15分で読める森鴎外『舞姫』

現代語訳 縮約版

最終更新日:2019年9月21日

あらすじや要約ではなくて、話をぎゅっと絞り込んだ縮約版です。原文が雅文体で読みにくいと敬遠してしまうのはもったいない!

主人公の弱き心、人間ドラマ、巡りあわせの不幸、などなど作品の面白さのエッセンスを残すよう注意したつもりです。昭和的な古い読み、教科書的な読みにとらわれず、解釈の幅を広げる手助けになれば幸いです。また、これを契機に原文も読んでみたいと思っていただけると嬉しいです。

主な省略箇所:

西へ行くときのこと、情景描写全般、勢力のある留学生の一群、新聞の通信員の活動

森鴎外『舞姫』現代語訳 縮約版 (Ver. 令和1.2)


もう石炭を積み終えたのか。サイゴンに停泊中の船に静けさがおとずれた。

船にのって20日がたったが、人知れぬ恨みにずっと悩まされている。最初は雲のようだったのが、中頃には腸がねじれるくらい苦しくなり、今は心の深いところに集まって一点の影となっている。この恨みが消えてくれることを願って、ことのあらましを記す。


私は父を早くに亡くし母に厳しく育てられた。学校の成績では、いつも太田豊太郎の名が一番目にあった。大学は法学部を19才にして首席で卒業し、ある省の官吏となった。三年が過ぎ、官長から信頼されていた私は海外赴任を命じられた。出世への良い機会だと思った。


ベルリンに着くと、目に入る何もかもに驚かされた。現地の役人たちは、私の語学力に驚いていた。故郷でドイツ語とフランス語を学んでいたことが役に立ったことに喜んだ。

急いでやるべき仕事が片付き、余裕ができると、あらかじめ日本で許可を得ていたことだが、大学で法律の講義に申し込み、受講した。


夢のように三年が過ぎた。

自由な大学の風に影響されたのか、自分の本性が分かるようになった。それは受動的で器械のような自分だ。父の遺言を守り、母の教えに従い、人に褒められるのが嬉しくて勉学にはげみ、官長が喜ぶようにと働いた。

思ったのだが、母がしていたことは私を生きた辞書にすることで、官長は私を生きた法律にしたかったのだろう。生きた法律には我慢ならなかった。官長から法律についての細かい質問がくると、以前なら丁寧に返事をしていたところを、法律の細かいことを気にせず法の精神を学べば分かることだと大口をたたいた。

大学では法律より歴史文学に興味をもち、面白さが分かってきた。


幼い頃から勉学にはげんでいたが、それは忍耐力や自制心があったからではない。色々なことを捨てて突き進む勇気があったのではない。勇気がなかったから、人が用意した道を歩むことで色々なことから逃げていた。

化粧をして派手な格好で珈琲店に座って客を誘惑している女を見かけても、他の留学生みたいに声をかける勇気はもっていなかった。


ある日の夕方、散歩していると、16、7才くらいの少女が寺の前で泣いているのに出くわした。着ている服は垢(あか)がついていたり汚れているように見えなかった。私の足音に驚き振り向いた。その顔を表現するには詩人の言葉が必要なくらいであった。臆病さより憐れみが勝り、思わず声をかけていた。

「あなた、優しそうね。あいつや母みたいな酷いことはしなさそう」と少女は言うと、また涙を流して言った。

「助けてください」

少女がいうには、父親が亡くなり明日には葬式をあげなければならないのに家にはお金がなく、お金のためあいつのいいなりになれと母にぶたれたとのことだった。少女は話をしているうちに私の肩にもたれかかっていたが、ふと頭を上げ、恥ずかしそうに飛びのいた。

「私を救ってください。安い給金をさいてお返しします。たとえ食べられなくなってでも」

彼女は涙ぐんで身をふるわせ、見上げた目には人に嫌とは言わせない媚びたところがあった。少女にお金の援助をして助けてあげることにした。


少女は、名をエリスといい、ヴィクトリア座で二番目の舞姫だった。貧しいため充分な教育を受けられず、舞姫として働いていた。

ある詩人は、舞姫のことを奴隷だといった。少ない報酬、昼間は練習、夜は舞台。1人食べてゆくのさえ大変なのに親兄弟を養うとしたらどれほど大変なことか。ほとんどの舞姫は賎(いや)しいことをして生計を成り立たせていた。エリスがそうせずにいられたのは彼女の性格と、彼女の父親のおかげだった。


エリスは幼い頃から本を読むのが好きだった。彼女が手にできる本は貸本屋の小説だけだったので、私の本を貸してあげた。彼女は私が貸した本を学ぶにつれ、私にあてて書く手紙の誤字も減っていった。先生と生徒みたいなもので、やましいことは何もない清らかな交遊だった。


