タイトル:女と大蛇
作家 :島﨑 良平(島崎 良平)
場所 :Gallery MUMON
展示会 :島﨑良平 個展「八百万の少女」
購入日 :2025年5月10日
サイズ :355×289mm
技法画材:和紙に墨、アクリル、金泥
タイトル:女と大蛇
作家 :島﨑 良平(島崎 良平)
場所 :Gallery MUMON
展示会 :島﨑良平 個展「八百万の少女」
購入日 :2025年5月10日
サイズ :355×289mm
技法画材:和紙に墨、アクリル、金泥
彼女は何と闘っているのであろうか、いや、そもそも闘っているのであろうか。彼女と言ってもその瞳を見れば普通の人間ではない。左手に持つ白い刃は大蛇の上顎を貫通している。しかし、その刃は大蛇を殺すためではない。口を開けたままにさせるためだ。右足は毘沙門天が邪鬼を抑え込むかの如く下顎を踏みつけている。一歩間違えれば大蛇の牙が刺さりかねない。また、蛇の鱗から分泌される油に足を滑らせないよう足の指先に力を入れている。彼女はいとも簡単に大蛇の口を広げているが、蛇は口を開ける力に対して噛む力の方が圧倒的に強い。この姿勢で口を開けたままにするとは相当の怪力の持ち主なのだろう。もっとも、その体はしなやかさを感じるものの筋骨隆々というわけではない。情念の表れである。浮世とは力の尺度が違うのだ。彼女は右手に宝珠を持っていることに気づいた。玉葱のような形をした宝珠は仏の教えの象徴であり、一般的には願いを叶える宝物とされる。その宝珠を大蛇の口に投げ込もうとしている。真っ直ぐ伸びた人差し指は印を結ぶようにも見える。単なる薬であればしっかりと握りしめ、吐き出されないよう勢いよく投げるはず。宝珠に念を込めているのかもしれない。
私は大蛇を退治するのではなく、鎮めようとしているのだと思った。情念の世界であれば肉体は仮の姿でしかない。死が終わりでないとすれば退治することは無意味である。彼女は自らを鎮めようとしているのではないか。彼女の瞳は大蛇と同じ形をしていることから同族とも解釈できる。ただ、作者とお話したところ、彼女と大蛇は闘いつつも「じゃれている」イメージもあると言うことだった。昔話で有名な金太郎が鯉を捉えたり、熊と争ったりする場面を念頭に置いたものである。「じゃれている」という言葉には不意を突かれたが、善悪ではない純粋なぶつかり合いと考えると合点がいく。この作品からは大蛇が悪とは感じられない。闘うという事実が先にあるのだ。力の加減を知らない子どもが昆虫や小さい生き物を殺してしまうことを連想させる。意味の前に事実があるというのは、当然かもしれないが極めて逆説的である。激しく争いながら意味はなく、互いにじゃれている。浮世の儚さは情念では滑稽に変容するならば、なんと愉快なことであろう。
宝珠
写意を捉えるには、客観的に絵画の構成を考察するのが近道である。この作品は彼女の頭を頂点に三角形の構図を基調としている。すらりと伸びた右腕は山の稜線に見える。大蛇の頭は鋭い尾根、荒々しい岩は大山と変貌する。蛇の体のうねりは雲海にたとえられよう。彼女が首に巻く赤い紐、乱舞する髪、跳ねる腰巻は山の湯気である。闘う場面は龍虎図のように対角線上に配置されるか、ボクシングのように平行した位置になるのが一般的である。上下では優劣が明白になってしまうからだ。遠くからこの作品を眺めてみると、大蛇は岩と重なるため視認し難く、一方で彼女の存在は飛び出してくるように感じる。やはりこの作品は闘っているのとは意味合いが異なると思う。
