バイブルメッセージ

◆2024/05 『「愛しているよ」って、本当?

皆様、お変わりありませんか。

人と人との間に距離ができることがあります。理由はいろいろでしょうが、信頼関係が壊れた場合、その隔たりは大きくなるでしょう。これは心の中の話です。

ある時、人と人との間にではなく、神と民との間に隔たりが生まれました。良い時代がやって来ると希望を置いたのに状況は良くならない、悩みが過ぎ去らない、「もう見捨てられた」と民は思いました。

聖書にこんなやり取りがあります。

「わたしはあなたがたを愛している。 ―主は言われる― しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。(マラキ書12

民は思いました。「神はどこにいるのか」「私は神に愛されていない」「神が共にいるならこんなことになるはずがない」。期待したことが起きないので神に不信感を抱き、神の愛を疑うことになったのです。

聖書は言っています。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえにかわることがありません。」(ヘブル人への手紙138

私たちは状況で心が変化し、ストレスでまた変わり、人との心の距離も不安定です。しかし神はその愛において、赦しにおいて、恵み深さにおいて、変わることがないのです。これは凄いことだと思います。

「わたしはあなたがたを愛している」と神が私たちに呼びかけています。これを信用するかどうかは私たちの課題ですが、自分のイメージで神を形作るのは止めた方がよいでしょう。神を小さくするからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書316

神の真実な愛、変わることのない愛があなたに届きますように。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第142号より]

◆2024/03 『あなたを見捨てない方がおられる』

皆様、お変わりありませんか。

ある日の新聞に、親が自分の子の命を奪ったニュースが同時にいくつも掲載されていました。思わず絶句しました。「親が子どもを大切にする」ことが当り前ではないのです。愛が冷めているのでしょうか。

災害が起きれば、多くの人が被災者を気にかけ、寄付し、ボランティアに出向き、被災地の物を購入しますが、一方で、災害を利用して利益を得ようとする人たちがいるのも現実です。酷く冷たい世の中です。

助けを必要としている人がたくさんおり、その事情は様々です。しかし、多くの人が自分の事で精一杯のようにして暮らし、関心を寄せることは少ないかもしれません。無関心は究極の冷たさです。

聖書のことばを思い出しました。

『・・・主(神様)があなたとともにおられる。主(神様)はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。・・・』(聖書/申命記 31:8)

私たちを見放さず、見捨てないことを、神はどのようにして明らかにしたでしょうか。それは神の愛を私たちに見えるようにすることによってです。

神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪を代わりに背負ってくださったとき、つまり神の御子イエス様の十字架の死において、神の愛は明らかにされました。

とは言え、死は別れですから、イエス様の弟子たちはその死を悲しみました。けれども、イエス様は3日目に死からよみがえり、新しいいのちに生きる者として現れて下さいました。

イエス様の復活を信じられない弟子たちもいましたが、イエス様の方から彼らに近づき、共に歩かれたのです。「わたしはあなたとともにいる」というメッセージは復活してからも変わることがありません。イエス様は確かに、私たちを見放さず私たちを見捨てない神ご自身なのです。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第141号より]

◆2023/12 『小さくされた者たちとクリスマス』

皆様、お変わりありませんか。

いろいろな理由で私たちの社会は二つに分けられていると感じています。ネットを利用できるかできないかでさえも区別されていますから。そして、その隔たりはさらに広がっているように思えます。そのため、優しさを感じにくい社会となり、弱い立場に置かれた人たちは恐れを抱き、生きづらさを感じる人たちは増えています。

しかし、クリスマスはそのような人たちにこそ届けられた贈り物なのです。

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ21012

この聖書の言葉の聞き手は羊飼いたちです。当時の羊飼いは、人々から軽蔑され、信用もなく、社会に居場所のない人たちでした。おそらく人数に数えられることもなかったでしょう。けれども、神は彼らを覚えており、最初に、彼ら羊飼いに、この大きな喜びが知らされたのです。

