タイトル:写し鏡
作家:島﨑 良平(島崎 良平)
展示会:島﨑良平 個展「あわい(間)」
購入日:2026年4月20日
サイズ:398×285mm
技法画材:和紙に墨、アクリル、純金泥
あなたは「鏡を見る女性」、「鏡に映る女性」どちらを先に見ましたか。もし鏡を見る女性を先に見た場合、一拍おいて鏡に映る女性から「今、私をのぞき見していましたね」と、たしなめられた気分になります。反対に鏡に映る女性を先に見た場合はどうでしょうか。私は一拍おいて鏡を見る女性は誰なのか不安がよぎりました。なぜなら彼女は別の姿をしているからです。鏡に映る女性は櫛と笄(こうがい)をさし、髪型は江戸時代を思わせます。一方、鏡を見る女性はポニーテールにリボンをつけていることから、現代の装いです。和服と学生服という違いもありますね。
二人はどのような関係なのでしょうか。過去と現代を繋ぐ鏡と考えれば、現在の自分と過去に存在した自分と解釈することもできます。また、鏡に映った姿が本当の自分であり、鏡を見ているのは現し身にすぎないと解釈できるかもしれません。しかしながら意外にも誰でもない誰かと解釈するのも一興であると思いました。今回の個展「あわい(間)」のメインビジュアル《楊貴妃とお多福の修練》の二人は姉妹とも友人とも異なり私たちの社会では二人の関係性を定義するのは難しいと感じました。それでも二人が並んで座り、楊貴妃は笛を奏で、お多福がその音色を聴きながらおにぎりを食べる場面に違和感はありません。赤の他人であっても、全くの無関係ということはありえず、何かの拍子で触れ合い交差する。あわい(間)とは不特定多数のものたちが出現しては消えていく、身の回りで生と死が繰り返されることで意識するもの、すなわち仕切りのような境界でありながら、一条の生糸のように互いを結び付ける概念のように思いました。「鏡を見る女性」と「鏡に映る女性」は何かの縁で交差したのかもしれません。
映るとは反射や投影により姿形を表す場合、写るとは写真のように姿形が記録として残る場合に用いられます。写し鏡とは他人の言動や態度は自分の姿であり、人のふり見て我がふり直せという教訓として使われますが、本作では他に意図があると考えてよいでしょう。隠していた本当の姿とも考えられますね。また、写るは記録、保存することで場所を移動して再生できることから「取る」というニュアンスがあります。鏡の世界に自分が吸い寄せられる、又は鏡に写る者と入れ替わってしまう、そんな怖さが秘められていると考えては如何でしょうか。
《楊貴妃とお多福の修練》(部分)
島﨑良平さんは浮世絵など古典をモチーフの源泉とすることが少なくありません。本作は喜多川歌麿の《襟おしろい》を引用したと考えられます。《襟おしろい》はおしろいを塗る仕草に艶やかな美しさを見出した作品です。鏡を使ったのは後ろ姿を描きつつ、顔を見せることができる構図の工夫と思われます。《襟おしろい》には怖さは感じられません。そのため島﨑良平さんの《写し鏡》は喜多川歌麿のオマージュというより、構図の妙を引用し、換骨奪胎した作品に思いました。二つの作品を比べて見ましょう。鏡の形は楕円と四角という違いがあります。《襟おしろい》は鏡が大きく見切れているのに対し、《写し鏡》は見切れる箇所は小さく、鏡の隣に一輪挿しが描かれています。また、《写し鏡》は肌の露出が多く、腰元まで描かれているため、全体としてゆったりとした空間になっています。一方、《襟おしろい》は余白が少なく賛が入っていることもあり、空間が凝縮しています。《写し鏡》は鏡の女性が鑑賞者に視線を合わせているのも大きな違いですね。
見逃せない点は右手の指です。中指から小指はくっついていますが、人差し指は離れていることに気づきました。アダチ版画研究所の再現作品では指の跡を明確に表現しています。江戸時代に摺られたものは経年劣化のため分かり難いですが、おしろいを塗っている部分にだけ白の絵の具が摺られるなどの工夫がされていたそうです 。この指の動きを実際にやってみると意外と窮屈です。島﨑良平さんの《写し鏡》の女性はおしろいを塗っている場面ではありません。ならば指の動きは変えることができますが、喜多川歌麿を踏襲したのはその仕草に艶やかさが感じたからだと思います。もし4本の指が揃ってしまうとツボを押しているように見えてしまうかもしれません。それは興醒めでしょう。彼女は自分の体に血が流れていることを確かめているように感じました。また、右手のゆったりとした曲線も意図した線の引き方です。喜多川歌麿の作品と比べても手の甲から指は弧を描くようなラインになっています。儚さや可憐さを一つの線として表現されていると思いました。
喜多川歌麿の「襟おしろい」はパブリックドメインの画像が見当たらないので、「合わせ鏡のおひさ」を紹介します(メトロポリタン美術館所蔵)。「襟おしろい」が気になるという方はアダチ版画研究所のサイトを是非見てください!
