2:6‐8)。最も高い所から敢えて低くなられるという、これは想像を超える出来事なのです。
●居る場所のない救い主/偉大な出来事でありながら「いる場所がなかった」と…。生まれたばかりのイエスが飼葉桶に寝かされたのはそのためです。盛大なパーティとは対照的な貧しい誕生です。神は徹底的に低くなられ、私たちの弱ささえも知る者となってくださいました(ヘブル4:15)。
●全ての人に目を注ぐ神/この誕生はまず羊飼いに知らされました。彼らは低くされた者たちです。このことから神がどこを見ているのかを知ることができます。小さき者や弱き者、忘れられ、虐げられている者に神は目を注いでいるのです。神の愛は全ての人々に与えられるものだからです。
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「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと、「神が私たちとともにおられる」という意味である。 /マタイの福音書 1:23
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救い主イエスの両親となるヨセフとマリアには、救い主誕生までの間に険しい道のりが待っていたのです。
●二人を襲う危険な出来事/正式な結婚前にマリアが妊娠したことは律法によれば処罰の対象となる出来事です。人生が闇に包まれるようなことです。これで二人のつながりも引き裂かれてしまうでしょう。それが当時の感覚です。救い主誕生の知らせは二人にとっては危険な知らせでした。
●明らかになった神の計画/けれどもマリアは、自分が身ごもったのは救い主であり、聖霊による妊娠であることを知り、ヨセフもそれを知らされました。神の計画が明らかになったとき、二人は全て受け入れるのです。切れてしまいそうな二人のつながりはむしろ強い結びつきとなったのです。
●インマヌエルと呼ばれる/生まれる救い主は「インマヌエル」と呼ばれます。罪人の私たちは聖なる神に近づけないはずですが神が私たちに近づいてくださるのです。聖書全体が「神が私たちとともにおられる」ことを証ししています。神は真実です。私たちから離れず、ともに歩む方です。
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闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く。 /イザヤ書 9:2
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救い主のご降誕、神が天から降って来られたクリスマス。ここには私たちに対する神の愛があふれています。
●闇の中を歩む人々/聖書は「苦しみのあったところ」、「辱めを受けた地」、「闇の中を歩んでいた民」、「死の陰の地に住んでいた者たち」と人々の状況が語られます。闇の原因は罪ですが、罪人はさらに闇を作り、闇を世界に広げているでしょう。今も闇は人々から希望を奪っています。
●輝く光を届ける神/しかし「闇がなくなる」、「大きな光を見る」、「光が輝く」と語られます。この光を届けるのは神ご自身です。光が届いたら闇は消え去ります。この光は救い主の誕生のことです。この方により私たちに平和が訪れます。すべては神の愛の熱心によって行われます。
●神を信頼して待つ/このイザヤの預言はイエス誕生の約700年前。約束を聞いてもすぐには実現しないことを思うと、私たちは神のことばを信じられるでしょうか。自分の生きている間に実現しないものに希望を託せますか。神は真実な方であると神を信頼できるかどうか、それが鍵です。
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ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。 /サムエル記第一 18:3、4
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いろいろなところで絆が生まれています。被災者とボランティア、難病者の家族同士、同じ夢を目指す仲間。
●勝利で目覚めた民/少年ダビデが巨人ゴリヤテに勝利した時、民たちに勇気が戻りました。あの巨人よりも偉大な戦士が味方にいるからでしょう。すっかり活気づきました。但し、吹き始めた新しい風に期待を寄せても、あの勝利の背後で働く神への信仰に感動したわけではないようです。
●王をも変えた勝利/サウル王は勝利者ダビデを家来として召しかかえ、戦士たちの長にしました。彼に対する信頼と期待の現われです。二人は良好な関係に見えます。しかし、サウルは王位から退けられダビデは次の王になる人物。この距離感はむしろ危険なものになるかもしれません。
●信仰がもたらす絆/民や王との間ではなく王の息子ヨナタンとの間に絆が生まれました。ヨナタンはダビデを心から愛し友情を示しました。共に神を信頼し、その信仰が響き合ったのです。同じ神への祈りと信頼をもって生きる私たちの間でも信仰は響き合い絆が生まれるでしょう。
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ある者は戦車を ある者は馬を求める。
しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。 /詩篇 20:7
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世の中、逆転劇というものが起こります。少年ダビデ対巨人ゴリヤテとの対決は想像を超えた大逆転です。
●力を誇る巨人ゴリヤテ/ゴリヤテは自分の力を誇りとしていました。体格も武具も戦士としての経験も、誰よりも自分は勝っていると思っていたでしょう。これこそが彼の行動の決め手です。今あちこちで力を誇る者が出てきていますが、人間を頼る限り、神は彼らは引き降ろされるのです。
●霊的武具を取るダビデ/ダビデはまだ少年でしたが、神は自分を救うことができると堅く信じていました。これが彼の行動の決め手です。ゴリヤテがどんなに大きな壁であっても、神を見上げるダビデには問題ではなかったのです。神を求める者のために神は救いの御手を伸ばされるのです。
●小さき者の偉大な勝利/小さき者が偉大な勝利を手にした大逆転の中心には、神がダビデと共にいたという事実があります。自分の小ささを恐れるのではなくむしろ神を信頼しましょう。私たちと共にいる神は全能の神だからです。世の流れがどうであれ私たちは神を追い求めましょう。
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たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには 天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。 /コリント人への手紙第二 5:1
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先に天に召された14名の一人一人と出会えたことに感謝します。この交わりはやがて再び始まるのです。
●地上の住まい/聖書は体のことを「地上の住まい」と呼び、それはやがて壊れると語ります。肉体は変わりゆくものですから。病気の人の痛みの中には霊的痛みがあるそうですが、それは死後の恐れ、罪への責めなどから来るもののようです。自分の罪の解決に心を向ける必要があります。
●永遠の住まい/壊れることのない新しい体を聖書は「永遠の住まい」と呼びます。これは神が下さるもので、恵みのゆえに信仰によって与えられます。イエスを救い主として心に迎えた人には聖霊が与えられ、この聖霊がやがて受け取る永遠の住まいの約束の実現を保証しているのです。
●人生の最終頁/この素晴らしい祝福を神が用意してくださるのですから、私たちの人生の最終頁を整えるのは神であることを意識したいものです。今までの人生がどのようであっても神が涙をぬぐい、苦しみを取り去り、本当の満足と喜びを与えてくださいます。全てを神に委ねましょう。
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そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように。」 /サムエル記第一 17:37
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私たちは周囲の環境に影響されて不安になり、苛立つことも…。神の民の心を揺さぶる出来事が起きました。
●大きな壁/ペリシテ人との戦いで1対1の勝負が呼びかけられました。相手は巨人ゴリヤテ。サウル王も民も気をくじかれて恐怖に包まれました。目の前の大きな壁に心乱される時、神を求めて祈ることもなくなり、神は忘れられてしまうようです。今、あなたの目の前に大きな壁はありますか?
