德安和博

1990年佐賀大学教育学部特別教科教員養成課程(美術・工芸)

を卒業し、岡山大学大学院を修了後、長崎県の中学校と高等学校で美術の教諭として勤務。2008年佐賀大学文化教育学部(現:芸術地域デザイン学部)に講師として着任。現在の担当科目は主に芸術表現A(彫刻)・彫刻概論など。

佐賀大学の卒業生と教員両方の視点を持つ教授に芸術地域デザイン学部の歩みについて、お話を伺った。

Q1. 学生時代の学部はどのような雰囲気でしたか、それはご自身の制作にどんな影響を及ぼしたと思いますか? 

. 特別教科教員養成課程(美術・工芸)は一学年定員30人でしたので、ほとんどの学生が1年生から4年生までお互いの顔や名前やどんな作品を作っているかを知っていましたね。大学に行くといつもだれかが作品を作っていたし、制作の合間には中庭でゴムボールで野球をしたり、ベンチでくつろいでいました。また、当時は学生が企画したイベントもたくさんありましたから自然に縦横の人間関係ができていました。わたしは基本的には一人で制作していましたが、孤独感はなく、みんなの存在をなんとなく肌で感じながら制作できていたように思います。 

 それが自分の制作に及ぼした影響らしい影響はないと思います。しかし、一人で勝手気ままに作っていながらも、いつも誰かの存在は無意識的に感じながらおこなっていたのかなと思います。ただ実際はそれ以前の問題で、うまく作れない自分が悔しいから繰り返しひたすら作っていたように思います。 

 

Q2. 今の学生の活動内容と当時の学生、共通点と違う点 

. 当時は携帯電話も固定電話もない学生が大半で、対面のコミュニケーションがほぼすべてでしたが、縦横の人間関係は今よりも密だったので重要な情報の伝達洩れはなかったように思います。(今に比べると当時の一日の情報の総量は現在の比べると圧倒的に少ないと思いますが。)今は大事な情報を発信する手段はたくさんありますが、その情報を友達同士や先輩後輩に伝達する力は当時に比べ弱いように思います。現在は、大事な連絡事項も私からひとりひとりに言わないと全体に伝わらないので、テクノロジーの進歩が必ずしも効率的な生活と直結するものではないなと思うこともあります。ただ、情報過多の時代ですから、皆さんは不用意な情報拡散は意識的に避けているのかもしれませんね。 

 当時は携帯電話のような便利な連絡手段もなく、友達の家に遊びに行っても留守、ということはよくありましたが、その時代の方法で連絡をとりあい、夜中まで友達の家で遊んでいました。今のようにいくらでもひとりで時間が潰せるオンラインゲームやサブスクリプションのような娯楽が少なかったので、結果的に友達と過ごす時間が長かったと思います。 

作品制作に関して言うと、昔の学生の方が熱い人が多かったように思います。 

当時は美術という言葉である程度はひとくくりにできるコミュニティーがあったように思います。だから、卒業制作の時期になると、他の専攻室の人がどんな作品をつくっているのかや、進み具合が気になって様子を見に行っていました。専攻室間の学生の行き来が盛んでいたし、他の専攻生が彫刻の作業の手伝いなどもよくしてくれていました。 

 現在はその美術という言葉のもつ価値観もかなり多様(なんでもあり)化しましたので、価値観の合うコミュニティーの間で、飛びぬけすぎないように気を付けながら個性を出しつつ、他のコミュニティーにはあまり干渉しない的な生き方に変わったように思います。 

 今の世代が変わったというより、時代が変化したと考えたほうがいいのかもしれません。 

 

