今週の問題 クイズの交流ひろば
このページは歴史・文化財等をテーマにしたクイズを出します。
翌週、解答を発表します。 皆さんからの出題を募集しています。
奈良大学の先生からの出題も歓迎です。出題される方は fhmtbr88@gmail.com
支部名or在校生を書いてください. (写真等添付の場合は、著作権等問題のないもの)
ドンドン正解を寄せて下さい。
皆さんからの回答を受け付け、正解者は名前を発表します。また答えへの追加解説も受け付けますので、どんどん送信してください。送信先 fhmtbr88@gmail.com
第100問 秀吉と家康が直接対峙した小牧長久手の合戦は、小牧の対陣、長久手合戦だけではなく、それ以前の秀吉の信雄の重臣に対する調略 からの星崎城攻防戦、そして秀吉が上方に引き上げた後の蟹江城攻防戦までをいう場合が多いのですが、その一連の出来事から銘を付けられた国宝は何でしょうか。
答え 秀吉は織田信雄の3人の重臣を懐柔しようとし、これを知った織田信雄は天正12(1584)年3月6日、長島城に、この3人の重臣、津川義冬・岡田重孝・浅井長時を呼び殺害した。これを知った秀吉は諸将に出陣を命令します。岡田重孝の居城であった名古屋市南区の星崎城では弟が籠城をし、これを徳川方が攻め、16日に開城した。長島城で織田信雄が岡田重孝を切った刀が、国宝の銘吉房 福岡一文字吉房 (ふくおかいちもんじよしふさ)鎌倉時代・13世紀・ 東京国立博物館蔵である。「太刀 銘吉房(号岡田切)」のように、号 を付記されている。
第99問 奈良大学の町内=山陵町に最初に築かれた大型前方後円墳を答えて下さい。
答え 佐紀御陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢姫命陵)。墳長207m(全国で25位くらいの大きさ)4世紀中ごろ。盾形の周溝が巡る。1916年(大正5)に後円部の埋葬施設が盗掘された。その復旧工事で実測図などが作成され、そのため立ち入りが許されない陵墓の中でも、内部の状況や、副葬品が明らかになった。銅鏡5面、腕輪型石製品(車輪石3点、鍬形石3点、石釧1点)他に菅玉など多くが確認された。それらはコンクリートの箱に収められ再埋葬された。
第98問 平安時代に天皇の周辺を警護する人を「滝口」と呼びましたが、その語源、始めた天皇、所属部署を答えて下さい。
答え 内裏内の天皇の生活の場である清涼殿の東側の軒下を、御溝(みかわ)水が南方に流れている。清涼殿の東北にあるこの水の落ち口を滝口と称し、それにちなんで天皇の周辺を警護する人を「滝口」と呼んだ。9世紀末、宇多天皇の時に設置され、蔵人(くろうど)所に所属した。 参考文献 朝日百科日本の歴史
第97問 中世の「永代の職」は、自らある程度自由に後任者を選定し補任しうる「自専の職」ですが、自由に譲与できず、一代限りで他へ移動する「一代の職」は何と言うのでしょうか。
答え 「遷代の職」 どの官職がどちらに属するかは状況や主張者によって左右されるので一定しないが、「遷代の職」から「永代の職」は生じない。 参考文献 朝日百科日本の歴史
第96問 この有名な国宝の、名前と出土地を答えて下さい。
答え 遮光器土偶 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 東京国立博物館蔵
高34.2 縄文時代(晩期)前1000-前400年
日本で最も有名な土偶の一つ、教科書でもおなじみの遮光器土偶です。
極端に大きな目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器
土偶と土偶と呼ばれています。デフォルメされた体の表現とともに、全身に
覆うように施された文様が見どころの土偶です。
写真 ⅭolBase
第95問 行基が創建し名付けた寺名と天皇から送られて寺名を持つ寺の、二つの寺の名前を答えて下さい。
答え 喜光寺・菅原寺 養老6年(722)に行基が創建。行基が創建した寺はその土地の地名が付けられることが多く、この寺も菅原氏の居住する土地で菅原と呼ばれていたので、菅原寺と名づけられました。聖武天皇が菅原寺に行幸した時、本尊から不思議な光が放たれ、聖武天皇は大いに喜ばれ、「歓喜の光の寺である」として「喜光寺」の名を贈った。
第94問 この絵の題名と作者を答えて下さい。
答え 無我 横山大観 作 東京国立博物館蔵
老荘思想に発し、禅の境地としての根源的な命題である「無」の絵画化、あるいは擬人化がこの作品のテーマとされる。日本の季節感のなかに「無」の理想を描こうとした大観の着想は、過去の人物画に直接的な手本を探せない、新しい絵画の創造につながった。
出典 ColBase
第93問 このイタヤカエデのような比較的硬い木や鹿角を材料とし装飾が施された鞘や柄を持ち、その装飾のなかでもウロコ彫りと呼ばれる地模様は他に類を見ない手法で彫られるものの名前を答えて下さい。。
答え マキリ(小刀)。マキリは小刀のこと。アイヌの男女ともに用いる唯一の利器である。常に身からはなさずにもっている。拵えの彫刻は男の工芸の代表的なものとして高い評価がなされている。鯉口や鐺に鹿角を嵌め細かい細工を施したものもある。 東博蔵 写真Calbase
第92問 平安時代『梁塵秘抄』で「〇〇の御顔は、秋の月、青連の眼は、夏の池 四十の歯ぐきは、冬の雪、三十二相、春の花」とうたわれた仏は何でしょうか。
答え 阿弥陀如来。皓々と輝く中秋の満月のように欠けたところのない顔。夏の池に咲き出る睡蓮の花のように青さと白さがはっきり分かれて見える美しい澄んだ眼。冬の雪のように真っ白な四十本あるという歯。その他の仏の特別な姿は春の花のように美しい。と歌うことで見えない阿弥陀仏の姿を思い描き、褒めたたえられてきた。
第91問 滋賀県で7000万年前にできたカルデラで詠まれた有名な万葉歌を答えて下さい。
答え 蒲生野の遊猟で 「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」と額田王が詠んだ歌に対して、大海人皇子は「 紫草の にほへる妹を 憎くあらば人妻ゆゑに われ恋ひめやも 」と返しました。この場所、蒲生野は7000万年前に起きた巨大噴火でできたカルデラで湖東カルデラと呼ばれています。3重の外輪山からなり一番外側は鈴鹿山脈、比良山地になります。
第90問 『今昔物語集』には、鬼の出没する場所として、山寺、奥山」、異郷、古橋、古屋、古堂、など、人の行かないところや、人のいない寂しい所が書かれています。鬼の住処として外国の場所も書かれていますが、何処でしょう。
答え 「・・・その島の人は人の形にてはあれども、人を食する所なり。然れば案内知らずして人その島へ行きぬれば・・・」と『今昔物語集』に、度羅(とら)の島=済州島のことが書かれている。
第89問 その伝来の中に春日局がある国宝は何でしょうか。
答え 曜変天目茶碗(静嘉堂所蔵)通称 稲葉天目 詳細
第88問 『太閤記』に、山崎の合戦で御坊塚に明智光秀の本陣が置かれ、兵力は5千有余と書かれており、この光秀の本陣跡の可能性が高いといわれている前期古墳は何でしょうか。
答え サントリー京都ブルワリー東側墓地北側にある「境野1号墳」です。この古墳は前方後円墳で全長60mです。くびれ部付近からは家形埴輪、車輪石、石釧、勾玉、鉄刀の先などが出土。築造は4世紀後半と考えられています。周辺の発掘調査で空堀跡とみられる遺構が複数出土。鉄砲玉も出土しています。
第87問 緑色の信号を青信号と呼びますが、「・・・稲の元ぞ青き」のようにかっては青をもって緑を表していましたが、今は普通に存在する「色」で奈良時代までは日本語に無かった色は何でしょう?