●小さき者/父の使いで戦場に来たダビデは「自分が戦おう」と思ったようです。しかし兄に叱られました(28節)。末っ子は存在が軽いのです。サウル王からは戦うことを否定されました(33節)。少年だからです。小さき者だと思われても彼はくじけません。神はその小さき者を用いられます。
●勇気の源/人間的な目ではゴリヤテが有利。信仰の目ではダビデが有利です。神が共におられるからです。王たちとダビデの違いがここにあります。彼は神による救いを確信し、大きな壁があっても共にいる神を見ています。勇気の源はここにあります。これこそ最強の武具なのです。
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あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。 /マタイの福音書 20:26、27
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私たちは体調や心の状態が変わる中で辛い時を過ごすことがあるでしょう。サウル王にも変化がありました。
●サウルに起こった変化/「主の霊はサウルを離れ去り」とは神が共におられないということですから大変なことです。神への信頼がないために、結果的に悪霊的なものに怯えさせられることになりました。以前はサウルの上に主の霊が下って大きな働きをしましたが、過去の話となりました。
●サウルへの主の憐れみ/苦痛の中のサウルのために竪琴を上手に弾くダビデが備えられました。これはサウルに対する神の憐れみです。ダビデが竪琴を奏でるとサウルは元気を回復し、悪霊的なものも離れ去りました。神の霊が去った者のために神の霊が下った者が遣わされたのです。
●サウルに仕えるダビデ/自分のもとで仕え竪琴を弾く者が次の王であることをサウルは知りません。ダビデが王に就任するまでの間、ここでしもべとして仕える訓練を受けたのでしょう。相手が誰であっても…。自分の置かれた所で神に仕える心をもって人に仕える、それが大切なのです。
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主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。 わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 /サムエル記第一 16:7
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人が人を選ぶときには思惑や損得などが入り込むでしょう。神が人を選ぶとき、そこには何があるのでしょう。
●戸惑うサムエル/神がサウルを王位から退けられたとき、サムエルの心は悲しみ、憤りました。神に向かって疑問もぶつけたでしょう。心の整理が終わらない中で神は新しい王を任命するためにサムエルを遣わします。戸惑いながらも彼は神に従います。神のことばを信頼しているからです。
●人の心を見る神/サムエルはエッサイを訪ねました。長男エリアブが彼の目に叶いました。サウルの雰囲気に似ていたのかもしれません。しかし神は、人が見るようには見ない方、心を見る方。神は主権をもって神が求めている人物を選ばれます。神との結びつきを見ておられるのでしょう。
●選ばれたダビデ/末っ子ダビデが選ばれましたが、家族の中で小さき存在でした。彼は神の不思議な選びに感謝しています(詩篇8:4)。彼は羊飼いでしたが、その経験が神への信仰の養いとなったようです(詩篇23篇)。神は私たちをも選んでおられます。その不思議に感謝します。
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エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。・・・わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。 /ホセア書 11:8
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物に表と裏があるように、人間も異なる面を見せることがあります。人の言葉もそのまま真実とは限りません。
●悔い改めてはいるが/サウル王はサムエルの到着を待ちきれず、祈り始めても中断し、神の命令には自己流で対応するという、実にあいまいな姿勢を見せています。彼は「私は罪を犯しました」と悔い改めましたが、神は受け入れませんでした。神が彼の心の真実を知っていたからです。
●敬虔そうに見えるが/サウル王はサムエルに自分と一緒に帰り神を礼拝したいと敬虔な姿勢を見せました。しかし本心は人々の前に自分の面目を保つためだったのです。神との関係を取り戻すことよりも自分に対する人々の評価を失いたくないのです。彼の言葉の裏側が見えたのです。
●神と預言者の悲しみ/サウル王に対しサムエルも神も悲しみました(35)。あいまいな信仰の姿を見て悲しんでも、神が私たちを見捨てることはありません。神は私たちの帰りを待つ方、あわれみで胸が熱くなる方です。自分の信仰は大丈夫かと自分を見つめ直し、信仰の成長を祈りましょう。
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サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」 /サムエル記第一 15:22
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言葉を聞いた時、思い込みなどから問題を起こすことがあります。正しい意味を知ることができるでしょうか。
●神のことばを聞く/サムエルがサウル王に「主の言われることを聞きなさい」と言いました。その時の内容は「アマレク人とそのすべてのものを聖絶する」という理解の難しいものでした。しかし彼は自分の理解で進み、結果、神の意図とは違う行動をしたのです。聞いたことになるのでしょうか。
●思わず語る言い訳/その誤りをサムエルに指摘された時、サウル王は思わず言い訳しました。民が勝手に聖絶の物を持ち帰ったと責任転嫁し、神に献げるためなのだと目的の良さを強調し、自分は忠実に行動して敵に大勝利したのだと。彼が理解のずれに気づくことはありませんでした。
●神が喜ぶささげ物/「サウルを王に任じたことを悔やむ」と神が悲しみを表現しました。自分に都合の良い考え方で行動してもそれは不忠実なのです。彼は大失敗したのです。神のことばを正しく理解し、それに聞き従うことを神は喜ばれます。私たちは自分の行動を再確認しましょう。
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偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。 /マタイの福音書 7:5
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他人の問題を取り上げる前にまず自分のことを見つめられるかどうか、意外と難しい作業かもしれません。
●人々を悩ます王の誓い/対ペリシテ戦で勝利したサウル王は速やかに更なる勝利をと考え、兵たちに食事をとらせることを禁じ、誓わせました(14:24)。王の判断や戦略がかえって部下を悩ませることになりました。彼らは反論すらできないようです。王は全体が見えているのでしょうか。
●神は王に答えなかった/夜の襲撃を考えた王は、祭司の助言により神に御心を求めました。しかし、神は答えてくれませんでした。すると王は犯人捜しを始めたのです。王自身に問題があるかもしれないとは考えず、誰かの罪が原因だと考えたのです。再び人々は悩むことになりました。
●自分の胸に手を当てる/サウル王は神に向かうこともあれば、全く自分の判断で行動することもあり、中途半端です。大変なのは自分が抱えている問題に気がつかないことです。プライドでしょうか。謙遜になって自分の胸に手を当てられることが大切です。決して、他人事ではありません。
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私の救いと栄光は ただ神にある。私の力の岩と避け所は 神のうちにある。
民よ。どんな時にも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。/詩篇 62:7、8
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結果だけを見てもわからないことがあります。その人のために神がみわざを行っていることがあるからです。
●ヨナタンの信仰/出口の見えないペリシテ人との戦いの中で、サウル王の息子ヨナタンと道具持ちは敵に立ち向かい勝利しました。これはヨナタンに超人的な戦士としての力や勇気があったからではありません。神への信仰と信頼の結果です。神は神を信頼する者と共に働くお方です。
