急に声が酷くかすれて思うように話せないということが起きました。普通に会話できなくなるのはつくづく大変です。でも、こんな時にふと思ったのです。声を出せない人たち、声を上げたくても上げられない人たちがたくさんいるではないか・・・と。
差別的な取り扱いを受けている人。
親の育児放棄により栄養不良の子ども。
困窮して大変なのに我慢している人。
福祉サービスの恩恵から外れている人。
DV被害から逃げ、身を隠している人。
前科があるために信用されない人。
国籍を隠すようにして暮らしている人。
まだまだいろいろな人がいるでしょう。私たちが知らないだけで、このような少数派は厳しい環境に耐えているのです。
私たちの社会は多数派には都合よくできているでしょう。結局、少数派はその陰に隠れてしまいます。やっとの思いで声を上げると「甘えている」と叩く人がいます。なんとも声を上げにくい社会です。
大きな声は取り上げられて報われますが、小さき声は届きません。この声を拾える社会に変えることはできないものでしょうか。皆、私たちの社会の一員なのです。
自分が見えていないところにも人がいること、社会の注意が向けられていない人たちがいること、その人たちも大切な一人一人であることを認識することから始めることが大切です。それにはどうしても想像力が必要になります。誰かを置き去りにすることのないようにしたいものです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第150号より]
欲望の中には厄介なものがあります。
人間の罪の始まりは自分も神のようになれるかもしれないという欲望を満たすためだったと聖書は記しています。人間はそれを手に入れられませんでした。悪魔が言った偽りの言葉に騙されただけなのです。
欲望から悪いことが始まることがしばしばあることを考えています。
領土を広げたい、資源を手に入れたい、豊かな富を求めて人は何をしてきたでしょうか。戦争です。かつて資源の乏しい日本は、資源の豊かな地域を自分たちのものにしようと企て、力をもって手を伸ばしたのです。これが戦争の陰にあるものです。
戦争が起きる度に考えています。「あの国は今、何を手に入れたいのだろうか?」
報道で知ることはありませんが、ジャーナリストによれば、現在の戦争でも、手に入れたいものがあるのは確かなようです。欲望を満たすため、豊かな富を手にするため、今なお人の命が奪われています。人間の罪深さを嘆かずにはいられません。
では、私たちは自分の欲望をコントロールできる自信があるのでしょうか。これこそ最も厄介なものだと思います。果たして努力で克服できるものなのか・・・。
理想と現実には開きがあるものです。願っていることと実際の自分の行動にはギャップがあるでしょう。「努力」というエンジンでは何も変わらなくても、「愛」というエンジンを手に入れられたら、少しずつ変わり始めるだろうと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第149号より]
力が平和をもたらす、力で戦争を止める、力ある者が生き残る、そんな言葉を聞くことが増えています。これが現代の主流、常識となりつつあるのでしょうか。力が人の命を守っているのかもしれませんが、一方で、力が人の命を奪っていることを見過ごしにはできません。
どんなに強大な力を誇った国でも滅んだのです。力による支配は人に恐怖心を与えますから、それを超える力を身に着けようとするでしょう。こうして「力」対「力」の構図が続き、終わりがありません。世界はこの歴史を今なおたどり続けていると思います。果たして力は私たちの未来を明るくするでしょうか。力のある所にはいつも憎しみの種が蒔かれています。
私たち教会は世界に対して「力」を誇りません。イエスが私たちに教えたことは互いに愛し合うこと、あなたの隣人を自分自身のように愛すること、そして、傷ついている人がいれば、その人の隣人になることだからです。それはイエス自身が歩まれた生き方そのものです。
愛は人の心を穏やかにするでしょう。愛は人を赦すことさえ可能にします。愛は自分よりも相手のことを優先して考えることもできるので、その愛を受け取った人の心には感謝があふれるでしょう。愛がある所には平和の種が蒔かれていくのです。
信じられるのは力ですか?力はあなたを幸せにしますか?私は「もっと愛を!」と言いたいのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第148号より]
難病の患者団体の事務局長をしていた頃のことですが、いろいろな関係団体とつながり、情報誌などもいただきました。その中に「キッズ・ファースト」という機関誌があり印象に残っています。「いつも子どもが最優先」を合言葉に、障がいや難病を持つ子どもたちを支援し、子どもたちの笑顔と生活の質の向上のために力を惜しまないという、愛情あふれるものでした。
