◆私が出会った人たち◆ <連載50>
昔、子ども向けのイベントを教会で行うときには、小学校の下校時間に合わせて校門付近に立ち、子どもたちに直接チラシを配布して案内した。それなりに反響があり、子どもたちが集まった。今は子どもたちの安全を考えて、実施していないが・・・。
ある子どもは興味深そうに、ある子どもは遠慮がちに受け取る。「要りません」とハッキリ言われることもあった。それぞれの反応は楽しい。残念なのは、途中でチラシを破り捨てていく子どもがいること。捨てられたチラシは回収していくが、拾う枚数分だけ寂しさがこみあげて来た。
チラシを家に持ち帰ってもらうための工夫もした。クイズを盛り込んだのだ。
「後でゆっくり考えようかな…」
一定の効果はあった。
ある日の下校時間。いつものようにチラシを配布しているとき、何やらこちらを気にしている一人の子どもがいた。
チラシが欲しいということかな?
「どうぞ!家に持ち帰って良く見てね」とチラシを渡した。とても嬉しそうに受け取ってくれた。でも、それで帰るわけでもなく、何か話しをしたい様子だったので、チラシの内容を丁寧に説明してあげた。
「行きたいっ!」
イベントをとても気に入ってくれた。
「ご家族に反対されないといいなあ…」
この子どものことを気にかけながら当日を迎えた。すると、あの日の子どもが来てくれたのだ。イベントを一緒に楽しみ、笑い合い、親しくなった。私たちにとって嬉しい日となったが、その子どもにとっても忘れられない日になったかもしれない。
その日から始まったこの子どもとのつながりは今に至るまで長く長く続いている。
[ほっとひと息・第150号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載49>
今まで何人の受刑者とつながってきただろうか。一人一人、そこに至る事情も背景も全く違っていた。また、後悔している人もいるし、「たまたまこうなった」という認識の人もいる。「もう絶対にこんなところは嫌だ」と固く決意している人もいた。
私との出会いが役に立ったかどうかは分からない。ほとんどが手紙のやり取りだから、中には顔も知らない人がいるほどだ。
ある日、保護司さんが訪ねて来られた。私が関わっている人が仮出所することになったためだ。保護司さんは犯罪者たちの立ち直りを支え、社会復帰を支援している。
「そうか、こういうつながりも生まれるんだなあ~」
複数の保護司さんと出会った。一人一人のために力を尽くし、気にかけ、社会復帰を期待していることを肌で感じた。保護司さんはとても誠実な方だ。しかし、苦労が報われることはあまりない様子だった。
ようやく出所しても再犯してしまう人が多いことはよく知られている。私がつながった人もそうだった。収監中の人間関係に引きずられるケースもあるらしい。
受刑者たちの更生支援、社会復帰支援を行うために「マザーハウス」というNPO法人が活動していることを知った。立ち上げた人は元受刑者である。
小さなきっかけや思わぬ出会いで犯罪者になる人がいる一方で、愛のある出会いがきっかけで再犯から遠ざかれる人もいる。
私がつながってきた人も、受刑者を目指して生きて来たわけではない。これらの人たちへの偏見を持つことなく、大切な一人一人として愛をもってつながることができたら、何かが変わり始めるだろうと思う。その役に立てたらと願っている。
[ほっとひと息・第149号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載48>
警察署の留置場への面会から始まった一人の受刑者との出会い。彼には長い懲役刑が言い渡され、刑務所に収監された。
一度扉が開くと同じような出会いが続くから不思議だ。私はまた試されていく。
新たな受刑者との交流が始まった。今度は女性。穏やかで、自分と似たような世代のようだが、面会室で会話をしていると子どものような一面も感じられた。
本人と話していく中で、素直にまっすぐ話を聞く方だとわかったが、手紙のやり取りをしていくうちに、読み書きがかなりできないことがわかった。これまで学校生活や社会生活をどれ位してきたのだろうか・・・。成育歴が気になった。
何回も刑務所を行き来してきたと話してくれた。犯罪 ⇒ 逮捕 ⇒ 刑務所 ⇒ 出所して社会へ ⇒ 犯罪 ⇒ 逮捕 ⇒ 刑務所 ⇒ 出所して社会へ ⇒ 犯罪・・・。どうやら刑務所生活の方が長いようなのだ。
彼女の出所が近づいた頃、思い切って帰住地(出所後の生活の場のこと)の確保に取り組んだ。友人を頼りながら・・・。こちらを信用して下さって、面倒な依頼にもかかわらず部屋を貸してもらえた。しかし、苦労はまもなく水の泡になってしまった。
出所後10日もしない内に逮捕された。これで私もようやくわかった。社会生活に戻れるような状況で出所して来るわけではないということだ。結局、刑務所での規則正しい生活の方に馴染んでいるし、自由よりも管理されている方が楽なのだ。
その後、音信は度々途絶えるが、困った時に手紙をくれるという交流が続いた。
私の知らない犯罪者の事情を体験的に知った。この方々のために牧師として何ができるのか。今なお私は試されている。