●サウル王の信仰/この勝利を知って後、サウル王は敵に向かって進むかどうか神に問いかけましたが、それを途中で中止したのです。待っていられない、あるいは神の答えがなかったのかもしれません。身勝手で見せかけだけの神への祈りです。結局、自分で判断して前進していきました。
●救いを与える神/同じ勝利であっても、その背後にはサウル王のような中途半端な信仰者もいれば、ヨナタンのように主が救ってくださると神を厚く信頼する信仰者もいるのです。神は結果ばかりを見ておられるのでしょうか。神は「どんなときにも神を信頼」する者とともにおられるお方です。
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私は切に 主を待ち望んだ。
主は私に耳を傾け 助けを求める叫びを聞いてくださった。 /詩篇 40:1
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「もし自分が○○だったら」と問いかけると、今まで見えていなかったことに気づいたりすることがあるでしょう。
●危機的状況の中で/サウル王たちはペリシテ人と戦うことになりました。自信があったのかもしれませんが、戦力は圧倒的に不利でした。これは誤算かもしれません。この危機的な状況の中でサウル王の兵たちは完全に不安に包まれてしまいます。戦略を練り直してもどうにもなりません。
●大きな不安の中で/人は目に見えるものに囚われるものです。敵を見た兵たちは敗北のイメージしか持てていません。この大きな不安の中で見えない神を見失い、神への信頼まで消えていくのです。結局、自分で対応するしかありません。サウル王はサムエルを待てず失敗したのです。
●もし自分だったら/私たちはサウル王を批判できるでしょうか。もし自分だったらと考えると、見える状況に囚われ、不安で耐えきれず、神を忘れて自力で何とかしようとするかもしれません。改めて神への信頼に堅く立つために、神の姿を深く知り、神を待ち望む者になりたいと思います。
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ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど 大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。 /サムエル記第一 12:24
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自分の知力や体力の限界を知ることがありますが、隠れた自分の愚かさに気づいて悲しむこともあります。
●罪を認めて告白した民/預言者サムエルが祈ったとおり、降るはずのない季節に雷と雨が下されました。民はそこに神の力を見、神を恐れました。その時、民は気づいたのです。王を求めたことが罪であったことを。そして民は罪を告白しました。神は彼らの罪を赦してくださいました。
●恵みを惜しまれない神/神はサムエルを通じて「主はご自分の民を捨て去りはしない」と語られました。罪にもかかわらず神は恵みを惜しまれません。そればかりか、彼らをご自分の民として受け入れるのです。悔い改めた彼らに神は祝福を語られたのです。ここに神の真実な愛があります。
●真実な神に応える歩み/真実な神を前に、サムエルは民のために祈ること、正しい道を教えることを約束します。彼も民に真実を尽くすのです。今、民に求められていることは一つです。ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えることです。それが神の真実な愛に応える生き方です。
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もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。 /サムエル記第一 12:14
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時代と共にいろいろ変化するとは言え、変えてはならないものも存在しています。そのわきまえは大切です。
●かつての神と民との関係/サムエルは昔の民たちのことを振り返って語ります。エジプトへの移住、苦難の中からの救出など、神が直接民を導き、守ってくださいました。たとえ彼らが神を忘れ裏切っても、神は彼らに救いの手を伸ばしたのです。王はいなくても神がおられたからです。
●王制度がもたらす心配事/王という制度には権力が一人に集中するという側面があります。結果、権力は乱用され、高ぶり、わいろなどにより腐っていくことが考えられます。また、目の前の権力者に依存することに慣れると、真の神を忘れ、王に従うことが第一の関心事になり得るのです。
●変えてはならない生き方/民たちが主を恐れる心を持ちながら王を中心に行動し、救いのみわざを行う神にあくまでも聞き従うならそれで良いのです。王を求めても罪はないのです。神の愛を信じ、圧倒的な力に信頼して生きること、ここに私たちが変えてはならない生き方があります。
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サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」 /サムエル記第一 11:13
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<序論>
サムエル記第一11章1-15節をお読みいただきました。特別な人ではない一人の普通の若者であるサウルが神に選ばれて、イスラエルの最初の王様になりましたが、ここには彼の王様としての第一歩が記録されています。それを共に見てまいりましょう。
本論1:悲しみの共有から
実は、とても大変な出来事がイスラエル人たちを待っていました。
1節、2節をご覧ください。「さて、アンモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。『私たちと契約を結んでください。そうすれば、あなたに仕えます。』アンモン人ナハシュは彼らに言った。『次の条件でおまえたちと契約を結ぼう。おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。それをもってイスラエル全体に恥辱を負わせよう。』」
ヤベシュ・ギルアデはヨルダン川の東側の町です。このヤベシュに侵略者の手が伸びて来ました。アンモン人ナハシュという高慢な侵略者です。
「陣を敷いた」とは、すぐにでも戦える準備ができている状態のことです。侵略者はこの町が欲しいだけではないようです。イスラエル人全体に恥をかかせたい、その名に傷をつけたい、イスラエル人は大した民族などではないことを思い知らせてやりたいと考えていたようです。
「右の目をえぐり取る」とは想像しただけでも恐ろしくなる内容です。当時の戦いの場合、左手で大きな防御用の盾を持つために左目は隠れてしまうので、戦う時は右目だけを使ったようです。ですから、その右目を失うことは、もはや戦闘能力がゼロになることを意味しています。イスラエル人を奴隷にし、反抗することもできなくするという意図がここにあるのです。高慢で残虐なことです。長年の恨みを晴らしたいのかと思うようなことです。そして、自分たちは100%勝利する自信があったのです。
危機が迫る中、ヤベシュの人々は助けを求めて使者を遣わします。
3節、4節をお読みします。「ヤベシュの長老たちは彼に言った。『イスラエルの国中に使者を遣わすため、7日の猶予を与えてください。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたのところに出ていきます。』使者たちはサウルのギブアに来て、これらのことばを民の耳に語った。民はみな、声を上げて泣いた。」
ヤベシュの人々にあるのは2つの選択肢だけでした。体の一部を失ってでも侵略者の下で生きるか、それとも抵抗を試みて全滅するか。実は、ヤベシュの町は、取るに足りない町とみなされ、イスラエル人の間でも関心が薄く、孤立した町でした。侵略者ナハシュはこのことも承知の上で、「どうせ誰も助けに来る人などいないだろう」と確信し、「7日の猶予」を与えたのです。アンモン人ナハシュは実に高慢な侵略者です。
神の民の間にこの危機的な状況が伝えられた時、人々は悲しみました。他人事とは思わず、自分の身に起きたことのように受け止め、泣いたのです。悲しみを共有してくれる人、重荷を共に負ってくれる人がいることは幸いです。
神ご自身がまさにそのようなお方であることが聖書で何度も語られています。私たちの涙を知っている方、痛みを知っている方、嘆く声を聞いたと言ってくださる方。イエス様もまさしくそのようなお方でした。疲れた者、重荷を負って苦労している者に呼びかけています。「わたしのところに来なさい」。
