皆様、お変わりありませんか。
四字熟語を出し合って遊んだときに思わず「焼肉定食!」と言った人がいて大笑いした話がありますが、それを言うなら弱肉強食です。でもこの言葉を聞くと時代がそうなって来たなと悲しみが募ります。
力のある者たちが世界をリードしていますが、弱い者に目が向けられていないからです。淘汰されてしまうのでしょうか。
人が上を目指すことは素晴らしいことです。けれども、その結果、人を見下すようになるのはいかがなものでしょうか。
神は全く正反対のことをされました。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ人への手紙2:6-8)
キリストの誕生を「降誕」と言いますが、天から降って来られたからです。神は低く、貧しく、空しくなってくださいました。
それは私たちのためです。小さき者、弱き者に手を差し伸べるため、見下され、忘れられ、虐げられている者たちに光を届けるため、救い主は降って来られました。
人は昔から自分の力を世界に見せつけようと頑張り、ついて来られない人は見捨てていきますが、神は小さき者の側に寄り添い、その存在を愛で包んでくださる方なのです。神はいつくしみ深い方なのです。
キリストのあり方に倣ったのでしょう。小さき者に目を留めた歴史上の人物はたくさんいます。マザー・テレサ、賀川豊彦、石井十次、沢田美喜、田中正造など。
自分を小さき者だと思っている方、喜んでください。キリストはあなたを愛といつくしみ深い御手で包むために天より降誕された方なのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第150号より]
皆様、お変わりありませんか。
私たちは目に見えるものに振り回されて心揺さぶられることがほとんどだと思います。日々感じる物価高にあえぎ、加速する温暖化に悲鳴を上げ、何が起きても変わる気配を感じない政治に腹が立ち、終わらない戦争に悲しみを隠せません。
イスラエル人たちは、目の前に海が広がり、後ろから追っ手が近づいたとき、つまり逃げ場を失った状況の中で不安に包まれ、絶望を感じて泣きわめきました。「神の民」と呼ばれる人たちですが、目に見えるものには勝てませんでした。不安はマイナスに働き、人の心から神を待ち望むことを忘れさせてしまいます。不安は人の視野を狭くし、神に頼る道を見えなくしてしまうのです。でも、聖書は語ります。
「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(出エジプト記14:14)
目に見えるものが自分の心を揺さぶるとき、目に見えないものがまだ残されていることを思い出したいと思います。
聖書は語っています。
「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ人への手紙8:32)
神は愛なる方、平安を与える方です。渇いて行く私たちの心に潤いをもたらし、希望の光を与える方でもあります。いつも私たちのことを心配し、迷い出たなら命がけで捜し出して安全な場所へと連れ戻してくれるのです。そうです。神は私たちを見捨てることがないお方なのです。
どうぞ、目には見えませんが、確かに存在している私たちの神に目を向けてください。神は皆さん一人一人のことを心から心配しているのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第149号より]
皆様、お変わりありませんか。
人のために役に立つことをしたいと思う人は大勢いらっしゃるでしょう。そして、そのようなことをとても上手にこなせる方々もいらっしゃいます。
聖書に「もてなし上手で働き者」のマルタという女性が登場します。イエスと弟子たちを客として迎えたので、マルタは早速もてなしのために忙しく働きました。
こういう時に陥りやすい感情がマルタの中から吹き出てきました。それは「私がこんなにせっせと働いているのに、家族は手伝いに来ないのか」。マリアという姉妹がいますが、彼女がイエスの前に座って話を聞くことに集中していたからです。
イエスはマルタに言いました。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。」(ルカの福音書10:41-42)
マルタはイエスのためにと思いながら自分が満足することを求めたのでしょうか。もてなしで客を喜ばせたいはずなのに、次第に喜べなくなり、険しい顔つきになってしまいました。他人事ではありません。
たくさんの働きを抱え過ぎると思い煩いも増えて心が乱れます。自分は人のために一生懸命に尽くそうとしているのだという自負が強まると、同じことをしない人が気になり非難するかもしれません。
イエスがマルタに伝えたかったことは何でしょう。「もてなしは後でもできることだから、今はマリアと同じように座ってわたしの話を聞いてはどうだい」ということだったように思います。
多くの働きでへとへとになってしまう前に、「ほっとひと息」する時間、心を満たす聖書のことばを聞く時間を取るのはいかがですか。まず心を豊かに保つ時間を優先的に取ることをお勧めします。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第148号より]
皆様、お変わりありませんか。
「あるがままでいいですよ!」となかなか言ってもらえないのが私たちの社会です。何ができますか?どんな経験をしてきましたか?何か資格を持っていますか? アピールするものがあって生き生きしていられる人も多いでしょうが、生きづらさを感じている人が大勢いるのも事実です。
私たちはどうしても強さを売り物にし、弱さは隠しておかないといけないと考えてしまいます。人間の社会も弱肉強食なのでしょうか。
聖書には次のようなことばがあります。