答え 「黄」がなく、赤と表現されていました。稲の穂も現在は「黄金色」などと表現していますが、奈良時代までは「あかき稲」などと書かれています。
第86問 左の茶道具の名前と、その用途を答えて下さい。
答え 左側は「茶壺」お茶を入れる壺で、抹茶にすりつぶす前の茶葉を保管したものです。蓋をしばるための紐(ひも)通しの輪を上部に4つ付け、表面に釉薬を掛けて焼かれた大型の壺は、中国で生産され、香辛料などを運ぶための用意として、日本にもたらされていました。茶道が盛んになると、こうした壺は茶壺として使われるようになり、茶碗や釜などと同じく茶席をかざる重要な道具の一つとみなされ、国内でも作られるようになります。 野々村仁清は、鮮やかな色彩と絵画的な筆づかいで器に絵付けをした「京焼」を大成させたことで知られます。色や模様が少なく地味でもあった茶壺に、初めて絵画的な絵付けをしたともいわれており、仁清工房の手がけた色絵茶壺が、数多く今に伝えられています。 この壺では白地を背景に、満開の花を付けた梅の木と月が、赤や緑、金や銀などで描かれます。赤色の梅、銀色の梅はそれぞれ、紅白梅を表したのでしょう。 右は抹茶を入れる「茶入」江戸時代の大名茶人、小堀遠州が八条宮智仁親王から拝領したと伝えられるものです。もとは注ぎ口のある水滴の形だったのを、遠州が注ぎ口をはずして今の形に仕立て直したといわれ、両肩に穴のあいた三角の耳をもつ、珍しい形の茶入です。耳付茶入 銘 於大名 出典 colbase
第85問 大阪府で、「ここはどこじゃと船頭衆に問えば、ここは○○○○浦 ○○浦には碇はいらぬ 三味や太鼓で船止める」と歌われ、1997年まで営業し、いまは資料館として建物が残っている店の名と、有名な煮売舟の名前を答えて下さい。
答え 「ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には碇はいらぬ」と淀川三十石船舟歌に歌われた枚方宿の代表的な船宿鍵屋です。枚方宿の名物に「くらわんか舟」というのがあった。これは三十石船の船客に酒や食べ物などを売る煮売舟で「酒くらわんか、餅くらわんか、銭ないでようくらわんか」と口汚くののしるような売り声であったことからついた名前である。
第84問 『平家物語』の巻五「都帰」に、今度の都遷(みやこうつり)をば、君も臣も御なげきあり。山(比叡山)・奈良(興福寺)をはじめて、諸寺諸社にいたるまで、しかるべからざる由一同に訴へ申す間、さしも横紙を破らるる太政入道も、「さらば都がへりあるべし」とて、京中ひしめきあへり と書かれていますが、「横紙を破らるる」とは、もともとどういうことをなのか、そしてどういう行為に使われるのでしょうか?
答え 紙には漉き目というものがあり、紙縒り(こより)などを作る場合、漉き目に沿って縦に裂くのだが、横にやろうとしてもうまくいきません。つまり「筋違い」になるわけです。習慣にないことを無理やり押し通す行為など、こうしたことを「横紙破り」と呼んできました。
第83問 関ケ原合戦後、処刑された足利尊氏由来の寺の住職は誰ですか?
答え 安芸安国寺(現広島 不動院)住職 安国寺 恵瓊 足利尊氏・直義兄弟は南北朝の犠牲者の菩提を弔うため全国に安国寺と利生塔を建てた。不動院は爆心地から3.9kmであったが、山影で一部が損壊しただけであったので、被災者の救済を行ったことでも有名。本堂は国宝。安国寺 恵瓊 は京六条河原で石田三成・小西行長 と共に処刑された。
第82問 『枕草子』で森の名前を列挙した部分で「森は・・・岩田の森、木枯の森、うたた寝の森、岩瀬の森・・・」とあげてきた最後に、「ようたての森といふが耳にとまるこそあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一本あるを、なにごとにつけむ」と書かれている。「ようたての森」は『かげろふ日記』にも作者の道綱母が初瀬への物詣の途次立ち寄った場所としてみえるが、ただ一本の木しかないのに森とはどいうわけか清少納言がはいぶかっている。これはどうしてでしょうか。
答え モリは本数の問題ではなく、万葉集では木高く茂った状態のものをそう呼んでいる事例が多い。また「山科の石田の社(モリ)に幣(ヌキ)置かば」「泣沢の神社(モリ)に神酒(ミワ)据ゑ祈れども」などの用例から万葉の「森」には神のよりつく特定の樹木をさす場合が多い。「ようたての森も、やはり一木ながら神の依代だから森と呼ばれるのである。「森」は「盛り」と相通ずるとの語源説が『倭訓栞』にも書かれている。本数にかかわらず、樹齢長く枝葉よく盛る姿ゆえに「モリ」なのである。「森」に対して「林」は「生やし」の意味と見て間違いない。「橘の林を植ゑむ」「我が園の竹の林に」などが万葉に歌われており、それは人手によって植えられ飼いならされた樹木をさしている。こうして万葉集では「モリ」に「社・杜・神社・森」の4種の漢字が使われている。「社」は「ヤシロ」と訓む場合も多い。「社」という漢字は本来その土地の神をさす語なので、日本語の「モリ」「ヤシロ」いずれにもあてられた。大づかみにはには万葉表記の様相に、神の来臨する自然の「モリ」から神の鎮座する人為の「ヤシロ」へという過渡期の姿がうかがえる。「ヤシロ」はつまり「屋代」で、神の依代が樹木岩石に代わり人間の住居「屋」の形をとることを意味する。
大国主命の国譲神話のように国を差し出す代わりに壮大な宮を貰う出雲大社起源譚に見られるように、在地土着の神が国家の神に屈従し、社を与えられ宮廷の守り神に組織されてゆく事態の神話的表現を見ることができる。神のよりつく「モリ」がひとりで「ヤシロ」の体裁になるとは考えにくい。そこで働いた政治的な契機がこれらからうかがえられ、出雲大社のみならず各地大小さまざまな神が同様の形で宮廷の支配下に組み込まれていったはずである。それは万葉の歌にてらして時期は7・8世紀と目され、さらに10世紀の『延喜式』に全国3132座の神名が4階級に格付けされ記載されたころには、「モリ」から「ヤシロ」への転換がほぼ完了したとみてよいのかもしれない。しかし地方の「森」は、なお神や魔性の棲家であり続けたであろう。
『朝日百科』歴史のなかのことば・言葉のなかの歴史 阪下圭八 より引用
第81問 万葉集では「モリ」を表す漢字は、4種使われています。その漢字は何でしょうか?
答え 森、杜、社、神社 の4つです。解説は82問の答えと一緒にします。
第80問 この一身三頭の象に乗る仏の名前と、何の時に用いられる仏なのか答えて下さい。
答え 普賢延命菩薩
国重要文化財 絹本著色普賢延命像 1幅
絹本 著色 掛幅 一幅一鋪 縦91.3(上12.4補絹) 横41.9 鎌倉時代・13世紀 奈良国立博物館 1175(絵216 A)
普賢延命法は増益や延命を祈る修法で、普賢延命像はその際の本尊となる。普賢延命像の図像は二臂と二十臂の二種に大別され、前者は天台において、後者は真言において重視されたといわれる。本図は天台宗の門跡寺院である青蓮院に伝えられたもので、右手に独鈷杵、左手に独鈷鈴をとるという二臂通有の姿であらわされる。普賢延命菩薩は大金剛輪を踏む一身三頭の象に乗り、その象をさらに無数の小象が支える。その像容は不空訳『普賢延命金剛最勝陀羅尼経』に従うもので、小異はあるものの平安時代後期の作とされる松尾寺本と図様をほぼ同じくする。
本図は補彩が加えられ、五仏宝冠より上は後補の絹に代わっているが、穏やかな円顔や衣文に沿って置かれた細かな截金、油煙によって黒ずむもののわずかにのぞく当初の鮮やかな彩色などは平安仏画の特色を示す。一方、光背の内区は截金を用いず銀泥一色で賦彩し、花や鈴などで飾られることの多い白象が何も身に付けない姿であらわされるなど、控えめな荘厳は松尾寺本とは一線を画しており、平安時代には遡らない鎌倉時代初めの制作と推測される。
出典 ColBase
第79問 写真のものの名前と、用途を答えて下さい。
答え 名前は如意
如意は説法、講讃、法会などで講師が手にして威儀をただすのに用いる儀式用具。本品は銅板製鍛造で、金銀の鍍金をほどこした頭部を有する如意。雲形の頭部は左右に広く、中央に稜先をつくり、その左右に大小の円弧を表して弧端を渦巻き状に巻き込んでいる。雲脚は裏面に彎曲して細くなり、出八双猪目透かしの金具を装して木製黒漆塗の柄に鋲留〈びょうどめ〉している。文様は雲頭の縁に沿って羽状文を並列し、中央に宝相華を咋えた鳳凰を対向させ、宝相華文はほぼ左右対称に拡がって雲頭全体を飾り、花間には3羽の小鳥と1羽の蝶が飛び交い、双鳳文の下には花葉を化生する山岳文を加える。雲脚にも宝相華文と双鳳文を表し、出八双金具は宝相華と鴛鴦を配する。文様はすべて繊細な毛彫〈けぼり〉で、文様には鍍金、間地には鍍銀をほどこし金銀相映じて効果を見せている。]
(指定名称)金銀鍍宝相華文如意 1柄 重要文化財
銅製 鍍金銀、柄:木製 黒漆塗 長63.5 雲頭幅26.9 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 956(工199) 出典 ColBase
第78問 明治に石神遺跡で発掘され東京国立博物館で保存されてきた石造物2基の名前と、現保存場所を答えて下さい。
答え 石造男女像/石造須弥山
奈良県高市郡飛鳥村字石神出土
2基 石造 飛鳥時代・6~7世紀
飛鳥真神原の地から明治時代に出土したものである。曲水宴に関する遺品と推定され、両者とも導管を具えたある種の噴水装置をもち、曲水の汀を飾るにふさわしいものである。須弥山(総高二四一・〇センチ)は水中に起立する山岳を刻み、不老不死の神仙思想を表わし、男女像(総高一七五・〇センチ)では、相抱の姿を表わし、この組合わせは仙境に楽しむ古代の一理想の世界を示している。類例のない遺品であり、飛鳥時代の文化をみるうえに欠くことのできないものである。
現在飛鳥資料館で展示
第77問 浄瑠璃に出てくる「指切り、髪切り、入れほくろ(入れ墨) 」という言葉は、どんな時に使われるのでしょうか?