この小さくされた者たちを神は忘れていません。彼らも神の目には尊い存在です。何も持たない者だからこそ、彼らの両手は空いており、救い主の誕生の知らせを素直に受け取ることができたのです。

この救い主は、当時の最も小さい者たちである罪人、障碍者、傷ついた者や悲しんでいる者たちを訪ね、寄り添い、神の愛の中に招きました。そして彼らは、救い主を自分の心に迎えたのです。彼らもまた、両手が空いている人たちだったからです。

クリスマスは皆さんに受け取ってもらえるように届けられた贈り物です。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第140号より]

◆2023/10 『失うばかりに見えても』

皆様、お変わりありませんか。

何かを失うことは決して珍しいことではないでしょう。問題は「何を失うか…」。大きな喪失感を伴う場合は大変です。

旧約聖書のルツ記にナオミという女性が登場します。飢饉がやって来たため、生きるために外国への移住を決意し、夫と二人の息子の4人で新しい生活を始めました。しかし、その移住先で夫が亡くなったのです。その後、その地に定住する決意をしたのでしょう。二人の息子たちはそこの外国人と結婚していきました。ところが、今度はその二人の息子たちが死んだのです。ナオミはついに一人、残されました。

ナオミの喪失感はもの凄く大きかったでしょう。彼女は自分のことを「マラ(苦しみ)」と呼んでほしいとさえ言いましたから、自分は神に見捨てられたと考えたのかもしれません。でも神は、そのようなお方ではありませんでした。

ナオミが恥を忍んで故郷に戻ることにした時、息子の妻ルツが「死ぬまでナオミから離れない」と言って同行を決意したのです。女性だけで生きるには厳しい時代でも、ルツの存在はナオミの希望となりました。ナオミにとってルツが生きる力。でも、ルツにとってもナオミは生きる力です。

神は私たちをお見捨てになりません。神は愛と慈しみを注いでくださるお方です。弱くされた者たちを助け、必ず顧みてくださる、それが聖書の神なのです。

大きな喪失感を抱えたナオミたちですが、神は二人に寄り添い、不思議な方法で二人が進む道を明るく照らしてくださいました。希望は神から届けられました。

見えない神を信頼することは難しく思えるでしょうが、神は様々な方法でその存在を見せてくださいます。「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。」(詩篇625

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第139号より]

◆2023/07 『ぼろぼろの人でも迎える神』

皆様、お変わりありませんか。

とても虫がいい話が聖書に紹介されています。それは、「お父さん、私がもらえる遺産を今、下さい」と願い出た青年の話です。まことに厚かましいことですが、父はそれを与えました。おそらく、親から何も言われない所で自由に暮らしたい、自分で生き方を決めて楽しく暮らしたいと考えて、そのための資金が欲しかったのでしょう。

青年はさっさと旅立ちました。人からもらった財産では、お金の価値も、そのありがたみもわからなかったのでしょう。後悔先に立たず…。自由を満喫できた日々は終わり、経験したことのない極度の貧しさに身を置くことになりました。思い切って父の所に向かったところ、雷を落とされることもなく息子として迎えられ、かつての安定した生活に戻ったというのです。

何とも虫が良すぎる話ですが、父親の目線で見ると違うものが見えてきます。

父親にとってはかけがえのない息子、家を出て行っても決して忘れません。そして、先行きを見通していたことでしょう。自分が何をしているのかに目が覚めてここに戻ってくるように祈っていたと思います。

息子は我に返り、「私は神に対して罪を犯し、父の前に罪ある者だ」と気づきました。息子は罪を悔い改めて向きを変え、ぼろぼろの状態で父の所に向かいました。

この父親がもし自分だったらどうするだろう…と思います。息子をありのまま迎え入れることが果たしてできるでしょうか。この時の父親の行動をご覧ください。

「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(ルカ15:20)

この父親の息子への愛を妨げるものは何もないのです。たとえ、ぼろぼろの状態であっても…。この父親の愛は神の私たちに対する愛を表しています。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第138号より]