「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(第1コリント1:27、28)
イエス様は、世間の嫌われ者、学のない者、血の気の多い者などを弟子として招きました。また、罪人の客となり、弱っている者、悲しんでいる者、切羽詰まっている人などに寄り添いました。
イエス様に受け入れられるために何者かになる必要はなかったのです。資格も能力も求められない、積み重ねた善行もいらない、学がなくても良い、強くなくても、貧しくても、病気があっても、罪深い者でもイエス様はあるがままで受け入れました。
「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。」(申命記7:7)
イエス様は社会の価値観とは異なる目をもって私たちを愛し、受け入れて下さいます。あなたが何者でなくても、イエス様はあなたを招いておられるのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第147号より]
皆様、お変わりありませんか。
成功した話より失敗した話は参考になります。学ぶことが多くあるからです。
イエスの「弟子の中の弟子」であるペテロは情熱的で且つ積極的で、行動力もありましたが、彼は大失敗した人物です。
イエスが十字架につけられる日の前日、ペテロがイエスに言いました。「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカの福音書22:33)。弟子としての勇敢な態度です。
覚悟ができてもその通りに行動できるとは限りません。今日は強い意思を示しながら、明日は弱気になるのが私たちです。
裁判を受けているイエスの近くで、ペテロは周囲の人から声をかけられました。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」(マルコの福音書14:67)。彼はイエスのことは知らないと三度も反応しました。まさかの裏切り…。彼は泣きました。
小さな失敗ならやり直せても、大失敗したならどうなのでしょう。ペテロはもう、やり直せないのでしょうか。
人は何度でもやり直せるのです。イエスはペテロのために次のように祈りました。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」(ルカの福音書22:32)。私たちが失敗することをイエスはわかっているのです。だから、立ち直れるようにイエスは私たちのことを気にかけ、祈っていてくださるのです。
弱さと向き合うことは大切です。自分を頼ることを止め、信仰によってイエスから愛と力をいただく者に変えられるなら、人は本当の強さを身に着けられるでしょう。
ペテロは後日、見違えるように立ち直り、教会のリーダーとして仕えました。イエスがやり直させてくださったのです。何よりもまずイエスに祈る、その生き方があなたの強さとなることでしょう。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第146号より]
皆様、お変わりありませんか。
今、私たちの社会は何を求めているのでしょう。いろいろな意味でそれは「出口」かもしれません。脅かされる平和の出口、お金に蝕まれた政治の、生活を苦しめる物価高の、軽く扱われている人権の、被災した状況からの出口などです。
出口と言えばトンネルの先に見える一筋の光…。光は希望です。しかし、見えてきたものは「力」。実業家の財政力、政治家の鈍感力、有事に備えた軍事力、SNSの発信力など、社会はそれに動かされています。それが希望の光かどうかは別です。
聖書が語っています。
「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ書9:2)
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1:9)
闇の中を歩んでいる人たちのために、すべての人を照らすために、光が来ると神は約束したのです。それは一部の人だけが光の中を生きるためでは決してありません。
その光はすでに来たのです。クリスマス、救い主イエスの誕生のことです。
この光は私たちに希望をもたらすまことの光です。その光の中心にあるのは「愛」。愛の光はすべての人をやさしく包み込みます。イエスの誕生と生涯の中には神の愛が見え、満ちています。
世の中のさまざまな「力」は新しい壁を作り出したり、人を区別し排除することがあります。人を悲しませることもあります。けれども、すべての人を照らすまことの光として私たちの地に来られたイエスによって、心は安らぎ、魂は安息し、愛されるために生まれた一人一人であることを知ることができたのです。この光がもたらす希望はいつまでも続きます。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第145号より]
皆様、お変わりありませんか。
助けてほしいこと、何とかしてほしいこと、どうしても知ってほしい心の声などを皆さんも持っておられることと思います。
聖書のことばをご覧いただきたいと思います。ここには共通点があります。
「神は少年の声を聞かれ」(創世記21:17)、「神は彼らの嘆きを聞き」(出エジプト記2:24)、「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた」(第1列王記9:3)、「わたしはあなたの祈りを聞いた」(第2列王記20:5)、「彼らがその苦難のときにあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ」(ネヘミヤ記9:27)。
聖書の神が私たちの声を聞いている神であることを知っていただけたかと思います。私たちの祈りだけではなく、泣き声、叫び、嘆き、うめき声も神は聞いている方です。聞いているということは、神はそれを放置しないということです。