[ほっとひと息・第148号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載47>
ある日、教会の電話が鳴った。
「警察署の者です。留置場に拘留中の男性が牧師さんと話をしたいと言っています。来てもらうことはできますか?」
どんな出会いも大切にしたいと思っていただけに、私の中に断る選択肢はなかった。しかし、これは私にとって冒険のようなものだった。
初めて入った留置場のある建物、そして面会受付。すでに面会を待つ人がいた。順番を待っていよいよ面会室へ。そして、依頼主が警察官に連れられて入ってきた。
現れたのは年配の男性。気さくに良くしゃべることに戸惑いつつも、とにかく話に耳を傾けた。小さな事件を起こして捕まったと言っていたが、話の中心は、いろいろ困っているので相談に乗ってほしいということだった。「拘留されていて自分は何もできないから」という理屈だった。
「??」正直、ため息が出そうになった。
彼の裁判の傍聴に出かけた。罪状が読み上げられるのを聞いて驚いた。小さな事件などではなく、彼は人を傷つけたのだ。しかし、被害者のことなど気にもかけず、「自分は大したことはしていない」と。その身勝手さに今度は憤りを覚えた。
「これからどうしようか…」と迷いながらも、「どんな出会いも大切に…」と思っていた自分を思い出し、関わり続けることにした。面会のために数回は足を運んだが、それ以外はほとんど手紙のやり取りだ。
私は思った。「自分は便利に使われるだけかもしれない」。実際、それはほぼ事実だった。そして思った。「私は神に試されているのかもしれない」。彼をあるがままで愛し、受け入れ、彼のために善を行うことができるのか、と。確かに試されている。
[ほっとひと息・第147号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載46>
心病む人とつながり、出口の見えない叫びを繰り返し伺った。一方で、その方のご両親のため息を受け止めることにもなった。ご両親は、子どものことより自分の平穏な暮らしに関心があったので、子どもを責めるような言動が多かった。複雑な話になり悩んだが、イエス様が私の悩みを受け止めてくれた。イエス様は私の相談相手、祈りは私にとって充電の時間だ。
本人は教会の集会にも出席するようになり、聖書を一緒に学んだり、他の人とも交流できるようになった。教会に足を運ぶことに安心があったのだろうと思うが、良く通ってくれた。それでも、病による生きづらさの解消には至らなかった。
教会にいる時は「いい感じ」になっているようであっても、家に帰れば両親と顔を合わせることになる。両親は子どもを見てため息をつく。本人もそんな両親を見てため息…。出口が遠ざかっていく…。
私は自分の力不足、経験不足を感じた。役に立てないもどかしさに潰れそうだった。一生懸命に関わってきたが、結局、本人もご両親も何かを手にしたということはなかっただろう。
でも思った。心病む人をいやせるのは誰だろうか…。私が知識を増し加え、経験を積み重ね、カウンセリングの技術を高めても、それで人がいやされるわけではない。私が人をいやすなど、そんな大それたことはできない。これは神のわざだ。私はそのための支援者であり、先導役なのだ。
イエス様が「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いている。イエス様とつながるなら、心病む人の心に光が射し込んでくるだろう。
[ほっとひと息・第146号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載45>
心病む人が教会に来られ、誰にも分かってもらえない心の苦しみや生きづらさをお聴きした。「話せてよかった」と思ってもらえたのか、続けて来るようになった。
ある時、ご両親が一緒に来られた。「理解者ではない」と聞いていたが、親は親なりに子どものことを心配していたのだ。
ご両親に家庭での様子を聞かせてもらった。すると、本人とご両親の話には大きなずれがあることが分かった。
「これだと大変だなー!」
子どものことを心配していることは間違いないものの、心の叫びを受け止める様子は見られず、むしろ、子どもの考え方や行動などに意見を言うばかり…。やはりご両親は理解者ではなかった。
「何とか、まともな方向に変わっていってほしい」という願いがご両親の言葉の端々に見られた。「親だって大変なんだ!」という気持ちばかりが伝わってきた。
本人とご両親が一緒に来るのは良くないと判断し、別々に来ていただくようにお願いした。
ご両親は、自分たちが穏やかに暮らせないでいることがストレスなんだと、世間の親たちと比べて子どものことで余計な苦労をしているんだと、いつまでこのままなのだろうかとため息ばかり漏らしていた。
「一番大変なのは子どもさんご本人ではないですか?」
私の言葉が届くことはなかった。
ご両親から、子どものことで自分たちが苦労していること、これからの日々で望んでいることなどをお聴きするようになり、私はご両親のため息の受け止め役という存在になっていた。気づけば相談者は三人に…。出口はまだまだ遠いようだ。
