タイトル:黄磁鳳凰図屏風
作家 :牟田 陽日
展示会 : SENSORIUM センソリウム
企画 :日本の美術工芸を世界へ実行委員会
販売 :阪急阪神百貨店
会場 :泉涌寺
購入日 :2025年11月12日
種別 :磁土
サイズ :H44.7×W22.8×D34.6cm
タイトル:黄磁鳳凰図屏風
作家 :牟田 陽日
展示会 : SENSORIUM センソリウム
企画 :日本の美術工芸を世界へ実行委員会
販売 :阪急阪神百貨店
会場 :泉涌寺
購入日 :2025年11月12日
種別 :磁土
サイズ :H44.7×W22.8×D34.6cm
鳳凰が棲む場所
猟師は自分が山で迷うとは夢にも思わなかった。街はおろか集落にさえ足を運ぶことは少ない。人生の大半を人里離れた山中で暮らしてきた。知らない場所などないはずである。「川があるのか」どこからともなく聞こえてくる水の音に猟師は独り言ちた。猟師は胸騒ぎを覚えながら足早に進むと、見たこともない二羽の極彩色の鳥が対岸に佇んでいる。神の使いか…と困惑しながらも猟師である体は自然と矢をつがえていた。しかし、それを放つことはなかった。その鳥が人間の夫婦のように思えてきたのである。
鳳凰はもともと皇帝を表す鳳、皇后を表す凰の雌雄一対の存在である。狩野探幽《桐鳳凰図屛風》や狩野常信《鳳凰図屏風》は雄と雌を明確に意識して描かれている。両者は江戸幕府の御用絵師であることから、天下太平の象徴として本来あるべき鳳凰図を描いたのかもしれない。その後、鳳凰は一羽でも描かれるようになった。伊藤若冲の《旭日鳳凰図》は有名である。また、葛飾北斎の《龍図・鳳凰図》のように龍と鳳凰で陰陽を表すことも一般的になった。
狩野常信《鳳凰図屏風》「藝大コレクション展2025 名品リミックス!」
本作の鳳凰は、猟師が弓で射ることを躊躇ったように人間と同じ感情を持つように描かれているのが最大のポイントである。鳳凰の雌雄の描き分けに明確なルールはない。尾羽や冠に違いをつけることもあれば、空を舞う鳳(雄)に対して桐に止まる凰(雌)という構図で区別されることもある。屏風という大きな空間を活かすためには、主役である鳳凰を対角線上に離れて配置する構図は手堅い。それに対して本作では二羽がぴったりと寄り添っている。偏見かもしれないが大きくどっしりと構えた個体が鳳(雄)、対角の小さい首を曲げて相手を見つめる個体が凰(雌)と思われる。逆であったとしても仲睦まじいことに変わりはない。まるで川べりで夕涼みをしているような場面である。情愛の象徴として鳳凰が描かれているよう思う。
鳳凰だけではなく、樹木も二本が一対になっていることに気づいた。長年の風雪に耐え大きく曲がった老松の隣には一本の樹木が寄り添うように描かれている。古来より鳳凰は桐に止まるとされていることから桐であろうか。桐はスペード型の葉が特徴である。二本の木は種類が違うものの濃淡や大きさから親子のような雰囲気である。画面左にも二本の木が並んでいる。こちらも松と桐であろうか。小さい松は若いことから、桐も若木なのかもしれない。すらりと真っ直ぐに伸びた姿が清々しい。二人はさしずめ兄弟のような関係に思う。作者が意図しているかは別として、鳳凰は夫婦、樹木は親子や兄弟という家族間の情愛が潜在的なテーマとして宿っているように感じた。さらに、遠くに見えるのは蓬莱山であろうか。蓬莱山とは東の海にある不老不死の霊薬をもつ仙人が住むとされる中国に伝わる霊山である。剣岳のような峻険な山として描かれることが多いが、模範となる様式はない。本作では二つの峰から成り立っている。どこか寄り添っているように感じられる。遠近感を生み出すためのリズムや構図のバランスをとるのはもちろん、この蓬莱山は連綿と続く情愛を意味しているのかもしれない。万物は「対」である。