しかし、最近耳にする「○○ファースト」には冷たい響きを感じるようになりました。自分たちのことが最優先、自分の国が最優先…。裏を返せば、隣人のことまで面倒見切れない、他の国のことまで気にしていられないということでしょう。「共に生きる」という世界の願いが消えそうです。
聖書には他の人のことにも心を向けるべき言葉がたくさんあります。そして、教会はその生き方を受け継いでいきました。
「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。」
「受けるよりも与える方が幸いである。」
「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」
自分を大切にして生きるとともに、他の人のことも大切にして生きるのです。他の人のために手を伸ばせる時はそれを実行し、助けてもらう必要があるときは助けてもらい、そうして共に生きていくのです。
温もりや愛情を感じられる世界を望みます。今の時代から消えかかっている生き方を何とか取り戻したいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第147号より]
朝日新聞に掲載された記事「最後の安全網」に目が留まりました。そこに生活情報グループがまとめた「生活保護率増減マップ」が紹介されていました。これは全国970市区を調査したものです。「保護率」とは人口1000人当たりの生活保護利用者の割合を示すものです。
2012年~2021年の10年間の保護率の変化は平均で「−3%」。ところが11市区で「−40%以上」というところがあり、1位は「−58.9%」。こんなにも貧困が解消されるということがあるのでしょうか。
保護率が「−41.1%」の群馬県桐生市が記事になっていました。中でも親族の支援があるとの思い込みで減額、つまり満額支給されていないケースは衝撃的でした。
貧困が解消されていたわけではないのです。以前から問題とされている水際作戦(生活保護申請を受付けないようにする窓口での働きかけ)だけではなく、申請を認めても減額するとは…。愕然としました。
私たちの社会は人への優しさを手放してしまったのでしょうか。誰でもある日突然、生活に困窮するかもしれないのです。他人事ではありません。しかし、最後の安全網である生活保護という権利が軽視されれば、国民の生活を守るという使命を果たさない国、悲しい国になってしまいます。
聖書では「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」と言われています。人に対して優しい社会、国を作りたいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第146号より]
以前、専門家から聞いた話を思い出しています。それは、米国のホロコースト記念博物館に「ファシズムの初期兆候」として14項目が掲示されているというものです。この国においても、世界の情勢を見ていても、危険なピースがすでにいくつもはまっているように私には感じらます。
⇒ 強力で継続的なナショナリズム/人権の軽視/団結の目的のため敵国を設定/軍事優先(軍隊の優越性)/はびこる性差別/マスメディアのコントロール/安全保障強化への異常な執着/宗教と政治の一体化/企業の力の保護/抑圧される労働者/知性や芸術の軽視/刑罰強化への執着/身びいきの蔓延や腐敗(汚職)/詐欺的な選挙。以上の14項目。
今見えている世界がすべてではないでしょう。未来の世界にどのような夢を描いているかによって、国が進む道、世界が向かっていく道は変わるはずです。
人は心に思ったことを行動に移すものです。もし、現在を悲観し、未来は不安ばかりだと諦めれば、今が良ければそれでいいとなるかもしれません。もし、夢を抱いて、子や孫、ひ孫の時代のために穏やかな世界をと願うのなら、平和をつくる歩みに関心を寄せて歩き出すかもしれません。
今、日本でも世界でも危険な兆候が目につきます。だからこそ、未来に向けて、力ではなく愛を求め、偽ることなく誠実に、そして、その先にある平和な社会を待ち望んで生きていきたいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第145号より]
南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏の言葉が心に響いています。彼は「政治家は歴史を勉強しないといけない」と言って、次のことを語りました。