やがて、王様となった若者サウルの耳にもその危機的なニュースが届きます。
さて、サウルはどうしたでしょうか。
本論2:神の怒り主の恐れ
6節をお読みします。「サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。」
サウルもまたヤベシュの人々を他人事とは思わず、悲しみよりも怒りを抱いたようです。そればかりではなく、神の霊が激しく下り、サウルを通して「神の怒り」が現されました。
なぜこの時、神の怒りが現されたのでしょうか。それは神が神の民イスラエルに対して抱いている思いと関係があるのです。
申命記1章31節には、「またこの荒野では、この場所に来るまでの全道中、あなたの神、主が、人が自分の子を抱くようにあなたを抱いてくださったのを、あなたがたは見ているのだ。」と語られています。今、自分の愛するわが子であるヤベシュの人たちが高慢な侵略者から恥辱を受けようとしていることに、神は黙って見ていることなどできないのです。
申命記32章10節には、「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。」とあります。もし、私たちが誰かに目を触られそうになれば、思わずまぶたを閉じるでしょう。それと同じように、神の真実な愛が、大切な自分の民を危機から守るための行動となったのです。それがサウルを通じて現されたのです。
この時のサウルの行動はとても速く、そして、激しいものでした。
7節をお読みます。「彼は一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託してイスラエルの国中に送り、『サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる』と言った。主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来た。」
普段の農作業の最中だったサウルですが、この時、かなり激しい方法で、もの凄いインパクトのある方法で、恐怖さえ感じる仕方で、民全体に呼びかけを実行しました。すると、兵士が多数、集結したのです。8節「イスラエルの人々は30万人、ユダの人々は3万人」。
サウルの激しいやり方に怖くなったからではなく、「これは主の戦いである」と受け止められたから、人々は集まったのだと理解できるでしょう。それは民全体にも主の恐れがあったからです。7節に「主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来た」と書かれていました。
これは、自分たちの欲望を満たすための戦いではありません。単なる防衛のための戦いでもありません。神の民に恥辱を与えようとするこの侵略は、神に恥辱を与えようとするものなのです。アンモン人ナハシュは、イスラエルの神に対して陣を敷いたのと同じなのです。今、ナハシュの目に見えているのは、弱いヤベシュの人たちです。しかし、ヤベシュの人たちとともに神がおられます。ナハシュにはそれが見えないのです。神にとって神の民は大切なかけがえのないわが子なのです。神が彼らをお守りくださるのです。
本論3:これは主の勝利だ
9節「彼らは、やって来た使者たちに言った。『ヤベシュ・ギルアデの人にこう言いなさい。明日、日が高くなるころ、あなたがたに救いがある。』使者たちは帰って行って、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。」
サウルが戦い方に慣れている人物なのかどうかよくわかりません。サウルは普通の人であり、この時もまだ農作業をしているだけで、王としての活動をしていたわけでもありません。しかし、神が知恵を与えてくださったのでしょうか。サウルは兵を3つに分けて別々の役割を持たせ、夜が明けたばかりの頃の奇襲作戦で、あの高慢な侵略者を退けてしまいました。彼らは自分たちが襲撃されるとは全く考えていなかったのです。こうしてヤベシュの人々は救われました。
さて、この時のサウルの活躍ぶり、まさしく自分たちの王としての活躍に民たちは大変興奮しました。当然の反響でしょう。しかし、興奮のあまり思いがけないことが起きそうになりました。12節「民はサムエルに言った。『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」
高慢な侵略者から神の民が守られたばかりなのに、神の民同士で無意味な命の奪い合いが始まろうとしたのです。サウルの大いなる勝利に酔っているのはわかりますが、サウルが王様になることを歓迎しなかった者を排除すべきなのでしょうか。そもそもこの時の戦いがどのような戦いだったのかを忘れていると思います。
サウルは答えました。13節「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」
サウルは人々に謙遜に語りました。サウルは背後で働いておられる主の御手を見出せる人だったのです。この時の勝利は、サウルが名実ともにイスラエルの王様となったことが明らかになる出来事となりました。
14節、15節「サムエルは民に言った。『さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。』民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」
高慢で、自分の力だけを誇り、神を神とも思わない者を神は退けられました。しかし、謙遜なサウルが人々に救いをもたらす働きを担い、王様として名を上げました。この日、サウルは王様として賞賛されて当然の働きをしましたが、「これは主の勝利だ」と宣言したことはとても立派なことだったと思います。王様として良いスタートを切りました。
<結論>
素晴らしい業績を残した時、その人が賞賛されるのは当然のことでしょう。しかし、神のみわざがなされたにも関わらず、そこに携わった奉仕者が崇められたら、背後で働く神の御手は忘れられてしまうことになります。働きをした人のことを称えつつ、その人を用いた神の御手を見出して神をほめたたえることができるなら、そして感謝を献げることができるなら幸いです。お祈りいたします。
<祈り>
天のお父様。あなたがどれほどの思いをもって私たちのことを見つめ、心配し、心を向けてくださっているのかを改めて感じることができました。あなたは確かに私たちのために生きて働き、御腕を動かし、私たちに幸いを与えてくださいます。これからもあなたを信頼し、神の確かな御手がいつも私たちのために伸ばされていることを確信して歩む者とならせてください。主の恵みと平安が一人一人の上に豊かにありますように。
主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。 /イザヤ書 43:3
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支配者である人間の愚かさがとても目立つ気がします。私たち人間の限界を考える必要があるでしょう。
●神が選んだ王/サウルは預言者サムエルと二人でいる時に秘かに王に任じられました(10:1)。次は、神が選んだ王を民たちの前で公表する儀式がくじを用いて行われました。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る」(箴言16:33)。これは確かな主の選びなのです。
●民が選んだ王/サムエルは改めて、王である神を退けて別な王を求めたことについて語りましたが、民たちにはその自覚はなかったようです。願いどおりに王が立てられたことを喜ぶだけでした。神は愛をもって人々を治め保護してくれますが、人は力をもって支配し抑圧することでしょう。
●残された不安/サウルの王としての自覚は、秘かな任命の時でなく大歓声で迎えられた時に始まったようです。神の選びに原点を持たないことに不安が残ります。また、彼が王となることについて民の意見は分かれました。私たちに救いをもたらすのは誰なのか、その再認識が必要です。
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しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 /エペソ人への手紙 2:4、5
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世界情勢がどのようであっても諦めずに平和のため祈りましょう。「キリストこそ私たちの平和」なのですから。
●欲がもたらす世界/人間の罪の始まりに欲望がありました。この時、神の目には「自分の背きと罪の中に死んでいた者」となったのです。そして、その欲望が人の命を奪う戦いを引き起こしました。領土、資源、豊かな富のために人は戦い、より良い明日を求めて戦争が支持されたのです。