Q3. 学生時代、きつかったこと苦労したことを教えてください  

A. 私は学生時代も今と変わらず具象の人体彫刻をしていました。高3から美術に転向したのでいわゆる予備校でノウハウを学んだわけではないので、在学中は人の形を作ることに終始していて、それで精一杯でした。思ったように作れない自分との闘いです。雲をつかむような状態のまま大学4年間は終わりました。しかし、世の中の傑作と呼ばれるものは確かに素晴らしくて、そんな作品にたまに出会うと言葉にならない心地よさが沸き上がるのです。その秘密は何なのかということを知りたかったので、やめることができず大学院に進学を決めました。そこで、人間を作るという発想から、彫刻をつくるという発想に切り替えたときに自分の中にも、作品の中にも化学変化が始まったように思います。しかしそれでも言葉にならない心地よさのある作品は相変わらず作れなかったので、今も苦労しているという感じでしょうか。 

佐賀大学に赴任してから、当時の私よりもうまい学生さんにはたくさん出会いましたが、うまくできる人は飽きてしまうのか、続かない人が多いですね。もったいないとは思いますが、今は他に楽しいことがたくさんありますから仕方ないですね。 

もっと具体的にきつかったことは、制作する途中で必ず自分の顔が現れてくることでした。女性像を作ってもしばらくは自分の顔なのです。没頭すればするほどそうなりました。字のくせのようなものです。勝手に自分に似てしまうというのは個性の表現については大切なことですが、今でも自分の顔を排除するのにかなり労力を使います。イケメンだったら自分の顔に似たままでよかったのにと今でも思います。 

 取り除いても作品の芯に残っているものが、無意識だし、個性だし、私にしかできないことだと思いつつも、制作する像から自分の顔を排除するという、矛盾を抱えたままの制作の途中です。 

 ただ、一方で冷静な自分もいて、ただ制作するのでなく、作った作品は公募展に出すなどして、教員採用試験にむけた実績作りのために活用していましたので、ただ苦労だけではなく、リターンもあると信じて制作していました。 

 

Q4. 先生方の雰囲気は今と比べてどうでしたか 

A. 当時は制作のプロセスを一つ一つ細かく指導するのではなく、学生さん自身に発見させるように仕向ける方針の先生方が多かったように思います。指導は一言で終わることが多かったです。佐賀大学では「よかごたっですね。」「ほんによかですよ。」という前向きな指導が多かったです。ちなみに岡山大学の大学院では、「凡庸だね」とか「こじんちゃい」とかメンタルに来る指導が多かったです。指導内容は本当に抽象的で、具体性はなかったですね。わたしは自分が作れていないこともわかっていたので、自分から先生に指導を求めることはありませんでした。いい具合に放任してもらっていたようにも思います。 

 今の学生さんは制作以外にも宿題や、インターンシップや早めの就活があり、昔に比べると本当に時間がない中で制作していますから、学生さんが自身で気付くのを待っていると、気づかぬまま卒業して終わってしまうのではと心配する時もあります。基本的には学生さんたちが自主的に行っていることについてはあまり助言をしないようにしていますが、そのまま進めると失敗が目に見えているときとか、どうしても結果につなげなくてはならないときにはお節介をして一言いわせてもらっています。 

 

Q5. 最後に、学部生やこれからこの学部に来る人へのメッセージ 

A.今の学生さんは世間のいろいろなものから少しずつ時間を奪われていて、結果的に忙しくなっています。ですからどっしり腰を据えてじっくり時間をかけながらひとつのことに取り組むのは大変困難な社会状況だと思います。当時の学生は4年生になってから就職活動を始めるのが普通でした。のんびりしていました。今に比べると学費も安かったので、なんとなく留年する人もいましたし、留年したからと言って周囲もそうなんだー、くらいの感じでした。今は早い人は3年生からでも就職活動を始めますし、インターンシップ、キャリアアップセミナーなどもありますから、大学に入ってすぐ就職指導、といった感じになりましたね。就職もとても大切なことですが、青春の時間の中で、中学でも高校でもできない、大学時代にしかできないことってあると思います。大学に来なくてもいつでもできるようなこと、就職してからでもできる事に時間を費やすよりは、大学を卒業したらできなくなること、若い感性の時にしておくべきことをよく考えてもらって、二度と来ない大事な時間をうまく管理し、使い分けて充実した学生生活を送ってほしいと思います。