答え 遊女の誓いを証拠立てる言葉。「心中だてをさす」決まり文句。「自らも十郎様とは新造の昔より、馴染みを重ね参らせて、ゆびきりかみ切入れぼくろ(入墨)」『世継曽我』虎御前の科白。近松門左衛門。
第76問 大阪の淀屋橋は豪商淀屋が土佐堀川に架けたことで有名ですが、大ヒットした歌にも歌われている、商人が架けた橋は何でしょうか。
答え 高知の、はりまや橋
第75問 神領森然として、並樹の松原一鳥居まで十八町・・・と唄われた参道は当初中山道と重なってた。この神社の名前と、ここの12月10日の大祭で奉じられる特殊神饌の名前 を答えて下さい。
答え 武蔵国一宮の氷川神社。大祭「大湯祭」奉じられる特殊神饌「百味膳」。小鯛、鰹節、塩鰹、干柿、長芋、栗、生姜 など16種の多彩な海川山野の幸が盛られた膳が本社60膳、摂社40膳の計100膳が奉じられる。
第74問 内堀として利用している川の船着き場が、童謡で歌われている有名な城は何城ですか?
答え 熊本城、内堀 として利用されている坪井川を少し下ると船場橋があます。城と屋敷群をつなぐ間にかけられた橋です 。
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ 船場山には 狸がおってさ
それを猟師が 鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉で ちょいとかぶせ
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ
せんば川にはえびさがおってさ それを漁師が網さで捕ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ
橋柱にはエビのモニュメントが飾られています。近くの熊本市電洗馬橋停留場には、狸像があり、この曲が流れています。
第73問 奈良発祥の食べ物だが、奈良ではすたれ、江戸浅草で評判になり、再び奈良でもはやり出したもの。これが名物だった東海道の宿場は?
答え 奈良茶飯 宿場は川崎宿 毎年3月に東大寺でおこなわれる「お水取り」は、1200年以上の歴史があり、その練行衆(れんぎょうしゅう)の献立に茶粥と共に「ゲチャ」と呼ばれる茶飯の原点となるものが出てくる。茶飯は奈良で発祥したが、庶民の間には広く普及しなかった。茶飯を気に入った旅人が江戸に持ち帰り、江戸の浅草寺の付近に奈良茶飯の店が多くでき、「奈良茶」の目印を出して客を呼んだ。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場したことで一層有名になった。茶飯は米と大豆のバランスのとれた栄養食であり、腹持ちも良かったため、全国各地で広く知られるようになった。明治以降に、再び奈良で広まりはじめたという。・・・農林水産省「うちの郷土料理」より
第72問 世界史の問題です。雄牛の間のある遺跡は何でしょうか
答え フランス・ドルドーニュ地方にあるラスコー洞窟壁画。柳生・馬・鹿が鮮やかに描かれ、製作年代は約1万7千年まえにさかのぼる。
第71問 この方は誰でしょうか?
答え 国史跡「青谷 上寺地あおやかみじち 遺跡」(鳥取市青谷町)で見つかった約1800年前の男性の頭蓋骨から顔を復元した「青谷弥生人」。名前は 青谷 上寺朗(あおや かみじろう) さんです。
第70問 密教の六観音は真言宗では聖、千手、馬頭、十一面、准胝 (じゅんてい)、如意輪ですが、天台宗では准胝 の代わりに不空羂索を入れています。この違う准胝 と不空羂索両方を加えて七観音で表現する場合もあります。ではこの七観音の通称は何と呼ばれているのでしょうか?
答え 変化観音から「観音七変化」と呼ぶ場合がある。
観音信仰は鎮護国家から日常的な願いまで様々な現世利益を求めるものであったが、平安時代中期から浄土教が盛んになるにつれ、来世信仰の色彩を帯びてきた。そして観音信仰でも六道に輪廻する人々の苦を救い浄土に導くという六観音信仰が生まれました。初めの六観音は『魔訶止観』に基づく大慈・大悲・獅子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の六観音でしたが、古くから親しまれてきた観音の主なものをあてるようになり、設問の六観音そして七観音になりました。
第69問 京都の清水寺にある東北の英雄の碑は何でしょうか?
答え 坂上田村麻呂に降伏し、河内国で処刑された、蝦夷(えみし)の首長・阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ) の碑。石碑は、平安建都1200年を期して、1994年(平成6年)に有志により建立されたもの。 (清水寺は、奈良時代末に延鎮上人によって開基されたと伝わります。この延鎮に鹿の狩りに来ていた坂上田村麻呂が出会い、殺生を戒められて改心して妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進したとされます。このことから、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。この縁から、アテルイとモレの慰霊碑が清水寺に建つことになったのです。『PHP』)阿弖流為 ウィキペディア 碑の場所
第68問 貞享2年(1685)江戸幕府が膳所藩に運上を命じた、友禅染に欠かせないものは何でしょうか?
答え つゆくさの一種「オオボウシバナ」。この花から絞り出した青い汁を美濃紙に染込ませて乾燥させたもの(青花紙)が、京の友禅染の下絵に欠かせないもの。この青花紙の運上を幕府は膳所藩に命じた。
第66問 明日香村にある、7世紀前半の石舞台古墳と、7世紀半ばの岩屋山古墳の奥壁の違いは何ですか
答え 古墳はだんだん石積みの段数が少なくなってきます。石舞台古墳の奥壁の石積みは3段ですが、岩屋山古墳では2段になります。そして岩屋山古墳の側壁は1段です。
第65問 山陰から北陸にかけて分布する特徴ある墳丘墓は何でしょうか。その特徴と名称を答えて下さい。
出雲弥生の森博物館 ジオラマ
答え 四隅突出型墳丘墓
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期以降、おもに備後北部・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する。 ウィキペディア
第64問 「この書き物をご覧になって後世に伝えてください。5月24日に一揆が起こり前田又左(利家)殿が一揆の衆を1000人生け捕りにして磔(はりつけ)にしたり釜で煎られたりしました。その事を一筆書き留めておきます。」(現代語訳)この文言が記されているのは、何処で出土した通称何と呼ばれるものでしょうか?
答え 1932年に越前市の小丸城から出土した瓦片にこの文字が記されていました。通称 呪いの瓦
第63問 薬師如来の眷属は十二神将ですが、なぜ十二神将だと言われているのでしょうか。また薬師如来の正式な名前は何でしょう?