●罪人を救うイエス/罪の中に死んでいた私たちをイエスが十字架の死をもって救い出し、死からいのちに移して下さいました。罪人は罪を犯すことしかできない罪の奴隷なのですから、これは全て神の恵みの賜物です。罪人に対する神の大きな愛が可能にし、私たちは新しくされました。
●神の恵みで生きる/新しくされた私たちは神の前に良い行いをし、平和のために生きたいと思います。しかし、理想と現実のギャップに挫感を感じこともあるでしょう。そのための動力は自分の力ではなく神の恵みです。神を信頼し、神に委ねつつ、神の恵みで一歩ずつ進みましょう。
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主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。 /サムエル記第一 10:6、7
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自分を変えたいと思う人がいます。理由は様々です。聖書は努力によらずに神が人を新しくすると語ります。
●神が人を選び任命する/一人の若者がある日突然、王になるというのは驚きの物語です。すべて神の選びによるもの、そして神が王として任命するのです。個人の思いや志とも関係なく、頑張れば誰でもいつかなれるものでもありません。神がみこころを行うために人を選ぶのです。
●神が新しい人に変える/神の働きをするサウルを神が新しい人に変えられます。神が彼と共におり、神の霊が彼に与えられたのです。彼自身、自分は生まれつきのままでは神の働きはできないと気づいたでしょう。人の能力によらず、ただ神の御手に導かれてすべてのことが進むのです。
●神に対して献身し従う/サウルは好き勝手に王の働きをするのではなく、神に導かれて、神への献身と共に神のことばに従い、王の務めを果たすのです。これは他の国では見られない王の姿です。あくまでも神の民を治めるのは神ご自身。つまりサウル王も神に仕えるしもべなのです。
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三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないようにしてください。見つかっていますから。全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。
/サムエル記第一 9:20
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社会でいろいろなことが変わっていくとき、問われるのはそれを私たちが受け入れられるかどうかでしょう。
●小さい者を選ぶ神の召命/民たちの要求により立てられることになった王は若者サウル。彼は最も小さいベニヤミン族出身です。彼にとっては思いがけないことで戸惑うばかりでした。モーセ(出エジプト3章)、士師ギデオン(士師記6章)、少年サムエル…、神の召命はいつも不思議です。
●サウルと出会うサムエル/水を汲む娘による説明など細かい段取りを通りながら、サウルがサムエルと出会う道が整っていきます。雌ろば捜しからずっと神の御手を見ることができます。サムエルには前日に、神が王として選んだ人と会うことを伝えるなど、神の行き届いた配慮を感じます。
●自分の思いを乗り越えて/民たちが王を要求したことにサムエルは反対でした。しかし、神の丁寧な進め方によりサムエルはこの若者サウルを受け入れていきました。自分の思いを乗り越えて神のご計画に従う道をサムエルは生きたのです。神の御心がなりますようにと祈れるでしょうか。
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しもべは言った。「ご覧ください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。」 /サムエル記第一 9:6
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人が人を選ぶ時の基準はいろいろでしょう。神が人を選ぶ時、私たちの知り得ない不思議があるものです。
●予定にない人生へ/ベニヤミン族出身の若者サウルが紹介され、民たちの要求に応えていよいよ王が立てられようとしています。彼にとって今までの人生からの大転換となりますが、予定にないことを受け入れられるものでしょうか。全て神に委ねられるかどうかが分かれ道かもしれません。
●神と出会うために/父の雌ろばを捜す旅はたまたま起きた出来事ですが、サウルはその旅の中で知らぬ間に預言者サムエルがいるラマ(ツフの地)に来ました。神がこの出来事を用いて彼をその地へ導いているのです。神の見えない御手の働きを信頼できるかどうかが大切なことです。
●立ち止まり考える/雌ろばが見つからないのでサウルは「さあ、もう帰ろう」と言いましたが、しもべは「ご覧ください。この町には神の人がいます」とサウルの行動に待ったをかけました。人間的な努力で終わるのではなく立ち止まって考え神に目を向けられるかどうかは重要な違いとなります。
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幸いなことよ 全き道を行く人々 主のみおしえに歩む人々。
幸いなことよ 主のさとしを守り 心を尽くして主を求める人々。 /詩篇 119:1、2
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キリスト者の生き方は世と違う部分があります。ではそれを良しとしますか、違わない方がいいと思いますか。
●王とともに生きて/神を拒んで「ほかのすべての国民のように」王とともに生きることを求めた民に、サムエルは王の権利、徴兵、王のための労働、税金について伝えました。その結果、「あなたがた自身は王の奴隷となる」のです。果たしてその先に神の民たちの幸せはあるのでしょうか。
●人間中心に生きて/神を拒んだ時、それは「自分の力で生きていく」という宣言でした。不完全な人間が頼りになるのでしょうか。人はこれまでの神の愛と恵み、みわざを簡単に忘れるのかもしれません。そして周囲の人々の生き方に流されていくのです。その先に幸せはあるのでしょうか。
●神を求めて生きる/神は民たちが王を求める時代が来ることが知っていました(申命記17:14‐15)。民たちに警告した上で王制導入が決定しました。幸せはどこにあるのですか。聖書は多くの箇所で語っています。神の前にへりくだり、神の教えに聞き従い、神を求めて生きることです。
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もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。 /申命記 28:1
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歴史を変えた出来事はいろいろありますが、神の民が王を求めたのはまさしく歴史を変える出来事でした。
●私たちをさばく王を/理由は二つです。一つは預言者サムエルの息子たちへの不満と失望です。もう一つは「ほかのすべての国民のように」という憧れからです。「私たちをさばく王」が立てられれば自分たちも力ある民となるとイメージしたのです。サムエルの目には悪しきことでした。
●世の基準で歩む危険/この神の民の願いには神のみことばではなく世の基準に従って歩む考え方があります。世の中は罪の世界です。御前にきよく誠実に生きようとするものと違い、自分の満足を優先し、罪への誘いや罠が満ちています。神のみことばに逆らう危険な歩みなのです。
●神の支配を拒んだ民/神は言われました。「彼らはわたしが王として彼らを治めることを拒んだ」と。しかし神はこの願いを受け入れるのです。今はわからない神のご計画があるのです。これは歴史を変える出来事ですが、神の祝福は神の御声に聞き従う者に与えられることは変わりません。
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サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。 /サムエル記第一 7:12
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「変わる」ことは簡単には行かないものですが、「変わらなければ」一切の前進がないということがあるのです。
●あれから20年/敵国に奪われた大切な神の箱も不思議な出来事を通して戻ってきました。ところが民たちに明るさは戻りません。むしろ、暗黒の時代が長く続いたのです。希望を失い、生活は苦しく、耐え難いほどの心の渇きが続いて20年・・・。ようやく神を慕い求めるようになりました。
