タイトル:月花蝶の人形遊戯
作家 :島﨑 良平(島崎 良平)
場所 :Gallery MUMON
展示会 :島﨑良平 個展 地と花。
購入日 :2023年9月15日
サイズ :810×343mm
技法画材:和紙に墨、アクリル
タイトル:月花蝶の人形遊戯
作家 :島﨑 良平(島崎 良平)
場所 :Gallery MUMON
展示会 :島﨑良平 個展 地と花。
購入日 :2023年9月15日
サイズ :810×343mm
技法画材:和紙に墨、アクリル
触れれば消えそうな、されど思念は残り続ける。「死に近い生」と「生に近い死」が交錯する「あわい」。彼女らはそこに居るのかもしれない。《月花蝶の人形遊戯》のタイトルからすれば、月花蝶は生、人形は物である。しかし、月花蝶はその美しさとは裏腹に死を纏っているように思う。むしろ死への近さが美しさを引き立てている。その理由の一つは線にある。大きさで言えば手に持つ人形の方が小さいため、当然ながら線は細い。しかし、比率で考えると、月花蝶の線の細さが際立つ。特に顔の輪郭線はひとすじの絹のようである。やや膨らみのある頬から顎にかけ、一瞬その線は消えかけてしまう。うなじや胸の線を《酔余美人の幻の宴》と比べれば違いは明白である。耽美なる「たおやかな線」は死を予感させるがために美しい。
月花蝶はその名の通り、帯の代わりに蝶の羽を持つ。華やかながら短命の蝶は、西洋画において空虚を意味するヴァニタスのモチーフとして定番であるが、揺らめくように飛ぶ姿から魂にも喩えられる。蝶は短き命と永遠なる魂の象徴とされる。死と生をリンクさせるに相応しいモチーフと言えよう。しかし、蝶を擬人化するのは難しい。派手すぎると安っぽくなり、地味すぎると蝶を取り込む意味が薄れてしまうためである。月花蝶の羽は鑑賞者の印象に比べ、意外と大きく描かれているように思う。蝶の羽であることは見た瞬間に気づくが、鑑賞者の視線は手に持つ人形や月花蝶の表情に移りやすい。ところで、この蝶はオオゴマダラという種類である。東南アジアに生息し、日本では沖縄諸島以南の南西諸島に分布し、羽を広げると13~15cm程度になる日本では最大級の蝶である。もっとも図鑑を見て見ると、かなりアレンジされていることに気づく。最も特徴的なのは尾状突起の長さである。蝶や蛾の中には極端に長い尾状突起を持つ種も存在するが、オオゴマダラに限らず、日本で見ることができる蝶にこのような尾状突起を有するものは見当たらない。しかし、月花蝶の羽は自然であり、むしろ尾状突起が短ければ、バランスが悪くなってしまうのではないか。
個展風景①
あらためて月花蝶を観察してみよう。日本人離れした顔の小ささで、八頭身のモデル体型を超えて非現実的でもある。実は江戸時代の浮世絵にもこのようなスタイルは多く見られる。西洋の理想的な肉体美の概念に倣ったものではなく、美意識の積み重ねでこのような描き方に辿り着いたのかもしれない。葛飾北斎はもとより、江戸時代前半の菱川師宣の《見返り美人》も膝を曲げていることを考慮すると、平均的な日本人よりは小顔である。さらに遡ると源氏物語のような絵巻物に登場する女性は、裾を引きずるくらい長い着物を召している。つまり、実際の体格は別として、顔は小さく、下半身は長く見える方がバランスに優れ、美しく感じるのかもしれない。話を月花蝶に戻そう。尾状突起は着物の長さとリンクし、調和を生み出している。漢字の払いのように心地よい流れである。尾状突起と着物の隙間にできる楕円に近い空間も鑑賞者の視線を引き寄せる効果も持つ。月花蝶の羽は大きくは開いていない。生命が萎れていくように感じられる。そのため、尾状突起がなければ、蝶の羽という印象が薄れてしまった恐れもあっただろう。また、実際のオオゴマダラに比べると、羽の文様は淡く感じる。その一方、蛾によく見られる目のような黒の斑点が目立つ。鑑賞者は見られているという感覚になる。これは見る者を画中に誘う効果もある。さらに仄かに朱の色が施されていることにも気づくだろう。羽に血色を感じることができるのだ。蝶の羽は飾りではなく、月花蝶そのものなのである。また、月花蝶の額からは蝶の触覚が伸びている。遠目からは髪の毛のように自然に見える。
