合同会社押鐘サイエンスラボ 代表社員:押鐘 浩之(おしかね ひろゆき)
東京都大田区出身。地元の小池小学校、大森第六中学校を卒業後、東京都立日比谷高等学校を経て、京都大学、東京大学大学院、東京工業大学大学院にて学び、博士(理学)を取得。 その後、英国MRC分子生物学研究所(Laboratory of Molecular Biology, Medical Research Council)およびケンブリッジ大学で研究員を務め、帰国後は帝京大学医学部・医療技術学部助教・講師、大阪大学大学院薬学研究科特任准教授として教育・研究に従事してまいりました。現在、京都大学生存圏研究所客員准教授、国立民族学博物館外来研究員、明治薬科大学客員研究員。
2024年、研究の現場から一歩踏み出し、科学技術の社会実装を目指して独立。現在は、合同会社押鐘サイエンスラボを拠点に、自らが開発した技術の実用化とともに、生物学的手法の普及や異分野融合による研究支援、教育活動にも力を注いでいます。
専門は分子生物学、生化学、タンパク質科学。近年は食品科学、考古学、文化財科学、文化人類学など多様な領域と連携し、生物学の知見を活かした新たなアプローチを探求しています。
趣味はピアノ、チェロ、海水魚の飼育。学生時代はレストランなどでのコンサート活動にも熱中していました。科学と芸術、自然の美しさの融合に、これからも創造のヒントを得ていきたいと考えています。
「教育」と聞くと、どうしても堅苦しいイメージを持たれる方も多いと思います。正直に言えば、私自身、高校時代は遅刻やサボりが日課で、大学時代はほとんど授業に出ないような学生でした。そんな私が教員をしていたこと、そして今この場で「教育」について語っているという事実に、いささかの違和感すら感じます。それでも、大学を離れ、あえてこのような教育活動に取り組もうと思った理由のひとつは、「今の教育」と呼ばれているものへの、ある種の反骨心に近い感情です。
本来、新しいことを知る・経験するというのは、純粋に「おもろいこと」のはずです。その面白さを、もっと多くの人と、もっと自由に共有できるようにしたいと思っています。そして将来的には、そのような機会を無料で提供できるような仕組みも作っていきたいと考えています(☞将来的なビジョン参照)。「勉強」と聞くと、どうしても受験やテストで点数を取らなければならない、といったプレッシャーがつきまといます。しかし、私が考える「勉強」はもっとシンプルです。
──自分にとって「何か新しいもの」を蓄えて、いつか(あるいは明日)活かせるかもしれない。
そうした営みのことです。
とりわけ、理系の学問を学ぶ意義の一つとして「未来を予想する力を養うこと」が挙げられると私は考えています。例えば運動方程式1/2gt²を使えば、物体がt秒後にどこにいるかを予測できます。生物学でも、検査によって現在の状態を知り、将来を予測する──そんな「知の道具」になります。どの学問分野でも、「その手があったか!」という発想が積み重なって、現在生きる私たちの「常識」を形成してきました。でも、その発想が生まれた当初は、むしろ非常識だったかもしれません。
とはいえ、全くの非常識からは、単なる非常識しか生まれません。新しいアイディアとは、往々にして「何か」と「何か」の組み合わせです。そしてその「何か」とは、多くの場合その時代の教科書的な「常識」だったもの。つまり、「常識」というパズルのピースを多く持っていれば、それだけ新しい組み合わせ、つまり新しい価値を生み出すポテンシャルとなり、チャンスが広がるということを意味していると思います。
「勉強」とは今生きている現代の「常識」というパズルピースを集めることと私は考えています。何に役立つかわからなくても、「知る」ことが未来での発想への投資になり得ます。人によって「学び」の捉え方は違っていいと思いますし、その多様性を尊重すべきと考えます。だからこそ私は、「学び方を強要する」のではなく、「それぞれの人が自分のやり方でパズルピースを集められるような場」の形成を実現していきたいと思っています。
価値観の多様化が進む現代において、日本の教育環境が未だ偏差値偏重、いわゆる「穴埋め教育」に依存していることに危機感を覚えています。知識を効率よく詰め込み、所定の問いに所定の答えを返す能力ばかりが評価される仕組みでは、思考力や応用力、そして創造性を育むことは困難と考えられます。