もう一度、聖書のことばをご覧ください。
「私が呼ぶとき 主は聞いてくださる」(詩篇4:3)、「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる」(詩篇 6:9)、「苦しむ者が叫ぶと 主は聞かれ そのすべての苦難から救い出してくださる」(詩篇34:17)
これらは、詩篇の作者が、神は私たちの声を聞いてくださる方であることを確信して詩にしたものです。
神がその信仰に応えて語ります。
「主は言われます。 『苦しむ人が踏みにじられ 貧しい人が嘆くから 今 わたしは立ち上がる。わたしは彼を その求める救いに入れよう。』」(詩篇12:5)
聖書の神はどこか遠くで人間を眺めて見物し、特別に関わることをしない方ではありません。むしろ、いつも私たちのことを気にかけ、目を注ぎ、耳を傾け、心を痛め、手を伸ばす愛の神なのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第144号より]
皆様、お変わりありませんか。
まず、聖書のことばを紹介します。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)
旧約聖書にヨセフという人物がいます。異母兄弟12人の内の11番目、父にとっては最愛の息子です。家庭で問題が起こりそうですよね。その通りです。
10人の兄たちはヨセフを妬み、憎しみは激しく、殺意まで抱きました。命は守られたものの彼は奴隷として売られ、遠くの外国へ。仕事ぶりが良く主人に信頼されたものの、人の偽りの言葉によって罰せられて今度は牢屋へ。故郷も、父の愛も、人からの信頼も全て失い、転落し続けた人生です。彼の人生のどこに「平安を与える計画」、「将来と希望」が見えるでしょうか。
過去の傷が消えず、現在も底辺でもがいているなら、「せめて未来は…」と儚い希望でも持ちたくなるでしょう。しかし、未来を見通すことは私たちにはできません。
牢屋でヨセフは絶望していたのでしょうか。神を信頼し続けていた彼は、おそらく神にお祈りしていただろうと思います。
かなりの年数を経てヨセフは牢屋から出され、なんと王に次ぐ地位に就いたのです。世界的な飢饉において人々の命を守るため、神が彼に新しい使命を与えたのです。これが神の計画でした。この出来事の後、彼は言いました。「私をここに遣わしたのは・・・神なのです」と。
自分の人生の中で神の計画が動いていることを彼は知りました。彼の心には兄たちへの恨み、怒りはありませんでした。
あなたの人生の中でも神の計画が動いているかもしれません。神に目を向けると、見えるものが変わり始めます。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第143号より]
皆様、お変わりありませんか。
人と人との間に距離ができることがあります。理由はいろいろでしょうが、信頼関係が壊れた場合、その隔たりは大きくなるでしょう。これは心の中の話です。
ある時、人と人との間にではなく、神と民との間に隔たりが生まれました。良い時代がやって来ると希望を置いたのに状況は良くならない、悩みが過ぎ去らない、「もう見捨てられた」と民は思いました。
聖書にこんなやり取りがあります。
「わたしはあなたがたを愛している。 ―主は言われる― しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。(マラキ書1:2)
民は思いました。「神はどこにいるのか」「私は神に愛されていない」「神が共にいるならこんなことになるはずがない」。期待したことが起きないので神に不信感を抱き、神の愛を疑うことになったのです。
聖書は言っています。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえにかわることがありません。」(ヘブル人への手紙13:8)
私たちは状況で心が変化し、ストレスでまた変わり、人との心の距離も不安定です。しかし神はその愛において、赦しにおいて、恵み深さにおいて、変わることがないのです。これは凄いことだと思います。
「わたしはあなたがたを愛している」と神が私たちに呼びかけています。これを信用するかどうかは私たちの課題ですが、自分のイメージで神を形作るのは止めた方がよいでしょう。神を小さくするからです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)
神の真実な愛、変わることのない愛があなたに届きますように。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第142号より]
皆様、お変わりありませんか。
ある日の新聞に、親が自分の子の命を奪ったニュースが同時にいくつも掲載されていました。思わず絶句しました。「親が子どもを大切にする」ことが当り前ではないのです。愛が冷めているのでしょうか。
災害が起きれば、多くの人が被災者を気にかけ、寄付し、ボランティアに出向き、被災地の物を購入しますが、一方で、災害を利用して利益を得ようとする人たちがいるのも現実です。酷く冷たい世の中です。
助けを必要としている人がたくさんおり、その事情は様々です。しかし、多くの人が自分の事で精一杯のようにして暮らし、関心を寄せることは少ないかもしれません。無関心は究極の冷たさです。
聖書のことばを思い出しました。
『・・・主(神様)があなたとともにおられる。主(神様)はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。・・・』(聖書/申命記 31:8)
私たちを見放さず、見捨てないことを、神はどのようにして明らかにしたでしょうか。それは神の愛を私たちに見えるようにすることによってです。