類種のアカボシゴマダラ
人形を持つ月花蝶は観音や菩薩を彷彿とさせる。手に注目してみよう。右手は人形を乗せている。左手は赤い紐を摘まんでいるが、遠目からは人形を包み込むように支えている。この「乗せる」「包む」「支える」という所作に慈しみを感じ、観音や菩薩のように思えてくるのだ。さらに、月花蝶の視線、人形を乗せる右腕、そして人形を結ぶと小さな三角形が構成されることに気づいた。ポイントは右腕がやや右上がりになっている点である。もし右腕が真っ直ぐ横に伸びていれば、慈しむという感覚が弱くなってしまっただろう。僅かな所作の違いが印象を変えてしまう。また、蝶の羽のラインは右腕の動きを補完してくれることも見逃せない。この作品は縦長であり、梅と月花蝶が立つ縦のラインを基本としつつ、蝶の羽から右腕を通って人形へと続く右上がりのラインを支えとしている。全体的な構図の美しさの鍵となる。
次に、もう一人の主人公と言って良い人形について考えてみよう。江戸時代の装いである月花蝶に対し、人形は現代の女子高生の制服である。そのため時代を超えて両者は結びついているものと推測される。もっとも人形である女子高生は、現実社会とは異なる作者の中の物語で生きているように見受けられる。実存する女子高生が転生したわけではなく、月花蝶も人形も作者が描く御伽草子に生を成す存在のように思う。繊細さはこの作品の魅力であるが、人形は特に精緻に描かれている。肉眼でも視認するのが難しいのだが、靴下の口ゴムの下に緑色の細い線がある。これはイーストボーイというブランドのロゴである。芸が細かい。スカートのウェストをくるくる巻いているのも気になる。実際にこのようなスタイルが流行る時期もあるようだ。スカートを切ることなく、場所に応じて丈を変えることも出来そうである。ルーズソックスも流行り廃りがあるが、細く見せたい部分を曖昧に隠してしまうという点で共通している。悪いことを逆手に取る「あえての思想」とも説明できそうだ。これもファッションの面白さである。
人形であるはずの女子高生は、眠っているに過ぎないように見える。鑑賞者によっては、だらりと伸びた腕と丸まった手から魂が抜けていると想像するかもしれない。いずれにしても肉体は健全であり、何かの拍子に元気に走り出しそうである。むしろ月花蝶の方が死に近い存在と感じる鑑賞者も多いだろう。実は《月花蝶の人形遊戯》には対になる作品がある。今回の個展「地と花。」に出品されていた《人形と少女》である。これは女子高生が人形である月花蝶を持っており、立場が逆転している。しかも、青い瞳の女子高生はどこか浮世離れしており、影が薄い。一方の人形とした月花蝶はどうであろう。不思議とこの作品の方が生々しい。合掌する手、女子高生に支えられる脚はまさに人形である。しかし、月花蝶を見比べると、人形であるときの方が線はしっかりしている。単純に線が太い細いというのではなく、強弱と表現した方が正確であろう。抑揚であったり、わずかな濃淡であったり、流れが持つ違いなのである。もう一つ、瞳の色が違うことにも気づいた。月花蝶は淡いグリーンの瞳であるが、人形では金色の虹彩に瞳孔の黒い点が打たれている。もう一度、本来の月花蝶の瞳に注目してみよう。瞳孔は明瞭に描かれていない。心ここにあらずといったように人形を見つめている。
《人形と少女》
さらに人形のディテールを観察していこう。《人形と少女》の女子高生は、水玉のリュックを背負っている。いつの時代に流行ったのだろうかというデザインであるが、不思議とこの少女に似合う。葉っぱと目がついた謎のアクセサリーも気になるところだ。しかも、目を凝らすと《月花蝶の人形遊戯》の女子高生も同じリュックであり、アクセサリーも描かれている。月花蝶が左手に持つ赤い紐のようなものは、女子高生のリボンであることがわかるだろう。注意深く観察すると、赤いリボンにある黄色い線やフックもしっかりと描かれている。細やかな描写には驚嘆せざるを得ない。おそらく《人形と少女》を知らなければ、赤いリボンを認識することは難しい。月花蝶が持つ赤いリボンは、女子高生の魂や心臓のようにも感じられるが、それはあながち誤った解釈ではないように思える。この赤いリボンは彼女を蘇生させる祭器のように思えてくるのだ。