誰かがエリスとのことを誤解し、私が劇場に頻繁に行き女優たちをあさって女遊びをしていると官長に告げ口をした。官長は、意のままにならない私を憎らしく思っていただけに、告げ口を聞いてついに私を免官つまりクビにした。

公使は私の免官を告げると、すぐ帰るなら帰国費用を出すが、とどまるならもう金は出さないといった。結論を出すまでの時間を一週間もらった。


手紙が二通届いた。一通は母の自筆、もう一通は親戚が書いた母の死の知らせ。手紙のことを書こうとすると悲しさで泣いてしまい筆が進まなくなるので止めておく。


帰国すれば落ちぶれて汚名を負った身、とどまれば職のあてがない。生きるか死ぬかの瀬戸際であった。エリスには、彼女が原因だとは隠して免官となったことを伝えた。彼女は顔を真っ青にして、母親には内緒にしておいて欲しいと言った。収入がなくなった私を母親が疎むことを心配したからだ。まさにこの時、エリスとは離れられない仲になった。美しくいじらしい姿に愛情が高まって恍惚としている間に行為にいたってしまったのだから、どうしようもないことだった。


職については、友人の相沢が助けてくれた。東京にいた相沢は官報で私の免官を知り、新聞社の編集長にかけあって海外通信員の職を用意してくれた。これで、ベルリンにとどまることにした。ただ、報酬は少なく、住まいを変える必要があった。

住まいについては、エリスが助けてくれた。母親をどう説得したのか分からないが、エリスの家に住まわせてもらえることになった。

心配なことはあったが楽しい日々であった。


冬のある日、エリスが舞台で倒れた。彼女は何を食べても吐いてしまい、彼女の母はつわりではないかと疑った。将来がはっきりしていないのに、もしそうだったらどうしよう、と思った。


相沢から便りがきた。相沢が秘書官として仕えている天方(あまかた)大臣と一緒に、ベルリンに来ていた。天方大臣が会いたといっているのですぐに来てほしい、との内容だった。

「もし立派になられても私を見捨てないで」とエリスはいった。

「政治社会に出て出世することに興味はない。久しぶりに友人に会いたいだけだ」と私はこたえた。


ホテルに着いてみると、相沢から大臣を紹介され、大臣からは翻訳の仕事を依頼された。

大臣との面会後、腹をわって相沢と話をした。彼は、告げ口をした輩をののしった。そして真顔になり、「お前の学識、才能を無駄にするな。大臣の信頼を得て復帰するんだ。少女との関係は、深い仲になっていたとしても人を知っての恋ではなく、慣習という一種の惰性で生じた交わりだ。関係を断ち切れ」と私にいった。友が示した方針が自分を満たしてくれるとは限らない。貧しくても今の生活は楽しく、エリスの愛も捨てがたい。わが弱き心は迷っていたのだが、断つ、と約束してしまった。敵には抵抗するのだが、友には反対しないのが、いつものことだった。


大臣から何度か仕事をもらううちに親しくなってきた。大臣から明日ロシアに行くが同行しないかと急に誘われ、「いかないということがあり得るでしょうか」と返事をした。恥を承知でいうと、考えた末の返事ではない。私は、信じて頼れる人に突然いわれると、答えの影響範囲も気にせず、すぐに同意してしまうことがある。その返事の実現が難しいときでさえ我慢して実行した。


ロシアでは通訳の仕事に夢中になった。その場の誰よりも私のフランス語は流暢だった。

ロシアにいる間もエリスのことは忘れなかった。エリスから毎日手紙が来るので忘れようがなかった。

ある日のエリスの手紙にはこう書いてあった。


「もし東にお帰りになられるというなら、母と共に一緒に行けると良いのですが、そのような多額の旅費を用意するのは無理なことでしょう。

この地にとどまってあなたが出世するのを待っていようとも思ったのですが、苦しいのは別れの一瞬だけかと思っていたのに、今こうして離れていると日に日に苦しさが増していきます。

私の体が普通ではないことがはっきりしたこともありますし、何があっても捨てたりしないでください。

母とは口論になりました。私の固い決意に母が折れ、私が東に行くなら母は遠い親戚のところに身を寄せるといってくれました。私1人分の旅費なら大臣に頼めばどうにかなるでしょう。

お帰りをお待ちしております」


この手紙を読んで自分の立場がはっきりした。自分の鈍さが恥ずかしかった。決断力には自信があったが、逆境では役には立たなかった。大臣からの信頼はすでに厚くなっていたのに、これに未来の望みをつなぐことを全く考えなかった。相沢にエリスとの関係を断つと言ったのは軽率だった。すでに相沢は大臣に話してしまったかもしれない、軽率だったと早く大臣に伝えなくてはいけない、と思った。