答え 薬師如来の正式な名前は「薬師瑠璃光如来」。十二神将が十二躰で構成されるのは、薬師如来は十二の大願を立てて人々を救済したためだと言われています。中国では隋代の敦煌石窟にも壁画の作例があり古くから十二神将像がつくられてきました、中国では十二支と結びつけて信仰されてきました。そのため平安時代以降作られた十二神将には頭に十二支の動物をいただくものが見られます。お釈迦様が薬師如来の教え(十二の大願)を説いた『薬師本願経』にも十二神将が登場します。それぞれが7000の従者を率いているとされていますので、計8万4000のお供を引き連れて薬師如来を信仰する人々の苦難を取り除くことを使命としています。(仏像の世界・・NHK)
第62問 織豊期の古文書に「先斗代のことくたるへき事」 と書かれている意味は何ですか。
答え 「先斗代」をポントダイと呼んで先斗町での飲食代と思わないでください。斗代は中世の税制で織豊期くらいになると斗代を安くしようとする領民とのせめぎあいがあり、斗代が以前の8~9割くらいに崩れるところも出てきた。そうした時に領主層が「先斗代のことくたるへき事」として、従来の(先の)斗代はできるだけ維持しようとした領主の意図がくみとられ る文書です。すみません「ポントチョウ」で引っ掛けようとしました。
第61問 万治2年(1659)に発行された案内記『鎌倉物語』には、「江戸より見学せんと思う人は、保土ヶ谷宿から金沢に来て、鎌倉へ行けば見学の次第よきなり」と書かれている、金沢街道は保土ヶ谷宿から東海道と分かれて、金沢道、六浦道と進みますが、①金沢道の終点、つまり六浦道始まりになる所にある寺が描かせ飛ぶように売れたものは何でしょう。②鎌倉へ入る切通の名前、③金沢街道の終わりにあるスイーツの別称を持つ寺 の三つを答えて下さい。
大阪の美濃さんが一部正解されました
返答は①金沢八景絵図、②朝夷奈切通、③分かりません、です。今回の問題も私の歴史力の乏しさを地図に頼りに返答します。
「鎌倉物語」の地名を伊能図から割り出し、カシミール が現在の姿を明らかにしました。返答に至る流れを添付図を使って説明します。
伊能図に「保土ケ谷」東海道と分かれた「六浦」と「鎌倉」がはっきりと書かれています。それぞれを赤枠で囲みました。伊能図で測量された海岸線をカシミールでたどろうとするとあちこちが埋め立てられていて姿を変えていますが、要所要所に伊能図の名残を認めることが出来ます。
出題の「金沢道の終点、つまり六浦道始まりになる所」はその寺の名こそ分かりませんが、明らかに「金沢八景」であることが分かります。調査の過程で金沢八景の出題に合致する論文「金沢八景を巡る景観環境史」を見つけることが出来ました。今まで知らなかったですが、論文に「金沢八景をめぐる出版闘争」の項があり、出題者・松原さんが問うお寺の名もありました。「能見堂(地蔵院)」と「金龍院」だと思います。そして「描かせ飛ぶように売れたもの」は各寺が版元になったいわゆる「金沢八景絵図」(名称は多岐にわたる)です。その論文にたくさん示されていました。
切り通しの名前はカシミールに書かれていました。カンニングになりますが、その名は「朝比奈切通」です。最後のスイーツの名は伊能図もカシミールも助けてくれずお手上げです。教えて下さい。教えていただいてからもう一度確認したいと思います。
<参考資料>伊能図:https://kochizu.gsi.go.jp/items/386?from=category,10,index-map 論文:https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/49211/files/K-06471-a.pdf
③の答え 鎌倉にある常栄寺は日蓮上人に、この寺の尼僧が胡麻の牡丹餅を捧げたことから、牡丹餅寺と通称されるようになった。
第60問 東海道グルメシリーズ
東海道のその特徴を一点だけ描き、数か所をまとめたものからもう1問
ここはどこでしょうか
大阪の美濃さんが正解されました
美濃さん正解です。しかし、たまたま「日本橋」と回答したと文章が添えられていました。『今週の問題は難問です。手がかりのキーワードは1.東海道五十三次、2.魚(魚市場、漁港)で、いつもの有力な情報となる文字情報はありません。
直感は「日本橋の魚河岸」です。しかし、広重の東海道五十三次は確か日本橋を渡ってくる大名行列の先頭の画で、こんなに丁寧に大きく魚が描かれていなかったはずです。東海道五十三次の宿場町では魚は常に大事な食材で宿場町の近くに魚市場や漁港は当然あって広重がその場所を描く可能性は大です。真相はどうなのでしょうか?回答を待ちたいと思います。』とのことでした。
以上から判断して大オマケの正解といたします。
※ 出題の絵の原本は『東海道張交圖會(とうかいどうはりまぜずえ)』です。諸種の模様枠の中に収めた宿駅図を数点、張交絵風に配合した作品。各宿駅の風景よりも名物、風俗、伝説、因んだ戯曲等で象徴した作品です。
第59問 東海道グルメシリーズ
広重は東海道の絵をいろいろな版元から14種類ほど出版しています。そうした中で名物や行事、景色など、その特徴を一点だけ描き、数か所をまとめたものもあります。これも、そこの特徴をあらわしていますが何処でしょうか。
大阪の美濃さんが正解されました
富田と書いてありますので三重県四日市市の「富田」のはずです。しかし、富田は宿場町「桑名」と「四日市」の間の町なのでちょっと自信がありません。
画の文字は『於』、『小』、『汁』、『の』、隣の行に『や』と読めますが、これではまったく意味不明の言葉です。目を細めて再度見つめると『松』、『可』(ひらがなの『か』)、『佐』(ひらがなの『さ』)となり、すべてを繋げると「松かさのや□」となって松笠を使ってハマグリを焼く「焼き蛤」になります。これは「富田」が焼蛤で有名と知っていたのでなんとか無理して導けただけです。この絵は松笠でハマグリを
焼いている絵のはずですが、どれがハマグリでどれが松笠か見極められませんでした。
※富田の焼き蛤が正解ですが、富田の立場は桑名藩領であったので桑名の焼き蛤と呼ばれました。広重は桑名宿で取り上げています。
第58問
この宿場 は何処で、旅人が眺めている山の名前は何でしょうか。また土山が雨だったら、ここはどうなるのでしょう。そしてこの宿場ではせめて○○○に泊まりたいのですが、格と屋号を答えて下さい。
大阪の美濃さんが正解されました。
こちらは48番目の「坂下宿」です。山の名は「筆捨山」になるのですが、私には不可解に思う画です。亀山宿から難所の鈴鹿峠へ向けて谷あいを歩み鈴鹿峠ふもとの「坂下宿」に着くルートで、「筆捨山」は宿場の少し手前にあります。土山が雨だったら此所はどうなるのでしょう?は、鈴鹿馬子唄の歌詞の話です。「坂は照る照る 峠は曇る あいの土山 (えー)雨が降る」と歌われます。
最後の問いの宿屋ですが、これも鈴鹿馬子唄に頼ります。「坂の下では
大竹小竹 宿が取りたや (えー)小竹屋に」との歌詞が出てきます。よって「せめて小竹屋に泊まりたい」ということになるのでしょう。
※本陣は望まないがせめて脇本陣の小竹屋に泊まりたい。
第57問 東海道グルメシリーズ
この宿場と名物を答えて下さい。そして左下の水の名前も答えて下さい。
大阪の美濃さんが正解されました。
宿の名前は「大津宿」です。
その名物は「走井餅」で水の名前は「走井」です。出題の広重画を拡大して左下の部分に画像処理を加えてみました。
のれんの文字がはっきりして赤線で囲った箇所は「走井」と読めます。
よってこのお店は「走井茶屋」になり、此所は「大津宿」と分かります。
また、「走井」と分かると左下の水が湧いている所も(右から)「走井」と書いてありそうと分かってきます。
大津市内の国道1号線沿いにある月心寺のHPにこの水が湧いている
井(戸)が載っています。横に「走井」と刻んであります。
http://gesshinji.jp/hashirii/と云うことで、茶屋は寺になりましたが、餅屋「走り井餅本家」は別の場所にあるようです。https://www.hashiriimochi.co.jp/index.html
第56問 東海道グルメシリーズ
