3分で読める『地獄変』あらすじ(注解付)
~ 令和時代の新解釈へ向けて ~
最終更新日: 2019年5月6日
最終更新日: 2019年5月6日
音読しても3分で読める量にまとめました。カップラーメンの待ち時間などちょっとしたすき間時間にどうぞ!あらすじといっても、読み物として読めるように書いてあります。
また、良秀が娘を犠牲にしてまで絵を描いたと思い込んでいる人もぜひ読んで!原文にも含まれる印象操作的な記述を極力排除してありますので、作品の印象が変わりますよ。
(副題の意図は、このページの最後に「副題について」で書きました)
(時代は平安、場所は京都)
絵を描かせたら日本一といわれた有名な絵師がいた。名は良秀(よしひで)、歳は50位で、背が低く、骨と皮ばかりの痩せた老人だった。性格が悪く高慢で横柄で、どこでも嫌われていた。
そんな良秀だが、15になる娘のことは非常に可愛がっていた。親に似ず愛嬌があり、思いやり深く、気の優しい、親思いな娘だった。
良秀は大殿様に命じられて地獄変(*1)の屏風絵に熱心に取り組んでいた。弟子を絵のモデルにして鎖でしばったり、ミミズクに襲わせたりして、弟子からは嫌がられながら描いていた。
しばらくして良秀は大殿様に会いに行き、どうしても描けない箇所があることを説明をした。それは、燃えながら落ちてくる枇榔毛(びろうげ)の車(*2)のなかできれいな服を来た女(*3)が煙でもだえ苦しんでいる、という絵であった。
良秀は「見たものしか描けません。どうか目の前で枇榔毛の車に火をかけてください」と大殿様にお願いした。「そして、できますことなら...」と言いかけたとき、大殿様は顔を一瞬暗くしてから笑いだした。笑い声に息をつまらせながら、すべてお前の望み通りにしてやると答えた。
二、三日して誰も住んでいない寂れた山荘で準備が整った。大殿様は「絵のよい手本になるぞ。よく見ておけ」と言った。そして「それそれ、良秀に車のなかを見せてやれ」と命じると車のすだれがあがった。良秀の娘がいた。普段とは違うきらびやかな身なりをしていたが良秀の娘が鎖で縛られ、そこにいた。(*4)
良秀は驚き、車に向かって駆け寄ろうとした。しかし、すぐに車に火がつけられ、良秀は足を止めた。腕を車へと伸ばしたまま苦しみの表情で車を見つめた。大殿様は、かたく唇を噛みながら時々気味悪く笑い、じっと車の方を見つめていた。
炎と煙でなかが見えなくなり車は火の柱となった。良秀は両腕を組んでたたずんでいた。さっきまでの苦痛の表情はなく、言い様のない輝きを顔に浮かべていた(*5)。その姿には、人間とは思えない怪しげなおごそかさがあった。その場にいたものたちは仏を見ているかのような気持ちで良秀を見つめていた。ただ、大殿様だけは青ざめて獣のようにあえいでいた。
この出来事が世間に漏れだして、批判が出てきた。まず、なぜ娘を焼いたのか。これについては、大殿様が娘にかなわぬ恋をしたからだとの噂が多かった。次に、娘が焼かれてもなお絵を描こうとする良秀への批判。ある偉い僧侶(*6)はこの批判に味方して「一芸に秀でたとしても、地獄へ落ちるしかない」とよくいっていた。
ひと月して、絵が完成すると良秀はさっそく大殿様にお見せした。そこには良秀を批判していた僧侶もいて、絵を見ると「でかしおった」といって膝を打った。大殿様はそれを聞いて苦笑した。
絵が完成した次の夜、良秀は自分の家で首をつって死に、この世にはいない人数に入った(*7)。
■注解
*1 「地獄変」とは、地獄変相の略。仏教の経典に書かれている地獄を誰もが理解しやすいように絵で表現したもの。地獄がいかに恐ろしいかを伝えるために使われた(『枕草子』の「御仏名のまたの日」 に地獄絵の屏風の使用例あり)。平安中期は仏教の浄土経が日本で広まりだした時期であり、浄土教における極楽浄土と地獄についての知識も広まり始めた時期にあたる。本作品は、その広まり始めの頃を想定した作品だと思われる。
地獄絵についてさらに知りたい方は、『図説 地獄絵の世界』小栗栖健治(著)などを見てください。