本作の悩みどころは鏡をどのように描くかという点です。ショッピングサイトで卓上ミラーと検索するといろいろな形の鏡が販売されていることから、喜多川歌麿の《襟おしろい》をオマージュして丸みを帯びた形にしても現代の風景として違和感はありません。それでも四角形にしたのは画面に直線を入れることで構図を引き締めるとともに、内と外の結界を強く表現しているためと推測しました。顔や体の曲線をより艶やかにみせる効果があります。銀色の枠もポイント。現代の卓上ミラーであることを示すだけでなく、ひかりに照らされて輝くことで日常と非日常の境目であることを印象付けることができます。
鏡には一本の赤い紐が掛かっています。また、青緑の一輪挿しに桔梗と思われる花が生けられています。もし赤い紐や花が描かれていないとしたらどうなるでしょうか。おそらく鑑賞者の視線は二人の女性を交互に眺めて終わってしまうはず。居心地の悪さを感じてしまうかもしれません。赤い紐と花があることで、鑑賞者の視線を逸らすことができます。一旦、二人の女性から視線を外すことで、適度な間が生まれるのです。しかも赤い紐は一輪挿しを回り込むように逆S字に曲がっています。鑑賞者は無意識に紐の流れを追いかけてしまう。直線と曲線の対比という点も見逃せません。紐の流れだけでなく、一輪挿しは丸みを帯びたものを選び、星の形をした桔梗はアクセントになります。
次に、配色に着目してみましょう。画面のうえは女性の後ろ髪と余白です。中央は背中の肌と白のブラウス。スカートはネイビー色とシンプルです。水玉のリボンは、櫛と笄の模様にリンクさせていますが、モノクロは地味に感じます。ここは意図的に色味を抑えたと思いました。もし赤や青を配色すれば、差し色としては有効です。しかし、必要以上に鑑賞者の視線を散らしてしまったでしょう。必要以上とは何か? 本作では女性の後ろ姿、鏡、そして一輪挿しと赤い紐と円錐の構図になっています。左下の配色を増やすのは円錐の構図を補完する効果があります。リボンに色を付けると構図が崩れてしまったでしょう。さらに鏡の中の背景色を変えることで空間や時間的な差異を感じることができます。
線とぼかしも本作の魅力です。肌の線は細くしなやか。ほのかな赤らみの美しさを引き立てます。それに対して白いブラウスの線は抑揚をつけています。迷いのない襟の線が特に素晴らしい。線描の妙が色気と怖さが同居する雰囲気を醸し出しています。髪の描き方に注目してみましょう。生え際やうなじに近い部分は、繊細な線で描かれているほか、髪の流れを補完するため線描が用いられています。しかし、全体としてはぼかしを重視しています。湯上がりの情緒や艶気を感じることができます。ぼかしの表現によって黒の重苦しさがなくなるばかりか、軽やかで柔らかい印象を与えることができます。リボンの白と黒はモンシロチョウと符合していることに気づきました。蝶は常世の国からの使いという信仰もあります。モンシロチョウが鏡にかかった赤い紐の上にとまっているのも何かを暗示しているように感じました。そして、鏡を見る女性のヘアピンにも小さき「おかめ」が隠れています。鏡を見る女性、鏡に映る女性、モンシロチョウ、おかめ、桔梗があわいを交錯しているように思うのです。(2026年7月20日)
喜多川歌麿《姿見七人化粧 鬢直し》(メトロポリタン美術館)と島﨑良平さんの代表作の一つ《夏の朝》