この宿場と名物、奥に見える川の名前を答えて下さい。そして、この茶店は今も同じ場所にあり、同じものを売っていますが、店の名前も答えて下さい。
大阪の美濃さんが正解されました。
宿場:府中宿 名物:安倍川餅 川の名前:安倍川 店の名前:石部屋
名物の看板が消されている難問でした。
ヒントは3つで、(1)大きな川があり、(2)川のそばに茶店があり、
(3)店で餅をついている、でおそらくその餅が名物なのだろう、と
言うヒントです。残念ながら私の実力不足でそのヒントだけで答えに直結できず、「東海道分間絵図(早稲田大学図書館蔵)」 を使って、大きな川を江戸から京まで探してみました。大井川や天竜川など橋が架かって
いない大きな川は幾つかあったなかで川のそばに「もち」と書いて
あるのは「安倍川」しか有りませんでした。
餅の名前は「みろく あべ川もち」です。
ここで「みろく」とは町の名前です。「駿府名勝一覧之図(静岡県立 中央図書館蔵)」 で安倍川の東岸に「弥勒丁」と確認できました。弥勒町で名物 安倍川餅を売っている茶店のは「石部屋(”せきべや”と読みます)」です。2012年5月にその石部屋でその名物をいただきました。(写真 を添付します。)
第55問 東海道グルメシリーズ
この宿場と名物。そしてこの峠の名前、名物の由来を答えて下さい
神奈川の平野さんと名古屋の上田さんが正解されました。大阪の美濃さんも正解されました。
平野さん
宿場は「岡部宿」、名物は看板にある「十だんご」、峠の名前は看板にうつの山と書かれた「宇津ノ谷峠」です。名物の由来は、版画に描かれて
いるように茶店の中に団子が十個ぶら下がったり串に刺されて売られたことによります。厄除けの意味があるようです。
上田さん
岡部宿 名物は十団子 峠の名前は宇 津ノ谷峠 名物の由来は食人鬼伝説に由来食人鬼の伝説は藤枝市のHP参照願います https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/11/12/1445916534257.html
美濃さん
宿場名は「岡部宿」です。(皆さまと同じです)峠の名前は「宇津ノ谷峠」です。(皆さまと同じです)峠の名が記されているカシミール3Dの地図を添付します。また伊能図では峠の名の他に「名物 蔦細道」とあります。岡部宿と丸子宿間の伊能図を添付します。名物は看板に「名物 うつの山 十多(だ)ん子」とある通りで「十団子」です。(皆さまと同じです)先の問題「丸子宿」で丁字屋さんのお店が出ましたが、そのお店の
HPに「十団子」が紹介されていました。その写真を拝借して添付しました。 https://chojiya.info/blog/post-1185
上記HPに名物の由来も紹介されています。
最後にシーボルトの江戸参府記に「宇津谷峠」が紹介されています
のでその資料も添付します。
第53問 東海道グルメシリーズ
この茶店のある宿場、名物、そしてこの富士山の呼び名を答えて下さい。
答え 大阪の美濃さんが惜しいところまで迫られました。「看板は「名物山川志(し)ろ酒」なのだそうです。その場所は吉原宿と蒲原宿にあるそうです。」 その通りです。吉原宿の山川志ろ酒です。酒は最近復活したようです。富士山の呼び名が難しかったようですが、吉原宿は2度高潮の被害を受け、内陸部へ移転しました。したがって東海道は内陸側へ湾曲しています。江戸から京へ上る時は富士山は常に右側に見えますが、吉原宿のあたりでは地形の関係から左に見えるところがあり、これを「左富士」と呼んでいました。今は工場の塀などがあって情緒はありません。絵は広重の東海道五十三次「吉原」行書版です。
第52問 東海道グルメシリーズ
この茶店のある宿場、売られているもの、そして店の右端にある道標が関係する「ことわざ」を答えて下さい。道標は現在も同じ場所にあります。
大阪の美濃さんから回答が
お店中の看板には「う者(ば)毛(も)ちや」と書いてあるようです。
これは現在の「姥が餠」だと思います。よって草津宿になるのでしょう。
さて、脇の道標に係わる「ことわざ」は正直分からなかったのですが、
群馬大学の情報で「滋賀コレかるた」というものを知りました。
https://carta.media.gunma-u.ac.jp/kinki/data_311shigacollection/index.html
その「む」に「むりをせず いそがばまわれ 瀬田の唐橋」とあったので
おそらくこれが求めておられる回答なのでしょう。
さらに発展して大津市歴史博物館の古地図コレクションの中に「矢橋小船入り航路絵図」という絵図があり、その図からこの「ことわざ」の意味をはっきり読み取ることが出来ました。
https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/tizu/detail.html?0005
船が幾艘も対岸へ琵琶湖を渡っています。
一方、街道を行くと勢(瀬)田川に架かる「勢田橋(現:瀬田の唐橋)」
があります。「急がば回れ」とはこのことを言っているのでしょう。
この地がことわざの発祥とは知りませんでした。
美濃さん正解です。補足ですが、「急がば回れ」の意味は、矢橋の渡しの方が距離的には近いのですが琵琶湖は波の荒い日も多く、船待ちが多くありましたので、距離のある唐橋廻りの方が早く行けることが多くあったことからです。茶店の道標から奥へ行くと矢橋の渡し、店の前を左に行くと瀬田の唐橋です。「うばがもちや」は明治に国道一号線沿いに移転し、現在も営業しています。
第51問 東海道グルメシリーズ 1月は広重の版画からの出題です。
この絵はどこの宿場で、何を食べているのでしょうか?
大阪の美濃さんから回答が
「鞠子(丸子)宿の一ぜんめしで名物・と路ゝし流(とろろしる)」
はいかがでしょうか?
丸子の丁子屋さんと云うお店でお昼にとゝろ汁の定食をいただいた
ことがあります。古くからのお店でお店で写真を撮ったのですが、
残念ながら行方不明です。
美濃さん正解です。
よく目にする鞠子宿の版画は保永堂版ですが、今回のは行書版です。広重の東海道五十三次は、いろいろな版元から出され、それぞれ趣が違います。
第49問 図は広重の名所江戸百景で正月風景を描いたものです。白の海鼠塀の屋敷は松平美濃守(筑前黒田52万石)、左の屋敷は松平安芸守(芸州浅野42万石)です。この場所はどこでしょうか。
答え 霞かせき。図には恵方万歳、扇売り等の姿が見られます。毛槍を立てた武士の行列が坂を登ってくる様子も描かれています。
第48問 福岡県八女市の岩戸山古墳、岡山市の造山古墳、大阪府高槻市の今城塚古墳に共通する石材は何でしょうか?
答え 阿蘇溶結凝灰岩=ピンク石。岩戸山古墳は、墳丘・周堤・別区からは一般に「石人石馬」と総称される筑紫周辺特有の石製品が100点以上 出土し、その多くにピンク石が使われている。造山古墳は前方部に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分だ使われている。 今城塚古墳は阿蘇溶結凝灰岩の石棺の破片が出土している。多くの市民の手によって熊本県の宇土半島から瀬戸内海を通り淀川を遡り、修羅を使って陸路を今城塚古墳まで運ぶ実証試験が行われた。ピンク石の名称は表面を濡らすと良く分かるが薄いピンク色をしている。
第47問 生駒山西麓最大の古墳は何でしょうか?
答え 八尾市にある心合寺山古墳(しごうじやま)俗に「しおんじやま」「しごんじやま」とも。前方後円墳、全長160m、中期。河内平野の首長墓と見られ後円部には粘土槨が3棺存在する。
第46問 坑道の崩落によって出来た地表のくぼ地を埋めるための土取り作業で見つかった、有名な古墳は何でしょうか?
答え 福岡県桂川町にある王塚古墳です。6世紀前半の前方後円墳です。装飾古墳の頂点にある古墳として特別史跡に指定されています。年2回公開されていますが、王塚装飾古墳館で2室に分かれた石室が忠実に再現されています。
第45問 名護屋城跡の近くにある名物の食べ物は何でしょうか? ヒント 透明
答え 呼子のイカ。透明な活き作りの刺身とゲソのてんぷらは絶品です。名護屋城を訪れた時にどうぞ。
第44問 大阪の上町台地には多くの寺や墓がありますが、その中で長い間無縁墓となっていた江戸時代の有名人は誰でしょうか?