神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪を代わりに背負ってくださったとき、つまり神の御子イエス様の十字架の死において、神の愛は明らかにされました。
とは言え、死は別れですから、イエス様の弟子たちはその死を悲しみました。けれども、イエス様は3日目に死からよみがえり、新しいいのちに生きる者として現れて下さいました。
イエス様の復活を信じられない弟子たちもいましたが、イエス様の方から彼らに近づき、共に歩かれたのです。「わたしはあなたとともにいる」というメッセージは復活してからも変わることがありません。イエス様は確かに、私たちを見放さず私たちを見捨てない神ご自身なのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第141号より]
皆様、お変わりありませんか。
いろいろな理由で私たちの社会は二つに分けられていると感じています。ネットを利用できるかできないかでさえも区別されていますから。そして、その隔たりはさらに広がっているように思えます。そのため、優しさを感じにくい社会となり、弱い立場に置かれた人たちは恐れを抱き、生きづらさを感じる人たちは増えています。
しかし、クリスマスはそのような人たちにこそ届けられた贈り物なのです。
「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)
この聖書の言葉の聞き手は羊飼いたちです。当時の羊飼いは、人々から軽蔑され、信用もなく、社会に居場所のない人たちでした。おそらく人数に数えられることもなかったでしょう。けれども、神は彼らを覚えており、最初に、彼ら羊飼いに、この大きな喜びが知らされたのです。
この小さくされた者たちを神は忘れていません。彼らも神の目には尊い存在です。何も持たない者だからこそ、彼らの両手は空いており、救い主の誕生の知らせを素直に受け取ることができたのです。
この救い主は、当時の最も小さい者たちである罪人、障碍者、傷ついた者や悲しんでいる者たちを訪ね、寄り添い、神の愛の中に招きました。そして彼らは、救い主を自分の心に迎えたのです。彼らもまた、両手が空いている人たちだったからです。
クリスマスは皆さんに受け取ってもらえるように届けられた贈り物です。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第140号より]
皆様、お変わりありませんか。
何かを失うことは決して珍しいことではないでしょう。問題は「何を失うか…」。大きな喪失感を伴う場合は大変です。
旧約聖書のルツ記にナオミという女性が登場します。飢饉がやって来たため、生きるために外国への移住を決意し、夫と二人の息子の4人で新しい生活を始めました。しかし、その移住先で夫が亡くなったのです。その後、その地に定住する決意をしたのでしょう。二人の息子たちはそこの外国人と結婚していきました。ところが、今度はその二人の息子たちが死んだのです。ナオミはついに一人、残されました。
ナオミの喪失感はもの凄く大きかったでしょう。彼女は自分のことを「マラ(苦しみ)」と呼んでほしいとさえ言いましたから、自分は神に見捨てられたと考えたのかもしれません。でも神は、そのようなお方ではありませんでした。
ナオミが恥を忍んで故郷に戻ることにした時、息子の妻ルツが「死ぬまでナオミから離れない」と言って同行を決意したのです。女性だけで生きるには厳しい時代でも、ルツの存在はナオミの希望となりました。ナオミにとってルツが生きる力。でも、ルツにとってもナオミは生きる力です。
神は私たちをお見捨てになりません。神は愛と慈しみを注いでくださるお方です。弱くされた者たちを助け、必ず顧みてくださる、それが聖書の神なのです。
大きな喪失感を抱えたナオミたちですが、神は二人に寄り添い、不思議な方法で二人が進む道を明るく照らしてくださいました。希望は神から届けられました。
見えない神を信頼することは難しく思えるでしょうが、神は様々な方法でその存在を見せてくださいます。「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。」(詩篇62:5)
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第139号より]
皆様、お変わりありませんか。
とても虫がいい話が聖書に紹介されています。それは、「お父さん、私がもらえる遺産を今、下さい」と願い出た青年の話です。まことに厚かましいことですが、父はそれを与えました。おそらく、親から何も言われない所で自由に暮らしたい、自分で生き方を決めて楽しく暮らしたいと考えて、そのための資金が欲しかったのでしょう。
青年はさっさと旅立ちました。人からもらった財産では、お金の価値も、そのありがたみもわからなかったのでしょう。後悔先に立たず…。自由を満喫できた日々は終わり、経験したことのない極度の貧しさに身を置くことになりました。思い切って父の所に向かったところ、雷を落とされることもなく息子として迎えられ、かつての安定した生活に戻ったというのです。
何とも虫が良すぎる話ですが、父親の目線で見ると違うものが見えてきます。
父親にとってはかけがえのない息子、家を出て行っても決して忘れません。そして、先行きを見通していたことでしょう。自分が何をしているのかに目が覚めてここに戻ってくるように祈っていたと思います。
息子は我に返り、「私は神に対して罪を犯し、父の前に罪ある者だ」と気づきました。息子は罪を悔い改めて向きを変え、ぼろぼろの状態で父の所に向かいました。
この父親がもし自分だったらどうするだろう…と思います。息子をありのまま迎え入れることが果たしてできるでしょうか。この時の父親の行動をご覧ください。