タイトルは《女と大蛇》である。しかし、イメージする大きさは鑑賞者によって違うのではないか。一つは、ものすごい大きな蛇と巨人の女である。山を創る神話のような世界である。もう一つは人間たちの目に映らない小さな世界である。「借りぐらしのアリエッティ」のように蛇(マムシ)は普通の大きさであるが、彼女が人間の手のひらサイズというパターンだ。独特の岩と植物は、曽我蕭白《群仙図屏風》をモチーフにしている。植物の名称は特定できなかったが、葉の形が明確に視認できるということは、女や蛇が山のように大きいということはないはずである。しかし、山のように大きいという感覚はあながち否定できない。遠くから見れば赤い葉は群生する樹木にも映る。眺めれば眺めるほど大きさが分からなくなるのだ。マムシの体長は40cm~60cmなので、現実の世界で考えると植物の葉はマムシの目よりも小さいことになってしまう。女は人間と同じくらいとし、大蛇なのだから蛇が極端に大きいと解釈すれば辻褄は合う。だが、私にはどこか腑に落ちない。大きさの感覚を狂わせる要因は背景にもある。作者に尋ねたところ、背景の水色は海をイメージしているということだった。額縁も海を意識して青味を帯びたものを選んでいる。マムシに限らず蛇は森や水田や沼地に多く生息しており、マムシに海の組合せは珍しい。もし背景に樹木を連想させる色が置かれていれば、現実の世界と連動した大きさをイメージしただろう。水色は空間に広がりをもたらす。鑑賞者によっては空を想像したかもしれない。いずれにしても背景の水色は三角形の構図を強める効果がある。ものすごく大きいか、はたまた小さきものと考えた方が情念の世界に相応しいと思うのは私だけであろうか。
個展風景①
彼女は鬼のようなイメージで描かれている。閉じた口の中には刀のような牙が隠れているのかもしれない。作者曰くもっと赤い肌にすることも考えていたという。その姿も見て見たいところではあるが、島﨑良平さんの描く女性は透き通った肌から感じられる血色が魅力である。陰影ではなく血色が肉感的なリアリティをもたらす。体の火照りによって赤い紐は宙に浮いているのかもしれない。冷静に蛇と対峙しながらも彼女の心はたぎっているのだ。彼女の肌を赤銅色にすれば、蛇の赤い口の存在感は薄まってしまうだろう。さすれば今回の選択は正しかったように思う。
他の作品と比べると彼女の輪郭線はかなり太い。《月花蝶の人形遊戯》は蜘蛛の糸のように細い線とは対照的である。荒々しい岩の表面に負けない気迫のある体の輪郭線は本作の見所である。腰巻の線も迫力がある。人物を阻害しないよう薄墨を用いているが、実に歯切れの良い明快な線である。その中でスカートの縁の墨は濃く力強いものの、白線はいつものように細いことに気づいた。島﨑良平さんの作品は、過去と現代、そして浮世が繋がっている。現代を象徴するスカートの白線は変わらないのが面白い。意外なところに普遍性が表出している。
《月花蝶の人形遊戯》(部分)
水色の額は背景の海と繋がる
次に蛇に注目してみよう。まずはとぐろを巻いているのではないという点である。とぐろは円錐に近い形なので、岩がなくとも三角形の構図で描くことはできる。一方、本作のように画面を飛び出した胴体はどこに繋がっているのか分からず全長を想像し難い。安土桃山時代の障壁画でも用いられる大きさを誇張させる定番の手法である。また、蛇のうねりが複雑な流れを生む。鱗よりも腹の方が目立っているのも興味深い。弱点である腹を見せているのは劣勢になっているとも、最後の力を振り絞って彼女を巻き付けようとしているとも解釈できる。さらに絵画として考えると構図の流れを邪魔しない効果もある。岩は濃い墨によって鋭さと硬さが表現されている。そこに鱗が重なると蛇と岩が区別しにくく、だからこそ蛇としては保護色になるわけだが、鱗と岩が絡むと画面がうるさくなってしまう。丸みを帯びた蛇腹の線は一定のリズムを刻む。蛇の柔らかい腹は岩の硬さと対照的である。この作品は女と大蛇が主人公であるが、闘いの舞台でもある岩場をどう生かすかが作品を左右することが分かった。
それにしても彼女の年齢はどのくらいなのか。外見は若いものの鬼の子なならば人間の感覚で判断することはできない。100歳を超えているとしても納得するはずだ。しかし、私には肉体そのものは幼さを残しているように感じられた。つまり、年齢を重ねても老けないのではなく、肉体は滅び再生していくが、魂は永遠に消えることができないのだ。彼女にとって体は仮宿のようなものである。人間ならば誰もが羨ましいだろう。一方で、それはある種の業である。迷いのない行動は子どもでも大人でもない彼女の宿命のように思う。(2025年9月28日掲載)
個展風景②