[ほっとひと息・第145号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載44>
これはまだ、私の牧師としての経験が浅い頃のこと。
ある日、心病む人が教会に来ることになった。何となく身構えている私。かつて学んだ心理学やカウンセリングを振り返りながら…。それにしても落ち着かない。
いよいよ約束の時間、その方は来られた。初めて訪れた教会の中をキョロキョロと見回しながら、それでも、余り見慣れないだろう髭を生やした牧師の顔に戸惑うことなく、少しずつ話は始まった。
誰にも分かってもらえない心の苦しみや生きづらさが語られた。ずっと静かにお話しされるのだが、強い自己否定があり、自殺未遂も経験し、これまで抱え続けてきた心の闇、出口の見えない叫びにも似た言葉を私は聞いた。また、両親は理解者ではない様子だった。家に戻っても安らぎがないのなら、せめてこの時間がこの方にとって安息の時間になればと願った。
気づけば2時間が経とうとしていた。とにかく話を聞かせてもらった。
心の苦しみ、生きづらさというものは、昨日今日始まったものではなく、長い月日の流れの中で溜まっていったものだ。また、特定の「あの日のこと」がすべての原因であるということもほとんどない。
この方も同様に、ずっと幼い頃からの積み重ねで心病むようになり、やがて病院にも通うようになったのだ。だから、この方の現在を知るとともに、この方の子ども時代を知ることはどうしても必要なのだ。
聞くための時間が長くなるのは避けられないが、それがこの方を受けとめる私の意志の現れにもなると思う。アドバイスなどは何もしなかった。正直、そんな大それたことなど言える自分でもなかった。
[ほっとひと息・第144号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載43>
最初に出会った奥様の方ではなく、教会への送り迎えをしたご主人が教会を気に入り、そしてクリスチャンになった。
「こんなことって、あるんだなー!」
以来、彼は毎週、礼拝に出席するようになった。自分の聖書も購入し、次第にお祈りもできるようになった。いつしか年老いたお母さんも礼拝に来るようになった。時には、一緒に暮らしている弟さんも…。気づいてみれば家族みんなが私たちの教会とつながるようになっていた。
「みんな、とても楽しそうで良かった。」
やがて彼は思川で洗礼を受けた。
「神様のなさることはすばらしい!」
ところが…、ある日突然、彼は病を負う人になった。緊急入院、治療、そしてリハビリに取り組み、何とか元の生活には戻れたものの、体に残った麻痺のために、仕事を辞めることになってしまった。
「仕方ないよ」。彼は私にそう言った。
毎日家にいるのならと、私がほぼ毎週、平日に家を訪ね、一緒に聖書を学び、お祈りすることにした。これはとても喜ばれた。
私が行く日を彼は楽しみに待っていてくれた。いろいろ昔の話も聞かせてもらった。家にはお母さんもいるので、「一緒にどうぞ」と誘うと、お母さんも加わって楽しさ倍増!幸いな午後のひと時だった。
この時間があったからだろうか…。お母さんもイエス様を信じて洗礼を受けた。その後、しばらくして、彼の奥様も同じように信仰を告白して洗礼を受けた。
振り返れば、彼の妹さんが兄夫婦のことを心配して電話をかけてきたことに始まる。背後でお祈りしていたのだろう。おかげでこの家族に神のみわざが現れたのだ。
これらすべてを導かれた神様に感謝!
[ほっとひと息・第143号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載42>
兄夫婦のことを心配した妹さんからの電話がすべてのきっかけだった。先にお会いできたのはお義姉さん。それにしても、病院にお見舞いに行くことが最初とは…。
退院後、彼女は日曜日の礼拝に来て下さった。お礼の挨拶に来られたのかもしれないが、嬉しい再会だった。自動車で送迎していたのは電話して来られた方のお兄さん。つまり彼女のご主人だ。
夫婦仲があまり良くないと聞いていたので、どんなご主人だろうかと想像していたが、穏やかで、怖そうな雰囲気もなかった。
「思っていたより、深刻な状況でもないのかな?」
もう一度、彼女は礼拝に来られた。すると、送迎していたご主人が自動車から降りて来た。そして教会の中へ…。
「クレームを言われる?」
いっしょに礼拝するためだった。私の頭の中は混乱し、戸惑ってしまった。
そして、そして!もう一度礼拝に来られた時には、ご主人だけになった。
「なんで?」
ご主人が教会を気に入ってくださった。賛美歌を歌い、聖書の話も良く聞いておられた。とても真面目だった。奥様はもう、教会への興味はなくなっていたようだ。
「日曜日は教会に行く」ということがご主人の習慣になってきたようだった。
ある日の礼拝の後で尋ねてみた。
「神様の前に自分が罪人であることがわかりますか?イエス様は罪がもたらす滅びから私たちを救うために十字架で死なれた救い主であることを信じますか?」
「はい!」 素直な応答だった。
思ってもみなかったまさかの展開。それにしても、これは嬉しい!本当に嬉しい!