この作品を解釈するうえで、悩むのが大きな黒い影である。画面手前に大きな岩を描き遠近感を表す構図は珍しくはない。しかし、本作では川原にある岩も筆致を強調して描かれている。そのうえで抽象的な黒い影を大胆に配置しているのだ。ここで忘れてならないのは本作が絵画ではなく立体作品という点である。西洋画の額や日本画の表装はなく、美術館ならケースの台にそのまま載せられて展示される。つまり作品とケースの台が直に接触することになる。もしこの黒い影がなければ作品に描かれた世界が唐突すぎて違和感を覚えかねない。また、湾曲させることで倒れないように成形しているものの、画面の下に明るい色を配置すると視覚的に弱々しくなり不安定に感じてしまう。さらにこの黒い影は桃源郷に入るためのトンネルとして機能している。猟師が山の中を何時間も彷徨いながら辿りつたように鑑賞者も桃源郷に立ち入るための旅路が求められる。すなわち、この黒い影は桃源郷に至るまでの時間と空間を曲げて繋ぐ存在といえよう。黒い影は、牟田陽日さんのデザインの凄みが端的に表れされている。破壊的でありながら、実に創造的なデザインである。
造形を考える
本作は造形も大変面白い。おそらくこの作品を見た人の多くは屏風をイメージするだろう。タイトルは《黄磁鳳凰図屏風》である。画面に凹凸が生じるという意味では屏風に似ている。美術館では屏風を均等にジグザグの形にして展示しているが、屏風は間仕切りとして使われるものであるから、部屋や用途に応じて形を自由に変形させて設置することができる。角度に緩急をつけるのはもちろん、例えば六曲の屏風であれば、隣り合うパネル(扇)の一か所を180度開いても倒れることはない。逆に、極端に曲げることで正面から見ても視界に入らなくすることもできる。思いのほか屏風は自在に形を変えられるのだ。また、巻物も日本美術において特筆すべき形態である。巻物は本来、机の上で少しずつ巻き取りながら鑑賞するものであるが、美術館では数メートルにわたって巻物が広げられていることも珍しくない。するすると広げられていく巻物は壮麗である。さらに扇子も洗練された形として挙げたい。扇骨に貼られている紙や布の部分である扇面は一つの様式美として完成している。俵屋宗達の《扇面散屏風》のように幾つもの扇面を貼付した屏風もある。
狩野探幽《桐鳳凰図屏風》、雲谷等璠《孔雀図屏風》「まだまだざわつく日本美術」(サントリー美術館)
この作品は屏風、巻物、扇子という日本美術の原形を基に、磁土の性質を踏まえた新しい造形美を創造することを意図しているのではないか。鳳凰や松などの絵図に目を奪われがちであるが、そもそも器や壺ではなく用途を離れたオブジェに描くことは挑戦的である。立てられるように右側は大きく湾曲し、翻っている。この捻じれは一般的な屏風よりも深い。左下も曲げることでバランスを保っている。真上から覗くとかなり薄く感じられるが、思いのほか安定感があり、大きな地震でもない限り倒れる心配はない。基本的な構造は屏風にあるとしても、造形としては巻物を強く意識しているように思う。鑑賞者は捻じれに誘導され、自然と右側に移動するのだが、そこから眺めると晒布や紙が風でなびいているように見える。また、左側の窪みも直線的な屏風と異なり揺らめいているように見える。屏風が木の骨組みに支えられているのに対し、本作では本紙である和紙や絹本そのものに感じられる。ところで、なぜ読むものである巻物が宙に舞うことに違和感を抱かないのだろう。大般若経の折本の転読は舞うイメージに近い。福禄寿は巻物を持つだけでなく、英一蝶のように巻物に乗ったユーモラスな福禄寿も描かれている。いずれにしても巻物それ自体に神通力や法力といった力が備わっており、華麗に舞う形にリンクするのだと思う。すなわち本作は鳳凰が住む神仙の世界を造形の観点からも追求しているのだ。もう一つ本作の造形の特徴として、扇形という点が挙げられる。下底の長い台形の方が立たせたときに安定しそうである。しかし、造形の観点からは扇形の方が俄然面白い。下底が長いと巻物のイメージは相殺されてしまっただろう。扇形にすることで軽やかさが増す。あたかも鳳凰が舞うような優雅な美しさ。その一方、上の縁を少し捻じっているのもポイント。引き締まった力強さが造形のアクセントになるのである。
右から見た図
上から見た図
構図と黄磁釉