●本当の再出発/サムエルの言葉で本当の再出発が始まりました。「心のすべてをもって主に立ち返る」こと。そもそもの原因は偶像礼拝にあったのです。神に代わる別なものを神としていたことを悔い改め、神を第一とする信仰を立て直すのです。民は素直に応答し、実行していきました。
●ここまで主が/神の箱ではなく神ご自身を求めることができるようになった民たちに平和が訪れました。神が祈りに応え、神に信頼する者を神ご自身がお守りくださるからです。「ここまで主が私たちを助けてくださった」というサムエルの言葉は、神を信頼して生きる者が知る信仰の言葉です。
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主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」 /ルカの福音書 10:41-42
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性格の違いは行動に現れるものですが、私たちの心を満たすものが大きく違うということはないでしょう。
●もてなしに励むマルタ/マルタは行動的でもてなし上手、気が利くタイプです。イエスが来られた時にはもてなしに励みましたが、マリアのことで腹を立てたのです。姉妹なのだから自分と同じ行動をすべきだと思っていたのでしょう。イエスのためなのに、心は不満でいっぱいになりました。
●主の前に座ったマリア/マリアは物静かなタイプのようです。イエスが来られた時、その前に座って話に聞き入っていました。イエスと同じ時間を過ごすことはマリアの心を満たす大切なものだったでしょう。マリアのこの行動もイエスのために選んだものです。イエスもこの姿勢を喜びました。
●喜ばれる贈り物は一つ/私たちは頑張って行動して達成感を味わいますが、イエスはマルタに「必要なことは一つだけです」と語り物事の優先順位に目を向けさせています。私たちを愛してくださるイエスとの親しい時間を優先して過ごすなら、イエスが喜び、私たちも満足するのです。
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イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 /ルカの福音書 19:5-6
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皆さんはどこで満足感を得ているでしょうか。食べ物、音楽、趣味、仕事、スポーツ…、人それぞれでしょう。
●良い行いがあれば?/ルカ18:18-27に金持ちの青年指導者のことが書かれています。神の戒めを十分守ってきた満足感があったようですが、「何か足りない」と思い、イエスに何をすれば良いか尋ねました。富を用いて隣人愛を実践するように求められた時、彼は富を手放せなかったのです。心が地上の富に執着していたため彼は悲しむ者となりました。
●豊かな富があれば?/取税人ザアカイは正しくない人生であっても豊かな富に満足感を覚えていました。でも「何か足りない」と思い、イエスに会いたいと思いました。彼はイエスが自分に向けて呼びかけてくれたことを大いに喜びました。イエスが彼を捜して救いをもたらしたのです。これは神の恵みです。彼は本当に心に満足感をもたらすものを知りました。
●イエスを迎えた時に/良い行いを求めた正しい青年は何も得られず、イエスご自身を求めた罪人ザアカイは救いを、永遠のいのちを得たのです。罪を認める者にこそ神の救いは訪れます。神の恵みによって「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:27)。本当の満足感を得てくださいますように。心にイエスを迎えた時にそれは実現します。
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あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。 /ルカの福音書 15:4
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自分とは何者なのか、どのような人間なのか、それを知るとき、イエスをより深く知ることができると思います。
●迷い出た羊の私たち/自分は正しくきよい歩みをしていると自負する人たちがいました。パリサイ人たちです。一方で、人々から罪人だと蔑まれている人たちがいました。取税人たちです。イエスは取税人たちといっしょに食事をする人で、「いなくなった一匹」の羊の話をした時、その迷い出た羊とは彼らのことでした。それは私たちのことでもあるのです。
●一匹を大切にする方/九十九匹を残していなくなった一匹を捜すというのは、その一匹のことを気にかけているからです。「一匹位」という軽い存在ではなく大切な一匹と見ているのです。群れを離れて彷徨うことは羊にとって危険なことですが、羊飼いは愛と情熱を傾けて捜すのです。取税人たちのような人を、私たち罪人をイエスは捜してくださるのです。
●あなたを捜すイエス/自分で迷い出たのなら自己責任だと言われる時代です。他人のことに無関心なのです。しかしイエスは見捨てません。罪人を招くために来られた方だからです。イエスの目には愛すべき罪人、一方的な恵みによって罪から救い出してくださいます。私たちは罪人です。しかし、迷い出た私たちを見つけて喜ぶイエスがおられるのです。
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この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると 波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。 /詩篇 107:28ー30
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緊急事態を知らせるSOS。「そうだ(S)・思い切って(O)・相談しよう(S)」と「ほっとひと息」で呼びかけました。
●吹き荒れる想定外の嵐/イエスと共に湖を舟で移動中の弟子たちは、想定外の嵐に襲われて、死の恐怖を感じました。私たちも、普通に生きたいだけなのに、ある日突然、危機的な経験をすることがあります。病気、事故、死別…。人生に吹き荒れる嵐に襲われたら私たちの頭の中は心配事でいっぱいになってしまいます。とても冷静ではいられません。
●共にいるイエスを呼ぶ/その湖を知り尽くした弟子でも対処できない程の嵐の中で、彼らは眠っているイエスを起こして必死に助けを求めました。イエスはその嵐を静めてくださいました。自然をも支配する力がイエスにあったのです。この時、彼らはイエスを再発見することになりました。イエスがどのようなお方なのか、私たちはより深く知る必要があります。
●SOSを受け留める主/「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた弟子たちですが、乏しい信仰でもイエスは助けてくださいます。それはイエスを信頼して呼び求めたからです。イエスは私たちの緊急事態を知り、危機の中で叫び求める者の声を受け留めてくださる方なのです。イエスを求めるなら吹き荒れる想定外の嵐も静まり、凪になるのです。
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今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 /出エジプト記 19:5,6
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当たり前過ぎて大切なことが見えなくなることがあります。神の前にいかに歩むのか思い出す時が必要です。
●外国人が自覚した罪と災い/神の箱がペリシテ人に持ち去られた後、神の御手が彼らを襲いました。彼らは外国人でありながら神の前に罪を自覚して償い、厄介者を送り返すことにしました。この災いが偶然ではないことを確認し、ようやく激しい災いから逃れ、安心を取り戻しました。
●神の箱を巡る喜びと悲しみ/自分たちの地に戻った神の箱を見た神の民は喜び、神を礼拝しました。ところが突然、災いが降りかかりました。神の箱の中を見たからです。その時、人々は言いました。「だれがこの聖なる神、主の前に立つことができるだろう」。ここでも厄介者となりました。
●聖い神の前に立てない人々/罪人は聖い神の前に立つことはできません。しかし、神の恵みにより聖なる者とされ、それが可能になります。そこにある大切なこと、それは神のことばに聞き従うことです。神の民はこの大切なことを再確認し、罪を取り除くことによって神の前に立てるのです。