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(ルカ15:20)
この父親の息子への愛を妨げるものは何もないのです。たとえ、ぼろぼろの状態であっても…。この父親の愛は神の私たちに対する愛を表しています。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第138号より]
皆様、お変わりありませんか。
思いがけないことは起こるものです。
親しい方が急に亡くなりました。戸惑いを隠すことができないほどで、本当に驚きました。しかし、これは現実でした。
この方は、たくさんの病気を抱え、不便な生活をし、思うようには食べられず、自由に移動することもできない中に暮らしていました。でも、顔はいつも微笑んでいることの多い方でした。不平やつぶやきを聞いた記憶はないように思います。
もし、病気や障碍があれば、年齢にかかわらず、生活の中にさまざまな制限が加わります。また、私たちは例外なく、誰でも老いていきます。体のあちこちが衰え、骨が曲がり、人の助けを必要とするようになるでしょう。自分の体ですが、自分でどうすることもできない分野でもあります。
しかし、聖書には希望が語られています。夢のような話に聞こえるかもしれません。
「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。 」(コリント人への手紙第二 5:1)
少し表現が難しい言葉ですが、私たちの体がいつか死を迎え、焼かれて灰になっても、やがて天国において、神は私たちに新しいからだを用意(ようい)してくださっているというのです。イエス様を通して天国に入る者は、もう、からだのことで苦労することはないのです。
この聖書のことばを思い起こす時、悲しみと寂しさの中にあっても、自然と顔を上げることができました。急に亡くなった私の親しい方もイエス様を通して新しいからだを受け取ることができるからです。
聖書のことばから、このような希望を得、慰めを受け取ることができることは本当に幸いだと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第137号より]
皆様、お変わりありませんか。
「迷える子羊」という聖書の話を聞いたことのある方もおられるでしょう。その聖書のことばを紹介します。
「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(マタイ18:12、13)
多数派が優遇され少数派が我慢することの多い社会の中で、この言葉はイエス様の愛と温かさを感じさせてくれます。捜してもらえるとは何という幸いでしょう。
このことを歌った賛美歌がありますが、国分友里恵さんのCD「Steal Away」に収録された「99の羊は」の歌詞は少し違う日本語訳で、心に染みてくるものです。
♪九十九の羊は 牧場の中に いなくなった一匹は 今ごろどこに 飼い主から離れて 迷い込んだ山の中 迷い込んだ山の中
♪「さまよい出た一匹は あきらめましょう」 「いや、百匹のどれも大切なのだ 深い森も山の奥も どこまでも探しに行こう どこまでも探しに行こう」
♪主は乗り越えてゆくよ 川の流れを 主はひたすら進むよ 暗い夜道を 途方に暮れた羊の 声だけを頼りに 声だけを頼りに
♪「主よ、山道をたどる情熱はなぜ」 「いなくなった一匹を見つけるためだ」 「主よ、その手の傷はなぜ」 「いばらで裂かれた傷だ いばらで裂かれた傷だ」
♪「とうとう見つけ出した」と主の声響く 「可愛い羊 抱き上げ口づけしよう」 天使たちも歌うよ 「さあ、共に喜べ さあ、共に喜べ」(国分友里恵)
もし、あなたが迷い出た一人でも、イエス様はお見捨てになりません。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第136号より]
皆様、お変わりありませんか。
聖書には、喜び、祈り、感謝という言葉がありますが、人が神様に向かって顔を上げているような印象でしょうか。反対に、悩み、苦しみ、嘆きなどの言葉なら、顔を下に向けたままの様子が目に浮かびます。では、「いつまでですか…」と神に訴えかける言葉だったら、人のどのような気持ちが込められているでしょうか。
私たちの日常には楽しみや喜びがある一方で、言葉にできない思いも同居しているものです。とにかく耐え忍び、いつかやって来るだろう晴れ晴れとした日を、希望を持って待っているかもしれません。
イエス様について言われている次の聖書の言葉に目を留めてほしいと思います。イエス様が地上に生まれたことの意味について触れているものですが、私自身、この言葉に深く慰められ、イエス様の深い愛情を感じたことを覚えています。
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)
私たちが嬉しい時に一緒に喜んで下さるイエス様は、私たちが辛い状況にある時には、私たちの胸の内を理解し、一緒に辛い所に立ってくださるお方なのです。
もし、私たちが、出口が見えずにもがき苦しみ、また、涙を流しているなら、イエス様は私たちの今を見つめ、私たちの悲しみの声を聞いて下さいます。イエス様ご自身が苦しみを経験された方なので、私たちの傍らに来て寄り添い、助け、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
クリスマスに始まる地上の生涯の中で、イエス様は、私たちと同じように苦しみ、耐え、裏切られ、涙を流し、「どうして…」と叫びました。イエス様は私たちのことをわかってくれる神なのです。この方のそばにいるなら私たちは幸せです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第135号より]
皆様、お変わりありませんか。
まず、聖書のことばをご紹介します。