◆2023/05 『新しいからだ』

皆様、お変わりありませんか。

思いがけないことは起こるものです。

親しい方が急に亡くなりました。戸惑いを隠すことができないほどで、本当に驚きました。しかし、これは現実でした。

この方は、たくさんの病気を抱え、不便な生活をし、思うようには食べられず、自由に移動することもできない中に暮らしていました。でも、顔はいつも微笑んでいることの多い方でした。不平やつぶやきを聞いた記憶はないように思います。

もし、病気や障碍があれば、年齢にかかわらず、生活の中にさまざまな制限が加わります。また、私たちは例外なく、誰でも老いていきます。体のあちこちが衰え、骨が曲がり、人の助けを必要とするようになるでしょう。自分の体ですが、自分でどうすることもできない分野でもあります。

しかし、聖書には希望が語られています。夢のような話に聞こえるかもしれません。

「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。 」(コリント人への手紙第二 51

少し表現が難しい言葉ですが、私たちの体がいつか死を迎え、焼かれて灰になっても、やがて天国において、神は私たちに新しいからだを用意(ようい)してくださっているというのです。イエス様を通して天国に入る者は、もう、からだのことで苦労することはないのです。

この聖書のことばを思い起こす時、悲しみと寂しさの中にあっても、自然と顔を上げることができました。急に亡くなった私の親しい方もイエス様を通して新しいからだを受け取ることができるからです。

聖書のことばから、このような希望を得、慰めを受け取ることができることは本当に幸いだと思います。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第137号より]

◆2023/03 『迷い出た一人のために』

皆様、お変わりありませんか。

「迷える子羊」という聖書の話を聞いたことのある方もおられるでしょう。その聖書のことばを紹介します。

「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(マタイ181213

多数派が優遇され少数派が我慢することの多い社会の中で、この言葉はイエス様の愛と温かさを感じさせてくれます。捜してもらえるとは何という幸いでしょう。

このことを歌った賛美歌がありますが、国分友里恵さんのCDSteal Away」に収録された「99の羊は」の歌詞は少し違う日本語訳で、心に染みてくるものです。

九十九の羊は 牧場の中に いなくなった一匹は 今ごろどこに 飼い主から離れて 迷い込んだ山の中 迷い込んだ山の中

♪「さまよい出た一匹は あきらめましょう」 「いや、百匹のどれも大切なのだ 深い森も山の奥も どこまでも探しに行こう どこまでも探しに行こう」

♪主は乗り越えてゆくよ 川の流れを 主はひたすら進むよ 暗い夜道を 途方に暮れた羊の 声だけを頼りに 声だけを頼りに

♪「主よ、山道をたどる情熱はなぜ」 「いなくなった一匹を見つけるためだ」 「主よ、その手の傷はなぜ」 「いばらで裂かれた傷だ いばらで裂かれた傷だ」

♪「とうとう見つけ出した」と主の声響く 「可愛い羊 抱き上げ口づけしよう」 天使たちも歌うよ 「さあ、共に喜べ さあ、共に喜べ」(国分友里恵)

もし、あなたが迷い出た一人でも、イエス様はお見捨てになりません。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第136号より]

◆2022/12 『私をわかってくれる方』

皆様、お変わりありませんか。

聖書には、喜び、祈り、感謝という言葉がありますが、人が神様に向かって顔を上げているような印象でしょうか。反対に、悩み、苦しみ、嘆きなどの言葉なら、顔を下に向けたままの様子が目に浮かびます。では、「いつまでですか…」と神に訴えかける言葉だったら、人のどのような気持ちが込められているでしょうか。

私たちの日常には楽しみや喜びがある一方で、言葉にできない思いも同居しているものです。とにかく耐え忍び、いつかやって来るだろう晴れ晴れとした日を、希望を持って待っているかもしれません。

イエス様について言われている次の聖書の言葉に目を留めてほしいと思います。イエス様が地上に生まれたことの意味について触れているものですが、私自身、この言葉に深く慰められ、イエス様の深い愛情を感じたことを覚えています。