[ほっとひと息・第142号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載41>
「兄夫婦のことが心配で電話しました。」
遠くにお住まいの方からだった。兄夫婦の仲があまり良くないと訴える内容だった。電話して来られた方はクリスチャンで、牧師に助けを求めてきた。「何とかしてほしい、助けてほしい…」と。
全く知らないご夫妻。何も接点がない方を訪ねることは難しいなと思っていた中で、改めて電話が鳴った。
「お義姉さんが体調を崩して入院したそうです。牧師さん、回復のためにお祈りしに行ってほしい!」と。
状況が良くわからない中であったが、神様が備えた出会いなのかもしれないと思い、お見舞いに行くことを約束した。
全く面識のない方をお見舞いするのは緊張する。わかっているのは名前だけ…。「不審者!」と思われるかもしれないが、お祈りしながら、勇気をもって病室を訪ねた。大部屋で、ベッドに座っておられた。
まずは自己紹介。次に、どうして私がお見舞いに来たのかを丁寧にお話しした。特に警戒されることなくお見舞いを受け入れてくれた時は本当にホッとした。彼女は自分の病状について話してくださった。それから、聖書の言葉を読み、病気の回復と一日も早い退院のためにお祈りした。ピンと来ない様子だったが、気持ちは通じたようで、お祈りが終わった時、「どうもありがとう!」とお礼を言ってくださった。
この出会いは、この後、どのようになるのか全く想像もできなかったが、ある日の礼拝に、退院された彼女が来られたのには驚いた。あの時のお見舞いとお祈りが嬉しかった様子だった。教会の行き来はご主人が自動車で送迎してくれていた。出会いはやはりいつも不思議なものだ。
[ほっとひと息・第141号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載40>
計画したゴスペルコンサートは反響も大きく、成功だった。教会に聴きに来てくださった方々以上に、メンバーが楽しそうだったことが何よりの成果かもしれない。
そして、「次は…、いつ?」
最初が夏のコンサートだったので、やはり「次はクリスマス!」で一致した。
練習が始まった。ある日、リーダーの彼女が休んだ。私がリーダーの代わりではあまりにも役不足。それでも目標を目指して共に声を合わせた。ところが、時々同じことが起きるようになった。私たちは見えない曲がり角に差し掛かろうとしていた。
原因は誰にもわからなかった。彼女は決して自分の胸の内を明かさなかったからだ。燃え尽きてしまったのか…、本業で疲れているのか…、何か痛みを負っているのかもしれない…。この活動を続ける意思があることは彼女自身が話していたので、いつか回復するだろうと期待していた。
待望のコンサートの日が近づいてきた。しかし、彼女の顔は沈んだままだった。目前に迫ったある日、「自分はもう、できません。ごめんなさい」と告げられた。
準備はすべて整えていたので、小さなクリスマス・ゴスペルコンサートではあったが、何とかやり遂げた。でも、彼女がいない物足りなさはどうにも埋められない…。
「いっしょに歌いたかったね!」
彼女と会う機会は次第になくなっていった。風のように現れ、また風のように新しい場所へと吹いて行ったのだろうか。今、どこかの教会で彼女はゴスペルで人々を惹き付けているのかもしれない。
大きく膨らんだゴスペルの熱気はしぼんでしまったが、教会が神様に向かって賛美する喜びを失うことはなかった。
[ほっとひと息・第140号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載39>
突然、風のように教会に現れたアフリカのガーナ出身のクリスチャン女性。映画の主人公にも似た彼女が歌うと、説明できない感動が心に湧き上がってくる。神を信じて生きることの喜びを体で味わうことができた。涙を流す人もいた。
彼女を中心に教会で始めた「ゴスペルを歌おう!」という集まり。彼女は日本語のオリジナル曲も手掛けた。
メンバーのイチ押しは「私の祈り」。曲調に派手さはなく、とても優しい歌だ。
この曲の歌詞を紹介したい。
- 私の祈り -
♪心の中で 貧しいところがある
私の祈り 聞いてください
弱いところもある 主は知っておられる
私の祈り 聞いてください
オー 主 この小さな祈り 力ください
オー 主 この小さな願い 力ください
あなたは愛の主♪
コンサートを計画し、本番に向けて練習を重ねた。そして・・・当日。彼女をソングリーダーに10名程のメンバーでその成果を発表。彼女の独唱もあった。演奏はアコースティックギターとベースギター。
コンサートを知った方々が多数来られて教会は満員。「教会に初めて来ました!」という方々も多く、彼女の存在の大きさを改めて知ることとなった。
新聞取材があったのには驚いた。後日、写真付きで新聞に掲載された。
「ゴスペルを歌おう!」のメンバーたちは充実していた。彼女と一緒に歌えることが喜びだったし、一緒にいることが何より楽しかったようだ。皆がこの出会いに満足していた。けれども、まだまだ続くと思っていたが、曲がり角が待っていた。
[ほっとひと息・第139号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載38>
映画「天使にラブソングを…」を見たことがある。日本で馴染みのある賛美の仕方とは全く違うその雰囲気は魅力的に見えた。ある日曜日、この映画の主人公ウーピー・ゴールドバーグを思わせるような人が礼拝にやって来た。アフリカのガーナ出身のクリスチャンの女性。ご家族で日本に来られ、ALTの英語教師をされていた。
礼拝の中で賛美歌を歌ってくれたことがあった。曲は「アメイジング・グレイス」。楽譜通りに歌うのとは違って、魂で歌うような、心に響く歌い方。体に染みついたものなのだろう。加えて、その優れた声質、声量。とにかく衝撃的だった。
彼女を中心に「ゴスペルを歌おう!」という集まりを土曜日に持つようになった。彼女の写真付きのチラシを配布すると、反響はすぐにあり、「ゴスペルを歌おう!」は順調にスタートした。私はそのサポート役。アコースティックギターで伴奏した。
彼女は教会の賛美歌を歌うだけではなく、自分のオリジナル曲も手掛ける人だった。但し、曲はすべて彼女の頭の中。歌ってそれを表現する。そのオリジナル曲を聞いて私が歌詞を書き留め、日本語のアドバイスもしながら、ギターコードを付けて曲は完成。楽譜起こしはしなかった。
「感謝の歌」、「Halleluyah Praise」、「Glory Halleluyah」、「私の祈り」。メンバーのイチ押しは「私の祈り」だった。
「ゴスペルを歌おう!」に集まる人たちに渡すのは歌詞のみ。耳で曲を覚え、体で曲の雰囲気を感じ取り、顔を上げて全身で歌うのだ。とにかく、みなさん、楽しそうだった。彼女の個性に惹き付けられながら、「これぞ、ゴスペル!」みたいな味わいがあったのかもしれない。
[ほっとひと息・第138号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載37>
毎日を当たり前のように生きている人が多い中で、今日生きるだけでも精一杯だという人もたくさんおられる。生きる力、生きようとする力には差があるのだ。
「もう、生きることをやめます。」
「私にはもう、無理です。」
「お世話になりました。」
これと似た連絡をもらったことが何度もある。携帯に届く短いメールに心臓がドキドキし始めるが、まず、お祈りする。自分が落ち着かないことには何も始まらない。
私が持っている言葉などいつも不十分だ。孤独感や孤立感に耐え切れず、生きる力を失いつつある人に、これを言えば大丈夫などという言葉はひとつもない。
私にできることは何だろうか…。
私は今、どんな言葉を掛けたらいいのだろうか…。
「生きることを諦めないで」という気持ちをどうしたら伝えられるだろうか…。
あなたに何かあったら私は悲しい!