「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」(箴言14:29—30)
皆さんは短気な方ですか?「時と場合によるかな?」という人もおられるでしょう。昔、すぐに怒り出す人のことを「瞬間湯沸かし器」と言いました。少し我慢して待ってみる、角度を変えて見直してみるなどの余裕があればいいのですが、そのコントロールができないから短気なのでしょう。
聖書に書かれている「激しい思い」は炎のようなもので、「ねたみ」とも訳されます。一度ねたみの火が着いたら誰にも消せないかもしれません。イエス様に殺意を抱いたユダヤ人指導者たちの心にあったのはまさにねたみです。この激しい炎を消すことはできませんでした。
短気は血圧を上げ、心臓や脳の血管に異常をきたすことでしょう。「激しい思いは骨をむしばむ」。体に悪いようです。しかし、「穏やかな心は、からだのいのち」とあります。健康に良いのはこちらです。
人生が変わってしまうほどの出来事に巻き込まれても、あるいは、理不尽だと思うことが身に降りかかっても、心揺さぶられず、穏やかな心でいられたらと思います。そんなこと、できるのでしょうか。
聖書に登場する人物にその例を見ることができますが、共通しているのは、神に自分のことを委ねられる人、どんなときにも神に心を向けられる人です。もし、瞬く間に怒りが燃え上がったり、ねたみに包み込まれそうになったら、その感情をそのまま神に祈ることをお勧めします。そうすれば、神が私たちの心を取り扱って下さいます。自分の中の炎は小さくなり、余裕が生まれることでしょう。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第134号より]
皆様、お変わりありませんか。
聖書には危険人物と言うべき人が出てきます。名前はサウロ。当時の最高の教育を受けたエリートですが、教会を迫害し、教会の全滅を願って激しく活動したのです。
なぜサウロは迫害者になったのでしょうか。十字架にかけられて死んだ者は呪われた者だ、しかもクリスチャンたちはそのイエスを神と信じる…、これは紛れもなく神への冒涜だと決めつけたからです。もちろん、イエスの復活もありえない…と。
ジョンという船長がいました。幼い頃は母に聖書を読んでもらっていたようですが、7歳の時に母と死別し、商船の船長をしている父と暮らすようになりました。やがて彼も大人になり、船長になりました。
ジョンが船で運んだのは人間です。アフリカの人たちをさらってきて奴隷として売って金儲けをしたのです。船底に彼らは詰め込まれました。彼もまた危険人物です。
神は「まさか」と思うことをなさる方です。復活したイエス様はサウロに会いに行かれました。死んだはずのお方が自分の目の前にいる、ありえない経験をした時、自分の間違いを知りました。イエス様の十字架と復活は本当で、この方こそ救い主であると信じました。彼はイエス様を宣べ伝え、教会を生み出す人に変わりました。
ジョンにも転機が訪れました。聖書を読む機会があり、その時、自分がどれだけ酷いことをしてきたかを知らされ、悔い改めたのです。船長を辞めて牧師になり、こんな自分さえも神は愛し、赦して下さったという思いが、歴史に残る賛美歌「驚くばかりの(Amazing Grace)」となりました。
「私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(聖書)
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第133号より]
皆様、お変わりありませんか。
今は不安な時代です。明日の健康、明日の生活、これからの日本や世界のこと…。
不安が大きくなり過ぎると動けなくなってしまうことがありますが、人々のためにできることがある…、そう思っています。
それは人々のために神の祝福を祈ること。今、私は特にこれを意識しています。
聖書には、祝福を与えて下さるのは神であると書かれています。昔、神はアブラハムという一人の人を選び、世界の祝福の基としました。全世界の人々の祝福のために彼がまず選ばれたのです。
祝福とは何でしょう。お祝い? 喜び? 物質的な豊かさ? 成功? 願いが叶う? 神の祝福の中にある大切な要素は「人が変えられる」ことのように思います。
涙が笑顔に、不平が感謝に、不安が平安に、絶望が希望に、愛し、赦し…。神の祝福をいただいて、人は変えられるのです。
聖書に記された祝福の祈りです。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(民数記6:24-26)
神があなたを守るのです。神が御顔を隠すのではなく照らしてくださる、まるで微笑みかけているようにも感じます。御顔を向けてくださることの中に神の愛と意思を感じます。そして、神の平安、誰にも妨げられない平安がここにあるのです。
多くの人が重荷を抱えて生きているでしょう。だからこそ神の祝福を祈ります。出かけて行った先で、人と会って、私は祝福を祈りたいのです。手紙やメールの最後には祝福の祈りのことばを綴ります。
いろいろ落ち着かない日々が続き、不安の多い時代にあって、皆様のために神の祝福を祈ってまいります。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第132号より]
皆様、お変わりありませんか。
いろいろなことが普段の人間関係の中で起こります。また、身近な社会でも、広い世界でも起こりますが、それは私たちの心に影響を与えるでしょう。喜べることは良いのですが、悲しみ、怒り、嘆き、やりきれない思いに包まれる時が大変です。心への負担がとても大きいからです。時に逃げ場を失い、追い詰められ、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。
皆様はその時、どうされるでしょうか?