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル218

私たちが嬉しい時に一緒に喜んで下さるイエス様は、私たちが辛い状況にある時には、私たちの胸の内を理解し、一緒に辛い所に立ってくださるお方なのです。

もし、私たちが、出口が見えずにもがき苦しみ、また、涙を流しているなら、イエス様は私たちの今を見つめ、私たちの悲しみの声を聞いて下さいます。イエス様ご自身が苦しみを経験された方なので、私たちの傍らに来て寄り添い、助け、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

クリスマスに始まる地上の生涯の中で、イエス様は、私たちと同じように苦しみ、耐え、裏切られ、涙を流し、「どうして…」と叫びました。イエス様は私たちのことをわかってくれる神なのです。この方のそばにいるなら私たちは幸せです。 

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第135号より]

◆2022/10 『穏やかな心でいるために』

皆様、お変わりありませんか。

まず、聖書のことばをご紹介します。

「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」(箴言14:2930

皆さんは短気な方ですか?「時と場合によるかな?」という人もおられるでしょう。昔、すぐに怒り出す人のことを「瞬間湯沸かし器」と言いました。少し我慢して待ってみる、角度を変えて見直してみるなどの余裕があればいいのですが、そのコントロールができないから短気なのでしょう。

聖書に書かれている「激しい思い」は炎のようなもので、「ねたみ」とも訳されます。一度ねたみの火が着いたら誰にも消せないかもしれません。イエス様に殺意を抱いたユダヤ人指導者たちの心にあったのはまさにねたみです。この激しい炎を消すことはできませんでした。

短気は血圧を上げ、心臓や脳の血管に異常をきたすことでしょう。「激しい思いは骨をむしばむ」。体に悪いようです。しかし、「穏やかな心は、からだのいのち」とあります。健康に良いのはこちらです。

人生が変わってしまうほどの出来事に巻き込まれても、あるいは、理不尽だと思うことが身に降りかかっても、心揺さぶられず、穏やかな心でいられたらと思います。そんなこと、できるのでしょうか。

聖書に登場する人物にその例を見ることができますが、共通しているのは、神に自分のことを委ねられる人、どんなときにも神に心を向けられる人です。もし、瞬く間に怒りが燃え上がったり、ねたみに包み込まれそうになったら、その感情をそのまま神に祈ることをお勧めします。そうすれば、神が私たちの心を取り扱って下さいます。自分の中の炎は小さくなり、余裕が生まれることでしょう。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第134号より]

◆2022/07 『神がなさる「まさか!」』

 皆様、お変わりありませんか。

 聖書には危険人物と言うべき人が出てきます。名前はサウロ。当時の最高の教育を受けたエリートですが、教会を迫害し、教会の全滅を願って激しく活動したのです。

 なぜサウロは迫害者になったのでしょうか。十字架にかけられて死んだ者は呪われた者だ、しかもクリスチャンたちはそのイエスを神と信じる…、これは紛れもなく神への冒涜だと決めつけたからです。もちろん、イエスの復活もありえない…と。

 ジョンという船長がいました。幼い頃は母に聖書を読んでもらっていたようですが、7歳の時に母と死別し、商船の船長をしている父と暮らすようになりました。やがて彼も大人になり、船長になりました。

 ジョンが船で運んだのは人間です。アフリカの人たちをさらってきて奴隷として売って金儲けをしたのです。船底に彼らは詰め込まれました。彼もまた危険人物です。

 神は「まさか」と思うことをなさる方です。復活したイエス様はサウロに会いに行かれました。死んだはずのお方が自分の目の前にいる、ありえない経験をした時、自分の間違いを知りました。イエス様の十字架と復活は本当で、この方こそ救い主であると信じました。彼はイエス様を宣べ伝え、教会を生み出す人に変わりました。