あなたのために涙を流す者がここに一人いる!
私はあなたを失いたくない!生きていてほしい!
「もう少し、生きていきます。」
「ありがとうございます。」
「とても安心しました。」
神がその一人一人を助けてくださった。
「先生の声を聞きたくて…」と電話して来た方がいる。随分と追い詰められている様子だった。詳しい事情は分からないが、すがるような気持ちで連絡してきたようだった。私の声に安心を覚えたことは幸いだが、生きづらさを抱えた人がこんなにもいるのかと思うと胸が痛む。
これからもSOSを受け留めていく。
[ほっとひと息・第137号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載36>
ある日、教会の電話が鳴った。声の主は自分の名前を名乗ることもなく、ゆっくり、静かに、ひと言だけ話された。
「あなたに自分の十字架、ありますか?」
対面での相談であれば、少し質問をさせてもらい、その理由を確かめながらお話しできるが、電話では状況次第となる。相談者の気持ちを損ねればすぐに受話器を置かれてしまうからだ。今回は質問の背景を知ることができないままでの対応となった。
自分の十字架…、おそらく何かしらの苦悩を抱えた方なのだろうと思い巡らしながら、その時に頭に浮かんだ自分自身の現在のことを静かにお話しすることにした。
難病の子を持つ親であること、その子は耳が聞こえず、歩くことができず、視力も失い、今は寝たきりで、夫婦で24時間介護をしていること、この子があとどの位生きられるのかわからないが、神様に祈りながら共に生きる日々を過ごしていると…。
「どうも、ありがとうございました。」
初めと変わらない口調だった。そして電話は終わった。この方が今、何を思っているのか、何も確認できないままとなった。
的外れで、失望させたかもしれない…ともやもやしながら、「イエス様がこの方をお守りくださいますように」と祈った。ただ、話を最後まで聞いてくれたのは事実だ。
月日が経ってから教会の電話が鳴った。
「あの日、教会に電話してお話しできたおかげで、自分は助けられました。もう、生きていられないと思ったのですが、こうして生きる力をいただきました」と。
体が震えるほど驚いた。そして、心からイエス様に感謝のお祈りをした。これはイエス様のみわざだ。一人の人が生きる力を取り戻したのだ。本当に、良かった!
[ほっとひと息・第136号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載35>
随分前、本紙のコラムに「SOSを出して!」として以下の文章を掲載した。
「SOSを出せる誰かがいますか。自分のしていることを打ち明けて聞いてくれる誰かが近くにいますか。自分の重荷をいっしょに背負ってくれる援助者を知っていますか。一人で抱えてはなりません。・・・・・・教会はあなたを援助します。あなたからのSOSを引き受けます。電話やFAXで知らせてください。お手紙でもけっこうです。必ずお返事します。もちろん、教会はあなたの秘密を守ります。いっしょに悩み、いっしょに考え、いっしょに立ち向かいましょう。」と。その後も似たような呼びかけを行った。記録を見てみると4回。
夫婦、子育て、介護、職場、いろいろな人間関係で、行き場を失った不安、失望、怒り、悩み、悲鳴、そして孤立感…。「もう抱えきれない」と人はため息をつき、ある時、限界を感じることがあるのだ。
ある日、SOSを知らせるFAXが届いた。呼びかけておきながら「ドキッ」とした。そこには、真剣な悩みと苦労、率直な言葉と「助けて」の声が綴られていた。
緊張感を覚えながら連絡を取り、まずはお話しをすることができた。子育てにおける苦労が悩みの中心であった。やがて教会でお会いし、胸の内を話すことができたので安心した様子だった。落ち着きを取り戻しているように思えた。いつの間にか、礼拝にも出席するようになり、教会が新たな居場所になっていったように思う。良いつながりが生まれ、穏やかな表情でいられたことにこちらも安心を覚えた。
反響があるのかどうかもわからない小さな呼びかけであったが、この言葉は必要な方のところに届いた。本当に良かった。
[ほっとひと息・第135号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載34>
ペルー、インドネシア、マレーシアなど、遠く外国から日本に来られた方々と出会うことができた。他にも、メキシコ、韓国、ベトナム、ネパールから来られた方もいる。パラグアイから来られた方から美味しいパラグアイ料理をいただいたこともある。
ある日、ブラジル人のご家族が礼拝に来られた。日本語で話すことが上手だったが、ひらがなだけなら日本語を読むこともできると聞き驚いた。「すごく努力されたんだろうなー」と感動したことを覚えている。