「今の政治には哲学がない。・・・ヨーロッパ中世の学問に、スコラ哲学がある。これは、古代ギリシャの『スコレー』が起源で、これが『ひま』という意味なんだ。古代ギリシャでは、スコレーは議論する時間のことだった。・・・社会に、スコレーつまり『ひま』が重要だったんだ。スコレーがあったから哲学が生まれた。・・・哲学は大学で学ぶだけじゃない、人生を通して抱き続ける問いなんだ。・・・『ひま』は無駄じゃない。人が話しあう時間は大切なんだ。」(「世界でいちばん貧しい大統領からきみへ」汐文社)
疑問をぶつけ合い、議論する時間よりも、効率を優先しているのが現代の社会です。私もどっぷりつかっています。目の前のことばかりに力を注ぐあまり、考えを思い巡らすことも、いろいろな意見を聞くことも減り、もやもやしてばかりいます。
政治の世界から議論がなくなっているように見えます。質問に正面から答えないからでしょう。民主主義から議論を取ったら何が残るのか・・・。これは怖い話です。
機械のように効率ばかり重視しないで、人と人とで社会は成り立っているのですから、もっと語り合う「ひま」を持ちたいと思いました。対話は、人理解、寛容さ、考えの違う人を尊重する素地になるでしょう。これはとても平和な取り組みです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第144号より]
国連加盟国が2030年までに目指すとしたSDGs(持続可能な開発目標)。理念にある言葉は「誰も置き去りにしない」。見捨てず、傍観せず、差別せず、虐げもせず、「共に生きよう」ということです。しかし、物価の高騰などで置き去りにされている人がいることをとても心配しています。
憲法を見ると、第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とし、生活保護法第1条では「この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」とあります。
日本の政府の政策にSDGsの理念は反映しているのでしょうか。何よりも、憲法が守られているのでしょうか。
生活保護費はずさんな進め方で10年前に1割も減額されました。あの減額措置は違法だとの判決も出ています。今、物価高騰や光熱費の値上がりに対応しているのでしょうか。これは命を脅かす事態です。
聖書のことばを思い巡らしています。「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。」(ヘブル人への手紙13:16)
私たちの教会では、余力の少ない現状ですが、何ができるだろうかと考えて少しずつ蓄え始めています。たとえわずかな人数であっても支え、共に生きられたらと願っています。何事も小さな一歩から…。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第143号より]
「グリーフ」という言葉を知ったのは今から34年前。小さな本「悲嘆の過程の研究 グッド・グリーフ」(ウエストバーグ著)を手にしたのがきっかけです。そして昨年、「キリストの愛に基づく グリーフケア」(岩上真歩子著)が出版され、改めてこの言葉を思い巡らしています。
岩上師は著書の中で、「喪失体験にはさまざまな感情が伴います。この感情を『グリーフ』と言います。『グリーフ』は『悲嘆』と訳されることもあります。『悲嘆』は『悲しみ嘆くこと』を意味しますが、喪失体験に伴う感情は『悲しみ』だけではなく、寂しさ、怒り、苛立ちなども含まれます」と説明しています。死別、転居、体の変化などでも人は喪失と感じ、心は反応するのです。
大きな災害が起きればたくさんの人が大切なものを失います。老いると失うものも多くあるでしょう。元に戻らないからこそ、人は悲しみ嘆くのだと思います。
このような時の心の反応は人それぞれです。無理してその感情を抑えたり、人と比べて「頑張らなくちゃ」と感情を仕舞い込んだりしない方がよいと思います。
この悲しみや嘆きなどの感情を抱えたままでいるのはとても大変なことですから、信頼できる関係の中で、少しでもそれを言葉にするのは助けになると思います。
私自身、子どもを失った経験者でもありますから、だれかのお役に立てるかもしれません。克服できなくても、いっしょに心をケアしていけたらと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第142号より]
苛立ち、あきれるほどの出来事が続いています。企業における不正もそうですが、特に政治家による不透明なお金の問題のことです。しかも、今に始まったことではなく、ずっと前から続いていたと聞き、私たちは長く騙されてきたのだと知りました。やりきれない気持ちです。