 ジョンにも転機が訪れました。聖書を読む機会があり、その時、自分がどれだけ酷いことをしてきたかを知らされ、悔い改めたのです。船長を辞めて牧師になり、こんな自分さえも神は愛し、赦して下さったという思いが、歴史に残る賛美歌「驚くばかりの(Amazing Grace)」となりました。

 「私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(聖書)

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第133号より]

◆2022/05 『神の祝福を祈る』

 皆様、お変わりありませんか。

 今は不安な時代です。明日の健康、明日の生活、これからの日本や世界のこと…。

 不安が大きくなり過ぎると動けなくなってしまうことがありますが、人々のためにできることがある…、そう思っています。

 それは人々のために神の祝福を祈ること。今、私は特にこれを意識しています。

 聖書には、祝福を与えて下さるのは神であると書かれています。昔、神はアブラハムという一人の人を選び、世界の祝福の基としました。全世界の人々の祝福のために彼がまず選ばれたのです。

 祝福とは何でしょう。お祝い? 喜び? 物質的な豊かさ? 成功? 願いが叶う? 神の祝福の中にある大切な要素は「人が変えられる」ことのように思います。

 涙が笑顔に、不平が感謝に、不安が平安に、絶望が希望に、愛し、赦し…。神の祝福をいただいて、人は変えられるのです。

 聖書に記された祝福の祈りです。

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(民数記6:24-26)

 神があなたを守るのです。神が御顔を隠すのではなく照らしてくださる、まるで微笑みかけているようにも感じます。御顔を向けてくださることの中に神の愛と意思を感じます。そして、神の平安、誰にも妨げられない平安がここにあるのです。

 多くの人が重荷を抱えて生きているでしょう。だからこそ神の祝福を祈ります。出かけて行った先で、人と会って、私は祝福を祈りたいのです。手紙やメールの最後には祝福の祈りのことばを綴ります。

 いろいろ落ち着かない日々が続き、不安の多い時代にあって、皆様のために神の祝福を祈ってまいります。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第132号より]

◆2022/03 私の相談相手

 皆様、お変わりありませんか。

 いろいろなことが普段の人間関係の中で起こります。また、身近な社会でも、広い世界でも起こりますが、それは私たちの心に影響を与えるでしょう。喜べることは良いのですが、悲しみ、怒り、嘆き、やりきれない思いに包まれる時が大変です。心への負担がとても大きいからです。時に逃げ場を失い、追い詰められ、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。

 皆様はその時、どうされるでしょうか?

 私には一つの処方箋があります。

「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」(詩篇119:24)

 「あなたのさとし」は聖書、神のことばのことです。神様が聖書を通して私たちに語りかけてくださいます。そして、その神のことばが「相談相手」だと言われます。英語訳の聖書では「カウンセラー」です。私の心に聖書を処方すると回復を始めます。

 私も例にもれずストレスを抱え、行き詰まり、悩み、迷い、自分を見失いそうになり、苛立ち、傷つきます。ある日の帰り道、運転しながら車内で一人、叫んだこともあります。「ア″ー!」と(笑)。我慢していられずに思わず大声を出してしまいました。

 しかし、私が日課としている聖書を読む時間。これが私の処方箋です。ストレスに潰されそうでも、心が騒いだり、傷ついた時でも、聖書を開いていく中で自分を取り戻すことができるからです。ただ神様のことばに触れているだけで私の心が整えられ、いやされるのです。ヒントになることばに出会うことももちろんあります。

 聖書が「私の相談相手」です。神様が私の心の思いを受けとめ、助言し、光を当ててくれるからです。まさにカウンセラー。私は毎日、カウンセリングを受けているようなものなのかもしれません。皆様もいかがですか?くせになりますよ。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第131号より]

◆2021/10 私を追いかけて来るもの』

 皆様、お変わりありませんか。

 「私を追いかけて来るもの」と自分で言っておきながら、子どもの時の嫌な体験が思い出されました。それは放し飼いの犬に追いかけられたことです。そしてお尻をガブリ!忘れられない痛み、涙の体験です。