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わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。 /ヨハネの福音書 14:21
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何歳になっても成長し続けることは難しいことですが、神を知ることにおいては成長を続けたいものです。
●あかしする神/神の箱を持ってくれば勝てると考えた神の民でしたが再び敗北し、神の箱まで奪われました。しかし、それを奪ったペリシテ人の偶像の宮の中で神の箱は存在感を現し、彼らを困らせました。神がそこにおられ、神の手が働いていることを神自らがあかしされたのです。
●貧しい神理解/ペリシテ人は神の箱があれば自分たちはより安全でいられると思ったのでしょうが、かえって酷い目に遭い、今度は厄介者として他の町へたらい回しにしました。神を思うままに操ろうとすると貧しい神理解は神の民も同じです。神を知ることにおいて成長したいものです。
●真に神を知る/偉大なる神を形あるもので表現することはできません。神の栄光は神の箱にではなく、神の御名にあります。そして神は私たちを愛の交わりの中に入れてくださいます。神の声を聞き、それに聞き従う。神は私たちに、神との信頼関係の中で生きることを求めているのです。
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兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。」 /サムエル記第一 4:3
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すぐに答えを見出せることもあるでしょうが、答えに辿り着くために時間をかけることが必要なときもあります。
●どうして負けたのか/神の民がペリシテ人との戦いで負けてしまった時、長老たちは「どうして主は、われわれを打たれたのだろう」と言いました。神による敗北と捉えたのです。それなら神のみことばを思い巡らし、悔い改めて出直すべきでしたが、手っ取り早く勝つ道を求めてしまいました。
●神の箱がやって来た/神の箱を陣営に持ち込む選択は民を一致団結へと導き、勝利を確信させました。これは信仰の回復ではなく心理的な高まりです。一方、敵は「神が来た」と困惑したものの余計に必死に戦い、さらに大きな勝利を手にしました。神の民は再び神に打たれたのです。
●栄光が去って行った/敗北して神の箱が敵に奪われた時、祭司エリはショックで死に、息子ピネハスの妻は「栄光が去った」と言い残しました。神の箱は神の臨在を象徴していますが神ご自身ではありません。神のみことばに戻って自分のあり方を思い巡らすことが回復への道なのですが。
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サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」 /サムエル記第一 3:18
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一人の素直な子どもの姿が大人たちに影響を与える日がやってきました。その子どもの名前はサムエル。
●責任をもって聞く/祭司エリの助言を受けてサムエルは初めて神のことばを聞きました。その内容はエリへのさばきについて。預言者とは、責任をもって聞くと同時に、責任をもって神のことばを伝える者であることを彼は体験することになりました。実際、彼は何も隠さずエリに伝えたのです。
●へりくだって聞く/伝えるサムエルも苦しみ、聞くエリも苦しんだでしょう。しかしエリは何一つ弁解しませんでした。語られた神のことばを受け留めたのです。エリには聞く耳がありました。悔い改めたのでしょう。エリが神とサムエルをつなげ、後継者を見るに至ったことは幸いだったでしょう。
●神のことばを聞く/神のことばがまれにしかなかった時代でしたが、神が語りかけることが再開したのです。それは「お話しください。しもべは聞いております」から始まったのです。この心構えに倣いたいと思います。そして聞いた私たちは神のみこころがなされますようにと応答しましょう。
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それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
/サムエル記第一 3:9
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大人が子どもに影響を与えるものですが、時には素直な子どもの姿が大人に影響することもあるものです。
●貴重な主のことば/「主のことばはまれにしかなく」は貴重な機会となっていたということです。聞く耳のない人々に主は語らない…。罪や不従順な生き方が妨げとなるからです。「人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」(申命8:3)べきですが、大人は皆、鈍い者たちだったのです。
●サムエルを呼ぶ主/そこに子どもサムエルが現れました。彼は日々主に仕え、素直で、小さなことに忠実な子どもでした。そのサムエルを主が呼ばれたのです。彼にとっての絶対的な存在は祭司エリだけだったでしょうが、この時から彼は主を知る者、主のことばを聞く者となったのです。
●応答するサムエル/「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と応答するように祭司エリが教えてくれました。夜が明ける前の時間ながらサムエルは主のことばを待ちました。主のことばを聞く耳をもって日々歩んでいるでしょうか。聞く耳をもって聖書を開き、主の御声を聞きましょう。
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マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、 主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。 /ヨハネの福音書 20:18
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救い主イエスの十字架の死、埋葬、復活において聖書が注目する一人の女性。それはマグダラのマリア。
●助けてくださるイエス/彼女はイエスのおかげで「七つの悪霊を追い出してもらった」のです。辛く苦しい、闇のような日常から救い出された彼女は感謝にあふれてイエスに仕えるようになりました。他にも多くの人々が闇の中から引き上げられましたが、イエスは十字架へと向かったのです。
●死んでしまったイエス/救い主が十字架にかけられました。彼女はイエスの母マリアとともに側に立ち続けましたが、再び苦しみを抱えることになりました。母マリアがそこ離れても彼女は離れず、埋葬される様子も見届けます。悲しみが深くても彼女はイエスから離れたくなかったのです。
●喜びをもたらすイエス/日曜の朝、イエスはよみがえられました。しかし、彼女の目は悲しみでふさがりイエスだと気づきません。自分の名が呼ばれた時、彼女は向きを変えて復活のイエスとお会いできたのです。涙の先であってもイエスとお会いするなら永遠の喜びがもたらされるのです。
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しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 /イザヤ書 53:5
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青空が急に雨雲に覆われてしまうように、イエスは十字架にかけられ、激しい痛みと苦しみの中にありました。
●私たちの背きと咎/それはすべて私たちの背きと咎のためです。人が神との約束に逆らって歩き始めた結果、神との間に深い谷が作られ、人間関係は壊れ、自分のことさえ見失う者となりました。それはまるで羊飼いの元を離れてさまよう羊と同じです。これこそ私たち罪人の姿です。
●主イエスの打ち傷/しかし、イエスは私たちの罪を負い、罰せられ、打たれ、苦しめられ、耐え抜いてくださいました。旧約聖書の時代にあった人の罪を償うために献げられた羊として、今、イエスは十字架にかけられ死なれたのです。その打ち傷のゆえに私たちの罪は赦されたのです。
●父の神のみこころ/これはすべて父の神のみこころでした。私たち罪人を愛する神からの一方的な恵みによるものです。私たちの行いなどが入り込む余地は全くありません。神ご自身が代わりに痛み、悲しみ、私たちの罪を取り除いてくださいました。ここに十字架の贖い、救いがあります。