それに加え、私たちの忍耐力を試すかのように、その説明はかなり控え目で、核心になかなか至りません。また、私たちが忘れるのを待っているかのように、時間ばかりが過ぎています。
そのような中、失われつつある言葉があると思いました。その言葉は「誠実」。政治への信頼を取り戻すというのなら、誠実さを追い求めてほしいのです。
まっすぐな生き方、裏表のない行動、言葉と行いの一致、ルールに従おうとする姿勢、約束したことに対する真面目な態度、過ちを認めてお詫びし、きちんと出直すなど、「誠実」な人だったらこのような姿を見せてくれると思うのです。
「人のふり見て我がふり直せ」と言われるように、社会に広がる不誠実な姿を見て、誠実な生き方を目指していきたいと思いました。聖書の中にもたくさんの不誠実な人たちが登場しますが、神様は私たちが誠実に生きることを望んでいます。
誠実に生きる人を騙して利用する人や陰で笑う人がいるかもしれません。しかし、「誠実」を死語にしてはなりません。社会から「誠実」を失くしてはなりません。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第141号より]
あるドラマで心に響いたシーンがありました。戦いの勝者と敗者の会話です。
勝者は言います。「共に戦いのない世を作っていくものと思っていた。それがなぜ、こんな無益な戦いを引き起こしたのか?未曽有の悲惨な戦いだ!何があなたを変えたのか?私はその正体が知りたい!」
敗者は答えます。「私は変わっていない。私の内にも戦いを求める心が確かにあっただけだ。一度火がつけば止められない恐ろしい火種だ。それは誰の心にもある。自分にないと?うぬぼれるな!この悲惨な戦いを引き起こしたのは私であり、あなただ。戦いのない世などできはしない。」
「それでも私はやらなければならない」と言って勝者は敗者の前から去りました。
昔も今も、人と人が、民族と民族が、国と国が、取るか取られるか、どちらに正義があるか、優っているのは我々の方だと…。世界のギスギスした空気が止まりません。人は戦いを止められないのでしょうか。
宗教が対立を生んでいると言われることがありますが、実際は人間のエゴ、むさぼりの心、戦う欲望があるからだと思います。宗教は為政者によって民族や国を思想的にまとめる道具に使(つか)われています。
聖書は人の命の尊さを語り、誰かを敵とすることがイエス様の道に反していることに気づかせ、人を愛し、人を赦し、人を敬い、人に仕えるようにと戦いを求める火種を私たちの心の中から消すのです。
だから私は平和のために祈り続けます。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第140号より]
「雑草いう名の草は無い」との名言を残した方がおられるそうです。「雑草」とひとまとめにするのは個々の草花をよく知らないために起こることだからです。
「草花にはそこで咲く意味がある」という名言もあるそうです。草花一つ一つに固有の価値があるように、人間一人一人にもそこで生きる意味があるのです。比較して優劣を付けたり、有益か無益かという価値観で人間を見ることは誤りでしょう。
自分のことを「雑草」と言う人がいます。たくましさのことではなく、自分は社会で見向きもされず、邪魔だと引き抜かれ、捨てられるだけの存在という意味でしょう。しかし、「雑草」というレッテルを貼る時、自らその価値を歪めているように思います。
「教会は誰が行っても大丈夫なんですか?」と聞かれることがありますが、「その通りです!」とお答えしてきました。ところが、いろいろなレッテルを自分に貼り、ためらう人がたくさんおられます。
「自分は教会にふさわしくないから、行かない方が良い」、「自分が行ったら教会を汚してしまう」、「自分はいい加減な人間だから教会に失礼だと思う」などです。
教会は皆さんお一人お一人を尊い存在として歓迎します。事実、強面の「元〇〇」の人も来られ、クリスチャンになりました。いろいろな重荷を背負っていても、皆さんは決して雑草ではありません。お名前のある大切な方々です。今そこに存在していることに価値があるのですから。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第139号より]
平和について考える本の中で、興味深い、インパクトのある歌が紹介されていました。それは清竜人の「ぼくが死んでしまっても」。歌詞の一部を紹介します。
♪もしも僕が明日 誰か知らないやつに 大した理由もなく 酷く傷つけられても お父さん お母さん お姉ちゃん おじいちゃん おばあちゃん ガールフレンド 決して報復なんて恐ろしいこと考えないでよ 僕は多分憎んじゃいないから きっと誰も憎んじゃいないから そんなことしたってさ 何も生まれないから