 人を追いかけて来るものにはいろいろあるでしょう。仕事、心配、不安、辛い過去の記憶、誘惑の言葉、請求書、パトカー、そして死の足音。もっと幸せで、楽しいものに追いかけられるのなら良いですが、マイナスをイメージする方が多い気がします。

 聖書には次のような言葉があります。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)

 神の「いつくしみと恵み」が私たちを追いかけて来てくれるのなら、こんなすばらしいことはありません。

 どのようにしてそれは可能になるのでしょうか。そのカギは次の聖書の言葉です。

「主は私の羊飼い。」(詩篇23:1)

 羊は弱く、迷いやすく、臆病者で、目の前のことばかりに捕らわれるところがあるので、羊飼いがいないと安全で安心な暮らしを続けることができません。つまり、羊の一切は羊飼いにかかっているわけです。

 神が羊飼い、私たちは羊。良い羊飼いが自分の羊から目を離さず、命をかけて敵から守り、安心できる環境を常に整えるのと同じように、私たちの神は私たちに目を注ぎ、手を伸ばしてくださいます。私たちの一切は神にかかっているのです。

 だから今、私たちがどのような状況に置かれていても、たとえ涙の日々であっても、私たちを追いかけて来るのは神の「いつくしみと恵み」です。羊飼いである神の優しい眼差し、愛に溢れた言葉、力強い御手はいつもすぐ側にあるのです。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第129号より]

◆2021/07 泣く者の声を聞く神』

 皆様、お変わりありませんか。

 誰かの陰で悲しい涙を流す人がおります。聖書に登場する女奴隷ハガル。彼女はそのような人でした。彼女の主人は信仰の父と呼ばれるアブラハムの妻サラ。サラの下で2度、悲しい思いをしたのです。

 子を産むことなく高齢になったサラはハガルによって母になろうとしました。奴隷に自由はないのです。妊娠後、サラにいじめられて逃げ出しました。彼女にも問題はあったでしょうが、孤独と絶望の中へ…。

 しかし、神はハガルをお見捨てになりません。その苦しみの声を聞いて下さいました。神はずっと彼女を見ていたのです。このことが彼女の生きる力となりました。

 戻ってサラに仕えたハガルの出産後、神の力によりアブラハムとサラ夫婦に子が与えられました。サラは母となりました。跡取りは一人で良いと思ったのでしょう。ハガルたちは追い出されてしまいました。

 命綱の水が尽きれば死んでしまう環境の中で、ハガルたちの水はついに尽きたのです。しかし、その時の悲しみの涙を神はご覧になりました。その少年の声を神は聞かれました。ハガルたちが見捨てられることはなかったのです。その子の声は絶望の中での叫び、神への祈りだったのでしょう。

 神は瀕死の二人の側に立ち、生きる道を示し、未来への希望を約束されました。

 「神があそこにいる少年の声をきかれたからだ。」(創世記21:17)

 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(イザヤ書38:5)

 私たちの涙は神がご覧になっています。泣く者の声を神が聞いてくださっています。やがて、神は私たちの「涙をすっかりぬぐい取ってくださる」と約束されました。この神を信頼して生きることは幸いです。悲しみはやがて喜びに変えられるのです。これが神のわざなのです。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第128号より]

◆2021/05 私の人生・・・、逆転する?』

 皆様、お変わりありませんか。

 どんな困難や苦難、立ちはだかる壁をも乗り越える…、そんな素晴らしい人生を生きた方々がいらっしゃいます。まさに人生の大逆転! 感動して胸が熱くなります。でも、ふと思うのです。そんな人ばかりではないし、知らないところで克服できなかった人たちはあふれているだろうと…。

 聖書の詩篇107篇に4種類の人々が紹介されています。

 ①人生を彷徨い、疲れ果ててしまった人。

 ②何かに縛られて苦しみ、孤独である人。

 ③失敗や罪に悩み、絶望が迫っている人。

 ④思わぬ試練に悩み、行き詰っている人。

 人生いろいろ、お一人お一人の日々にいろいろなことが起こるでしょう。これらの4つの中に自分のことが当てはまると思う方もおられるかもしれません。しかし神は、落ち着く先を与え、心を解放し、生きる力と希望を備え、平安を与える方なのです。