聖書は元々、ルビ付きなので、このご家族も日本語で聖書を読むことはできる。ところが、毎週の礼拝で配る「週報」、その他の教会の印刷物の漢字は読めない。これをきっかけに、漢字は全て「ルビ付き」にすることにした。これは私たちの教会で今も続けている習慣であるが、これは漢字が苦手な人でも読むことができる点で、誰にでも優しいものなのだとわかった。
外国から来られた方々と礼拝を一緒にするようになって一つのことを思いついた。たまには、日本人が外国語にチャレンジしてはどうだろうか。そして、外国語を使う苦労をほんの少しでも味わおう…と。
「外国語による賛美」を礼拝に取り入れることにした。カタカナを書き加えた外国語の歌詞を配り、事前に発音などを教えてもらうのだが、これはとても楽しい企画だった。これまで、ブラジルの人が使うポルトガル語、パラグアイの人が使うスペイン語、他に韓国語、ベトナム語で賛美歌を歌うことにチャレンジしてきた。年に1回だが、私たちの教会で定着している。
いろいろな人が教会に集まり、心を通わせられる。教会には国境がないことを実感する。皆さん、来てくれてありがとう!
[ほっとひと息・第134号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載33>
ある日の礼拝にインドネシア人留学生が来られた。クリスチャンで、日本語を話すことができた。物質工学を学ぶのだと教えてくれた。特別なことがない限り礼拝に出席。「なぜ、留学生がこの教会を知って来たのか…」その辺は今ひとつわからないままだったが、彼の中にクリスチャンとして生きる姿を見、とても嬉しかった。
彼が卒業すると、なんと次の留学生が入れ替わるようにして礼拝にやって来た。今度もインドネシア人。彼もクリスチャンで、日本語も上手だった。彼が学ぶのは電子工学。ギターやベースギターができるので、「いつか一緒に演奏しよう!」と意気投合し、一緒にゴスペル・ソングを神に向かって歌った。楽しい思い出だ。「同じ留学生のクリスチャンの間で、近くの教会に行くことが受け継がれているんです」と彼が教えてくれた。「あー、なるほど。それで!」と、ようやく事情が呑み込めた。
今度は、マレーシア人の留学生が礼拝に来るようになった。彼は建築学を学んでいた。日本語がとても上手で驚いた。「今度、日本語の弁論大会に出るから…」と原稿を持って来たことがあった。発音や文章の指導を求められたのだ。また、彼はピアノが弾けるので、教会でも弾いてもらうこともあった。礼拝でお祈りをお願いしたこともあったが、「マレーシア語でもいいですか?」と言われたので、「どうぞ!」と言うと、臆することなくお祈りもしてくれた。
これはまるで「留学生の波」のようだった。彼らとの出会いは楽しく、思い出深いものだった。「今後も続くかな?」と思ったが、いつの間にか波は消えてしまった。留学生にクリスチャンがいなくなったのだろうか…。少し、寂しい気持ちがしている。
[ほっとひと息・第133号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載32>
教会の玄関ドアには赤い十字架のマークが貼ってある。それを見た人が「ここは病院?」。ペルーからやって来た女性だったが、彼女の目にはそのように映った。
こんな小さなことがきっかけで、時々、彼女は教会に訪れるようになった。
彼女は私たち夫婦と同じ世代のように見えた。その頃、私たち夫婦は子育て真っ最中。長男はまだ幼かった。彼女は子どもに会いたい気持ちもあったようだ。
遠くペルーから日本に働きに来ていた。ご主人や弟さんも一緒に来ていて、幼い子どもはペルーに置いて来たそうだ。慣れない日本で、日本語を一生懸命に覚え、つつましい暮らしをしながら、良く働き、故郷の家族を支えていたようだ。
彼女の口癖は「ウーン、ベイビー!」。私たちの子どもを見ては抱いてほおずりしていた。故郷に置いて来るしかなかった我が子の姿が重なり、愛おしかったのだろう。
ある日、一人の青年が礼拝に来られた。外国人研修制度により、インドネシアからやって来たようだ。まじめな方だった。
「インドネシア語で聖書は何ていうの?」から始まり、聖書の中の66巻のタイトルを全て教わり、礼拝の時に「今日の聖書箇所は〇〇ですよ」と伝えた。
生活はとても大変そうだった。研修生の給与は他の従業員と違って低く、その中からかなりの割合で母国の家族に送金していた。月々の自分の生活費として残る金額を聞いた時には本当に驚いたが、最初からそのつもりであるし、働いて技術を学ぶために来日していたのだ。
外国人研修制度が始まったばかりの頃だったのかもしれない。ある日、突然、いなくなった。帰国したのだろうか…。
[ほっとひと息・第132号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載31>
「キリスト教式で葬儀をしたい」と言って教会に来られた彼の準備は整った。遺影撮影、献体手続き、キリスト教信仰…。そして、その日は刻一刻と迫っていた。
「入院しましたっ!」と奥様から連絡が入った。すぐに病室に駆け付けたのは言うまでもない。その後、何度も面会に伺った。「私にできることは何だろう?」と正直、迷いながら顔を出し、聖書を開き、平安を祈ることを繰り返した。そして帰り際には「頑張って!」とエールを送った。