・・・ 中略 ・・・
もしも君が明日 誰か知らないやつに 大した理由もなく ただ傷つけられたなら お父さん お母さん ごめんなさい ガールフレンド 本当にごめんなさい 僕はとても恐ろしい顔して家を飛び出すだろう どうしても許せない どうしても耐えられない どうしても許せない どうしても耐えられない 神様が許してもこの僕は許さない もしも君が明日死んでしまったら
人間 憎むこと許されない 幸福 願わなければならない 誰であろうともそんなこと頭ではわかっているの でも悲しみに耐えられない そう僕は弱い男だ ・・・ ♪
この歌詞を通じて、平和を考える時に避けて通れない当時者意識と自己矛盾を突き付けられました。それをわかった上でもやはり、傷つけ合うことのない世界を祈り求めます。人を愛し、人を敬い、人を赦し、壁を取り除き、わかり合いたいのです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第138号より]
ある国のリーダーが国民に向かって発言しているのを聞いた時、ふと思ったことがあります。「なんでだろう?こちらの心に響いて来ないなあ」と。演説の内容というよりも、伝え方、話し方が原因なのかもしれません。話が一方通行になってしまった印象は拭えません。人に言葉を届けることは簡単ではないと改めて思いました。
言葉が聞き手の心に届かないのはなぜでしょうか。聞き手の状況が理解されていないと感じられたからかもしれません。別な言い方をすれば、話す側が、どの位、聞き手の顔を思い浮かべていたのかということです。ここが余りにも不十分な時、言葉が心に響かないだけでなく、聞き手を苛立たせてしまうことさえ起こるでしょう。
反対に、言葉が相手にしっかりと届いている時は、聞き手が「私のこと、わかってくれているんだなあ」と思えたからこそ、そう思えるのでしょう。お互いの心で響き合える言葉を持てるなら幸いです。
人に説明する・人の説明を聞く、医師が診断を知らせる・患者は病状を伝える、会議で提案をする・意見を述べるなど、いろいろな場面で思うように行かない経験をすることはよくあることです。けれども、お互いに理解し合えていると感じられる時は本当に安心を得られるように思います。
最も安心を得られるのはイエス様への祈り、祈りを通じた交流です。これは私たちにいつも安心をもたらします。イエス様は私たちの一番の理解者だからです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第137号より]
私たちが生まれた時から持っていて、誰からも制限されることなく保障されているものとは何でしょう。「人権」です。最近、これをよく思い巡らすのです。そして、これが大切される社会であってほしいと…。
1948年に国連で採択された「世界人権宣言」を読みました。第1条には「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。(以下略)」、第2条には「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。(以下略)」
日本国憲法では、第11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」また、第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
いろいろなところで人が傷つき、抑圧され、弱い立場の人が我慢する社会において、すべての人に生まれながら与えられている人権が守られるよう祈り願っています。聖書の人間理解はこれと共通しています。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第136号より]
世界のベストセラーである「聖書」。聖書は世界で最も多くの言語に翻訳されています。聖書全巻では700以上の言語、新約聖書だけなら1,600以上の言語に翻訳されています。今回、その聖書の親しみ方をいろいろと紹介したいと思います。
聖書は普通に誰でも購入できますが、今、最も画期的なのは「聴くドラマ聖書」というアプリです(パソコン版もあります)。有名俳優たち150名によってドラマチックに聖書が朗読されています。旧約聖書も新約聖書も全巻収録されています。新感覚の聖書の親しみ方ができます。このアプリでは聖書を読むことも可能です。無料で利用できますから、気軽な気持ちでちょっと聴いてみてはいかがでしょうか。