答え 井原西鶴(1642~93)です。作品の『日本永代蔵』は江戸文学論のテキストになっています。誓願寺にあり、明治時代に無縁墓から発見されました。ちょうど大阪の美濃さんから、大阪の上町台地凹凸地図が天王寺区広報誌12月号の表紙になりました との連絡がありましたので、これを使って場所をお知らせします。 大阪の上町台地凹凸地図 誓願寺周辺拡大
第43問 この国宝の経箱には菱形や三角の木片が貼りつけられています。その木片の素材の名前と経箱の名称、そして所蔵先を答えて下さい。
在校生の上田康八郎さんが解答 沈香画経箱(別名 沈香木画箱)京国立博物館(法隆寺献納宝物の内一点) この木画経箱は、表面全体に菱形と三角形に切った沈香の薄板を貼り詰め、その合わせ目に象牙の細線で黒檀を挟んではめ込み、格子文様を表している。沈香を用いることから「沈香木画箱」の名もある。沈香は中国南部から南の地域に産出する香木である。単純な文様と木肌の美しさを求めたものであるが、沈香や黒檀、象牙いずれもアジア各地からもたらされた素材を用いており、この時代の異国趣味を感じさせる作品である。
上田さん正解です。 黒壇、白檀、香木、象牙を張り合わせたモザイクを木画と呼びます。 写真の出典はColBase 東博
第42問 明治時代に2度盗難に遭い、2度とも発見され戻ってきたが、太平洋戦争中に3度目の盗難に遭い、それ以来行方知らずになっている仏像の名前と、会津八一がこの仏を詠んだ歌碑が建てられている安置されていた寺の名前を答えて下さい。
答え 香薬師如来立像 白鳳時代 像高73CM 金銅仏 新薬師寺
会津八一の歌碑「ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ」
第41問 元々あった場所が浄水場になっている、国分尼寺であったろうと言われているお寺の名前と、それは何処の国の国分尼寺でしょうか?
在校生の上田康八郎さんが解答 答え 法華寺 旧摂津国分尼寺伝承地(大阪市東淀川区柴島)浄水場拡張工事にて遺構発見と現在の位置に移転
上田さん正解です。 しかし柴島を「くにじま」なんて、関西の人以外には読めないでしょう。
第40問 後円部を線路が横切っている出現期古墳を答えて下さい。
答え 椿井大塚山古墳です。全長175m。青銅競37面が出土。内、三角縁神獣鏡33面ある。
第39問 大坂の上町台地から墨書土器や枝銭が出土しましたが、その遺跡の名前と住んでいたと思われる人たちを答えて下さい。
答え 難波宮の南1.8Kmにある細工谷遺跡です。和同開珎の枝銭や多くの銭貨が出土し、奈良時代後半の井戸からは「尼寺」「百済尼」などと書かれた墨書土器が見つかっています。遺跡の東400mにある堂ヶ芝廃寺は付近の「百済寺」の字名や、出土した瓦などの文様から百済王氏の氏寺「百済寺」に比定されています。細工谷からも同笵のものが見られることから、百済王氏が建立した「百済尼寺」もあったであろうと推測されています。
第37問 この国宝の埴輪は何処から出土したもので、今はどこが所蔵していますか。
画像の出典はcolbase奈良博
大阪・美濃さんが解答 松原様 初めて返答します。近畿支部の美濃規央です。「挂甲武人」の埴輪と思うので「東京国立博物館」の所蔵と思います。この埴輪は確か時々怒れる埴輪?に変身するはずで添付のポスター(著作権の関係で表示できません)がその怒れる姿だと思います。また大阪府門真市の海洋堂本社ビル正面に巨大な怒れる像が安置されています。通勤途中によく見上げてました。https://ksmv.jp/kisotengai/20090701-1263
おまけ情報:そのフィギュアもあります。https://kaiyodo.co.jp/items/senmu/kyd-srex02/
美濃さん正解です。 群馬県太田市出土 高さ130.5㎝ 六世紀
第36問 写真は最近復元整備された国指定の史跡です。どこにある何という史跡でしょうか。
答え 堺市の百舌鳥古墳群の東にある「土塔」です。行基によって築かれたと言われています。一辺53.1mの四角錐 の13段の塔で、一面に瓦が葺かれていました。近年は崩れかけた小山のようになっていましたが、2016年に復元整備工事がされ南面と西面には往時のように瓦が葺かれました。美濃さんからの情報です。『史跡土塔特別公開』(事前申込不要)当日、普段立ち入ることのできない土塔の頂部を特別公開されます。
URL:https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/oshirase/doto-kokai2022.html
第35問 この逆立ちした狛犬のあるのは何処でしょうか?
答え 左京区の吉田神社の南にある宗忠神社です。狛犬は備前焼で出来ていますが、この神社は岡山の黒住教 の教祖を祀る神社なので備前焼かもしれません。
第34問 この狛犬ならぬ狛兎があるのはどこの神社でしょうか
答え 平安神宮裏側の丸太町通りを東へ300mほど行ったところにある岡崎神社です。岡崎神社は子授け、安産の神様なので、多産で神の使いともいわれるウサギが狛犬の代わりをしています。
第33問 京都狛犬巡り パート2 この怖い狛犬は、どこの狛犬でしょうか?
答え 京都市東山区にある知恩院の塔頭、松宿院(松風天満宮) です。
第32問 9月の問題は観光気分で京都狛犬巡りです。まず最初は大部分の人が目にしたことのある、この狛犬です。どこの狛犬でしょうか?
答え 清水寺の狛犬です。この狛犬は奈良東大寺南大門の狛犬をモデルにしたと言われています。左右とも阿形をしています。
第31問 徳川家康などの武将が鷹狩を好んだことは良く知られていますが、平安時代前期までは天皇も鷹狩をしました。その中で鷹狩が好きなことが顕著な天皇二人を答えて下さい。
答え 狩りで突出している天皇は桓武天皇・生涯135回、嵯峨天皇・生涯73回です。陽成朝に禁令が出され、それ以後は光孝天皇が2回行ったのみで、以降、鷹狩を見学する野行幸へと変質した。 この項 三重大学山中氏研究発表資料参照
第30問 第29問の十二天は方位神です。方位神で有名な十二神将も干支の方位を守る方位神です。では十二天は、どういう方位を守護しているのでしょうか
答え 奈良時代以来の仏教では四天王というのが東西南北四方の守護神であったが、平安時代以降の密教では、四方に加えて四維及び上下と日月をまとめて十二の守護神というセットが生み出された。四維=東西南北の間=西北、西南、東北、東南。十二天 風天(西北)、水天(西)、羅刹天(西南)、焔魔天(南)、火天(東南)、帝釈天(東)、伊舎那天(東北)、毘沙門天(北)、梵天(上)、地天(下)、月天、日天。
出典 colbase 京都国立博物館
第29問 この国宝の仏画の尊像名を答えて下さい。
答え 十二天像の内の「火天(かてん)」
十二天は密教の方位の守護神で、空海が始め、宮中で行われてきて、御所が東京へ移ってからは、東寺で真言宗十八本山の長老が集まって、玉体安穏、鎮護国家、五穀豊穣を祈る重要行事「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」で、本尊両界曼荼羅とともに五大尊と十二天の掛け軸が懸け並べられる。この火天像はかって後七日御修法に用いられたとする由緒ある画像。
第30問へ続く
第28問 お盆の季節になりました。京都の大文字送り火は有名ですが、精霊迎えは六道珍皇寺の迎え鐘が有名で、今日7日から六道まいりが始まります。この寺は小野篁が冥途とを行き来した「冥土通いの井戸」 があり、近年隣の料理店の敷地から、戻る時の「黄泉(よみ)がえりの井戸」が発見されました。では古事記に書かれている冥途との出入口は何という現地名の何というところでしょうか?
答え 古事記に書かれている冥途との出入口は、イザナギが黄泉の国へイザナミに会いに行って、蛆のたかるイザナミ見てはイザナギは逃げますが、怒ったイザナミは追っ手を差し向け、雷神に追いつかれたのでイザナギは桃の実を投げて逃げ、穴を巨石で塞いだ黄泉比良坂(よもつひらさか)です。
安来市から9号線を松江市の方に少し行って、細い道を山陰線を越えて少し進むとあります。現住所は松江市東出雲町揖屋、伊賦夜坂。 現地看板
第27問 北条時政の建てた願成就院の本尊や、和田義盛が建てた浄楽寺の本尊は共に運慶作で国宝に指定されています。この両像の大きさは半丈六ですが、これはどういう理由によると言われているのでしょうか?
