タイトル:酔余美人の幻の宴
作家 :島﨑 良平
画廊 :Gallery MUMON
展示会 :百騒一睡 島﨑良平 個展
購入日 :2022年12月10日
サイズ :366×481mm
技法画材:和紙に墨、アクリル、金泥
タイトル:酔余美人の幻の宴
作家 :島﨑 良平
画廊 :Gallery MUMON
展示会 :百騒一睡 島﨑良平 個展
購入日 :2022年12月10日
サイズ :366×481mm
技法画材:和紙に墨、アクリル、金泥
「どうも思うようにはいかない。なぜ辛いことばかりなのか。もしもあのとき。。。」と嘆く一人の遊女。漆塗りの三味線箱にもたれながら、見えぬものを見るような表情は、儚さと艶めかしさが混じり合う。もともとお酒には強くないのだろう、桜色に染まった頬は官能的というよりは、むしろ幼さが表れ愛おしく感じる。すべては酔いがもたらす仮初の遊戯なのだ。
耽美な夢の世界を描いた《酔余美人の幻の宴》は、葛飾北斎の《酔余美人図》を讃した作品であることは言うまでもない。左上から対角線上に流れるような姿勢、大きく広がる着物の裾、現代人の感覚からすると誇張とも感じる首の傾きは《酔余美人図》を引き継いでいる。より細かく見比べると、箱に乗せた右腕に左手で掴む姿勢は同じであるが、葛飾北斎の作品は、親指と人差し指の間で右腕を挟んでいる。また、右手は印を結ぶような凝った動きをしている(赤いリボンのようなものは三味線の指すりであろうか)。一方、島﨑良平さんの作品では、左腕はそっと右ひじに添えられているだけである。はだけた胸元を隠すとともに、箱の天板を宴会場にするためであろう。また、タバコを持たせているのは大きなアレンジである。北斎は手のひら、島﨑さんは手の甲と見える部分は逆転しているが、細やかな指の動きは共通する見せ所と言って良い。並べて鑑賞することができれば、さぞ面白い競演になろう。
葛飾北斎《酔余美人図》鎌倉国宝館にて2023.3.18~2023.5.7公開
遊郭の女性、特に花魁と言えば長煙管のイメージがあるが、タバコとしたのは何故だろうか。作者に尋ねたところ、JPS(John Player Special)というタバコの格好良さに惹かれたということであった。帯の隙間から金色のラインが入った黒い箱が少し顔をのぞかせているのが見えるだろうか。優雅で粋なタバコのパッケージである。別の観点から考えると、煙管ではなくタバコに替えることで現代性を感じさせる効果をもたらす。島﨑さんの作品は鈴木春信や葛飾北斎といった江戸時代の浮世絵を素地としているが、現代とリンクさせる作品が多い。当サイトMY ART ROOMで紹介している《鞠つきうた》の女子高生と童女もその一例である。さらに推し測ると、時代という概念を飛び越えた、連綿と続く普遍的な空間が、物語のように構成されていく特徴を持つ。もし煙管を持たせれば、鑑賞者はこの作品を江戸時代の場面と認識するだろう。しかし、紙タバコが日本に輸入されるのは明治20年(1887年)である。では、明治の文明開化や大正の浪漫主義に類するかと言えばそれも違う。箱の上の宴会を眺めると、女子高生の隣にはビールの空き缶が転がっているが、缶ビールの製造は戦後である(飲んだのは隣の親爺にしておこう)。そればかりか火鉢だけなく、電気ストーブが酔いつぶれた?女子に向けられている。一方で髷を結った奉公人らしき男性は柄杓で鍋をかき回している。いわばごった煮の状態であるが、それが愉快で楽しい。鑑賞者も分け隔てなく宴に参加できる。時代に束縛されない自由な宴とそれを見つめる遊女、在るものはすべて夢のまた夢なのだ。