*2 「枇榔毛の車」とは、牛車の種類のひとつ。枇榔(びろう)の葉を裂いたものでおおわれている。身分によって使える牛車の種類が異なり、枇榔毛の車に乗れるのは上級貴族。あらすじには含めなかったが、大殿様が普段乗っている車も枇榔毛の車。
牛車についてさらに知りたい方は、『牛車で行こう!: 平安貴族と乗り物文化』 京樂真帆子(著) などを見てください。
*3 「きれいな服を着た女」の箇所は原文では「あでやかな上臈(じょうろう)」。上臈は「女房」の中でも最上級の位。ここでいう「女房」とは、現在のような妻とか相方とかいう意味ではなく、ざっくりいうと宮廷や貴族の屋敷における身分が高い侍女のこと。上臈になると服装で使える色の制約(「禁色(きんじき)」という)がなくなり、よりきれいな服装が着られる。
さらに服飾について興味あるかたは、『平安朝のファッション文化』鳥居本幸代(著)などをみてください。この本にはカラーチャートもついていて色について詳しく書かれています。
*4 『地獄変』が初めて世に出たとき良秀の娘はここで「猿ぐつわ」もされていた。後に作者が変更し猿ぐつわはなくなった。現在(2019年5月時点)、底本の違いから猿ぐつわのありなしの両方の『地獄変』が出版されている。「猿ぐつわを噛みながら」 の箇所は、「 髪を噛みながら」に変更された。ほかにも細かい変更が入っている。
*5 この場面を「恍惚となった」とか「うっとりとした」とする解釈が多く一般的。だが、原文は「恍惚とした法悦の輝き」を顔に浮かべた、である。ここでの「法悦」は仏教用語の意味にとるべき。原文には、厳かとも開眼した仏のようだとも書かれていて前後の文脈から判断すれば仏教用語とするのが自然な解釈。
*6 「偉い僧侶」は、原文では「横川の僧都」である。「横川の僧都」は『源氏物語』にもその名前が登場する人物。『源氏物語』では源信がモデルであると考えられており、『地獄変』でも同じと思われる。源信は『往生要集』を書き、浄土教の普及、浄土教芸術に大きな影響を与えた。『往生要集』には地獄を詳細に記述した箇所がある。この地獄の記述が、のちの日本の芸術や文学などにおける地獄のイメージに大きな影響を与えたといわれている。
さらに興味がある方は、『浄土三部経と地獄・極楽の辞典』大角修(著) などを見てください。
*7 原文は「この世には無い人の数にはいって居りました」である。良秀の死に対するとらえ方を知る手掛かりとなる一文であると考えられるため、原文に近い形であらすじに取り入れた。
■副題について
以下は、お暇なら読んでも良いですが、読まなくて良いです!
本作品に関しての色々なあらすじを確認したのですが、どれもこれもなんらかの解釈によって導かれた作品に書かれていないことまで書いてありました。短くまとめるために取捨選択されるのは当然ですが、さらに作品に書いてないことまで含めているのです。本あらすじはできるだけそのような特定の解釈が入らないように努力しました。
また、あらすじと一緒に、「この作品の主題はxxxです」とか、この作品はこういうことを表していますとか「断定的」に「わかりやすく」「簡潔」に要点が述べられていることがあります。それらは、過去になされた有名な「特定の解釈」を述べているだけと思っておいた方が良いです。そんな解釈で読者の解釈の幅を狭めないで欲しい。呪縛から解き放たれて欲しい。この作品は、もっと奥が深くて、技巧をこらした巧みな構成がされていて、信用できない語り手の手法が使われていて、ミステリアスで、平安時代という時代背景を前提として、平安時代の宗教的な要素も含んでいて、などなど複雑な作品です。
これを書いているのがちょうど元号が「令和」になったばかりの5月初旬なので、これからの時代、令和では過去の解釈に縛られないあらすじが広まってほしいし、呪縛から解き放たれた解釈で作品解説がされるようになってほしいとの願いを込めて副題を「令和時代の新解釈へ向けて」としました。
(2019年5月4日 記)