最近出版された『方言聖句』は興味深い1冊です。津軽弁、大阪弁、沖縄弁で聖書の言葉が書かれています。声に出して読むと、今まで感じたことのない言葉の温かさが伝わってきます。方言だからこその味わいです。但し、この『方言聖句』。聖書全体ではなく、聖書の一部だけを取り上げている小さな本です。今は第1弾が出版されただけですが、いずれ第2弾も出版されるでしょう。他に、「ケセン語訳」(岩手県気仙地方の言葉)の聖書も出版されています。
ちなみに、日本手話訳聖書(アプリ、YouTube)もあり、聖書全巻の翻訳完了を目指して翻訳が続けられています。
「難しい」と言われる聖書。新しい親しみ方にチャレンジしてはいかがですか。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第135号より]
政治、経済、感染症、災害など、関心事は目まぐるしく入れ替わりますが、今も続く戦争を見、平和への関心は薄れません。
聖書に次のような言葉があります。「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ書2:4)
戦わないこと、それが願いです。
『みどりのゆび』(モーリュ・ドリュオン著)という児童文学を知りました。主人公はチトという少年。チトには不思議な力がありました。チトが指を触れるとそこに花が咲くのです。刑務所に花を咲かせると、囚人たちの心が変わって行きました。病院で出会った少女を花で包むと、笑顔と生きる喜びが戻ってきました。
チトの父親は兵器工場の経営者でした。ある日、工場から出荷される兵器箱や大砲にチトは次々とその指を触れて行きました。すると、戦場ではとんでもないことが起こるのです。兵器箱には花が絡みついて使い物にならず、大砲からは花が咲いたのです。もはや戦いにならず、その意欲すら消え、戦争は終わり、平和が訪れました。
チトのように、自分にできることで平和に貢献したいと思います。唇に人の心を温める言葉を持ち、手は人を助けるために開き、足は慰めを必要としている人を訪ねるのです。人々がお互いに優しい気持ちで生きる日を夢見て、人の心に喜びの花を咲かせる種を蒔き、身近なところで平和の花を咲かせていきたいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第134号より]
「宇宙から国境線は見えなかった」と宇宙飛行士の毛利衛さんが言われました。地球を外から見ると、地上で知る世界とは別な世界が見えてくることに気づきます。
気象予報士はいつも地球全体の雲の動きなどを見ています。インド洋の海面水温や雲、太平洋上の雲の動き、偏西風などが日本の気象に影響を及ぼすそうです。「空はひとつなんだ」と思います。火山の噴火、地震、黄砂、そして地球温暖化…、いろいろなものが世界に影響を及ぼしています。
しかし、同じ空の下に生きている、いや、生かされている私たちが、お互いに課題を共有し、切磋琢磨するのではなく、さまざまな形で戦い、奪い合い、虐げ、蔑み、悲しみを広げている現実に胸が痛みます。
神は世界のすべての人に同じ太陽の光を与え、同じ空気を備え、同じ空の下に置き、雨を降らせ、季節を移り変わらせ、夜には星空で楽しませ、ひとつの環境の下で生きるようにして下さっています。
お互いの思想や価値観を尊重し、さまざまな違いを認め合って共に生きるために、境界線は必要でしょう。その境界線をいたずらに超えていくなら、誰かが傷つきます。強い者と弱い者、上と下という意識が生まれてくるからです。
私が大切にされたいと思う時、他の人も同じ思いを持っているのです。命は誰にとっても大切です。奪っても良い命はこの世界に一つもありません。空を見上げ、他の人を思う時間が私たちには必要です。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第133号より]
星野富弘さんの数多くの詩の中に次のようなものを見つけました。
「鳳仙花は 赤い花を咲かせ
さわるとはじけて 種を撒く 実を造り
人間は さわると 爆発して
いのちを奪う 地雷を造った」
科学技術の進歩には自然を参考にしたものがたくさんあるようです。鳥、海の生き物、猛獣、昆虫など、いろいろな動物の生態を手本にしたり、また、植物の不思議な特徴がヒントになったりするそうです。例えば、新幹線の形やパンタグラフ、マジックテープ、注射針などもその一つのようです。自然の知恵を見事に応用する研究者たちの努力には感動です。私たちはその恩恵の上に便利な生活をしています。
自然界はまさに知恵の宝庫です。それらは神の知恵ですが、人間はそれを良いことに利用して進歩を遂げつつ、また、悪いことに転用して悲劇を生んできました。
ドローンは広範囲に活用されるようになりました。災害救助などにも応用されているそうですが、攻撃用ドローンも存在しています。「AI」の技術も平和的に利用されている一方で、軍事的利用への不安が消えません。誰かが止めてくれるでしょうか。