科学の本質は、「未知を知ることへの好奇心」と「予測の面白さ」にあると私は考えています。坂本龍一氏の「作曲は99%の模倣と1%のオリジナリティ」という言葉や、エジソンの「1%のひらめきと99%の努力」という言葉が示すように、創造は模倣と学習の積み重ねの先に生まれるものです。ニュートンもまた、自らが重要な物理法則を次々と発見できた理由として「巨人の肩の上に立った」と述べました。つまり、理系の「おもしろさ」とは、知識を組み合わせ、新たな景色を俯瞰できるその瞬間にこそあると私は考えます。
私はイギリスに3年間滞在していましたが、その間、日本の教育との違いを強く感じました。イギリスでは、たとえ自身の知識が未熟でも自分の意見を相手にキッチリと述べ、議論に参加することが尊重されます。一方で日本では、「知らないことを知らないと言いにくい」空気があり、自由な議論が妨げられているように思います。学びの現場において「知らない」は恥ではなく、「知る」ためのスタートラインであるはずです。
理系の「おもしろさ」とは、単に知識を詰め込むことではありません。私は、知的な「おもしろさ」を一人でも多くの方と共有することを生き甲斐であると考えています。
押鐘サイエンスラボでは、単なる知識の詰込みや効率良い穴埋めではなく、実体験に裏打ちされたパズルピースの有機的な繋がりからなる知識体系の構築を最も重要視しています。
知識量というパズルピースの早打ち選手権による序列などではなく、持ち合わせのパズルピースが違うからこそ面白いよね、と互いに認識し尊重できる世の中になってくれれば、と願っています。
拙文ながら研究開発事業の項に『「無茶ブリ」に応えることの大切さ -「餅」の概念を打ち破る餅屋-』と題してコラムを書かせて頂きましたが、当社が目指す研究開発のフィロソフィーは、「無茶ブリ」を知的に楽しむことで「おもしろさ」を皆様と共有する、に尽きると考えております。
研究開発というと何だか難しいイメージがありますが、出来るだけ一般の方・異分野の方にも分かり易い研究開発をすることを心掛けています。
哲学者デカルトが『方法序説』で記した様に、「分からないものは細分化する」というアプローチで科学技術が飛躍的発展してきた経緯があります。
しかし、現代はChatGPTなどAIが台頭し、2045年問題にみられる様に技術的特異点・シンギュラリティへと世の中が向かっているとされています。
この、ある種の「飽和感」をどの様に打破するのか?それが現代を生きる我々に求められている喫緊の課題と云えると思います。
表現がフィロソフィカルですが、現代においては恐らく、分からないものは細分化するという還元主義的な下位概念化の限度が見え始めている、とも云えるかもしれません。
そこで私たちが着目しているのは、一般の方・異分野の方からの「無茶ブリ」です。
要素Aと要素Bとの掛け算しようと着想した人がいなかったからこそ、新しいアイディアとなるはずです。
これだけAIが進化してきたにも関わらず、とりわけ実験系の事象において、AとBの組み合わせがどのような反応を引き起こすかをAIが予測するのは、意外にも難しいと実感しています。
これは単に、AIのAやBに対する情報の蓄積が不十分というだけでなく、相互作用の複雑さや暗黙知の存在が大きく影響していると感じています。
この状況を逆手にとれば、AIではなく人間が為せる業というのはAとBとの掛け算を着想することである、と考えることもできそうです。
以上を前提とすると、「無茶ブリ」はAとBとの掛け算を誘発してくれる有難い存在と私たちは認識しています。
元々AとBの「公約数」という接点が少なかったので、AとBとを掛け合わすという着想が無かったのが特徴です。
したがって、AとBとの掛け算が可能であると実証できれば、自然と「公倍数は小さくなる」、つまり「一般に分かり易いものになる」のだと私たちは考えています。
Aを自分の培ってきた専門性だとして、Bという自分の知識・経験外のものを掛け算するという着想には中々なりません。
Aに興味を持ってくれて、且つBを持ち込んでくれる、「無茶ブリ」な誰かが必要ですし、それをAで打ち返す自分の頭脳が必要となります。
そんな未知のBとの一期一会に対する知的なハングリーさが、この飽和感を打破するものと信じています。
押鐘サイエンスラボは、この様に皆様との「無茶ブリ」な一期一会を通して、「おもしろい」を実現させていければと思っています。
「無茶ブリ」によるA×Bの掛け算の誘発:Bという無茶ブリをAである私に持って来てくれる誰かがいるから、cutting edgeなおもしろいことができる、と考えています