 では、それはどのようにして手に入れられるものなのでしょうか。

 聖書は次のように書いています。

 「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された(救い出された)。」(詩篇107:28)

 また、聖書は神が私たちにどのような目を向けておられるかを伝えています。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5:7)

 神は私たちを見つめ、心を配り、胸を痛めておられるのです。その神と私たちをつなぐものがありますが、それが「主に向かって叫ぶ」こと、神への祈りです。

 今、自分の人生がどこにあるとしても、神への祈りはどこからでも届きます。その先には希望と安息が待っています。人生の嵐は止み、凪が訪れるでしょう。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第127号より]

◆2021/03 わたしはあなたとともにいる』

 皆様、お変わりありませんか。

 幼い子どもが不安を感じるのはどんな時でしょうか。それは親の姿が見えなくなった時でしょう。本気で泣きますね。

 大人も不安を感じます。先行きが見えず、力量不足にあえぎ、人間関係でつまずき、病気が見つかり…、いろいろな場面で私たちにも不安はすぐそばにやってきます。けれども、助け手がいて、苦労を分かち合ってくれる人がいて、一人ではないとわかったら、どれだけ助けられることでしょう。

 聖書に登場するモーセ。彼は民族大移動という大事業を成し遂げ、後継者のヨシュアは新しい地での定着に力を注ぎました。父と兄を騙して大事なものを横取りしたヤコブは一人で逃げることになり、高慢のために兄たちの憎しみを買った息子ヨセフは奴隷として売られてしまいました。

 そんな彼らに神が語られた言葉は一つです。「わたしはあなたとともにいる」。

 イエス様がお生まれになった時、天使が言いました。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)(マタイ1:23)。

 弟子たちが嵐で舟が沈みそうになるほど苦労していた時、イエス様はそこにおられました。私たちの罪のために十字架で死に、3日目に復活し、やがて弟子たちの見ている前で天に上って行かれたイエス様が弟子たちに最後に語った言葉、それは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。

 私たちを決して一人にはしない、これは神から私たちへのメッセージです。健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、嘆き、泣き叫び、裏切られ、苦しめられ、孤立し、自暴自棄に陥る時も、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と呼びかけてくださる方、これが聖書の神の姿です。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第126号より]

◆2021/12 『つぶやきから歌声へ』

 皆様、お変わりありませんか。若い頃、教会でよくギターを弾きながら歌っていた歌を思い出して口ずさみました。今でも不思議と感動を覚える歌です。

♪ 私の胸の痛みは 誰にもわかりはしないと

背を向ける前に、主の声を聞いてごらん

今 苦しみさえも 今 つぶやきさえも

イエスは腕に抱きしめて 歌声と変える ♪


 辛い!苦しい!何もかもが嫌だ!と叫ぶような中でも、私たちのこの口を「つぶやきから歌声へ」と変える方がおられます。

 聖書に次のような言葉があります。

 「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ書35:5‐6)

 今までがどのようであっても、神によって新しいことが私たちに起こるのです。

 「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(イザヤ書61:1)

 神の御子イエス様がこの地に来られた時、忘れられ、捨てられ、虐げられていた人たちに光が注がれたのです。イエス様は疲れた人、重荷を負っている人に安らぎを与え、希望をもたらす救い主だからです。

 口に筆を加えて詩画を書く星野富弘さんは、意気揚々と体育教師になりながら、指導中に起きた事故によって肩から下の自由を失い、絶望の淵に立ちました。ところが、イエス様のことばに出会って変えられ、新しい人生を生きるようになったのです。体が元通りになることはありませんでしたが、彼を絶望から解放し、真の幸いへと導いたのはイエス様です。

 神が私たちの口につぶやきではなく賛美の歌を与えて下さいます。

ー 牧師 ―  [ほっとひと息・第130号より]