個展風景②
月花蝶の背景にある円は月のように輝く。月そのものにも見える。しかし、梅の枝が描かれていることから、円窓なのだろうか。そうすると梅は外から中に飛び出していることになってしまう。この円環は生と死をつなぐ観念的な存在と思える。生と死は一方方向ではなく行き交うものであり、円環はその象徴となる。よく見ると円の右側は線が失われている。これは具体的なものではないこと意味するだけでなく、月花蝶の顔を邪魔しないためと考えられる。もし円の線が月花蝶の頬まで明瞭に引かれていれば、うつろな表情が台無しになってしまう。おぼろげな空間にすることで、人形の細やかな描き込みが映える。梅の枝ぶりも良い。三日月のような形をしながら、枝先はすっと天を衝く。墨の濃淡は梅が生きてきた証のように感じられてくる。枝には二羽のメジロがお互いを見つめてとまっている。恋の駆け引きか、縄張り争いの牽制か。そこにもう一羽のメジロが現れる。月花蝶の髪飾りである。このメジロの視線は墨絵の二羽には向けられていない。存在を認識していないのだろうか。しかし、高い枝にとまるメジロは月花蝶のメジロに気づいているようにも感じられる。背景のグラデーションも心地良い。月明かりと解釈するのが自然であろう。足元は夜の暗さがある。抽象的な空間ではなく、野原や川べりのように感じられる。もし生と死を天秤にかけるのであれば、わずかに生に傾く。この作品は死に魅了されるがために、生が色めくように感じられる。円環の色は下地の色に近い。黄色みを帯びた空も、月明かりの円環も月花蝶の白さを引き立てくれる。
この作品の全体像は、葛飾北斎の《春秋二美人図》に由来する。葛飾北斎と言えば富嶽三十六景に代表される版画のイメージが強いが、肉筆画も多くの傑作を残しており、美人画にも秀でている。出光美術館の《春秋二美人図》の解説には「雲に遮られながら差す月明かりの下、女郎花が咲く平原を背景に虫籠を覗く娘を描きます」[1] とある。虫かごと人形は異なるように思えるが、囚われの命という点で共通している。美人図も月花蝶も儚き命に思いを馳せているのだ。自分の身と照らし合わせているのかもしれない。背景の月明かりや平原という解釈も合点がいく。華やかな帯は蝶の羽に置き換えらえているが、もっとも特徴的なのは着物の柄であろう。下にある着物の花柄が透けて見える [2]。また、赤いひだのように見える襦袢、葛飾北斎の美人画ではよく描かれているが、他の作者では類例はあまりないと思われる。実際にこのような襦袢の類があるのかは分からないが、絵画としてはアクセントに優れている。鑑賞者の視線を受け止める効果を持つ。曲線や直線は作りやすいが、このようなギザギザした形を入れるのは難しい。さらに《月花蝶の人形遊戯》では着物に梅の枝を描き、アレンジしている。葛飾北斎の《春秋二美人図》は双福であり、春の着物の柄はかなり大振りなため、秋は控えめにしたとも推測できる。一方、《月花蝶の人形遊戯》は着物に描かれる枝と背景の枝がリンクし、行き交うようにも思える。解釈の幅が作品の面白味を深めることは言うまでもない。今回の個展のタイトル「地と花。」は、「死と生」に言い換えられる。月花蝶は、葛飾北斎の美人画に比べれば艶めかしく描かれているが、どこか清らかに感じられる。純粋に官能性を追い求めるほど、死の影が伴走してくる。それは美しくもあり、滑稽でもあり、儚く、愛おしい。島﨑良平さんの作品は、浮世を生きる者への処方箋なのだ。(2013年12月30日)
水戸偕楽園の梅
[1]https://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/ukiyoe/04.php
[2]秋ということからすれば、柄は梅ではないのかもしれない。秋に咲く花と言えばコスモスであるが、日本で広まったのは明治時代である。