ある日、奥様から電話があった。「辛い状態が続いているので、しばらく面会は控えてほしい」と。ハッと気づいた。私は面会を拒ばれたのだ。私の帰り際のあのひと言が原因だった。彼はすでに死を受け入れていた。今、最も辛く苦しい毎日に耐え、歯を食いしばって頑張っているのに、私は、平安を届けるつもりが、かえって辛さを増す発言をしていたのだ。申し訳なかった。
彼は末期患者のための緩和ケアのある病院に入院することを希望していたが叶わず、市民病院に入院した。もはや治療ではなく痛みを和らげることを中心にした「今日一日」の繰り返しであったが、ここには奥様と二人だけの時間が流れていた。ご夫妻を見守る人たちにはその病室はホスピスに見えたに違いない。
その日がやって来た。
真夜中に電話が鳴り、急いで病室へ。その時が看取りとなった。私が司式者を務め、キリスト教式で前夜式と告別式を行った。精一杯、責任を果たさせてもらった。
彼が教会に来てからわずか4か月。本当に忘れられない出会いだった。彼を通じて死期を意識する者の生き方、生き様に目が開かれた。この出会いは私の宝物だ。
[ほっとひと息・第131号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載30>
今まで、これほど戸惑ったことはない。初対面での自己紹介がいきなり「私は末期のがん患者です」なのだ。
余命宣告を受け、自分の死期を悟っていた彼は、「今日」を一生懸命に生き抜こうとする姿を見せつつ、一方では、その日への備えに余念がなかった。
それにしても、なぜ「キリスト教で葬儀をしたい」と言ったのだろうか…。
お話を伺いながらわかったことがあった。それはクリスチャンの葬儀に出た時に、仏教式の葬儀では得られない、何とも言えない良い印象を受けたということだ。その時に決断した。「自分もこれがいい!」。
彼のその日への備えは半端なものではなかった。それは遺影の準備。何枚も何枚も写真を撮り、それを楽しそうに見せてくれた。わくわくするような話ではないのに、気がついたら、私まで「んー、どれがいいかな?」と、写真選びに夢中になっていた。
献体の手続きもしておられ、まるで準備万端という感じだったが、奥様との時間をたくさん確保して、あっちにもこっちにも旅行しておられる様子を伺った時には、胸が熱くなった。「あれもやっておけばよかった」、「もっと二人で過ごす時間をとっておけばよかった」と後悔しないための、奥様を思いやる愛情にあふれたものだったのだ。
そして、もう一つの大切な備え。それは聖書の学び。いつ体調が急変するかわからない病状の中、「キリスト教入門クラス」を受講し、自分の罪のために十字架で死なれた救い主イエス様を信じる決心をし、信仰告白のお祈りをした。最後まで学び続けられる体力を神様が備えてくださった。
近づいてくるその日を前に、ここまでの備えをした人がほかにいるだろうか…。
[ほっとひと息・第130号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載29>
「私は末期のがん患者です。人生は残り少なくなりました。キリスト教式で葬儀をしたいので、よろしくお願いします。」
車を運転して日曜日の礼拝に初めて来られた彼は朗らかで、顔色も良い壮年の男性。そして、これが彼の自己紹介。
目を丸くして私は戸惑った。末期がんの方と出会ったことがなかった私は、ただただ慎重に言葉を選びながら会話を進めた。
働き盛りの、元気で、活動的な方にしか見えなかった。けれども、もうゆっくり生きる時間的余裕はないのだと…。人は見かけだけではわからないものだと知った。
がんの宣告の時はどう思ったのか、これまでにどのような苦労を重ねて来られたのか、この笑顔になるまでにどれほどの不安や葛藤を経験されたのか…。私が想像してみたところでわかるはずもない。
神様が彼を私たちの教会に連れて来てくださった。この出会いは偶然ではない。
成人病検診で異常が見つかったのが全ての始まりだったようだ。やがて、がんの告知。それからというもの、情報を集め、治療法を試し、効果に期待し、副作用と戦いながら完治に向けて努力して来られた。
がんはすでに転移していた。顔にはツヤがあり、人を笑わせるような話もされるユニークで楽しい人だったが、一方では、薬のためにむかむかしたり、座っていることが大変なこともあったようだ。
「がんと知って生きる」と題して、彼は医療や福祉を目指す若者のために自分の体験を話して来られた。死期を悟る者だからこそ「今日」を一生懸命に生きる姿がそこにあった。こちらが恥ずかしくなるほどの真摯な生き方、自分の「生」を精一杯生きるその姿に、私は心から感動していた。
[ほっとひと息・第129号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載28>