これまで人間は素晴らしいものを造り出し、新しい文化を形成してきました。しかし、人の命を奪うものもあふれています。
星野富弘さんの詩にハッとさせられました。人間が神を恐れない時、その知恵は悲しみと破壊を招くのかもしれません。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第132号より]
ひとりの人間の指示一つでたくさんの人が死にました。幼い子どもたちも…。一人一人の人生に豊かな価値があり、一人一人に名前があり、それぞれに家族がいるのです。どの生命もみな、尊いはずです。
ひとりの人間の命令一つでたくさんの人たちが故郷を去りました。大切で大好きな自分の町から、しかも逃げるようにして…。思い出が詰まった町ではありませんか。振り返ることが危険とは…、酷過ぎます。
ひとりの人間の思惑がたくさんの人から笑顔を奪い、希望をはぎ取りました。あるのは涙と悲しみ、痛みばかりです。昨日まで平穏な暮らしが続いていたのに、朝目覚めたら恐怖が押し寄せて来たのです。
戦争、それは奪い取るものです。
戦争に勝者はいるのでしょうか。たとえ勝者となっても、敗者には憎しみや怒りの種が植え付けられるでしょう。やがて復讐という芽が出てきて、再び戦争という愚かな火花が咲くでしょう。勝者になっても安心などないから軍備を拡張し、敵を上回る兵器を見せびらかすのではありませんか。
平和は戦争の先で待っているものではありません。敵意を捨てることがなければ平和は訪れないのです。赦し合うこと、違いを理解し認め合うこと、お互いの尊い命を大切にすることが必要です。様々な人と人とを隔てる壁を壊していくべきです。これが平和の種となるに違いありません。
奪う者から与える者へ。まず自分から始める者へと変わっていきたいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第131号より]
NHK大河ドラマ「青天を衝け」を見ながら、何となく現代と比較しながら見ている自分がいます。
明治維新後、新聞社が活字の力を声高に言う場面がありましたが、いわゆるマスコミの士気の高さを感じました。世論をも動かすペンの力に感動を覚えました。けれども、現代においては尖り過ぎないように抑制しているのでしょうか。世論を意識しながらの安全運転に思えることがあります。
貧富の差が増し、子どもでも大人でも食べていくことさえ困難な人たちを預かって面倒を見る渋沢栄一氏たち。しかし、甘やかしてはいけない、国はそこまで面倒を見られない、との声。現代と余り変わらない人間の偏見、自己責任論を感じました。
皆が笑顔になることを考えて理想を追いかける渋沢氏の事業経営と、能力のある者が一人勝ちして国を引っ張ると譲らない実業家。まさに哲学の対立です。国を富ませるのか国民を富ませるのか…。約150年位前にも、現代の与党と野党の対立にも似た構図があることを見、この議論はこれからも続くのだろうと思いました。
そして思い巡らすのは聖書のことば。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイの福音書7:12)
この生き方を貫くことができたらと願っています。誰も置き去りにせず、自分自身のように人を大切に思い、他の人を顧み、共に生きていくことを祈ってまいります。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第130号より]
盲人の方が美術館で絵画を鑑賞するという話を聞きました。作品に触るのではなく、対話によって「見る」というもの。絵を説明して下さる方が必要ですが、これがかなり楽しい取り組みなのだそうです。
絵を説明する方は、まず、丁寧に絵を観察し、それから絵を言葉で伝えます。風景、静物、人物、光や色の具合…。すると、時には、伝える人が今まで見ていなかったものが急に見えたり、ずっと勘違いしていたことに気づいたり、新しい絵の見方ができたと喜んでいるのだそうです。「見る」と「見える」は別なことなのでしょう。
盲人の方が絵画鑑賞を満喫しているのはもちろんですが、絵を伝える側も同時に充実感を味わっているとのことです。
絵画では、対話によって絵を見る人の頭にその絵が思い浮かぶようになることが目標でしょう。伝わることが重要です。
人に何かを伝えようとするなら、受け取る人のことを考えて言葉を選び、整理し、いろいろな工夫もするでしょう。それは正しい理解と納得のために必要であり、伝わらないと目的は達せられないからです。