答え 丈六仏の造立は幕府=源頼朝が独占しており、造仏においても鎌倉殿を頂点とした序列化が図られていたと言われています。
第26問 安倍元首相の襲撃に悪乗りするつもりはありませんが、場所が良く分かるということで出題しますのでご理解をお願いします。安倍元首相が演説をしていた場所から北、奈良ファミリー一帯にかけて、奈良時代は何があった場所でしょうか。
答え 聖武天皇の娘である孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は恵美押勝の乱平定祈願のための金銅四天王像を作り、西大寺を創建して安置しました。同時に、母光明皇后にあやかって尼寺である西隆寺を西大寺の東に建立した。その場所が西大寺駅北側一帯です。発掘調査は行われていませんが、周辺の奈良ファミリーなどの建設時に遺構が見つかっており、それらをつなぎ合わせて寺の概要は分かっており、安倍元首相が立っていたところは南大門にあたり、その北には中門、金堂が建っていました。鎌倉時代には寺は無くなり田地化したものと思われます。
第25問 ギャラリー>彫刻・木工に関東支部の平野さんが「清涼寺釈迦如来摸刻像(3体)」を投稿されていますが、この清凉寺釈迦如来像は体内に五臓六腑の模型などが内蔵されていたことで有名です。では古文書に頼朝の遺髪と歯が収められたと書かれていて、x線で実際にそれらしいものが発見された仏像の名前と仏師を答えて下さい。
答え 愛知県岡崎市にある瀧山寺の聖観音菩薩立像 仏師 運慶・湛慶 建久10年(1199)頼朝追善のため式部僧都寛伝が発願。三回忌に供養されました。像内に遺髪と歯が収められたと縁起には書かれている。由緒がはっきりしている運恵像でありながら国宝に指定されていないのは、前住職が彩色を施してしまったから。
@ColBase 奈良博
第24問 この絵の名前と所蔵先を答えて下さい。
答え 国宝 辟邪絵 の内「神虫」 奈良国立博物館蔵 縦25.8㎝ 横70㎝
神虫は蚕(さん)の美称。 辟邪神は疫鬼を懲らしめ退散させる善神
『続日本紀』には「蚕之為物、虎文而有時蛻、口吻而不相争、生長室中、衣被天下」と
書かれており、この図は蛾の姿に虎文と馬吻を併せてイメージ。
第23問 京都で祇園祭が始まりました。今年は3年ぶりに山鉾巡行も行われます。京都の夏の風物詩は、この祇園祭、大文字、地蔵盆ですが、この三つの内、奈良にもある(あった)ものはどれでしょう(複数可)
答え 祇園祭、大文字、地蔵盆は三つとも奈良にあります。(ありました)
大文字は奈良では戦没者慰霊を目的として1960年(昭和35年)から8/15に始められました。高円山の山腹に灯されますが京都の大文字山よりなだらかなので少し寝た感じになります。飛火野から良く見えます。この夜は同時に東大寺万灯供養会も行われ、大仏殿上部の「観相窓」が開けられ大仏の顔が眺められます。
地蔵盆は奈良の観光課が奈良にも地蔵盆をと奈良町周辺の地蔵像のある寺をまとめて7/23に数十年前から行われるようになりました。この日の一番人気は筒井順慶ゆかりの寺で奈良三名椿の一つ「散り椿」の傳香寺の裸形着装像の衣と袈裟の着せ替えです。
祇園祭は祇園社が建武5年(1338)に転害北ノ塚に勧請されました。
東大寺の西、国宝転害門(平城京の一条通りはこの東大寺転害門に突き当たる)門前の転害(手掻、手貝)郷、今小路郷、中御門郷、押上郷の四郷で行われた。山は四郷から隔年で北から順番に毎年一基を出す。舞車は四つの郷がすべて出す。傘鉾も四つの郷がすべて出していました。順番を巡って各郷の争いが多く起きました。永禄10年(1567)松永久秀と三好三人衆との合戦で大仏殿が炎上し、祇園社も類焼し祇園祭も絶えました。祇園祭の項は最近テレビ出演が増えた河内教授の資料より。
第22問 この城は何城でしょうか? ヒントは会員便りの中にあります。
答え 会員便りで近畿支部の美濃さんが「中津藩蔵屋舗之跡と福沢諭吉のモニュメント」の紹介をされています。
その中津藩の城、豊前の中津城です。
日本三大水城の一つで、堀には海水が引き込まれています。
築城は黒田官兵衛 のちに細川忠興が大改修をした。
第21問 この仏画を描いたのは誰でしょう? ヒント 江戸時代の著名な○○
答え 円空。志摩地方を訪れた時に大般若経の修理に携わり、転読用として折帖に改装し、10巻毎の始めの巻に釈迦説相図を描きました。この絵はまさに円空の特徴である簡素でダイナミックな表現そのままです。絵の簡略化は彫刻にも影響を与え、円空仏はますます個性的になりました。同時に簡略化によって仏像製作のペースも早まり、彼の12万体作成を可能にしたのではないかと思われます。 円空の作風の転機の一つとなった絵画です。
第20問 左は現存12天守の一つの天守の内部の現在の状況です。この城は何処で、なぜこうなっているのでしょうか?
答え 弘前城。今、天守下の石垣を100年ぶりに修理しているため、天守は曳家によって約70m内側にに移動されています。この曳家作業の補強のため内部は鉄骨が組まれています。
第19問 今回は西洋史です。この水道のバブルは、どこから出土した、何時の時代のものでしょうか?
答え ポンペイ 紀元1世紀 日本の弥生時代真っ盛りのころです。
ポンペイ展 4月21日 ~ 7月3日 京都市京セラ美術館
7月16日 ~ 9月25日 宮城県美術館
10月12日 ~ 12月4日 九州国立博物館
第17問 写真右の山上に建つ城は、近年天守が木造で復元されました。この城の名前と、この城周辺を舞台にした朝ドラの名前を答えて下さい。下の川の河口では冬に有名な自然現象が起きます。
答え 愛媛県の大洲城です。天守の両脇に櫓がありますが、この櫓は昔のまま残っており、木造で復元したのは天守だけですが、櫓を通って天守へ入るので良く分かるのですが、天守より小ぶりな櫓の梁の方が太い木材が使われています。興福寺中金堂をはじめとして昨今の木造復元での太い木材の入手は難しくなってきています。朝ドラは第一回の「おはなはん」です。城下にはおはなはん通りもあります。城下を流れる肱川は、冬に大洲盆地で発生した冷気を伴う霧が河口へ流れ出す肱川あらしで有名です。
第15問 牽牛子塚古墳の近くにある、玄室が五条野丸山古墳 に次ぐ床面積を持つ古墳は何ですか。
答え 真弓鑵子塚古墳 2008年の現地説明会では玄室内に入ることが出来ましたが、当日は大雪で何度も何度も傘に積もった雪を落としながら、山道で2時間並びました。古墳見学は修行の道だと悟った日です。
第13問 牽牛子塚古墳などの時代、天皇の墓は八角墳に作られました。では一部に榛原石を用いた八角墳の古墳名と宮内庁が比定している天皇名を答えて下さい。
答え 段の塚古墳 舒明天皇
第12問 脱活乾漆像-3 奈良大学の一番近くにあり重要文化財になっている脱活乾漆像(部分)・・複数 のある寺の名前と、全部の仏像名を答えて下さい。
答え 秋篠寺 伝・伎芸天立像【重文】、伝帝釈天立像【重文】、梵天立像【重文】、伝・救脱菩薩立像 【重文】
共に頭部・天平 脱活乾漆 体部 鎌倉 寄木造
第11問 脱活乾漆像-2
脱活乾漆像は、東日本では近年内閣総理大臣だった池田勇人が一時所有した個人像の菩薩立像が見つかりました。東日本には他に何寺の何という仏像があるのでしょうか?(中国由来は除く)
答え 横浜市金沢区の龍華寺 菩薩坐像 龍華寺
第10問 先史時代の反対語とその経緯を答えて下さい。
答え 歴史時代。 文献史では、飛鳥時代以降は歴史時代と呼ぶのに対して、それより前は原史時代、さらに前は先史時代と呼ぶ。要するに歴史の前=歴史ではない。原史時代は文献や伝承が部分的に存在するが十分に説明できない時代=古墳時代、弥生後期の一部。先史時代とは(狭義に)文字資料がまったくない時代。最近は狭義の先史時代と原史時代を合わせて先史時代と呼ぶことが増えてきている。 参考文献『日本の先史時代』中公新書 藤尾慎一郎
第9問 脱活乾漆像
脱活乾漆像は高価な漆を用い、手間もかかるので制作した工房は限られており、現存する脱活乾漆像は近畿以外には3軀 あるだけと言われています。ではその3軀 の内伊賀伝来の由緒を持つのは、何寺に何という仏像でしょうか?