北斎の《酔余美人図》は赤い酒器が描かれているが、島﨑さんの《酔余美人の幻の宴》では、丁稚はもとより宴そのものが酒器の代わりになっている。また、タバコを描くことで北斎よりも動きを感じる構図になっていると言えよう。タバコの煙は右へ左へと弧を描きながら上に登っていく。その流れは彼女の将来を暗示するように紆余曲折を辿る。そして、タバコの煙と対をなして垂直に伸びるのは、白磁に活けられた梅の枝である。煙と違って凛と伸びる姿は清々しく、穏やかな春の香りを漂わせてくれる。枝を眺める小鳥は悩みを持つこともない。遊女と異なり、気の向くまま飛び立つことができる。さらに、硬く冷たい純白の磁器に対して、柔らかく暖かみのある乳白色の肌という対比も見逃せない。女性だけに目を向けるとお酒で色づいた桜色の肌が目立つが、白磁の存在によって彼女がもつ生(き)の美しさが際立ってくる。着物の生地は紙の色とほぼ変わらず、磁器から着物、人肌と白が変化していく流れも面白い趣向である。
《酔余美人図》で描かれるモチーフは三味線箱と酒器のみであり、やや物寂しい印象は拭えない。年を重ねた浮世を生きる遊女の疲れを感じさせる。着物の線は太く、渋みのある色を選んでいる。視線は赤い酒器に向けられ、着物の裾と結ぶと三角形の構図が強調されていることに気づく。《酔余美人の幻の宴》は同じ構図を維持しながら、着物の裾はより丸く広がっており、たおやかな線で描かれている。北斎を出発点にしながら、かなり換骨奪胎した作品である
個展風景①
あらためて遊女に注目してみよう。江戸時代の着物では、女性の肌を強調して見せられるのは「うなじ」くらいであり、極端に首筋を曲げる表現が流行した理由の一つと思われる。現代でも「うなじフェチ」という人はいるであろう。この作品でも遊女の髪の生え際は魅力の一つである。しかし、正面から女性を描くと首筋は見えにくいもどかしさがある。単純に肌や生え際を見せるために首を傾けているのではなさそうである。黒箱の高さを調整し、女性の首筋を真っ直ぐに伸ばしたらどうであろうか。想像するに味気なくなってしまいそうである。首筋を極端に曲げるということは、鑑賞者からすると女性の顔は90度回転することになり、顔の認識力が弱まる。倒立させた顔は認識するのが難しく、目や鼻などの部位を変化させても検出できなくなることを、サッチャー錯視という。これに近い効果が生じているのだ。顔の認識力が弱まるということは、曖昧模糊とした遊女のやるせない感情、夢か現かわからない宴と共鳴する。
左上から対角線上に流れるような姿勢は葛飾北斎の作品を引用しているが、鑑賞者が女性に抱く印象はだいぶ違うように思える。島﨑さんが描く女性はたおやかで柔らかい。北斎との最大の違いは背中から臀部にかけてのラインである。北斎は首元から直線的に「着物の線」が伸びている。一方、島﨑さんの作品は、丸みを帯びた腰の曲線が強調されており、着物の線ではなく「人体の線」が強く意識されている。また、着物の帯も臀部を補完するようなラインになっている。さらに北斎には描かれていない膝元と足先が着物から垣間見える。より姿勢が想像しうる描き方になっているのだ。官能的でありながら清らかさが失われない、これこそが浮世絵の本質に思える。
個展風景②
着物に描かれているのは桔梗と白菊であろうか。ただし、菖蒲のようにすらりとした葉も見られる。活け花というより自然に咲く草花を連想させる。着物の裾には、渦を巻く川の流れが描かれている。一筋縄ではいかない人生の難しさを示しているのかもしれない。ねじれた帯は急流のように感じられる。着物の色調を抑えているのも良い。帯を白黒の線にしたのは大胆な選択である。華美な帯を纏わせたくなるが、形と線に焦点を当てるためだろう、宴を引き立ててくれる。野に咲く花と川を見下ろす小さな高台で幻の宴が催されているように見えてくる。宴もたけなわ、というより好き勝手にしゃべっている様子がまた良い。
キャラクターの配置も絶妙である。居眠りをしている丁稚によって鑑賞者の視線は下まで降りてくる。北斎の赤い酒器と配置は同じであるが、ワンポイントであり、趣を異にして面白い。着物をきれいに畳んでいるのが几帳面でやや意地悪い丁稚の性格がにじみ出ている。鑑賞者の視線は下に誘導されることで、遊女の着物の裾から顔を出している白鼠へとつながっていく。三味線箱の引き出しが少し開いているのも気になる。宴に興じる者たちは、箱の中からでてきたのだろうか。箱の側面に描かれた桜は誰も見ていない。いや近くにあるのに見えないのだ。宴のすぐ後ろに美しい桜は咲いている。(2023年4月24日)