器械的人間にはならないと誓ったが、それは足を縛られた鳥が羽を動かして自由になったと思い込んでいただけではないか。足の糸は、かつては官長、今度は天方大臣の手の中だ。


ロシアからベルリンに戻り、家に着いた。エリスの手に引かれて部屋に入ると、驚いた。うず高く白いものが積まれていた。エリスは笑って「どう?この心構え」といって一つ取り上げた。オムツだった。「楽しみにしているの。あなたと同じ黒い瞳でしょう。ああ、夢にまで見た黒い瞳。生まれた時にはあなたの正しい心が、あなたと別の姓を名乗らせたりはしないですよね」見上げた彼女の目に涙が満ちていた。


ベルリンに戻って2、3日した夕暮れ、大臣から使いが来て招かれた。行ってみると、語学の才能を買われて日本へ一緒に戻らないかと大臣に誘われた。この地にしがらみはないと相沢から聞いて安心したともいわれた。友の顔はつぶせないし、この機会を逃したら本国を失い名誉の挽回もできずにこの地に埋もれてしまう、という思いが頭の中をかけめぐり、「お願いいたします」とこたえていた。


エリスにどう伝えるか悩んだ。道ばたの椅子に座って何時間も過ごした。激しい寒さが骨にしみて気がつくと、もう夜になって雪が降っていた。夜の雪のなかを歩いた。私は許されない罪人だ、との思いが頭に満ちていた。家に着くと倒れてしまい、何週間も目が覚めないまま寝込んでしまった。


相沢が家に来た時、私はまだ目が覚めていなかった。彼は、私のことをエリスに話してしまった。エリスは「私の豊太郎、私をだましていたのね」と叫んで倒れたそうだ。私の目が覚めるまでの間、相沢がエリスたちの面倒をみてくれていた。


目を覚ましたときには、エリスは精神を病んで赤子のようになっていた。医者には、治る見込みはないといわれた。

エリスを抱いて涙を流したことは、何度あっただろう。


帰国が決まると相沢に相談し、生計が立てられるだけの資本をエリスの母に与えて後をお願いした。


ああ!相沢ほどの素晴らしい友は他にはいない。ただ、一点だけ、彼を憎む心が残ってしまった。

■Ver1.2 変更点(2019年9月21日)

変更前その容姿は私には言葉で表現できず詩人の言葉が必要なくらいであった。変更後着ている服は垢(あか)がついていたり汚れているように見えなかった。私の足音に驚き振り向いた。その顔を表現するには詩人の言葉が必要なくらいであった。
変更前少女にお金の援助をして助けてあげることにした。変更後「私を救ってください。安い給金をさいてお返しします。たとえ食べられなくなってでも」彼女は涙ぐんで身をふるわせ、見上げた目には人に嫌とは言わせない媚びたところがあった。少女にお金の援助をして助けてあげることにした。
変更前少女との関係は断ち切れ変更後少女との関係は、深い仲になっていたとしても人を知っての恋ではなく、慣習という一種の惰性で生じた交わりだ。関係を断ち切れ
変更前断つ、と約束してしまった。変更後友が示した方針が自分を満たしてくれるとは限らない。貧しくても今の生活は楽しく、エリスの愛も捨てがたい。わが弱き心は迷っていたのだが、断つ、と約束してしまった。
変更前相沢にエリスとの関係を断つと言ったのは軽率だった。変更後大臣からの信頼はすでに厚くなっていたのに、これに未来の望みをつなぐことを全く考えなかった。相沢にエリスとの関係を断つと言ったのは軽率だった。
変更前オムツだった。変更後オムツだった。「楽しみにしているの。あなたと同じ黒い瞳でしょう。ああ、夢にまで見た黒い瞳。生まれた時にはあなたの正しい心が、あなたと別の姓を名乗らせたりはしないですよね」見上げた彼女の目に涙が満ちていた

■Ver1.1 変更点(2019年9月14日)

変更前そんな時に私を心配してくれたのがエリスだった。その美しくいじらしい姿に愛情が高まり、恍惚としている間に行為にいたり、離れられない仲となった。変更後エリスには、彼女が原因だとは隠して免官となったことを伝えた。彼女は顔を真っ青にして、母親には内緒にしておいて欲しいと言った。収入がなくなった私を母親が疎むことを心配したからだ。まさにこの時、エリスとは離れられない仲になった。美しくいじらしい姿に愛情が高まって恍惚としている間に行為にいたってしまったのだから、どうしようもないことだった。

■Ver1.0(2019年9月14日)

初版公開