答え 岐阜市にある美江寺の十一面観音立像 719年に伊賀国名張郡の伊賀寺よりもたらされた(寺伝) 美江寺
第8問 学友会研修関連復習問題・・・三度水野正好先生関連 国家珍宝帳
水野正好先生は喜寿を記念して奈良大学講堂において「卑弥呼から光明皇后までを語り尽くす」と題して4時間講演をされました。その中で明治時代に出土したものを最近調べたら国家珍宝帳の除物(よけもの)の〇〇と〇〇であったことが分かった。水野先生は特に聖武天皇の思い出が深いものを光明皇后が正倉院より戻し、埋めたのではないか、除物の他のものもそこにあるに違いないと言われました。〇〇と○○は何で、どこから見つかったのでしょうか?
答え
陽剣、陰剣 東大寺大仏の下から出土 https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2504S_V21C10A0CR8000/
第7問 学友会研修関連復習問題・・・今城塚古墳 附 新池埴輪製作遺跡 新池埴輪製作遺跡 を参照
第6問の今城塚古墳の見学が終わった後、水野先生は「明日東京で講演をするので夕方の新幹線に乗るが時間があるから、ここから歩いて30分ほどの所にあるハニワ工場へ案内するので、まだ歩ける人は付いて来なさい」と言われ、新池埴輪製作遺跡へ連れて行って頂きました。新池の斜面に18基からなる窯跡がありますが、この新池からは以前からよくハニワが見つかることで有名でした。水野先生も学生の頃からご存じで、更に先生はその埴輪の特徴から「ここは埴輪を作ったところ」と考えてみえました。 では埴輪の特徴とは何でしょうか?
答え 新池で発見される埴輪は形が崩れたり、引っ付いてしまったり、熱で裂けてしまったり、勿論割れてしまったものもあります。これらは焼成時に破損したものです。そしてこの不良品はゴミとして新池に投げ込まれたと考えられます。この時代に限らず焼成に失敗したものは通常は窯の下へ投げ捨てられています。この場所を物原とか灰原と呼んでおり、物原や灰原があるとそこには窯跡があります。
※奈良大卒の大阪大谷大学教授狭川真一先生から4月1日(予定)に高志書院から「まじなひ」をテーマに水野正好先生の遺稿を集めた本が出版されると連絡がありました。「耳寄りな話」をご覧ください。
第6問 学友会研修関連復習問題・・・今城塚古墳
悠歩の会で、亡くなられた水野正好先生に高槻市の今城塚古墳を案内していただきました。水野先生は実質的な責任者として10年以上今城塚古墳の発掘調査、整備にあたってこられました。ご存じのように今城塚古墳はほとんどの学者が継体天皇(便宜上天皇号を使用)の墓に間違いないとしているのにもかかわらず、宮内庁は陵墓指定をしていません。水野先生はそれなら文化庁の許可で天皇の墓が発掘できるのでどんどん掘れと言われ、文化庁が「もうそのぐらいで」と言ってきても徹底的に発掘調査をされました。その結果大王墓にしては高さが低いとされていた問題も伏見地震で崩落したことが分かり、また阿蘇溶結凝灰岩など3種の石棺の破片が発見されました。修復整備事業で埴輪を復元して並べたりされましたが、さらに水野先生は実現はしなかったのですが周溝の堀であることが出来ないかと考えられました。
水野先生は周溝の堀を使って何をしようとされたのでしょうか?
答え 子供が水遊びが出来るように考えられましたが、深いので断念されました。実現していたら・・天皇の墓で水遊び
第5問 今回は旬の問題です。
さだまさしの歌に出てくる店の近くにある、国立博物館は何処でしょう?店の名前と名物も答えて下さい。 答え 太宰府天満宮の境内と虹のトンネルで結ばれている九州国立博物館です。店の名前はお石茶屋、名物は梅ヶ枝餅です。 さだまさしの「飛梅」の歌詞を右に添付します。
心字池にかかる 三つの赤い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在
三つ目の橋で君が 転びそうになった時
初めて君の手に触れた 僕の指
手を合わせた後で 君は神籤を引いて
大吉が出る迄と も一度引き直したね
登り詰めたらあとは 下るしかないと
下るしかないと 気付かなかった
天神様の細道
裏庭を抜けて お石の茶屋へ寄って
君がひとつ 僕が半分 梅ヶ枝餅を喰べた
来年も二人で来れるといいのにねと
僕の声に君は 答えられなかった
時間という樹の 想い出という落葉を
拾い集めるのに 夢中だったね君
あなたがもしも 遠くへ行ってしまったら
私も一夜で 飛んでゆくと云った
忘れたのかい 飛梅
或の日と同じ様に 今 鳩が舞う
東風 吹けば 東風吹かば君は
何処かで想いおこしてくれるだろうか
太宰府は春 いずれにしても春
第4問 この城は何城でしょうか? 1問から3問の問題の傾向から考えて下さい。
答え
第2問の今治城と同じ、日本三大水城の一つ高松城(玉藻城)です。生駒氏が築城し、その後、水戸光圀の兄の松平頼重が治めた。もう一つの三大水城は豊前の中津城です。
写真は月見櫓、水手御門、渡櫓です。藩主はここから小舟に乗り沖で御座船に乗り換え参勤交代などに出かけました。 1問から4問まで全問四国の城でそろえてみました。
高松市にもたくさんのうどん店がありますが、私の押しは県庁西の「さか枝」(セルフ店)です。
最近食べたのは、昨年11月に東かがわ市にある六車(むぐるま)の「釜ぬきうどん」。
第3問 ➀城下の港に、この灯籠があるのは何城ですか? ② 灯籠の名前は、何ですか?③ 江戸時代、この港は何で賑わったのでしょうか?
答え ➀ 日本一の高さの石垣(総高)に、現存天守が建つ丸亀城(香川県)です
② 4千人近い寄進者のうち最高額を寄進した江戸の豪商塩原太助の名にちなんで「太助灯籠」の愛称で親しまれている。
③ 浪速からのこんぴら参りの上陸港として賑わった。
この灯籠の少し北には、うちわ貼り体験のできる「うちわの港ミュージアム」があります。
そして少し東には肉うどんで評判の「麺処 綿谷」があります。
丸亀城近くのアーケード商店街にあった「本格手打ちうどん つづみ」は、おにぎり一個サービスでしたが、昨年少し離れたところへ移転して、業態も一般店からセルフ店に変わり、おにぎりのサービスも10時までのモーニング限定となったようです。
第2問 この広い堀を持つ城は何城でしょうか?
そして、この堀に時折姿を見せる大きな魚は何でしょうか?
答え
愛媛県の今治城です。日本三大水城の一つ。宇和島城と同じく藤堂高虎が築城。
天守は模擬天守です。
堀は海とつながっているため鯛やヒラメ、エイなどが見られますが、時折サメも姿を現します。
今治の名産はタオルや伯方の塩などですが、今治のソウルフードは焼豚玉子飯(やきぶたたまごめし)です。まかない飯であった焼豚玉子飯を商品化した元祖と言われる「白楽天」は今治駅と今治城の中間にあります。お城見物の前後にどうぞ。
第1問 この現存天守は何城でしょうか。
第1問の答え 宇和島城
この天守は藤堂高虎が作った初代天守ではなく、宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666)頃に新造したもの。天守は標高約80mの山頂に立つので平山城の感じがしますが、水城として知られ、江戸時代は総郭の一部は海に面していました。
伊達家の城だけに、一重目の比翼千鳥破風、二重目の千鳥破風、三重目の軒唐破風に加えて唐破風の玄関と、五つの破風を身にまとったダテな天守です。
宇和島のグルメは鯛めしですが、隣町愛南町の深浦漁港にある愛南漁協の市場食堂の、カツオと鯛(鯛は養殖)の刺身は、遠い、店へ入るまで30分待ちを考慮しても、食べる価値はあります。
第2問は明日
第1問の答え 宇和島城
この天守は藤堂高虎が作った初代天守ではなく、宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666)頃に新造したもの。天守は標高約80mの山頂に立つので平山城の感じがしますが、水城として知られ、江戸時代は総郭の一部は海に面していました。
伊達家の城だけに、一重目の比翼千鳥破風、二重目の千鳥破風、三重目の軒唐破風に加えて唐破風の玄関と、五つの破風を身にまとったダテな天守です。
宇和島のグルメは鯛めしですが、隣町愛南町の深浦漁港にある愛南漁協の市場食堂の、カツオと鯛(鯛は養殖)の刺身は、遠い、店へ入るまで30分待ちを考慮しても、食べる価値はあります。
第2問は明日