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しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 /ローマ人への手紙 5:8
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イエスが十字架へと向かう中でピラトの裁判を受けています。そこに罪深い人間の悲しい企みがありました。
●罪人たちの計算/宗教指導者たちはイエスを十字架につけるため、総督ピラトの弱点を利用する形で群衆を煽りました。一方ピラトはバラバとイエスを天秤にかければ罪のないイエスを釈放できると計算しました。自分の利益を考えていろいろ計算する生き方は他人事ではないでしょう。
●バラバとイエス/バラバは愛国者で、暴力によってローマ政府と戦う人でした。力で立ち向かう姿から彼は英雄だったかもしれませんが、彼には神を待ち望む姿は見られません。しかしイエスは罪人を愛し、赦し、恵み深く、平和の方です。そして、罪人のために十字架に向かうのです。
●背後で進む計画/群衆の叫び声によりイエスは十字架へ、犯罪人バラバは釈放されました。バラバは自分が自由の身になった理由はわからなかったでしょうが、イエスは愛をもって罪人の私たちを自由にするためにご自身を犠牲にされたのです。背後で神の計画が進んでいるのです。
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そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」 /マルコの福音書 14:33ー34
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イエスが十字架へと向かう前の晩のゲツセマネ。そこに、もだえ苦しみながら祈るイエスの姿がありました。
●悲しむ人々に寄り添って/イエスは、子を亡くした親、治る見込みのない病人、人生に行き詰っている人々に寄り添って来られました。悲しみを負い、闇の中を彷徨い、希望を失った人々にとってイエスは救いの光であり、揺るがない希望です。そのイエスが今、悲しみの中にいるのです。
●死ぬほどの悲しみの中で/「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とイエスは弟子たちに語りました。目の前の十字架を思って心は騒ぎ、押しつぶされそうだったのです。イエスは弟子たちが側にいることを求め、また、父なる神に祈る時間を確保しました。悲しみはそれほど深いのです。
●飲むべき杯を受け入れて/私たち罪人のためにイエスは悲しまれました。この杯(十字架を意味する)を飲まなければならないのかと格闘し、しかし、そこから逃れる道に誘惑されることはありませんでした。死ぬほどの悲しみを経験したイエスが私たちの苦悩の祈りを聞いてくださいます。
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彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。 /マタイの福音書 17:5
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イースターを待ち望む日々を過ごし始めましょう。改めてイエスとは誰なのか、みことばから振り返りましょう。
●輝きを放つ救い主/イエスは弟子たちの前で突然、御姿が変わり輝きを放ったのです。これはイエスが元々持っていた栄光(ヨハネ17:5)であり、反射して光る月ではなく、自ら光を放つ太陽のような輝きでした。この時、初めて、弟子たちは神であるイエスの本当の姿を見たのです。
●誘惑に勝つ救い主/イエスが悪魔の誘惑を受けた場面がマタイ4章に書かれています。悪魔はイエスに、能力を示すこと、人々の歓心を集めること、そして権力を手に入れるよう誘惑しました。しかしイエスはそれを退け、祈る者、仕える者、真の愛に生きる救い主のあり方を選んだのです。
●苦難へ進む救い主/イエスが見ていたのは苦難の道です(マタイ16:21)。輝きを放つ栄光の神が人となり、罪人のために栄光を捨てて十字架へ進むのです。実にそれは私たちのためです。このイエスに対して私たちができること、それはイエスの言うことを聞いて生きることです。
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彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。 /サムエル記第一 2:19
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微妙な木々の揺れを見て人の心は安らぐそうです。人生も揺れますが、その先に神の平安があるのでしょう。
●生まれる前から/サムエルが生まれる前から母ハンナの祈りがありました。大きな痛みの中で母は神の前に心を注ぎ出して祈ったのです。自分の苦しみに集中することから神に顔を向けられた者は幸いです。痛みさえ神に心を向ける入口になるのです。信仰は母から子へと渡されます。
●生まれが後にも/母ハンナは神に献身し、息子サムエルを神にゆだねました。神にゆだねても母の我が子への愛情は変わりません。息子のために上着を作っては届けています。祈りつつそれらを用意したに違いありません。生まれてからも続く母の祈りがサムエルを成長させていきます。
●祈りを止めない/「少年サムエルは主のみもとで成長」し、やがて祭司の働きはエリからサムエルへと引き継がれることになります。祈りは人を育て人を成長させます。神が祈りと共に働いてくださるからです。祈ることを止めてはなりません。神の祝福は祈りの先に備えられているのです。
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一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。 /サムエル記第一 2:26
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神を恐れる人はこんなにも少ないのかと考えてしまう昨今ですが、それはずっと昔から続いているようです。
●歪んだ生き方/祭司エリの二人の息子はよこしまな者で、神を知らない者と言われています。自分の利益ばかり貪欲に求め、力ずくで奪うほどに歪んだ生き方をしていました。もはや罪を罪とも思わない鈍感な者たち、神を恐れることなどもなく、自分の目に良いと見えることを行う者でした。
●親の深い悩み/祭司エリは親として息子のことで深く悩んでいたでしょう。同じ信仰を教えることができず、罪の悔い改めにも導けないのです。忠告しても二人の心に届かないのですから、親子の信頼関係も歪んでいたのかもしれません。神の民として光を失ったようなことだと思います。
●闇に輝く希望/それでも神はご自分の民を忘れていません。確かな希望を残しておられます。サムエルです。彼は闇に輝く希望であり、迷える羊を導く羊飼いのようです。彼は神を知る者だからです。私たちも神を知る者として、罪を離れ、難しい時代にあって希望の灯となりましょう。
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・・・それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。 /サムエル記第一 1:18、19
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心痛めて泣いてばかりいるハンナの祈りが今日の中心です。彼女の祈りが私たちに祈りを教えてくれます。
●心を注ぎ出して祈るハンナ/激しい悲しみの中でハンナは「私は主の前に、心を注ぎ出していた」と言いました。これは心が空っぽになるまで出し尽くす祈りです。このような祈りを夫エルカナが受け止められるでしょうか。人間には限界がありますが、神ならこの祈りを聞いてくださいます。
●顔が以前と変わったハンナ/募る憂いと苛立ちがあったハンナですが、神に全てを祈り尽くしたことによってそれを乗り越えたようです。「その顔は、以前のようではなかった」のです。抱えていた問題が消えたわけではありません。しかし、現在の自分を受け入れ、平安と希望を得たのです。
●神に全てをゆだねたハンナ/神を信頼してハンナは願い、そして、与えられた子を神にゆだねました。「願い」と「ゆだねる」は実は同じ言葉です。神に願うことは神にゆだねることと言えます。ハンナは祈りを通して自分の全てを神にゆだねることができたので、今心は満たされているのです。
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