私には一つの処方箋があります。
「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」(詩篇119:24)
「あなたのさとし」は聖書、神のことばのことです。神様が聖書を通して私たちに語りかけてくださいます。そして、その神のことばが「相談相手」だと言われます。英語訳の聖書では「カウンセラー」です。私の心に聖書を処方すると回復を始めます。
私も例にもれずストレスを抱え、行き詰まり、悩み、迷い、自分を見失いそうになり、苛立ち、傷つきます。ある日の帰り道、運転しながら車内で一人、叫んだこともあります。「ア″ー!」と(笑)。我慢していられずに思わず大声を出してしまいました。
しかし、私が日課としている聖書を読む時間。これが私の処方箋です。ストレスに潰されそうでも、心が騒いだり、傷ついた時でも、聖書を開いていく中で自分を取り戻すことができるからです。ただ神様のことばに触れているだけで私の心が整えられ、いやされるのです。ヒントになることばに出会うことももちろんあります。
聖書が「私の相談相手」です。神様が私の心の思いを受けとめ、助言し、光を当ててくれるからです。まさにカウンセラー。私は毎日、カウンセリングを受けているようなものなのかもしれません。皆様もいかがですか?くせになりますよ。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第131号より]
皆様、お変わりありませんか。
「私を追いかけて来るもの」と自分で言っておきながら、子どもの時の嫌な体験が思い出されました。それは放し飼いの犬に追いかけられたことです。そしてお尻をガブリ!忘れられない痛み、涙の体験です。
人を追いかけて来るものにはいろいろあるでしょう。仕事、心配、不安、辛い過去の記憶、誘惑の言葉、請求書、パトカー、そして死の足音。もっと幸せで、楽しいものに追いかけられるのなら良いですが、マイナスをイメージする方が多い気がします。
聖書には次のような言葉があります。
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)
神の「いつくしみと恵み」が私たちを追いかけて来てくれるのなら、こんなすばらしいことはありません。
どのようにしてそれは可能になるのでしょうか。そのカギは次の聖書の言葉です。
「主は私の羊飼い。」(詩篇23:1)
羊は弱く、迷いやすく、臆病者で、目の前のことばかりに捕らわれるところがあるので、羊飼いがいないと安全で安心な暮らしを続けることができません。つまり、羊の一切は羊飼いにかかっているわけです。
神が羊飼い、私たちは羊。良い羊飼いが自分の羊から目を離さず、命をかけて敵から守り、安心できる環境を常に整えるのと同じように、私たちの神は私たちに目を注ぎ、手を伸ばしてくださいます。私たちの一切は神にかかっているのです。
だから今、私たちがどのような状況に置かれていても、たとえ涙の日々であっても、私たちを追いかけて来るのは神の「いつくしみと恵み」です。羊飼いである神の優しい眼差し、愛に溢れた言葉、力強い御手はいつもすぐ側にあるのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第129号より]
皆様、お変わりありませんか。
誰かの陰で悲しい涙を流す人がおります。聖書に登場する女奴隷ハガル。彼女はそのような人でした。彼女の主人は信仰の父と呼ばれるアブラハムの妻サラ。サラの下で2度、悲しい思いをしたのです。
子を産むことなく高齢になったサラはハガルによって母になろうとしました。奴隷に自由はないのです。妊娠後、サラにいじめられて逃げ出しました。彼女にも問題はあったでしょうが、孤独と絶望の中へ…。
しかし、神はハガルをお見捨てになりません。その苦しみの声を聞いて下さいました。神はずっと彼女を見ていたのです。このことが彼女の生きる力となりました。
戻ってサラに仕えたハガルの出産後、神の力によりアブラハムとサラ夫婦に子が与えられました。サラは母となりました。跡取りは一人で良いと思ったのでしょう。ハガルたちは追い出されてしまいました。
命綱の水が尽きれば死んでしまう環境の中で、ハガルたちの水はついに尽きたのです。しかし、その時の悲しみの涙を神はご覧になりました。その少年の声を神は聞かれました。ハガルたちが見捨てられることはなかったのです。その子の声は絶望の中での叫び、神への祈りだったのでしょう。
神は瀕死の二人の側に立ち、生きる道を示し、未来への希望を約束されました。
「神があそこにいる少年の声をきかれたからだ。」(創世記21:17)
「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(イザヤ書38:5)
私たちの涙は神がご覧になっています。泣く者の声を神が聞いてくださっています。やがて、神は私たちの「涙をすっかりぬぐい取ってくださる」と約束されました。この神を信頼して生きることは幸いです。悲しみはやがて喜びに変えられるのです。これが神のわざなのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第128号より]
皆様、お変わりありませんか。
どんな困難や苦難、立ちはだかる壁をも乗り越える…、そんな素晴らしい人生を生きた方々がいらっしゃいます。まさに人生の大逆転! 感動して胸が熱くなります。でも、ふと思うのです。そんな人ばかりではないし、知らないところで克服できなかった人たちはあふれているだろうと…。