私にとって発達障害の子どもとの出会いはどれも忘れられない良い思い出。ダウン症の子と出会い、自閉症の子と出会い、その中でコミュニケーションがうまくいったりいかなかったり…。
新しく自閉症の子と出会った。まだ幼児期で、色白の男の子。いつも何かしらつぶやいているが、時々、こちらに関心を寄せてきた。膝に乗って来てくれたこともあった。可愛いしぐさに心癒される思いであったが、しかし、その子のお母さんには将来を見通せない不安しかなかった。「普通じゃない子」と見てしまい、「ごめんなさい、変な子なんで…」とつい言葉にしてしまう。
そのお母さんのどんな話にも付き合った。自分を責める言葉、泣き言、尽きない不安を聴いた。私にはこの子との時間はほんの1時間。でも、お母さんにとっては24時間、年中無休。そのお母さんに寄り添うことが私にできるささやかな応援だった。
ある日、ADHD(注意欠陥多動性障害)の小学生とご両親が教会に来られた。援助を求められたのでお母さんに特徴と対応の仕方をお伝えしたが、「いつ普通の子になる?」と。お父さんは「この子は普通の子だよ」と。理解を示すことはなかった。
私は彼と仲良くなれた。平日もたまに訪問して一緒に遊んだ。信頼関係はできたのだが、急に引っ越してしまい、会えなくなった。今頃、どうしているのだろうか…。
生きずらさの中にいる人たちがいる。それを理解して接することができたらそれでいいと思う。生きずらさの中にいる人と暮らす家族がいる。世間に申し訳ない思いを持たなくて良い社会になるようにと祈り願っている。皆、愛されるために生まれた、かけがえのない一人一人なのだから。
[ほっとひと息・第128号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載27>
私が出会ったダウン症の子とそのお母さん。次の子を妊娠し、不安が消えないでいた。もし、次の子も同じだったら…と。
そのお母さんはクリスチャンではなかったが、私たち夫婦の訪問を喜んでくれた。次の出産のため特別にお祈りしましょうとの提案に大きくうなずいてくださった。
「特別な祈り」と言っても、特別な道具や飾り物、服があるわけでもなく、不思議な水もいらない。ただ、適切な聖書のことばを探し、祈りの言葉を整えることだけだ。私はその準備をして約束の日を迎えた。
そのお母さんは私たちを快く迎えてくださった。椅子に座ってもらい、聖書の言葉をいくつか朗読した。そして、そのお母さんの頭の上に手を置き、お祈りした。
力よりも心を込めて、真実に神に向かって祈った。お母さんも真剣に聖書の言葉を聞き、祈りに心を合わせてくださった。そして最後、一緒に「アーメン」と。
不思議な安堵感、平安、安心がその部屋の中に満ちていた。「もう、すべて神様に任せよう」、そのお母さんの心に一つの決断が生まれていた。大きな助けがあることを胸に、そのお母さんは次の子の出産に向けて一歩ずつ踏み出せるようになった。
このお母さんとの出会いは私たち夫婦に大きな影響を与えた。私たち夫婦の2番目の子の出産の時、私たちは何気ない会話をした。「私たちにも神様が障碍児を与えてくださることもあるだろうね」。
二男は生後1歳の時に、難病ムコ多糖症と診断された。ここに神のご計画を知った。
発達障害の子との出会いはこれで終わりではない。この後も別な特徴を持った子どもたちやご両親と出会ってきた。忘れられない思い出がいろいろと残っている…。
[ほっとひと息・第127号より]
◆私が出会った人たち◆ <連載26>
ダウン症の子とそのお母さんと出会った。私にとっては初めての経験ではない。私はこの子たちがとても好きだ。
振り返れば、学生時代に通っていた教会にダウン症の子がいた。まだ幼い子だったが、関心を持って近づき、仲良くなった。体の柔軟性にびっくりし、それは一つの特徴であることを学んだ。ご両親にはいろいろなご苦労があるらしいが、私は単純にその子と会えるのが楽しみだった。
そこには自閉症の子もいた。長くじっとしていることは大変そうだったが、気がつくとその子を観察している自分がいた。ご家族から特徴について聞きながら、どうにかうまく関わりたいなと思っていたのだ。
今まで知ることのなかった発達障害の子どもたちとの出会いは忘れられない。私は基本的に人が好きなのだろう。観察しては特徴をつかみ、慣れてくれば、この子たちとの付き合いは自然とうまくいった。
久しぶりに出会った幼いダウン症の子。私はと言えば、もちろん、興味津々。仲良くなりたいなと目を輝かせてしまう自分に気がついた。こっちに興味を持ってくれたら、それは大きな一歩だ。
けれども、そのお母さんには大きな心配事があった。育て方、成長発達、社会の理解、将来のこと…。当然そのようなこともあったが、もっと差し迫ったことがあった。それは次の子を妊娠していたことだった。
「この子を愛しているし、生まれてきたことを喜んでいる。でも、もし、次の子も同じだったら…。不安が消えない、心配が尽きない、羊水検査を受けたいが、結果を想像してまた不安になってしまう」と。
お母さんのため、次の子の出産のために特別にお祈りをすることに決めた。
[ほっとひと息・第126号より]