造形をおさえたところで、今度は絵画としての構図を考えてみよう。モチーフの主役は鳳凰であるが、構図の主役は右上から左下に向かって降り注ぐ「陽のひかり」である。黄磁釉の濃淡により光の流れとも言うべきラインが形成されている。また、素地が露出している部分も光の流れを補完している。そして、その光を受け止めるラインも形成されていることに気づいた。鳳凰の頭部と隣にある岩、対岸の岩、木洞の底を直線で結ぶと直角に光を浴びているように感じられるのだ。しかも岩の形や川の流れも光と呼応するよう構成されている。光の流れを意識した構図は、石崎光瑤の《燦雨》に共通するものがあるように思う。
西洋画を窓から見る客観的な風景とすれば、中国や日本の東洋画は主観的な体験、つまり没入感を重視している。鳳凰は伝説の生き物であるから平均的なサイズという概念はないものの高さは人間と大差ないであろう。10メートルを超える桐やそれ以上に成長する松と比べると鳳凰はかなり大きく描かれていることに気づく。また、鳳凰を実寸にすると川幅は人間がジャンプすれば飛び越えられるくらい狭く、周囲の草はかなり巨大になってしまう。しかし、没入感という点では絶妙の構図である。猟師が鳳凰に遭遇したとき、その極彩色の姿から巨大な存在として脳裏に焼き付いたはず。一方、老松に視線を寄せると長い歳月を感じる大きさに変換される。川幅も数メートルはあるような印象をもたらす。しかも本作は立体作品であり画面に歪みや凹みが備わっている。松や桐の木々は一列に並んでいるのではなく、自然と遠近感を伴う。描かれていない樹木までも見えてくるのだ。遠景の山は神仙の世界がどこまでも続くような観念的な無限の大きさをイメージさせる構図である。もし現実的な広さを表現するならば山はもっと小さく霞んで見えるはずだが、逆転させることで鑑賞者を山頂まで誘うのである。
《燦雨》(左隻)「生誕140年記念 石崎光瑤」(静岡県立美術館)
鳳凰と岩の周囲に生えている背丈の低い植物は笹であろうか。伝説では鳳凰は竹の実を食べるとされている。その他にも丸みを帯びた葉やシダ植物のような形をしたものもある。それらも伝説や故事に由来するのかもしれないが、豊かな植生を表現することが主眼に思えた。葉の形に変化をつけることでリズムを生み出す意図もあろう。小川の描き方にも注目したい。白糸の滝のような繊細な流れである。天下が泰平になると醴泉と呼ばれる泉が湧出し、鳳凰はその甘い水を飲むとされる。水色や青ではなく白をベースにすることで優美な醴泉を連想させる。小川を青にすれば薄い水色であったとしても鳳凰の存在感は減退してしまっただろう。花を描かず緑の草にとどめたのは鳳凰を花に見立てているのかもしれない。
本作は黄磁釉を用いた背景も大きな魅力である。日本画や油絵では表現できない重層的な空気に包まれている。細かい点々は、陽の光を浴びた空気中のチリや水蒸気が輝くチンダル現象を思わせる。また、老松の大きくうねった周辺など赤みを帯びている箇所もある。捉えどころのない空気を多角的に表現している。表面はガラス質の釉薬で均一にコーティングされているわけではない。松や岩はマットな質感になっている。ザラザラした老松の樹皮、何年にもわたり少しずつ削られた岩肌が鑑賞者に生命とは何か直接に訴えかけてくるのだ。
黄磁釉を施さず露わになった素地も印象深い。下地の明るさやマチエールのコントラストが眩しさは目が眩むような感覚を生む。松の枝が直線的に切断されているのも興味深い。日本画の余白による余韻だけではなく、見えるものが真実であるか問われている気がしてきた。キャンバスを塗り残すのと何かが違う。怖さがある。しかし、近づいて観察すると焼き物の素地の美しさに魅了される。素地を寝かせるときに包んだ布の目も残っている。素地はキャンバスや絹本にも似ているが、しっとりとした上品さと力強さを持つ。描かれていない無でありながら、生命の根源を暗示しているようにすら思える。最後に、裏面に回ってみよう。黄磁釉の大胆な流れとともに黒い影が伸びている。造形のうねりもより強く感じることができる。表面とは一転して具象的なものは存在しない。自分が空に溶け込むような心地である。猟師はいつの間にか見覚えのある場所を歩いていた。あの出来事を誰かに話しても狂人扱いされるだけだろう。二度とあの場所には戻れないのだ。それでも再び山に入る。(2026年4月19日)
牟田陽日《浜松図黄磁屏》「GO FOR KOGEI 2023」
《黄磁鳳凰図屏風》裏面
センソリウム会場・泉涌寺
牟田陽日さんの展示