「伝える」という日常的な行為にも人への優しさが必要です。そして、聞き手や情報を受け取る人がどういう方々なのかを想像することがいかに大切か…。伝える力を養いたいと思います。きっと、見ているつもりでも見えていないことがたくさんあるのです。隣人を思いやる心を土台として、私も考えていきたいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第129号より]
言葉の失敗、失態が目立つように思う昨今です。何を語るかが重要なはずの政治家が、まもなくその発言を「撤回」。本当なら恥かしい話でしょうが、何度となく見てきた光景です。とは言え、政治家に限らず、どこででも見聞きするものでしょう。
昔の人がこんな言葉を残しています。
「言葉は心の使い」「言葉は立居を現す」「言葉は身の文」
心に思っていることが自然と言葉になること、言葉はその人の人格や行動までも表し、言葉はその人の品性や人柄をも表しているというわけです。結局、発言の背後には私たち自身の心があるわけですから、これを見過ごすことはできません。
口から思わず出てしまった言葉は何度でも撤回できるでしょう。けれども、その心をなかったことにすることは果たしてできることなのでしょうか。言葉にその人自身が表れるのだとすれば、発言以上に人柄にこそ気を配り、透けて見える人格を整えなくてはならないと私は思います。
イエス様が言われました。「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」(聖書)
良い物で満ちている心でいるために何ができるのでしょう。栄養豊富な良い土と必要な水分がないと木は育たず、実りもないように、自分の心を耕し、愛と赦しと平和をたっぷり吸収したいと思います。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第128号より]
あと9年。これは国連加盟国が2030年までに目指すとしたSDGs(持続可能な開発目標)の目標達成までに残された年数です。その目標は、貧困や教育、環境など17分野に渡っています。
これらは3層構造になっていて、まるでウエディングケーキのようだと言われます。土台は気候変動や水、海洋資源や陸上資源などの「生物圏」です。2段目に「社会」、そして3段目に「経済」が乗る形になっています。つまり、私たちが安心して暮らせる地球環境が整って初めて、社会や経済の課題が解決できるのだということです。
このSDGsの理念にある言葉、それが「誰も置き去りにしない」。これを共有することがどうしても必要です。
「誰も」、自分の仲間や自国民だけを意識することから、全世界の人に目を向ける広い視野が必要です。「置き去りにしない」、見捨てず、傍観せず、差別せず、虐げもせず「共に生きよう」ということでしょう。
自分の利益や損得、経済優先、勝ち負けにこだわることを止め、誰をも思いやる、尊ぶ、愛おしむ心がけが求められます。
この取組みと聖書の言葉が重なります。
「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」(ピリピ2:4)。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」(ローマ15:1-2)。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第127号より]
一つの大きな組織のリーダーが自らの発言が原因で辞任に至った出来事を考えていました。そこで思い浮かんだ言葉は「自浄作用」。これは河川などが微生物などの働きによって自然ときれいに、また、あるべき姿に戻ることを意味しています。
不祥事を起こした組織に当てはめることもあります。襟を正し、二度と繰り返さないぞと決意し、問題の本質を分析して共有し、日頃から互いに注意し合う。馴れ合いや忖度があったらそれは困難ですが…。
個人でも同じことが言えるように思います。自分のことを棚に上げず、他人に向ける視線を自分にも向け、自分は関係ないと開き直らないようにするのです。私にとっては聖書、これが私を変えてくれます。
私が聖書を読む時に心がけていることがあります。それは、聖書は自分を映し出す鏡であると思って読むこと、そして、「これは他人事ではない、自分のことでもある」と思い巡らながら読むことです。
聖書に登場するのは優れた人たちばかりではありません。どちらかと言えば、罪深く、愚かな失敗を繰り返し、誘惑に流され、非を認めず、人目を気にし、言い訳し、自分は正しいと思い込み、高慢で、くせのある人ばかりです。だから聖書は面白いのです。
その時に思うのです。ここに自分の姿がある、私のことだと。そして悔い改め、足元から見直し、あるべき生き方を求めて神に祈ります。聖書は絶えず私の心を探り、私をきよめる大切な神のことばです。
ー 牧師 ― [ほっとひと息・第126号より]