聖書の詩篇107篇に4種類の人々が紹介されています。
①人生を彷徨い、疲れ果ててしまった人。
②何かに縛られて苦しみ、孤独である人。
③失敗や罪に悩み、絶望が迫っている人。
④思わぬ試練に悩み、行き詰っている人。
人生いろいろ、お一人お一人の日々にいろいろなことが起こるでしょう。これらの4つの中に自分のことが当てはまると思う方もおられるかもしれません。しかし神は、落ち着く先を与え、心を解放し、生きる力と希望を備え、平安を与える方なのです。
では、それはどのようにして手に入れられるものなのでしょうか。
聖書は次のように書いています。
「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された(救い出された)。」(詩篇107:28)
また、聖書は神が私たちにどのような目を向けておられるかを伝えています。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5:7)
神は私たちを見つめ、心を配り、胸を痛めておられるのです。その神と私たちをつなぐものがありますが、それが「主に向かって叫ぶ」こと、神への祈りです。
今、自分の人生がどこにあるとしても、神への祈りはどこからでも届きます。その先には希望と安息が待っています。人生の嵐は止み、凪が訪れるでしょう。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第127号より]
皆様、お変わりありませんか。
幼い子どもが不安を感じるのはどんな時でしょうか。それは親の姿が見えなくなった時でしょう。本気で泣きますね。
大人も不安を感じます。先行きが見えず、力量不足にあえぎ、人間関係でつまずき、病気が見つかり…、いろいろな場面で私たちにも不安はすぐそばにやってきます。けれども、助け手がいて、苦労を分かち合ってくれる人がいて、一人ではないとわかったら、どれだけ助けられることでしょう。
聖書に登場するモーセ。彼は民族大移動という大事業を成し遂げ、後継者のヨシュアは新しい地での定着に力を注ぎました。父と兄を騙して大事なものを横取りしたヤコブは一人で逃げることになり、高慢のために兄たちの憎しみを買った息子ヨセフは奴隷として売られてしまいました。
そんな彼らに神が語られた言葉は一つです。「わたしはあなたとともにいる」。
イエス様がお生まれになった時、天使が言いました。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)(マタイ1:23)。
弟子たちが嵐で舟が沈みそうになるほど苦労していた時、イエス様はそこにおられました。私たちの罪のために十字架で死に、3日目に復活し、やがて弟子たちの見ている前で天に上って行かれたイエス様が弟子たちに最後に語った言葉、それは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。
私たちを決して一人にはしない、これは神から私たちへのメッセージです。健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、嘆き、泣き叫び、裏切られ、苦しめられ、孤立し、自暴自棄に陥る時も、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と呼びかけてくださる方、これが聖書の神の姿です。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第126号より]
皆様、お変わりありませんか。若い頃、教会でよくギターを弾きながら歌っていた歌を思い出して口ずさみました。今でも不思議と感動を覚える歌です。
♪ 私の胸の痛みは 誰にもわかりはしないと
背を向ける前に、主の声を聞いてごらん
今 苦しみさえも 今 つぶやきさえも
イエスは腕に抱きしめて 歌声と変える ♪
辛い!苦しい!何もかもが嫌だ!と叫ぶような中でも、私たちのこの口を「つぶやきから歌声へ」と変える方がおられます。
聖書に次のような言葉があります。
「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ書35:5‐6)
今までがどのようであっても、神によって新しいことが私たちに起こるのです。
「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(イザヤ書61:1)
神の御子イエス様がこの地に来られた時、忘れられ、捨てられ、虐げられていた人たちに光が注がれたのです。イエス様は疲れた人、重荷を負っている人に安らぎを与え、希望をもたらす救い主だからです。
口に筆を加えて詩画を書く星野富弘さんは、意気揚々と体育教師になりながら、指導中に起きた事故によって肩から下の自由を失い、絶望の淵に立ちました。ところが、イエス様のことばに出会って変えられ、新しい人生を生きるようになったのです。体が元通りになることはありませんでしたが、彼を絶望から解放し、真の幸いへと導いたのはイエス様です。
神が私たちの口につぶやきではなく賛美の歌を与えて下さいます。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第130号より]